インフレの害と正しいモデル | 秋山のブログ

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先日紹介した黒木のなんでも掲示板の続きである。インフレの害について議論されている。

先に自分の考えを上げておけば、岩田規久男氏の意見の多くには賛成である。ただし、肝心のターゲットを設定すればよくなるといった人間の心理の変化を通して変わるはずという理論は、否定する。
インフレターゲット論でこんな間違いが起こるのは、ミクロ経済学のモデルの仮定が現実に全く即していないことを見逃しているのである。需要と均衡のモデルでは、収入いかんに関わらず、好き嫌いで購入することができるという仮定が隠されている。収入が減ると曲線がスライドするという話で、収入の増減に対して対応できていると考えるのは誤りだ(収入の減少と消費性向の低下が全く同価なのを見れば理解できるだろう)。早く買ったほうが得といった心境の変化で需要はほとんど変化しないだろう。ほとんどの国民は、ほぼあるだけ使って足りなければ我慢する形だろう。所謂有効需要が足りないから物価も上がらないということなので、金融抑制をかけつつ、庶民に回るように国は財政赤字をさらに拡大してお金を使うことでインフレをおこす必要がある。

ハイパーインフレを主張する経済学者のいくつかも同じ間違いをおかしている。通貨の信任が低くなることは、すなわち消費性向をとんでもなく上げることになるとイメージしているのだろう。そこには国民の財布に限度がある話はどこにもない。

このようにインフレを考えるときには、有効需要のこと、すなわち国民の所得との関係が重要であるはずなのに、何故かセットで語られることは多くない。インフレの害も、デフレの害も国民の所得と合わせて考えなくては、あまり意味があるとは思えない。経済学は国民の厚生を増大させるための学問のはずであれば、国民の所得を主にすえないのはどうかとも思う。さらに加えるならば、しばしば資本による搾取につながるレント(金利、配当ももちろん含まれる)や、タックスもモデルの中に入れるべきだろう(恒等式のような式も作れるだろう。ただし誰かの黒字は、別の誰かの借金であることも考慮する必要があるだろう)。

ヒュームの観察にあるように、貨幣の増加は景気を上げ、インフレに繋がることは事実だろう。そしてインフレによって景気が沈静化するというメカニズムは存在する。つまりインフレは、基本的には景気にマイナスの効果を持つものである。
需要の増加からインフレになっても、国民の所得がそれをまかなえるほどの率で上がっていれば需要が減ることはないだろう。価格の上昇による収入増が、全て消費者の収入に還元されるならば需要が減ることはない。しかし実際は資源価格やレントも同時に上がるので、需要は減ることになる。
それではインフレは景気にマイナスなのか。上の話は、間違っているわけでもないが、実は見逃している点がある。一つ目は、貨幣の増加は、現代では信用創造によって日常的におこっていることである。二つ目は、貨幣の増加によっておこったインフレは、まず需要が増加し、それに反応した物価の上昇であるだけであるから、マネーストックと物価の関係で証明されているように高いインフレをおこすわけもなく、需要がもとに戻るだけということだ。
このような経済の構造を理解していれば、景気を悪化させるものは何か、どうすれば景気をよくできるか理解できるようになるだろう。
例えば、資源価格やレントの比率が上がれば上がるほど、需要は減少する。景気を良くしたければ、利率を上げることが間違いであるのは当然のことだ。
石油のような輸入資源価格の上昇で、コストプッシュインフレが起こるが、これが何故悪いかも簡単に理解できるだろう。
デフレが何故悪いかといえば、実質金利を上昇させ、レントを増大させるからである。さらには信用創造も抑制されるであろう。景気が自然に回復する機能が失われることにもなろう。

新古典派のモデルは、金利や配当が多いと経済に良い影響を与えるという嘘を広めるモデルである。生産関数が正しいのであれば、金利や配当が高ければ投資が増えて生産が増えるという話になるだろう。しかし現実には上のモデルが示す通り、有効需要を減らす一方であり、もともと多くの資産を持っている人間以外はどんどん貧困化していく。生産関数は有効需要を無視しているので、もちろん実証上現実と一致することはない。ケインズ革命時に誰もが捨て去ったセイの法則を、セイの法則と呼ばずに使っているのである。
世界中の不況は、新古典派の間違ったモデルによるものである。これらは、一刻も早く捨て去られるべきであるし、信じている人間は修正すべきだろう。有効需要を核に考えれば、前述のように正しいモデルは作れるはずだ。現時点で特に残念なことは、日本の公務員の採用試験で、ISLM分析やら、新古典派の成長理論やらが問題として出ている。公務員試験の参考書には、いろいろ疑問も出てくるだろうがとか、完璧なモデルではないとか書かれていながら、とにかく習熟しようとされている。つまり、日本の公務員は、省庁の上級官僚から地方の一般職まで、間違ったモデルで考え、政策を立案することになる。由々しき問題である。