ミハイル・ブルガーコフ『犬の心臓』 | 文学どうでしょう

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日々読んだ本を紹介しています。

犬の心臓 (KAWADEルネサンス)/河出書房新社

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ミハイル・ブルガーコフ『犬の心臓』(河出書房新社)を読みました。

昨日に引き続いて、犬繋がりです。少し前にH・G・ウェルズの『モロー博士の島』を紹介しましたね。

モロー博士の島 (創元SF文庫)/東京創元社

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モロー博士の島』は、動物を手術して人間にしようと試みるマッド・サイエンティストのモロー博士が登場する物語ですが、創元SF文庫の訳者解説で、似たようなテーマの小説として、この『犬の心臓』の名前があげられていたんです。

犬が手術で人間のようになる? それは面白そうだ! というわけで読んでみました。

作者のブルガーコフはこの本の略歴によると、ウクライナ生まれのロシア語作家で、医学部を卒業した後、開業医をしていたこともある人だそうです。

この小説で書かれている手術はもちろんフィクションなんですが、「もしかしたらありえるかもしれない」というリアリティが感じられるのは、そうした医学の知識と経験があるからかも知れませんね。

ブルガーコフと言えば、何と言っても有名なのは、代表作の『巨匠とマルガリータ』。

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)/河出書房新社

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ボリュームはものすごいですが、奇想天外さでは他に類を見ない物語になっているので、そちらも機会があればぜひ。

さて、『犬の心臓』は、犬が脳の手術で人間のようになると聞いていたので、犬の脳を人間に移植するか、もしくは人間の脳を犬に移植するか、そういう感じだろうと思っていたのですが、それは少し違ってました。

プレオブラジェンスキー教授の研究というのは、「脳下垂体と睾丸の移植を結びつけ、脳下垂体の活動力と、それにともなう人間の有機体の若返りに与えるその影響の問題を解明する目的をもってつづけられてきた」(94ページ)ものなんです。

もう少し分かりやすく言うと、脳の一部である脳下垂体が、どんな役割を果たしているのか、それを実験によって明らかにしようとしたわけですね。

どんな役割を果たしているかが分かれば、それは人体に潜む謎が少し分かったことを意味するわけですから、そこからさらに色々な研究を続けていくことが出来ます。

脳のどの部分がどんな働きをしているのか、これはやはり仮説だけでは解明しようがなくて、実験しないと分からないものなわけですね。

そこで、人間の脳の一部分を犬に移植したら一体どんなことが起こるのか、それを試したのが、ブレオブラジェンスキー教授の行った実験なんです。

拾われて来た犬は、麻酔で眠らされた後、睾丸を切除され、数時間前に死んだばかりの男性の睾丸を移植されます。その後で、脳下垂体を除去され、男性の脳下垂体を移植されました。

つまり、基本的には犬のままなんですが、脳の一部と睾丸が人間のものになったわけですね。手術は無事に成功したのですが・・・。

この小説は、SF的な物語であると同時に、極めて政治色の強い物語でもあります。物語の中では、ブルジョア(富裕層)とプロレタリア(労働者階級)の間で激しい対立があるんですね。

お金持ちはありあまるほどお金を持っているにもかかわらず、一方の労働者はその日に食べるご飯にも困っている状況があるからです。

そこにそれだけ差があるのはおかしいじゃないかという動きは、やがて革命に繋がって行くわけですが、ブレオブラジェンスキー教授やその周りの人々は、当然ながらインテリであり富裕層なわけですね。

しかし、ある意味において、ブレオブラジェンスキー教授の手術室で生まれたといってもいい、この人間のような犬は、極めて労働者階級に近い存在なんです。

仕事らしい仕事は当然出来ませんし、ブレオブラジェンスキー教授に住む場所とご飯を与えてもらえなければ、住む場所もなく、ご飯すら食べられません。

単なる犬であった時には、眠る場所があって、ご飯さえ食べられればそれで満足でした。しかし、言葉を喋れるようになり、自分の頭で考えられるようになった今はもう違います。

人間のような犬は、名前を欲し、身分を欲し、女性を欲し、人権を欲し、労働者階級の人々と密接な関係を結んでいくこととなります。

つまりこの物語は、恐るべき実験によって起こってしまった出来事をフィクション(虚構)として描きながら、同時に現実の世界の状況を巧みに投影してもいる作品なんですね。

人間のような犬という、喜劇的であり同時に悲劇的でもある存在を描き、「もしも、犬が人間のようになったら?」というヴァーチャルなシュミレーションをしている小説です。

単に発想やストーリーなど、小説的に面白いということだけでなく、人間が生きるということについて、深く考えさせられる作品になっています。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 う、う、う、う、う、う、う、ぐう、ぐうぐ、ぐう! おお、おれを見てくれ、おれは死にそうだ。吹雪のやつが門の下の隙間で唸り、おれのためにお祈りをあげてくれてはいるのだが、おれはおれで、吹雪といっしょになって吠えているのだ。もうだめだ、おれも終わりだ。(5ページ)


ごみ溜めを漁っている時にコックに熱湯をかけられ、わき腹をやけどしてしまった犬の〈おれ〉。吹雪の中で、寒さと飢えで死にかけています。

そこへオーバーを着た紳士がやって来て、ソーセージを食べさせてくれました。〈おれ〉はシャリク(小さなボール)と名付けられます。

紳士は、「首輪もないのだな、そいつは好都合だ、ちょうどおまえみたいな犬を探していたのだ。あとからついておいで」(15ページ)と言い、指を鳴らして口笛を吹きました。

視点はやがて、シャリクの一人称から離れ、三人称になります。紳士の名前はフィリップ・フィリッポヴィチ(ブレオブラジェンスキー教授)で、医術の心得があるようです。シャリクもわき腹のやけどを治療してもらいました。

フィリップ・フィリッポヴィチの所へ、シヴォンデルを筆頭にして、アパートの新しい管理委員を名乗る人々がやって来ます。

管理委員たちは、アパート居住者総会を開き、一人一人の居住区域を切り詰めることに決定したと通告しに来たんですね。

フィリップ・フィリッポヴィチは、自分はそういう事柄から免除されていると主張しますが・・・。

「知っております」シヴォンデルは答えた。「しかし総会は、あなたの問題を再検討した結果、一般的に言って、あなたが必要以上の面積を占有しているという結論に達したのです。まったく必要以上の面積です。あなたは七部屋もある住居に一人で暮らしていらっしゃるのです」
「わたしが一人で七部屋からなる住居に暮らして、仕事をしているのは確かだ」フィリップ・フィリッポヴィチは答えた。「それでも、八部屋めがあればいいと思っている。書庫用にどうしてもあと一部屋必要なのだ」
 四人はあっけにとられて、しばらくは口もきけなかった。(43~44ページ)


もしも従わないならば、上級機関に訴え出るつもりだとシヴォンデルは言いますが、フィリップ・フィリッポヴィチはその場で権力者に電話をかけました。

「あなたの手術はとりやめになりました。何? 全面的に中止です。ほかの人の手術もみんな同じように中止です」(47ページ)何故なら、診察室を取り上げてしまうと脅迫されているからだと言い、それを聞いて、シヴォンデルたちは青ざめます。

結局、部屋は取り上げられずにすみました。

シャリクはしばらくの間、おいしいご飯が食べられる幸せな日々を過ごします。しかしやがて、フィリップ・フィリッポヴィチによって、恐ろしい実験が行われることになるのでした。

死んだばかりの男の死体が運び込まれ、男の脳下垂体と睾丸が、シャリクに移植されます。

手術は無事成功に終わりました。やがてシャリクの体からは毛が抜け落ちていき、二本足で立ち、罵倒だらけの言葉を喋り出すようになります。

フィリップ・フィリッポヴィチが想定していたように、脳下垂体の交換は有機体を若返らせるのではなく、人間を創り上げてしまうことが分かったのです。

シャリクは、辺りを見回して、「ブルジョア」と発音し、悪態をつきます。どうやら、「移植した脳下垂体は犬の脳にある言語中枢を開発し、そのために言葉が流れとなってほとばしる」(104ページ)ようなんですね。

時間が経つにしたがって、シャリクの外見も人間のように変わっていきます。服を着て、本を読むようになり、飲酒や喫煙もするようになりました。

シャリクはついに、自分の身分証明書を作ってくれるように要求するようになります。

あまり出歩くんじゃないというフィリップ・フィリッポヴィチと、囚人のような生活は嫌だというシャリクは口論になってしまいました。フィリップ・フィリッポヴィチは水を飲んで気持ちを落ち着かせます。

「よろしい」彼はいくぶん落ちつきをとりもどして言った。「言葉の問題で議論するのはやめておこう。それで、おまえのチャーミングな住居委員は何と言っているのだね?」
「何が言えるというのです・・・・・・それに、彼のことをチャーミングなとか悪口を言うのはやめてもらいましょう。彼は利益を擁護しているのです」
「だれの利益をかね、どうか教えてくれないかね?」
「きまっているじゃありませんか、勤労階級の利益をですよ」
 フィリップ・フィリッポヴィチは目をむいた。
「それじゃ、おまえは勤労者というわけか?」
「きまっているじゃありませんか、おれはブルジョアじゃない、ネップ・マンじゃない」
「うん、まあいい。それで、おまえの革命的利益を擁護するために、住居委員は何を欲しているのだね?」
「きまっているじゃありませんか、おれが登録することですよ。彼らは言っているのです、登録もしないでモスクワで暮らしている者がどこにいるかと。これが一つ。だが、もっとも肝腎なことは、登録カードだ。おれは非登録者として逃げ隠れするような生活はしたくないからね。それにまた、労働組合、職業安定所・・・・・・」(119~120ページ)


シャリクは自分で自分に名前を付けると言い出し、その要求は次第にエスカレートしていきます。やがて、フィリップ・フィリッポヴィチの手に負えなくなっていって・・・。

はたして、人間のような犬を描いた奇想天外な物語の結末とは!?

とまあそんなお話です。動物の目から人間社会を描いた物語はたくさんありますが、『犬の心臓』は、動物でも人間でもないどこか”不気味な存在”を描いた物語です。

そして、それは単に”不気味な存在”を描いているだけでなく、プロレタリア(労働者階級)を表してもいて、ブレオブラジェンスキー教授の属するブルジョア(富裕層)との闘争が、この作品のテーマになっているんですね。

なかなかにグロテスクな物語でもあり、好き嫌いは分かれるかも知れませんが、200ページほどのわりと短い小説なので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。

おすすめの関連作品


犬に人間の脳を移植するというテーマで、マンガを1つ紹介します。

徳弘正也の『狂四郎2030』です。

狂四郎2030 全14巻セット (集英社文庫―コミック版)/集英社

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徳弘正也はちょうどぼくの世代(正確に言うと、ぼくより少し前の世代)からすると、「週刊少年ジャンプ」で連載されていた『新ジャングルの王者ターちゃん』の印象が強いのではないかと思います。

あえてあまり詳しく説明しませんけど、ターちゃんが体のある部分を使ってムササビのように飛ぶなど、当時から下ネタ全開な作風の持ち主でした。

『狂四郎2030』は、青年誌である「スーパージャンプ」で連載されていたこともあって、明らかにエロ漫画のタッチとは違うものの、ほとんどエロ漫画並みにそういうシーンがあります。

なので、お子様にはとても推奨できないマンガなのですが、これが非常に面白いマンガなんです。おすすめですよ。

物語の舞台は、第三次世界大戦後の世界。遺伝子によって、人間の階級は選別されています。

主人公の廻狂四郎は、遺伝子の選別のせいで出世できなかったものの、戦争の時に活躍した、言わば戦闘マシーンでした。

とてつもなく剣の腕が立つのですが、その反面、人を殺すことに何のためらいもない自分に対して、悩みのようなものを抱え込んでもいます。

この物語の世界の人々の唯一の楽しみは、機械を使ってヴァーチャル空間でセックスをすること。

ところが、狂四郎はうぶなので、何をしてもいいヴァーチャル空間なのにもかかわらず、道場で一生懸命稽古したりしてしまいます。

そんな狂四郎がヴァーチャル空間で出会ったのが、江戸の町で暮らす志乃という娘。

いつしか愛し合うようになった狂四郎と志乃ですが、やがて志乃がヴァーチャルな存在ではなく、実在する女性の小松ユリカであることが明らかになります。

狂四郎は現実世界のユリカに会いに行くことを決意しますが、そこには想像を絶するほどの困難が待ち受けていて・・・。

とまあそんなマンガです。狂四郎とユリカのそれぞれの場所での話が描かれていきます。どんなに愛し合っていても、触れ合うことすらできない2人。

さて、そんな狂四郎と苦楽をともにするのが、犬のバベンスキーです。バベンスキーは天才博士の脳(正確に言うと天才博士のクローンの脳)を移植された犬で、言葉を喋りますし、極めて頭がいいんですね。

下品なギャグとシリアスさが絶妙に交じり合う独特のテンポで進んでいくマンガです。エロいと言えばエロいんですが、SF的にとても面白いので、機会があれば、こちらもぜひ読んでみてください。

明日は、フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』を紹介する予定です。