武蔵攻め2日目のH24.4.29(日)は八王子城を訪問しましたぞ
前日(遭難事件した日)攻めた、辛垣城とか勝沼城を攻めた北条氏照さんの城です。
氏照さんは後北条氏の3代目 北条氏康さんの3男で、
私が今一番好きな(武蔵)滝山城の城主でもありました。
1568年に武田軍に攻められたとき、3の丸まで追い詰められて、
「滝山城は平城だから防御に劣る」ってことで、八王子城にお引越ししたそうです。
駐車場がバッチリありますが、公共交通機関でも来城可能です
高尾駅から路線バスに乗って“霊園前”(運賃180円)で降りまーす。
乗ってきたバスの進行方向に50mくらい先の信号を左折して、
後は看板に従って歩くだけ(←
一箇所だけY字路がありますが、そこは左であとは一本道です。
八王子城に着く前に北条氏照さんと家臣のお墓がありますので、そちらもお忘れなく~
例のごとくお墓の写真は省略します。
北条氏照の墓のある丘(遠景)
八王子城は標高445m、比高240mの城山にあります。
(関東では有名らしい)高尾山と尾根続きなのでハイカーさんもたくさんいらっしゃいます。
クマやヒルの心配はないそうですが、装備はしっかりしてくださいませ。
で、麓はともかく、山腹と山頂には電波がありませんので、
ツイートとかしようとすると電池ガンガン消費してくんで、諦めてください。
私が言えるクチじゃないんですけどねー。
(↑何回かツイートしようとした)
ではでは、ちょいと話題になった私の八王子城登城記いきまーす!
氏照さんのお墓を参拝して、麓に到着したのは6時30分。
(ツイッターしてて始発に乗り遅れたという事故もあったり
下の太鼓曲輪ってとこに堀切がバシバシと4箇所ほど入ってますが、
先に続きここの城の縄張図も持ってなかったので、行ってません
その太鼓曲輪のほうから小田原攻めのとき、
真田昌幸(幸村のおとーさん)とか、前田利家とか上杉景勝とかが攻めてきたそうな。
そうそうたる顔ぶれですな
大河ドラマ「天地人」でその辺のことを詳しくやったと思いますが(私、見てないんですけど)
この上杉景勝ってー人が、ちょいと後北条と縁深い人なんです。
謙信亡き後の上杉家の家督争いの候補は上杉景勝と上杉景虎の2人。
結論からいうとその跡目争いに勝つのが景勝なんですが、
負けて自害した景虎は北条氏康さんの7男。つまり、氏照の弟クンなんです
といっても、小田原の役のとき、氏照さんは小田原城に詰めていたんで、
景勝さんと直接対峙はしてないんですけどね。
八王子城跡 等高線入り地図(電子国土ポータルより)
八王子城の天守に行くには、ざっくり言うと
整備された石段の道と、サバイバリャーな道
(通称 殿の道)の2つがあります。
フツーの人が登るのは地図上の赤い線。
帰ってくるとき、ご夫婦が赤ちゃんを抱きながら登ってきてビックリしました
おんぶじゃなくて抱いてるトコだけでビックリなんだけど、
おとーさんじゃなくて、おかーさんが抱いてたもんだから、思わず二度見しちゃったさ!
殿の道は地図の「八王子城跡」の右側にある人マークあたりから、
ウネウネ ウネウネ ウネウネ、ウネウネ蛇行しながら登っていきます
100名城のスタンプが設置してある事務所にはガイドさんが2~3人詰めていまして、
サバイバリャーな殿の道を一緒に登って、みっちりガイドしてくださいます
おじーちゃんばかりなのにタフだぜぃ
kaiさんは朝6:30スタートなので、ひとりでの登城です
もちろん殿の道からね。
整備の賜物でほぼ平らで、説明版にも堀切って書いてありますが、
竪堀じゃないのかな、コレ・・・
大したことが書いてなかったのか説明版の写真を撮らなかったみたいっす
大手門は薬医門だったとのこと。
このあたりコケが蔓延ってるんですが、ところどころそれを引っかいたような跡があります。
犯人はイノシシですって。
この日は見かけませんでしたが、やはり鈴か何か音のなるものの装備は必要かも。
リベンジしに行くときはは太鼓曲輪行きたいんだけど、一人ではヤバそうですね{参ったな。
八王子城の見所ポイントその1
“曳橋(ひきはし)”
曳橋と御主殿跡
もちろん復元で現在はスライドはしないですけどねー。
引橋は跳ね橋の一種で緊急時には橋を外したり、収納したりするってことは知ってるんですが、
往時の技術でそんなことできたのかなぁ?と想像がつかないです
個人的にはそんな(復元の)橋より、その周りの石垣に注目してました
段々になってるのが、美濃の岩村城を思い出させますねぇ~!
八王子城は、かの安土城を参考にしたといわれたてます。
氏照さんが1579年に間宮若狭守を安土に使者として送ったときに
技術を持ち帰ったって話ですよ~。
ただ安土城のような総石垣の城が関東に現れるのは、
1590年の小田原の役で秀吉が気付いた、石垣山城が初なんですけどね。
石の城が土の城に防御的に勝るかは別として、その技術には驚かされます
(関東や東北では良質な花崗岩が入手しにくかったとか聞いてますです)
ガイドのおじちゃんは「この大手道と橋は上級武士じゃなきゃ通れなくて、
下級の人はあっちの下の道を通ってお勝手から入ってたんだよー」って教えてくれたけど、
往時にあの道があったとは思えないんですが
(案内板に「御主殿側の道は江戸時代に作られた林道」って書いてありました)
長くなったので今回はここまで~