磯子七福神 寶生寺 寿老人 | 巡礼を楽しむ レキササイズ season 4

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4

歴史散策の楽しみのひとつ。霊場巡りをお気楽に楽しんでいます。

レキササイズって、造語です。
歴史散策をしながらダイエットをしようというところから
レキシ+エキササイズの意味合いで名づけました。
ダイエットもそろそろ頑張ります。

南区の寺 横浜の古刹、『横浜』の地名が記録されている宝生寺
案内板には、
平安朝時代末期の承安元年民部卿大僧都覺清法印により開創された。その後南北朝時代に覺尊法印が住職となってから急速に發展して地方随一の大寺院になった・・・とあります。

ちょっとした小山の上にあって、できたころは、この小山の下まで海があったのではなかろうかと思われます。運河を挟んで根岸方面にも小山の群があります。どうも、昔は山つながりで、間を切り崩し、道やら、運河やら造ったようにも思われます。
このお寺、子供のころは近くに住んでいながらセミを捕りに来ても、気にもしなかったのですが、重い歴史をもっているようです。

横浜市の歴史を伝える、偉大な寺のように思えます。寺林は天然記念物に指定された木々もありますが、大切にされているよりは、そっとほっぽらかしてある・・・そんな感じを受けてしまいます。
青龍山という山号だけあって、龍の伝説もの残っているそうな。いつまでも、ひっそりとしたまま残っていてほしいと思います。

案内板

神奈川県指定天然記念物
宝生寺・弘誓院の寺林は、タブノキ、スダイジ、シラカシなど神奈川県の主要な常緑樹によるまとまった林相が維持されている。
ここでは三つのタイプの常緑広葉樹林が見られる。台地から尾根にかけてのスダジイ林(ヤブコウジ-スダイジ群集)、谷状地のタブノキ林(イノデ-タブ群集)、それにクスノキ、シラカシなどの稙栽樹を中心とした樹林である。いずれも高木層にスダジイ、タブノキ、シラカシ、ケヤキ、クスノキが高さ二十メートル以上の樹冠を形成し、低木層にはアオキ、ヤブツバキ、ネズミモチ、イヌビワ、シロダモ、モチノキ、ヒサカキなど、草本層もベニシダ、イタチシダ、ヤブラン、キズタ、ツルグミなどが三十~七十パーセントの被度で生育して、安定した林相を形成している。
商店街や住宅密集地の中にあって、これだけ自然度の高い樹林が残されているのは、現代の奇跡ともいえるほど珍しい。県民の科学的研究や自然教育の場として、また自然の記念物として将来にわたって保存される価値が高いものである。

 昭和五十五年十二月二十日 神奈川県教育委員会


案内板(○は読めず)
寶生寺青龍山寶金剛院○○真言宗(古義)に属する寺である。平安朝時代末期の承安元年民部卿大僧都覺清法印により開創された。その後南北朝時代に学徳ともに勝れた覺尊法印が住職となってから急速に發展して地方随一の大寺院になった。文明八年、小机城を包囲中の太田道灌小當寺あてに祈○と食料の○状に併せて禁制状を寄せた。また天文十四年に北條氏康から門前諸役免除の判物、天正十八年に小田原城○○中の豊臣秀吉から禁制状を送られた。さらに天正十九年には、徳川家康から寺領千石の朱印状を授けられた。慶長十四年伊豆相模せ成○○○ら○○真言宗法談所三十四院の一と定められ、近隣五十二ヵ寺の末寺を支配する本寺として認められた。
江戸時代には灌頂堂、客殿、山○、長屋門、鐘楼、經藏、弁天堂、寶篋印塔等が建立された。しかし、明治七年本寺の寺格を増徳院に移してから次第に衰徴し。多くの建物を失った。現在の本堂は延寶へ(一六八〇)年に建立された灌頂堂である。また梵鐘は元禄八年に鋳造されたもので、太平洋戦争中も特別保存鐘として金属供出を免れた。
山門は文久八年、鐘楼は昭和十二年に建立されたものである。なお當寺所蔵の多数の古文書、佛画は、現在神奈川県立博物館に寄託、順次展観されている。嘉吉二(一四四二)年領主により横濱村薬師堂兔として當寺あてに田畑の寄進を受けたが、これは「横濱」の地名のあらわれる史上最古の文書として有名である。本掲示の板は昭和初年まで境内の西北にあって横濱十名木の一として知られた通称「千年待つ」の餘材を使用したものである。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-寶生寺

2006年4月30日 訪問

磯子七福神結願