アルフレッド・ド・ミュッセ『戯れに恋はすまじ』 | 文学どうでしょう

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アルフレッド・ド・ミュッセ(進藤誠一訳)『戯れに恋はすまじ』(岩波文庫)を読みました。

ミュッセは少し前に、そっくりな二人の貴婦人の間で揺れる青年の心を描いた『二人の愛人』を紹介しましたが、詩人、作家、そして劇作家として活躍した人です。

今回紹介する作品も含めて、残念ながら現在ではほとんどの作品が絶版になってしまっているのですが、日本で最もよく知られているのが、この『戯れに恋はすまじ』だろうと思います。

恋愛が描かれる物語には、いくつかのパターンがありますが、愛し合っている男女なのに、何かしらの障害があって、引き裂かれてしまう悲劇のパターンが、もしかしたら多いかも知れません。

たとえばぼくが好きな映画に、『ある愛の詩』という映画があります。いやあ、いい映画ですよ、ほんと。

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ライアン・オニール演じる青年は、かなりいい家柄の出身なんですね。それにもかかわらず、アリ・マッグロー演じる、平凡な家庭の娘と恋に落ちてしまいました。

結婚を猛反対をされた青年は、父親と絶縁し、ついにその娘と結婚するのです。

自分の力だけで生活していけるよう、弁護士になるための勉強をがんばる夫を、妻は懸命に支えます。苦労の末、二人にようやく明るい未来が見えて来たのですが・・・。

自分の意志で何かを成し遂げようとする夫と、それを必死で支える妻という物語自体が、ぼくは非常に好きですねえ。

そうしたストーリーの面白さもありますが、ちょっと生意気で、お茶目な所もあるアリ・マッグローが、とにかく魅力的なんですよね。

コメディではなく、シリアスなタイプの映画を、ぼくはあまり見返さないんですが、『ある愛の詩』だけは何故か、時折どうしても観たくなります。

1970年公開の少し古い映画ですが、妻の「愛とは決して後悔しないこと」(Love means never having to say you're sorry)という名台詞で有名な、ラブ・ストーリーの定番中の定番なので、まだ観たことのない方は、機会があればぜひぜひ。

さてさて、『ある愛の詩』は、愛し合う男女が、父親の反対で引き裂かれそうになるという物語でした。

恋愛が描かれる物語で、もう一つの大きなパターンは、恋愛が成就する前の、恋の駆け引きを描いたもの。こちらは喜劇が多いですね。

恋する相手が、自分に振り向いてくれない時に、様々な作戦を練って、なんとか振り向いてもらおうとするわけですが、それがドタバタ喜劇になっていくわけです。

『戯れに恋をすまじ』は、まさにそうした作品で、許嫁同然の、男爵の息子ペルディカンと姪カミーユの恋愛喜劇と言えます。

それぞれある程度の勉強を終えて帰って来たペルディカンとカミーユ。

二人が無事に結婚すれば、これほどいいことはないと男爵、そして村の人々は思っているわけですね。

ところが、カミーユは修道院で育ち、恋愛で傷ついてやって来た人を多く目にしているものですから、男女の愛について否定的な考えを持っているのです。

一生修道院で暮らそうと思い、つれない態度を取るカミーユの心を動かすために、ペルディカンは、カミーユの乳姉妹ロゼットを口説くようになって・・・。

物語は喜劇のような設定で、喜劇のように進んでいきます。

しかし、タイトルの「~すまじ」が、厳格な箴言(しんげん。戒めになる格言のこと)の響きを持っているように、単なる喜劇で終わらないところが、この作品をより一層印象深いものにしています。

人間の心理、そして複雑な人間関係が描かれた、傑作戯曲です。

作品のあらすじ


ある地方の領主の息子で、21歳のペルディカンが、パリでの勉強を終えて、傅役(もりやく。勉強など、色々と面倒を見る人)のブラジユス先生と一緒に故郷へ帰って来ました。

同時にやって来たのが領主の姪で、ずっと修道院で暮らしていた18歳のカミーユ。傅役のプリュッシュ女史も一緒です。

領主の男爵は、息子と姪がやって来るのを、とても楽しみにしていました。幼い頃は一緒に育った二人が劇的な再会をするように、わざと同じ時に二人が帰って来るように仕組んだのです。

ところが、再会した二人がとった行動は、男爵の予想とは大きく異なるものでした。

ペルディカン なあに、ちっとも疲れてなんかいません。まあごらんなさい、お父上、なんてカミーユはきれいなんでしょう!
男爵 さあ、カミーユ、兄さんに接吻しなさい。
カミーユ ご勘弁をねがいますわ。
男爵 一つの讃辞は一つの接吻に値する。接吻するがいい、ペルディカン。
ペルディカン 僕が手をさし出す時、カミーユがしりごみするのでしたら、僕の方でもご勘弁を、と言いましょう。恋は接吻を奪うこともできますが、友情はそんなことはできません。
カミーユ 恋にしても友情にしても、返すことのできるものでなくては、受けるべきではありませんわ。(15ページ)


ペルディカンとカミーユを結婚させたいと思っている男爵にとっては、どうも風向きがよくない展開です。

つれない態度を取り続けるカミーユですが、カミーユの美しさに惹かれているペルディカンは、子供の頃に一緒に遊んだ場所へ、散歩に行こうと誘います。

しかし、カミーユは「わたしは人形をおもちゃにするには年をとりすぎていますし、過去を愛するほどにお婆さんにはなっていないのです」(22ページ)とすげない態度で断ってしまいました。

やがて、何故カミーユがそれほど冷たい態度を取るのか、カミーユの口から明かされることとなります。

修道院には色んな女性がやって来ますが、カミーユは、悲惨な恋物語を聞かされることが多かったんですね。

心破れた女性たちから話を聞く内に、恋というものは、それがどんなに燃えるような感情であったとしても、いつかは燃え尽きてしまうものなのだと、カミーユは気付いてしまったのです。

永遠の愛など存在しないと思ったカミーユは、幼い頃にペルディカンに愛情を抱いていただけにかえって、ペルディカンから遠ざかり、神に身を捧げ、一生修道女として過ごすことを決意したのでした。

自分の感情ではなく、傷ついた女性たちから注ぎ込まれた理念に従おうとするカミーユに、ペルディカンは腹を立てて、こう言います。

人は恋愛ではいくたびとなく欺かれ、いくたびとなく傷つけられ、いくたびとなく不幸になる。しかし人は愛するのだ。そして自分の墓穴のふちまで来た時、こしかたを振り返り、こう独り言をいうのだ。わたしはたびたび苦しんだ、時には考え違いもした、しかしわたしは愛した。生活したのはわたしだ、わたしは高慢と退屈とが創りあげた拵えものではないのだ。(62ページ)


一方、男爵から気に入られていた司祭のブリデーヌ先生は、ペルディカンの傅役のブラジユス先生がやって来たことによって、男爵の寵愛が自分からブラジユス先生に移るのではないかと怖れます。

そこで、何か手柄を立てようと思って慌てて色々と動くのですが、それがまた思わぬ出来事を引き起こしてしまい・・・。

恋に破れたペルディカンは、カミーユへのあてつけのため、カミーユの乳姉妹のロゼットを愛しているふりをします。

書かれていないので、カミーユとロゼットの関係はよく分かりませんが、おそらくロゼットの母親が、カミーユの乳母だったのでしょう。

ロゼットはずっと村で育った純粋な娘です。当然ながらペルディカンとは身分が違いますが、熱心に口説かれると、ペルディカンのことを信じてしまうのです。

泉のほとりで、「僕はお前を愛しているよ、ロゼット! お前だけがたったひとり僕たちの過ぎ去った楽しい日々を忘れないでいてくれた」(75ページ)とペルディカンは、ロゼットに愛を囁きました。

ロゼットもペルディカンに愛を誓いますが、それはペルディカンにとっては、実はカミーユに聞かせるための芝居だったのです。

ペルディカンの予想通り、ペルディカンとロゼットの仲睦まじい様子は、カミーユの心に大きなショックを与えました。

それから、カミーユのペルディカンへの態度が一変したのですが・・・。

はたして、ペルディカンとカミーユの恋愛の行方はいかに!?

とまあそんなお話です。愛を信じるペルディカンと、愛を信じないカミーユ。そして、恋の駆け引きのために、二人に利用されてしまうロゼットの物語。

自分の感情に素直に従うべきだというペルディカンにも一理ありますし、また、感情という確実でない物は、信じるに値しないとするカミーユにも一理あります。

それだけに、この奇妙な三角関係の結末が、思わず気になってしまいますね。それぞれの人物の心理の動きが、とても丁寧に描かれた戯曲です。

「人は恋愛ではいくたびとなく欺かれ、いくたびとなく傷つけられ、いくたびとなく不幸になる。しかし人は愛するのだ」というペルディカンの名台詞が、とても印象に残る作品。

ブリデーヌ先生とブラジユス先生が、名前やキャラクターが若干かぶってることを除けば、登場人物が少ないので、かなり読みやすい戯曲だと思います。

本自体がなかなか手に入りづらいかも知れませんが、100ページほどの短い話なので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』を紹介する予定です。