どんどん行きましょ、小谷攻め~!
(前回はコチラ )
【京極丸 説明版 要約】
「浅井氏が守護京極氏の居所として用意した曲輪」
「清水谷側(西側)に枡形虎口がある大きな曲輪を附属する。
この虎口は清水谷から上る「水ノ手」に繋がり、小谷落城時に秀吉が攻めあがった道」
「須賀谷側(東側)に造られた土塁は小谷城最大の規模で高さ3mほど」
城内一番の見所は“京極丸”かもしれません
(小谷城内最大の)土塁
説明版には3mほどって書いてあるけど、現状では2mちょっとかな。
帯曲輪も配してあるのに、城内最大の土塁を築いたということは、
それだけ重要な曲輪なのか、防御が弱いのか・・・
一方で西側に土塁がないのは、谷からは侵入されないとの算段だよね。
・・・が、そこから攻められてしまい、浅井家は滅亡してしまうわけです・・・・
その谷側に“枡形虎口”が残っています
この食い違いっぷりを見つけたときの感動といったら!
これ見るためだったら、尾根だって這い伝いますよー!
私たちは京極丸の一番上の曲輪から、
リュック等の荷物を置いて尾根伝いに行きましたが(※マネしないでください)
京極丸の一番下の曲輪から行くことが可能です。
(案内版はありません。藪ですのでご注意ください)
私たちは荷物降ろして言ったのに、8kgもあるカメラ装備で来たカメラさん、ツワモノ過ぎます
秀吉軍が登ってきたという(清水谷にある)水ノ手はこんなカンジ。
清水谷の屋敷付近に「登って来いや!( ̄へ  ̄ 凸)」と言わんばかりの竪堀があるのですが、
そこをスルーして、奥にある水の手から登ってきたということは、
秀吉軍は城の縄張りが分かっていたのでしょうか?
その竪堀は本丸の下(御局屋敷あたり)に繋がっていると思います。
御屋敷と丸子岩の間にある(挑発的な)竪堀
何ですか、この巨大な竪堀は
大堀切といい、小谷城は絶叫するような遺構がいっぱいです。
でも土橋が・・・(自粛