平野啓一郎『日蝕』 | 文学どうでしょう

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日蝕/平野 啓一郎

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平野啓一郎『日蝕』(新潮社)を読みました。

『日蝕』は当時最年少で芥川賞を受賞して話題になった作品です。三島由紀夫の再来とも呼ばれました。

ぼくは平野啓一郎に関しては、特に『高瀬川』以降、わりと批判的な読者なんですが、この『日蝕』は面白いと思います。その面白さは圧倒的な神秘体験が描かれていること。それに尽きるのではないかと思います。

『日蝕』はよく難解な小説という言い方がされます。その難解さは大きく分けて2つの要素があって、まずは擬古文とされる文体、それから中世のキリスト教の神学という内容ですね。読みづらく、分かりづらいと。

まず文体から触れていきますが、基本的には擬古文かどうかすら微妙な文体だと思います。

つまり、発想として擬古文的なものがあって擬古文として書かれたものではなく、普通の文章の漢字を単純に難しくして、見慣れた漢字を見慣れない漢字に変えただけのものです。

「キリスト」を「基督」に「すこぶる」を「頗る」に「パリ」を「巴黎」に変えているとかそういうことです。なので別に難解ではなく、単に読みづらいだけです。

難解さではなく、単に読みづらいだけということを、ぼくは批判的に言いたいわけではありません。難解だと思われて敬遠されるのがもったいないので、あえてハードルを低くするためにそういう言い方をしているわけです。

『日蝕』の読み方としては、ルビを追っていけば、多少固い雰囲気はありますが、基本的には普通に読んでいけるはずです。

「石筍」などそのもの自体馴染みのない言葉も出てくるんですが、その時は文脈から判断するなり、調べるなりしてみてください。

『日蝕』があえてこういう文体をとっていることに関して、こけおどしに過ぎないとかそういう批判はありえるんですが、ぼくはこれは内容にあった、とても効果的な手法だと思います。

つまり何故こうした読みづらい文体にしているかと言うとですね、この小説の舞台が現代ではなく、中世のフランスであること、そしてある種の神秘的体験を描いているからなんです。

時代劇なので、重々しいコスチュームを身にまとうというのは、アプローチ的には間違っていないですし、なにより神秘的な体験を描くところで輝きを発揮する文体です。具体的に言えば、洞窟の中の場面や日蝕が起こる場面など。

この文体でなくああいった現象が描けるかというとそれは難しいと思うんですよ。文体と内容がこれ以上ないほどあっていて、素晴らしい効果が生まれている小説だと素直にそう思います。

続いては、神学的な内容について。

『日蝕』は大きなバッシングとささやかな賛辞が寄せられた小説だろうと思います。まずバッシングについて触れておくと、バッシングは的外れのものばかりです。

つまり、芥川賞を最年少で受賞したことに対して、あるいは「三島由紀夫の再来」と呼ばれたことに対しての反感がほとんどで、内容に関連したものはあまりないのが現状だろうと思います。

出版社も商売ですから、それは色んな作戦というか、売り文句を考えますよ。そうした売り文句にいちゃもんつけても別に構いませんけれど、そうしたバッシングで本の内容自体を攻撃するのはいささか無理があります。

あとは文体で引っかかって「よく分からなかった」という感想もわりとあるんですが、文体については前述した通り、それほど引っかかるものではないと思います。

話を変えて、ささやかな賛辞に関して。ここから神学と絡んできます。

バッシングがある一方で、決して多くはないものの、賛辞ももちろんあります。そしてそれはおそらく神学的な教養のある人からのものだろうと思います。

つまり自分の神学の知識と『日蝕』で書かれていることを重ね合わせて読み解いているわけです。

『日蝕』ではある神秘的体験が描かれます。ぼくらを圧倒するような不思議な出来事が起こるんです。その場面を宗教的なものが描かれているとして読み解くことができるんですね。あれがキリスト教のあの人と重なってくると。そしてあの子の叫びはこんな意味を持ってくるんだと。

それはもちろん正しい読み方であって、それはそれでいいと思います。文中でもそういう読みの方向に誘導しているわけですから。

では神学の知識がないとこの小説は内容的に分からないかと言うと、そんなことはないとぼくは思うんです。ここで描かれている圧倒的な神秘体験は、宗教的なものを大きく超えています。

仮に宗教的なメタファー(描かれている内容が他のことを指し示していること)だとしても、すべての答えを明確に出せるわけではないと思うんですね。神学的な解釈のアプローチでは限界があります。

〈私〉と〈他者〉は渾然一体となり、それは同時に〈私〉と〈世界〉の結びつきでもあるわけですが、そこで描かれているのは、単に宗教的なことではなく、陰と陽の交わりです。

言うなれば、日蝕自体が陰と陽との交わりなわけですが、陰と陽の交わりはやはり宗教ではなく、生命的ななにかを表しているという方がしっくりくるものがあります。

生命の誕生は結局宗教に結びつくわけですが、日蝕の場面の神秘性というのは、神学で解釈できるものではなく、もう少しプリミティブ(原初的)な体験のような気がするんですね。

分かりやすく言うとですね、『日蝕』は、これがこれを表しているんだ、と頭で考える小説ではなく、「おおっ、なんかよく分からんけど、とにかくすげー!!」と圧倒的な体験に打ちのめされる小説だろうと思います。

その「とにかくすげー!!」感じが、難解と言われるあの文体だからこそ輝くんですよ。文体、内容はちょっととっつきづらいかもしれませんが、読んでみると結構面白いはずです。ぜひ読んでみてください。

作品のあらすじ


『日蝕』は、パリの大学で神学を学んでいた〈私〉の回想記という形式を取っています。

〈私〉はある時、異教徒の哲学者の写本を手に入れて、強い興味を抱きます。その写本は一部しかなかったので、その写本の完全版を探しに、リヨンへ向かいます。

『日蝕』は中世のフランスが舞台になっていて、宗教的にやや複雑な時代です。すごく単純化して言うと、宗教と学問との対立構造があったりするわけです。

たとえばですよ、本編とは離れますが、ダーウィンの進化論を思い出してください。猿から徐々に人間に進化したという考えですよね。これが学問です。ところが宗教では、神が人間を作ったということになっているわけで、猿から進化したなどあり得ないということになります。

宗教では自分たちの信じているもの以外のことを排除しようとします。科学的なもの、哲学的なもの、そういう宗教的なものと対立するものは、異端として攻撃するわけです。

ただ、これは本編でも触れられていますが、この辺りの宗教と哲学の関係というのは、非常に曖昧なものを含んでもいます。

たとえば日本でも神仏習合といって、仏教がやって来た時に、仏教の神様と神道の神様は同じものなんだよ~みたいな奇妙な融合が行われたのと同じように、哲学を宗教的にとらえなおすという奇妙な融合が行われたりもしているわけです。

特に〈私〉が信奉するトマス・アクィナスがキリスト教とアリストテレスの哲学との融合を試みたように、〈私〉もその異教徒の哲学に触れようとするんです。

異教徒の哲学を取り入れて、ある意味において乗り越えることで、キリスト教の正しさをより証明できるのではないかと。

この辺りは、一人称の小説なので、建前と本音いうか、「本当はどう考えていたんだろう?」という深い読みができる可能性もあります。

リヨンに着いた〈私〉は、近くのある村に錬金術を試みている人がいるので、興味があるならそこを訪れてみてはどうかと司教に言われ、その村に行くことになります。

錬金術というのは、金(きん)を作り出す技術のことです。『ハリー・ポッターと賢者の石』で出て来た「賢者の石」が『日蝕』にも登場していますが、元々、錬金術で使われていたという魔法の道具なんですよ。

金を作り出せたら、それはすごいことですよね。一生遊んで暮らせますし、莫大な富は権力を意味するわけで、世界を支配することもできるかもしれません。

でもそんなことが簡単にできるわけはない上に、どこかオカルトちっくな印象もありますよね。まあそれはともかく。

外部からやって来た人物が、秘境めいた村に行き、そこで数々の出来事が起こっていくという物語の構造は、横溝正史の小説を思わせるところがあります。名探偵の金田一耕助がおどろおどろしい村に行くあの感じ。

つまり、金田一耕助が道を歩いて行くと、変な婆さんがいて、「立ち去れ~、この村にはたたりがあるんじゃあ~」みたいなあれです。いや、『日蝕』にはそんな婆さんは出てきませんよ(笑)。

ただ、閉塞感のある空間、どこか不穏な空気が漂っている感じが似ています。そして出てくる村人が、みんな少しずつ変なんです。紹介状を持って行ったのに、実際にいた司祭は違う人で、しかも女と関係しているという黒い噂があります。

両脚が悪く、鍛冶屋をしているギョオムと流れ者の妻。口が聞けず、にこにこ笑ってブランコに乗っているその息子。

そしてなにより錬金術を試みているピエェル・デュファイ。〈私〉がピエェルの家を訪ねると、哲学者の本がたくさんあり、あやしげな薬品の入った瓶がたくさん並んでいます。

〈私〉は何度もピエェルの元を訪れることになります。ピエェルは寡黙なんですけど、〈私〉に自由に蔵書を見せてくれるんですね。

ある時、ピエェルが家を開ける時間があることに気がつきます。〈私〉はピエェルのあとをこっそり尾けていきます。

森を抜け、洞窟の中に入ってくピェエルとそれをひそかに追いかけていく〈私〉。これは昔話で禁忌(タブー)に触れることに似ています。つまり決して見てはいけないものを覗き見るぞくぞくというか、不思議な感覚があるんです。

果たして〈私〉が洞窟内で見たものとは・・・?

村では次々と不思議なことが起こり始めます。病が流行り、家畜が死に、奇妙な存在を目撃したという噂が出る。〈私〉と同じくドミニコ会の会士の修道士であり、異端審問官であるジャック・ミカエリスはすべての災いの源を捕まえることに成功します。

そして物語は壮絶かつ圧倒的なクライマックスへ。〈私〉はなにを見て、そしてなにを思ったのか。果たして「日蝕」が表すものとは一体・・・!?

とまあそんなお話です。文体は多少とっつきにくいですが、ストーリー的には外部の人間が秘境の村に行って不思議な体験をするというわりとシンプルな作りです。

その不思議な体験が何を意味しているかを理解するのがなかなか厄介なんですが、神学に絡めて解釈するのもよし、単に神秘的な体験という風に受け止めるだけでもまたよいと思います。

文体と内容がよくあっていて、とても印象に残る小説です。興味を持ったらぜひ読んでみてください。

おすすめの関連作品


リンクとして本を2冊紹介します。

まず錬金術師が出てくる小説と言えば、パウロ・コエーリョの『アルケミスト』でしょう。

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)/パウロ コエーリョ

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パウロ・コエーリョはブラジルが生んだ大ベストセラー作家で、少しスピリチュアルな世界を描く作家だろうと思います。『アルケミスト』は、大切なものを見つけようとする少年が錬金術師と出会う物語です。

続いては、宗教と学問との関係を描いた京極夏彦の『鉄鼠の檻』です。

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)/京極 夏彦

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『鉄鼠の檻』は京極堂のシリーズの4作目にあたって、やはり順番に読まなければならないんですが、とても興味深い作品なんです。

基本的にはミステリですが、ここでは仏教がテーマになっていて、禅とはなにか、悟るとはなにか、というのが非常に面白い角度から描かれています。機会があればぜひ読んでみてください。京極夏彦もとても面白い作家です。