三島由紀夫『近代能楽集』 | 文学どうでしょう

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近代能楽集 (新潮文庫)/三島 由紀夫

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三島由紀夫『近代能楽集』(新潮文庫)を読みました。

『近代能楽集』には、能の演目を元にして、物語の舞台を現代に移した戯曲が8編収録されています。

いわば日本の伝統芸能を現代的な演劇でリメイクしようという試みです。芸術としての完成度は或いは失われたかも知れませんが、その分物語としての分かりやすさが生まれました。

また、原典に新たな解釈を加えたという側面もあるので、そういった魅力もある作品集です。

何を隠そう、ぼくは能を実際に観たことがないんですよ。これはぼくだけに限らず、現在では能をよく観に行くという方はかなり少ないのではないかと思います。

伝統芸能であることはもちろん分かっていても、敷居の高さというか、「自分には分からないんじゃないか」という芸術性の高さをひしひしと感じてしまいがちですよね。まさにぼくがそうなんですけども。

ただ、ぼくは日本の古典が好きなので、わりと世界観としては能を身近に感じたりもするんですね。たとえばこの本の中で言えば、「卒塔婆小町」は小野小町の挿話が、「葵上」は『源氏物語』が元になっています。

能の元になっている歴史的なエピソードなどは、わりと知っていたりもするわけです。それから、能の演者のことをシテ、ワキという役割分担で呼ぶんですが、このシテ、ワキという言葉を文芸評論などでたまに目にすることがあります。

ざっくり言えば、シテが主役、ワキが脇役に対応するんですが、演劇と違う能独特の要素としては、ワキがシテから話を聞き出すような立場にあることです。たとえばシテが亡霊で、そのシテからワキが話を聞くという感じですね。

倉橋由美子の書く評論がぼくの中では印象的ですが、このシテとワキの立場をそのまま文学作品の読解に使うことがあります。「この作品のシテは○○でワキは××であり・・・」という風に。○○と××には登場人物名が入ります。

このように、能に敷居の高さを感じていながらも、使われている歴史的なエピソードへの興味や、用語が文学理論として使われることもあって、ぼくは能には人一倍興味があるんです。

その内、もう少し色んな余裕が出来たら、能や狂言などを実際に観てみたいと思っています。みなさんも機会があればぜひ行ってみてください。あらかじめ台本などを読んでからいくと、より楽しめるそうですよ。

『近代能楽集』に話を戻しますが、能が元になっていること、さらに演劇の台本であることが、この本を読む上でややネックになるかと思います。

つまり、実際の演劇を観るのではなく、台本を読むことに意味はあるのかという問題の上に、元になった能を知らなければいけないのではないかという疑問が浮かんでくるわけですね。

その点は大丈夫です。心配ご無用です。自分の浅学さを棚に上げて開き直るような所がありますけど、『近代能楽集』だけを読んでもぼくは十分に楽しめましたよ。

話として分かりやすいだけでなく、わりとあっと驚くようなオチのあるものが多く、それによってシニカル(クールな皮肉さがある感じ)かつウィットに富んだ余韻が残ります。

作品のあらすじ


『近代能楽集』には、「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」「道成寺」「熊野」「弱法師」の8編が収録されています。

「邯鄲」

「邯鄲の夢」や「盧生の夢」という言葉を、みなさんもどこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。

波瀾万丈な人生を歩んだ盧生が、ふと気がつくと、それは枕を借りてうたたねをしていた間の夢だったという話ですね。その「邯鄲の夢」を元にした能を、さらにちょっとひねってある作品です。

どこか虚無的な所があり、人生になんの喜びも見出せない18歳の少年次郎。次郎は、かつて自分の家で働いていた菊に10年ぶりに会いに行きます。

菊はその枕で寝ると、現実世界のことがなにもかも馬鹿らしくなるという不思議な枕を持っているんです。次郎は菊にその枕で寝かせてくれないかと頼んで・・・。

「綾の鼓」

事務員の加代子は、会社の小間使いの老人岩吉に頼まれて、向かいのビルに恋文を届けに行っています。もう何十通にもなりますが、返事は一向に来ません。

それというのも、岩吉が想いを寄せる奥様の元まで届いていないんですね。周りの人が握りつぶしてしまっているんです。

たまたまそこへ集まっていた踊りの師匠たちが、身分不相応な想いを抱いている岩吉をからかってやろうとします。

ある手紙をつけて、向かい側の岩吉の所まで鼓を投げて渡します。その手紙とは、「この鼓を打って下さい。街の雑踏をとおしてあなたの鼓の音が、こちらの窓まで届いたら、思いは叶えてあげましょう」(73ページ)というもの。

しかし、それは皮のかわりに綾で作られた、音の鳴らない鼓で・・・。

「卒塔婆小町」

老婆が夜の公園で、「ちゅうちゅうたこかいな」(87ページ)となにかを数えています。毎晩同じ時刻に公園へやって来る老婆が気になった詩人は、あなたは一体何者なのかと問いかけます。

老婆は「私を美しいと云った男はみんな死んじまった。だから、今じゃ私はこう考える、私を美しいと云う男は、みんなきっと死ぬんだと」(94ページ)と言い、80年前に深草少将が百日通いをしてくれたことを思い出します。

百日通いというのは、百日通って来たら、思いを遂げさせてあげるというものです。なので、恋した男が女の元へ百日を目指して毎晩通ってくるわけです。

やがて、詩人の目に写る老婆の姿が美しく変わっていって・・・。

「葵上」

若林光は、入院している妻の元を訪ねます。看護婦は中年の婦人が毎晩、真夜中に見舞客としてやって来ると言うんですね。

光が誰だろうと不思議に思っている所へ、六条康子がやって来ます。康子は見えない花束を持っていると言います。「蕾が灰色の花をひらくの。葉っぱの下には、おそろしい棘がどっさり生えているの。花からいやな匂いが出るの。匂いが部屋じゅうにひろがるの。そうすると、ごらんなさい、御病人の顔が、今までの平和を失って、頬がわなないて、恐怖でいっぱいになりますの」(117ページ)と。

光のかつての愛人である康子は、光への愛と光の妻、葵への憎しみに激しく苦しんでいて・・・。

「班女」

画家の実子は、新聞を見て苦悩しています。新聞には、実子が頭のおかしな女と暮らしているという記事が出ていました。

それは花子という女で、愛のためにおかしくなってしまったんです。恋人がいて、また会う時の印として扇を取り替えたきり、男は行方知れずです。

花子はその男を探して、毎日扇を持って駅のベンチに通っているんですね。やがてそれが噂になったというわけです。

実子が苦悩しているのは、花子と一緒に暮らしていることがばれたためではなく、花子という存在が世間に知られると、花子の愛する男が現れて花子を連れ去ってしまうと怖れたからです。

花子は実子にとって最高の絵のモデルだから。そんな、ある日・・・。

「道成寺」

古道具屋で「化物的に巨大な衣装箪笥」(154ページ)が売られています。主人がその箪笥の大きさ、素晴らしさを力説し、お客がせりのようにして値をつけていきます。

5万円から始まり、やがては300万円まで値が上がる中、3000円という声がします。やって来たのは清子という踊り子でした。

清子は、そのくらい値が低くて当然だと、その箪笥に秘められたある事件について語り始めます。

その箪笥は桜山家から出たもので、「桜山さんの奥さんは若い恋人を、いつもこの箪笥の中に隠して」(161ページ)いたんですが、それが夫にばれて中の愛人は箪笥の外からピストルで撃ち殺されてしまったという事件です。

その話を聞いて、お客はみんな去っていきます。そして、ある強い決意を持ってやって来た清子は箪笥の中に入り込んで・・・。

「熊野」

アパートの一室で、実業家の宗盛は愛人のユヤに花見に行こうと誘います。ところがユヤは悲しい想いに駆られているので、行きたくないというんですね。

北海道にいるお母さんが病気だという知らせが来ているからです。母親からの「せめて命のある内に一目でもお前に会いたい」(186ページ)という手紙を見て、涙するユヤ。

情を解さず、自分の意見を強引に押し通そうとする宗盛と、窮屈な身分でただただ悲しみを湛えるユヤ。その2人を対照的に描いていく内に、物語は思いも寄らない展開へと進んでいきます。

「弱法師」

家庭裁判所の一室。2組の家族が話をしています。15年前に、俊徳という当時5歳の男の子が行方不明になりました。

戦争の炎で目を焼かれて、目が見えなくなった俊徳を引き取って育てたのが、川島夫妻です。ところが、俊徳が20歳になった時、生みの親である高安夫妻が見つかりました。

川島夫妻と高安夫妻、そして調停委員の桜間級子が俊徳をこれからどうするか、話し合っているというわけです。そこへ杖をついて俊徳が現れます。

しかし、いつも目の前に「この世のおわりの焔が燃えさかっている」(222ページ)と思っている俊徳の言葉は、そこにいるみんなを戸惑わせて・・・。

とまあそんな8編が収録された戯曲集です。ぼくが特に好きなのは、「班女」と「熊野」です。「道成寺」もいいですね。

いずれの作品も「こうなるだろうな」という予想を覆されるところに面白さがあります。話の展開の面白さですね。ただ、それだけではなくて、そこに秘められた壮絶とも言える感情に強く心を打たれます。

中でも「熊野」は、見える世界が一変するような感じがあって、会話の流れ、どことなく緊張感のある空気、話の展開、ラストシーンのそのすべてが素晴らしいです。

「班女」は原典と結末が異なるようですが、こちらの方がよりいいのではないかと思います。少なくともある種の叙情性のようなものは増しています。

ぼく自身の経験とはかけ離れた感情が描かれているにもかかわらず、なんだかよく分かるような感じもあって、人間の感情というのは、つきつめるとそういうことになるのだろうなと思わされました。

「道成寺」はいわば「卒塔婆小町」と対になるような話で、美と醜の対比がテーマとなっています。清子の心境がどんな風に変化していくのかにぜひ注目してみてください。

この『近代能楽集』を入口にして、能について色々学んでいくのもとても楽しいだろうと思います。わりと読みやすく、面白い作品集ですので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、森鷗外『山椒大夫・高瀬舟』を紹介する予定です。