葉室麟『蜩ノ記』 | 文学どうでしょう

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蜩ノ記/祥伝社

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葉室麟『蜩ノ記』(祥伝社)を読みました。直木賞受賞作です。

『蜩ノ記』は、簡素かつ整然とした文体で書かれた、時代小説らしい時代小説です。よくも悪くも王道という感じがしました。

登場人物が感情的になる場面でも、しっかりと抑制されてぶれない筆致は、目新しさはないものの、時代小説らしい、重々しくどっしりとした魅力があります。

時代小説ファンはもちろんのこと、時代小説を読んだことのない方でも、わりと読みやすい小説なのではないかと思います。なにより物語にいくつかの謎が潜んでいるので、ぐいぐい読ませる小説です。

具体的な箇所はあえて指摘しませんけれど、話のモチーフとしては、藤沢周平の『蟬しぐれ』と重なるような所があります。

蝉しぐれ (文春文庫)/文藝春秋

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ただ、ストーリーとしては大きく異なるので、イメージの一部を取り入れた、一種の本歌取りとして見るのが一番よいのではないかと思います。

『蜩ノ記』には中心人物が2人います。まず1人目は、「江戸屋敷でご側室と密通し、そのことに気づいた小姓を切り捨てた」(17ページ)という大罪を犯し、編纂中だった家譜(藩の歴史を記したもの)作りが完成するであろう10年後に、切腹を命じられた戸田秋谷。

もう1人は、城内で刃傷沙汰を起こしてしまった檀野庄三郎です。庄三郎は死罪を許された代わりに、秋谷の見張りの役目を命じられ、秋谷の一家と共に暮らすこととなります。秋谷の切腹は3年後に迫っており、もし逃げ出すようだったら、秋谷を殺さなければならない過酷な使命でもあります。

『蜩ノ記』の魅力を2点紹介したいと思います。まず1つ目は、7年前に秋谷は本当に側室と密通をしたのか? という謎があることです。

秋谷は非常に清廉潔白な人柄なので、庄三郎はやがて秋谷が本当に罪を犯したのかどうかを疑い始めるんですね。そうした、7年前の事件の真相を探っていく物語でもあります。

もう1つの魅力は、秋谷という人物が異彩を放つ人物であることです。秋谷は、武士の鑑ともいうべき人物で、決して驕らず、足ることを知り、確固たる信念を持った人物です。その寡黙ながら一本芯の通った人柄が、とても印象に残ります。

秋谷と庄三郎は、言ってみれば同じ罪人であり、負の要素を抱えた人間同士ですが、その心持ちは大きく違います。切腹する日が決まっているにもかかわらず、穏やかな気持ちで暮らす秋谷と、悩みや迷いを抱えて生きる庄三郎は極めて対照的に描かれています。

秋谷と庄三郎はやがて、師匠と弟子、あるいは父と子のような関係性になっていきます。それも具体的になにかを習うのではなく、まさに秋谷が背中で語るという感じなんですね。それだけにぼくら読者にも、ひしひしと伝わってくるものがあります。

どこか求道的な所のある秋谷と出会い、その影響を受けることによって、庄三郎の人生は大きく変わっていくこととなります。そうした登場人物の個性や関係性に魅力のある小説です。

作品のあらすじ


檀野庄三郎が道のりの途中で、川の水を竹筒に汲んでいると、石が飛んで来ます。侍の子が石を投げて魚をとっているんですね。庄三郎が、戸田秋谷の元を訪ねたいのだがと言うと、その少年は自分が戸田秋谷の息子だと答えます。

庄三郎は、郁太郎と名乗った少年に案内されて、戸田家に向かいました。庄三郎は、秋谷に「ご家老様より、戸田様のお手伝いをいたすよう命じられた檀野庄三郎にございます」(11ページ)と名乗ります。

こうして庄三郎は、秋谷とその妻の織江、長女の薫、長男の郁太郎とともに暮らすこととなりました。庄三郎は秋谷の編纂している家譜の清書をするようになります。しかし、表向きは手伝いですが、実は秋谷の見張りをするためにやって来たんですね。

庄三郎はささいなことが原因で喧嘩をし、相手を刀で傷つけてしまいました。城内での刃傷沙汰はご法度ですから、死罪になってもおかしくない所を許されて、密命を帯びてやって来たというわけです。

一方の秋谷も7年前に殿様の側室と密通をし、小姓を殺した罪に問われました。10年後に切腹することが命じられていて、残すところあと3年となっています。家譜を編纂し、完成させるのが役目で、この村から出ることは許されていません。

庄三郎は秋谷を見て、「このひとはいずれ死なねばならぬのだ。そのことが恐ろしくはないのだろうか」(20ページ)と考えます。もし秋谷が恐れをなして逃げたとしたら、庄三郎は秋谷を追いかけて斬らねばならないのです。

庄三郎は秋谷と暮らす内に、秋谷の人柄に少しずつ惹かれていきます。秋谷はずっと「蜩ノ記」と題された日記をつけていました。

「蜩とは?」
 庄三郎が訝しむと、秋谷はにこりとした。
「夏がくるとこのあたりはよく蜩が鳴きます。とくに秋の気配が近づくと、夏が終わるのを哀しむかのような鳴き声に聞こえます。それがしも、来る日一日を懸命に生きる身の上でござれば、日暮らしの意味合いを籠めて名づけました」
 庄三郎は恐る恐る、日記を開いた。これに秋谷の思いが書かれている、と思うと読むのが怖いような気がした。(24ページ)


日記には7年前の出来事の真相が書かれているのか?

秋谷とその一家は、村で暮らしているわけですが、そこには武士と農民との対立があります。秋谷が上に立っていた頃は、みなに慕われていたのですが、幽閉されてしまった秋谷の代わりにやって来た武士は、「百姓を搾り上げ、年貢を取り立てることばかり考えている」(72ページ)ような人たちなんですね。

農民の生活は貧しく、武士に対しての反発は強まります。秋谷は、そのどちらにも属さない異質な存在ではあるんですが、農民の一揆や強訴(集団で直接不満を訴えること)を心配しています。武士のためにではなく、農民たちの身が危険だからです。

心情的には、秋谷は農民側についているんですが、農民たちの行動を止めようとしていることで、農民たちの中の誰かに、鎖分銅で脅されます。そして、金に物を言わせて田んぼを買いあさっていた商人の番頭が、死体で発見されて・・・。

武士と農民の対立の行方は? そして、秋谷の運命はいかに!?

とまあそんなお話です。いくつかの謎には引き込まれますし、友情と愛が描かれた物語でもあるので、なかなかに面白い小説です。傲慢な態度をとる武士にも、必死で対抗する農民にも属さないからこそ、秋谷の武士らしい信念、態度が光ります。

唯一不満があるとすれば、物語が大義ではなく小義によって展開することです。藩全体、あるいは国全体を動かしていこうとする大きな理念の物語ではなくて、結局の所、感情的な行動によって動いていく物語なんですね。

武士道の定義は難しいですが、おそらく個人的な感情を超えた所に、その真髄があるような気がぼくにはしていて、この物語が感動的になればなるほど、武士道としての超然さのようなものは、欠けていってしまったような気はします。

それは逆に言えば、無味乾燥な理念の物語ではなく、怒りや感傷が含まれた物語ということを意味しているわけで、ストーリーとしてはそちらの方が面白いわけですし、読者に感動を与え、涙あふれさせる物語であることは間違いありません。

興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。時代小説であることをあまり意識しないで読んでいけると思うので、時代小説にとっつきづらさを感じている人もぜひぜひ。

明日は、木内昇『漂砂のうたう』を紹介する予定です。