木内昇『漂砂のうたう』 | 文学どうでしょう

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漂砂のうたう/集英社

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木内昇『漂砂のうたう』(集英社)を読みました。直木賞受賞作です。

『漂砂のうたう』は明治時代の遊廓を描いた時代小説ですが、凄腕の剣客がばったばったと悪党を倒していくというような、痛快エンタメ時代小説ではないので、ストーリーとしての面白さはそれほどありません。

ストーリーとしての面白さはないんですが、どんよりとした抽象的な感覚をも取り込んだような、しっとりとした独特の文体と、落語の怪談話を物語に織り交ぜる特殊な物語構造がとても見事な作品で、思わず唸らされてしまう、非常にうまい小説です。

江戸から明治になるとともに身分制度は崩壊しました。武士の子として生まれた定九郎がこの物語の主人公ですが、定九郎は生きる道をなくし、百姓の出と偽って、根津遊廓で受付や呼び込みの仕事をしています。

金で縛られている遊女たちと同じように、定九郎自身も籠の中の鳥であり、生簀の中の金魚なんです。そうしたどこにも行くことのできない、締め付けられるような閉塞感が物語全体を常に漂い続けます。

ある意味では随分暗い、読んでいて息苦しいような話なんですね。なので、それほどおすすめの作品ではないですし、時代小説ファンのツボを押さえているとも言い難い作品です。ただ、ストーリーではない魅力がある、とにかく見事な小説なので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。

あらすじ紹介の前に、この作品の文体と内容の特徴について、少し触れておきたいと思います。

『漂砂のうたう』の文体はやや特殊で、多くの時代小説が特徴として持つ、簡素で整然とした文章ではなく、純文学のように感情的なものを含んだ、非常にうまい文章です。

次の場面は、雨が続いて川が氾濫し、橋の上を歩いている定九郎が、あるものに遭遇する場面です。ちょっと読んでみてください。

 赤い玉が、突然、水面から跳ね上がった。玉は橋の上に飛び乗り、めちゃくちゃに身を踊らせている。
 それが金魚とは、すぐにはわからなかった。
 かきむしりたくなるような無数の鱗が黄みがかった光を放ち、膨れた腹が激しく橋板を打つ。エラと口が救いを求めて大きく動き、白地に浮き出した黒点の目玉が天を睨んでいた。橋の上を流れる水は定九郎の足を濡らしはすれど、陸に上がった金魚を、在るべき場所に押し戻すことまではしなかった。徐々に魚の動きが鈍くなる。跳ねることはもう叶わず、尾鰭も水に揺さぶられるままになっている。(185ページ)


金魚をまず「赤い玉」と書く時点で、これは印象をとらえた、感覚的な文章であることが分かります。そしてこの場面がなぜとりわけ印象的かというと、定九郎自身の姿と重なるからですね。

定九郎は進むべき道の見えない自分の生活に、まるで自分が生簀の中の金魚であるような窮屈さを感じていますが、生簀から逃れ出て自由を手に入れた金魚の姿が目の前にあるわけです。

陸に上がった金魚はたしかに自由ですが、この後どうなってしまうかは言うまでもないでしょう。金魚を目にして、定九郎がどんな行動をしたのかにも、ぜひ注目してみてください。

純文学的な「うまい文章」というのは、非常に凝ったもののことを指しますから、それは逆に言えば、すっと読み飛ばすことのできない、読みづらい文章ということも意味します。

文章としてうまければうまいほど、ストーリー運びのテンポは悪くなるわけで、「うまい文章」というのは、言わば諸刃の刃なんです。

その辺りが好き嫌いの分かれる所だと思いますが、『漂砂のうたう』の場合は、この文体が内容にとてもあっているので、非常によいと思います。

続いてはその肝心の内容に関してですが、落語の怪談話が大きなモチーフとなっています。

定九郎になぜかつきまとうポン太という落語家の弟子がいます。道化的な役回りである、このポン太の登場の仕方自体がやや不気味な印象もあるんですが、ポン太の師匠が怪談話の名人らしく、落語の怪談話が物語内にいくつか登場します。

全体的にじめじめとした雰囲気で進んでいく物語に、この怪談話が奇妙に絡んで来るのがこの小説の最も面白い所です。そうした、独特の文体と物語の構造に魅力のある小説です。

作品のあらすじ


もうすぐ26歳になる定九郎は、美仙楼という根津の遊廓で働いています。立番といって、遊廓の受付のような仕事で、お客がどんな人間かを見極めるのがその役目です。

立番の上には妓夫太郎という職があって、妓夫太郎を務めているのが、定九郎より1つ年上の龍造です。この龍造はとにかく仕事ができるんですが、仕事ができるだけにとても厳しい男で、周りから恐れられると同時に煙たがられてもいます。

定九郎は賭博場の集金に出かけます。そして帰り道の途中で、石垣の石を持ち上げると、その下の穴に五銭を入れます。そうして少しずつごまかしてお金を貯めているんです。

その時、突然の三味線の音が定九郎を驚かせます。やがて歌が聞こえ始めますが、必死で声の主を探すと、なんと歌っていたのは、首のない人間でした。悲鳴をあげて逃げ出す定九郎。

ところが、やって来たのは、顔見知りのポン太でした。「あすこはねェ、月明かりの加減でそう見えるようなんですよ。そら、東っ側に大きな欅があるでしょう。あれがうまい具合に明かりィ遮ってね、アタシの丈だとちょうど首から上が影になっちまうらしいんですね」(19ページ)と忍び笑いを漏らすポン太。

有名な落語家の弟子だというポン太は、それ以来つきまとうように、ちょくちょく定九郎の前に姿を現すこととなります。

江戸から明治になり、法律上は遊女を縛りつけることはできなくなったんですが、遊女はなかなか遊廓から離れて生活することができません。金持ちの旦那に身請けでもされない限り、生活の術がないわけです。

一口に遊女と言っても、その明暗ははっきり分かれます。お客がつかなくて悩む遊女もいれば、人気があるので、引く手数多な遊女もいます。美仙楼の看板は、小野菊という遊女。

この小野菊を、美仙楼から連れ出そうとヤクザ者が素人に扮してやって来ます。小野菊を口説いて、もっと稼げる所に移らせようと言うんですね。

定九郎は、うっかりそのヤクザ者を中に入れてしまいそうになるんですが、さすがに龍造の目は鋭く、ヤクザ者は無事に追い返すことができました。

しかし、ヤクザ者はひそかにまたやって来て、定九郎に話を持ちかけます。龍造の目を盗んで、遊廓に入れさせてくれないかと。大金を提示された定九郎は・・・。

はたして、定九郎の決断とは!?

とまあそんなお話です。龍造と定九郎など、人物やいくつかの物事が対照的に配置されていて、それが物語に深みを与えています。どこにも行くことのできない窮屈さが、極めて見事に描かれた物語です。

最後に、ぼくが最も印象的だったセリフを引用して終わります。ポン太が定九郎に言ったセリフです。

 ポン太はゆるりと首を傾げる。
「ねぇ、お兄いさん。どんなにシンとしたとこでもね、動いてるものは必ずあるんですよ。海だの川だのでもさ、水底に積もってる砂粒は一時たりとも休まないの」
 奴の顔は笑っているようでも、泣いているようでもあった。燭台の火が風に揺れて、ポン太の影を壁一杯に広げる。
「何万粒って砂がねェ、こうしている間も水の流れに乗って、静かに静かーに動いていってるんだねェ。岸からは見えないですけど、そうやって海岸や河岸を削っていくんだねェ。水面はさ、いっつもきれいだけどなんにも残さず移り変わっちまうでしょう。でも水底で砂粒はねェ、しっかり跡を刻んでるんだねェ」(248ページ)


激しく移り変わる水面と、ゆっくり動いていく水底。この対比がなにを表しているかは、ぜひ本編を読んで考えてみてください。

時代小説らしくない時代小説ですし、好き嫌いは分かれる小説だとは思いますが、とても印象に残る1冊だと思います。興味を持った方はぜひぜひ。

明日は、井伏鱒二『山椒魚』を紹介する予定です。