レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』 | 文学どうでしょう

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大いなる眠り/早川書房

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レイモンド・チャンドラー(村上春樹訳)『大いなる眠り』(早川書房)を読みました。

殴られても蹴られても、どんなに極限の状態に追い込まれてもへらず口を叩くのをやめないタフな私立探偵、フィリップ・マーロウ。

『大いなる眠り』は、そのハードボイルドのヒーローの第一作であり、チャンドラーの長篇第一作でもある、記念すべき作品です。

チャンドラーの作品は、村上春樹が訳し始める前は、ほとんどが早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)から清水俊二訳で出ていたんですね。

ぼくも昔、ハヤカワ・ミステリ文庫で読んでいたんですが、『大いなる眠り』だけは、版権の関係で、早川書房ではなく、東京創元社(創元推理文庫)から双葉十三郎訳で出ていたんです。

同じ出版社ではなかったこともあって、ぼくは今回初めて『大いなる眠り』を読んだんですよ。にもかかわらず、何故か次の展開が読めて、映像が目に浮かんで来たんです。あらまあ不思議!

「なんだなんだついに予知能力か何かの特殊能力に目覚めたのか?」と思ったら、あれなんですね、『大いなる眠り』って、ハワード・ホークス監督の映画『三つ数えろ』の原作だったんですね。

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どうりでハンフリー・ボガートとローレン・バコールが頭の中に浮かんで来ると思いましたよ・・・。

ぼくはボガート、結構好きなんですよねえ。ちなみに、離ればなれになった恋人との再会を描いた『カサブランカ』での「君の瞳に乾杯(Here's looking at you, kid)」という台詞が有名な人です。

『三つ数えろ』は、原作のイメージ通りのキャスティングかどうかはちょっと微妙ですが、出ている役者がそれぞれ渋くてかなりいいので、機会があればぜひ観てみてください。

あと、折角なので、「おすすめの関連作品」のコーナーで、ハワード・ホークス監督についてちょっと触れます。

さてさて、小説の方に話を戻しますが、ハードボイルドというのは、もう完全に好き嫌いが分かれるんですよ。

いくつかの殺人事件は起こりますが、”謎解き”よりも、タフで、どんな状況でも感情が揺れない主人公の”行動”に、物語の重心があるのがハードボイルド。

この作品の中でも、回収されない伏線、つまり、まさかの解決されない殺人事件があったりするんです。ミステリファンからすると、とんでもない話ですよね。

では”謎解き”の面白さがなく、ある種の破綻さえあるこの小説の、どんな所に魅力があるかというと、やはり主人公兼語り手であるフィリップ・マーロウという、キャラクターそのものにあります。

ギャングに痛めつけられてもへらず口をやめず、美女にあなたは冷血漢だと罵られれば、「ありがたいお言葉だ。しかし君だってイングリッシュ・マフィンというわけじゃない」(200ページ)とシュールな返しをするマーロウ。

どこかロマンの欠片を持ち続ける主人公が多い日本のハードボイルドとは違って、とことんクールな私立探偵、フィリップ・マーロウの活躍は、ぜひ多くの方に味わってもらいたいです。

作品のあらすじ


十月の半ば、午前十一時頃。資産400万ドルの大富豪の家を訪ねることになった私立探偵の〈私〉は、小ざっぱりとした清潔なスーツ姿で、スターンウッド邸に向かいました。

邸宅の中で、「まるで宙に浮くような歩き方」(7ページ)した若い娘と出会います。

娘はからかうような、また、誘惑するような喋り方をして、〈私〉に向かって倒れかかって来ました。支えようとすると、必然的に抱き締める形になります。

執事がやって来て、その娘がカーメン・スターンウッドだということが分かりました。今回の依頼人、ガイ・スターンウッド将軍の次女です。

将軍から問われるままに、〈私〉は自分のことを話します。33歳であること、地方検事の元で捜査員の仕事をしていたことがあること。

何故以前の仕事を辞めたのかと聞かれると、〈私〉はこう答えました。

「解雇されたのです。命令不服従ということで。命令不服従については、私には多少の実績があります、将軍」
「そいつは私もご同様だ。それくらいでなくちゃ話にならん。ところで君はうちの家族について何を知っている?」
「奥さんを亡くされ、二人の若い娘がいる。どちらも美人で、手に負えない。一人は三回結婚している。いちばん最近結婚した相手は、かつての酒の密売業者で、その世界ではラスティー・リーガンという名前で通っていた、それくらいのことしか耳にしていません、将軍」
「その中で、何かひっかかるところはあるかね?」
「ラスティー・リーガンの部分がいささか。しかし私は酒を密売する連中とは常に友好的にやってきましたから」(15ページ)


長女ヴィヴィアンの3番目の夫、ラスティーは、理由は分かりませんが、1ヶ月ほど前から姿を消してしまっているのです。

将軍はいよいよ本題に入りました。アーサー・グウィン・ガイガーという男からゆすられているというんですね。

カーメンがギャンブルで1000ドルの借金を作ったらしく、ガイガーはその借用書を送って来たのです。

違法ギャンブルの借金なので、法的には払わなくていいどころか、警察へ訴えれば相手を捕まえることが出来ますが、スターンウッド家としては、あまり表沙汰にしたくない問題ではあります。

かつて将軍は、カーメンと手を切らせるために、ジョー・ブロディーという男に、5000ドル払ったことがありました。

それを知った〈私〉は「あなたの名前は既に素敵なカモとして、連中のリストに載っているんです」(20ページ)と言います。

お金を払えば、次から次へと同じような輩が押し寄せて来るに違いないわけですね。

〈私〉は、1日25ドルの調査費用で、ガイガーについて調査し、ゆすりの問題を解決することを、将軍に約束します。

帰ろうとすると、長女ヴィヴィアンに呼ばれたので、少し話をしました。ヴィヴィアンはどうやら、自分の父親が、失踪した夫ラスティーの捜索を、私立探偵に依頼したと思っているようです。

ガイガーの経営する書店を調べた〈私〉は、その実態が「高級猥褻本の貸し出し図書館」(41ページ)であることを突き止めました。

そして、ガイガーの隠れ家も突き止めた〈私〉だったのですが、なんとその家に、カーメンが入って行くのを目撃してしまいます。

部屋の中で何かが光り、「歓び混じりの衝撃の音調、酩酊した声音、紛れもない痴呆の倍音」(46ページ)が聞こえて来ました。〈私〉はガイガーの家に向かいます。

ライオンの口についている輪っかがノッカーだった。私は手を伸ばし、それを摑んだ。まさにそのとき、あたかもそれが合図になっていたかのように、家の中に三発の銃声が轟いた。長いかすれた吐息に似た音が聞こえ、そのあとにどさりという、重く柔らかな音があった。そして素早い室内の足音――誰かが去って行く。(46ページ)


家に入ると、ガイガーは撃ち殺され、麻薬で頭が飛んでる裸のカーメンの姿がありました。

〈私〉が見た光を放ったフラッシュ・ライトがあり、カメラがありましたが、乾板(かんぱん。写真を現像するためのガラス板。フィルム以前のもの)が見当たりません。

〈私〉は、引き出しの中からガイガーが情報を書き込んでいるらしき青いノートを持ち出し、コートを着せてカーメンを連れ出しました。カーメンを殺人事件から遠ざけるためです。

やがて、ヴィヴィアンが〈私〉のオフィスを訪ねて来ました。何者かから、10センチ×8センチほどの写真が送られて来たというんですね。

その写真に写っていたのは、カーメンの裸でした。殺人事件のことを匂わせ、ネガと残りのプリントが欲しければ、5000ドルを払えと脅してきたのです。

ガイガーを殺した人物、そして脅迫者は、一体誰なのか?

調査を続ける〈私〉がたどり着いた、事件の驚くべき真相とは!?

とまあそんなお話です。実際はカーメンの問題だけではなく、ヴィヴィアンの失踪した夫が、どうやら、カジノを経営している裏社会のドンの妻を連れて逃げているらしいことなど、色々と筋は込み入っています。

さて、この小説で、ぼくが一番印象的だった場面を紹介しておきたいと思います。この後、捜査は色々と行き詰っていきます。

そんな中、自宅に帰った〈私〉は、ベッドの上に、一糸まとわぬ姿のカーメンがいることに気付きました。

 私はフロア・ランプのところに行って明かりをつけ、それから入り口に戻って天井の照明を消した。再び部屋を横切り、フロア・ランプの下のカードテーブルに置かれたチェス盤の前に行った。ボードの上には詰めの問題が配置されていた。六手で詰むことになっている。私はそれを解くことができなかった。私の抱えている他の多くの問題と同様に。私は手を伸ばし、ナイトを動かした。それから帽子とコートをむしり取り、その辺りに放り投げた。その間ずっと柔らかなくすくす笑いがベッドから聞こえていた。それは私に、古い家の羽目板の背後にいる鼠たちを思い出させた。
「私がどうやって中に入れたか、わかんないでしょう?」
 私は煙草を一本出し、荒涼とした目で彼女を見た。「見当はつく。鍵穴から入ってきたんだろう。ピーター・パンみたいに」
「誰、それ?」
「昔よくビリヤード場で顔を合わせた男さ」
 彼女はくすくす笑った。「ねえ、あなたってキュートよねえ。違う?」と彼女は言った。

(207ページ、本文では「詰め」に傍点)


やり取りもユニークで面白いですが、裸の美女に全く動じない所に、非常にハードボイルドらしさがあります。チェスの描写も、捜査の行き詰まりと重なりあっていて、とてもいいですね。

いくつもの小さな事件が入り組んでいるので、決して読みやすくはない小説ですが、どんな状況でもへらず口を叩き続ける私立探偵フィリップ・マーロウに興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

今の所、村上春樹訳では4冊が出版されていて、『ロング・グッドバイ』『さよなら、愛しい人』『リトル・シスター』の3冊はすでにハヤカワ・ミステリ文庫に収録されています。

おすすめの関連作品


では、ハワード・ホークス監督について少し紹介しましょう。

アル・パチーノ主演の『スカーフェイス』の元になった、1932年公開の『暗黒街の顔役』など、犯罪をテーマにした傑作を数多く残し、映画の初期から活躍していたアメリカの映画監督です。

当時は娯楽性の強い、よくあるタイプのよくある作品、いわゆるB級映画の監督だと思われていたらしく、賞レースとはとことん無縁の映画監督人生でした。

しかしやがて、思わぬ所から、まさに”発見”という感じで、高い評価を受けることになります。

フランスの映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」で、ハワード・ホークスの作品が絶賛されるようになったんです。

「カイエ・デュ・シネマ」に参加していたのは、後に映画監督として有名になるジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーなど、そうそうたる顔ぶれ。

それ以降、ハワード・ホークスは独特の個性を持つ映画監督として作家性が認められるようになり、評価は世界的に高まっていくこととなりました。

元々B級映画と言われるほど娯楽性は強いので、今観ても「おおっ」と思うくらいの面白さがありますよ。機会があればぜひ観てもらいたい映画監督です。

ぼくもさすがに全作品はまだ観ていませんが、特にお気に入りの2作品を紹介しますね。

まず1本目は、異色の西部劇、『赤い河』。

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南北戦争後、南部では牛が売れなくなってしまったので、牛を連れて北部の方へ売りに行くことになりました。

荒涼した大地を、1万頭の牛を連れて渡って行くわけですが、原住民の襲撃など、様々な困難が降りかかって来て・・・。

難しいミッションを成し遂げようとする定番の物語なのですが、この映画が面白いのは、仲間割れが描かれる所にあります。

数多くの西部劇でヒーローを演じ続けて来た、ジョン・ウェイン演じる男が一団を率いているのですが、その横暴なやり方に、段々と周りがついていけなくなるんですね。

今で言う所のイケメン俳優モンゴメリー・クリフト演じるその男の養子が、ついに反乱を起こし、男を一団から追い出してしまうのです。

つまり、ジョン・フォード監督の『駅馬車』など、多くの映画で原住民から人々を守ってくれていたジョン・ウェインが、物語の途中で復讐心に燃える敵役になってしまうという、まさかの展開の映画なんです。

いやあ、このまさかの展開にしびれましたねえ。西部劇が苦手な方でも楽しめる娯楽大作になっているので、おすすめですよ。ぜひぜひ。

続きまして2本目は、『ヒズ・ガール・フライデー』です。いわゆる「スクリューボール・コメディ」の代表作。

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「スクリューボール・コメディ」というのは、男女の性的な事柄に対するコードが厳しかった時代に作られた、お互いにぶつかり合いながら恋に落ちていく男女のドタバタ喜劇のこと。

ぼくはフランク・キャプラ監督が好きなので、家を飛び出した大金持ちの娘と失職中の新聞記者の出会いがまさかの出会いを果たす『或る夜の出来事』がおすすめですが、『ヒズ・ガール・フライデー』もとにかく面白い映画です。

ケーリー・グラント演じる雑誌の編集長は、記者をしている別れた妻に未練たらたら。再婚して堅実な人生を歩もうとしている元妻に、特ダネを夢中になって追わせて、再婚を思い留まらせようと企んで・・・。

この映画のすごいところは、もうとにかく登場人物がマシンガンのように喋りまくることです。これでもかというぐらい喋るので、誰もがそのテンポに圧倒されてしまうはず。

よりを戻したいが故に色々と企む男と、段々と事件を追うのに夢中になっていくその別れた妻。

そして、なんだかよく分らないままに振り回されてしまう再婚予定の相手。複雑な事情を抱えた人間関係がユーモラスな作品です。

いやあ、思ったよりも長くなってしまって、レイモンド・チャンドラーの紹介なんだか、ハワード・ホークスの紹介なんだかよく分らない記事になってしまいました。

でもまあ、ハワード・ホークスは、今では話題になることの少ない映画監督なので、いい機会だったと思います。興味を持った方は、映画の方もぜひ観てみてくださいね。

明日は、アルフレッド・ド・ミュッセ『戯れに恋はすまじ』を紹介する予定です。