一国一城令が公布されたとき、岐阜で残ったのが“加納城”
その移築門があるいう“野口館”にやってきました
※『岐阜の山城ベスト50を歩く(2010年3月初版)』を参考にしましたが、
2009.5.10の毎日新聞のニュースで
『野口館にあった移築門は大垣城の移築門だと判明』したようです。
(墨書きや門の鬼瓦に大垣藩主の戸田家の九曜紋があったとのこと)
“各務原市民俗資料館 中山道鵜沼宿町屋館”にて展示されているそうです。
(先方のHPに移築門のことは書かれていませんでした)
これが、一般のお宅でカメラを持って入っていいのか、すごく不安でした
しかもあると聞いていたその移築門は見当たらず(腐敗しちゃったのかな?)
話ではここに移築門があるとのことでしたが、ご覧のとおり・・・
門の右側に櫓台が附属している模様。
堀だと思うけど、実はただの側溝なんてオチないよね
(今回はカラーリングするとき縄張図見なかったので、テキトーです。すみませぬ・・・)
土塁と空堀
藪で覆われて写真だと堀が分かりにくいですが、確かに堀があります。
それはともかく、竹藪には9/29という秋の暦なのに「これでもか!」というくらい蚊がいました
(H24.10.30 “野口館”を誤って“野田館”と記載していました。
ホシ様にご指摘いただき、訂正いたしました)
ササッと撤退し、次なる目的地は“徳山氏更木陣屋”
野口館から車で10分ほどのところにあり、
公園化していて、小さいながらも道路脇に案内板がありましたので、スムーズにこれました。
公園内は、よく御殿跡で見られるように「玄関」のように部屋割り(?)が示されています。
復元された石組みの井戸があるとのことですが、
時間がなかったもので、見ませんでした{復元だし・・・。
(石積みの井戸なら我が家にもあるんだぜ!
・・・石積みだったよな、ウチの井戸)
公園の四隅がビミョーの盛り上がってたんですが、土塁のあとでしょうか?
某城サイト様によると、公園の外の祠あたりに土塁とのことですが、
梅林の囲いにしか見えませんでした(^^;
【旗本 徳山氏更木陣屋 説明版要約】
・初代旗本となった徳山五兵衛則秀は織田信長、柴田勝家、前田利家に仕えた。
・慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍について戦功をあげた。
・徳川家康からの戦功も厚く、約5000石の知行を得て、
明治維新まで約250年、幕府直系の家臣として12代に渡って各務原を治めた。
おおっ!?
けっこう、すごい御家じゃないですか!
「幕府直系」って「幕府直結」の間違いな気がするけど・・・。
でも参勤交代はしてないかんじですね。
そういう点ではチョイト前にあげた、高木家のほうが上の位なのかな
高木家のレポはコチラ (多羅城/西高木陣屋)
徳山更木陣屋は各務ヶ原市を後にして、足を大きく伸ばして向かうは大垣市!
今回の旅の目的は大垣城の外堀ぶらり散策だったのです
台風接近に伴う雨で断念しましたが
その前にひとつ寄り道~“曽根城”
登城してから知ったんだけど、ここ春日局のゆかり地らしいです。
私がここに来た目的は稲葉一鉄なんですけどね(〃∇〃;){ゲームでちょっとね・・・。
曽根城 本丸
【曽根城 説明版要約】
・築城年代は不明。
・西美濃三人衆のひとり、稲葉一鉄が永禄10年(1567年)織田信長に仕え、5万石を拝領。
・天正16年(1588年)から西尾光教が在城し、関ヶ原合戦ののち揖斐城に移るとともに廃城。
・華渓寺所蔵の曽根古城跡図の中央部に「斎藤内蔵佐」と斎藤利三の屋敷が記されており、
春日局の生誕地ではないかといわれている。
池のほうに春日局の説明文もありますが、
家光の乳母云々の話はあまりに有名ですので、省略します。
現在は華渓寺というお寺になってまして、有名なのか観光バスが来ていました
残っている遺構は石垣の根石くらいです。
写真のであってると思いますが、
向かいには池で釣りをされている方の駐車スペースとなっており、
これが遺構だとは思いませんでした
(散々歩き回って、帰るときに「これかぁ!」って思ったさ)
そんなわけで、こんなの撮ってると端から見れば怪しい人ですね
これにて弾丸ぶらり美濃攻め終了です