「夫婦世界旅行―妻編」は中断中。
3月末に訪れた京都の旅行話です。
2009年桜旅行⑩清凉寺(最古の人体模型と光源氏のモデル)
五臓六腑をしみじみと眺めたら、今一度本物の絹製の五臓六腑が内臓された「生身の釈迦像」を拝む。(。-人-。)
宋で刻まれ、五臓六腑や経文やらを収められたその像は、赤黒いようにも、古びて濁った黄金色にも見えるが、やはりぽってりした頬、ぽってりした瞼。全体的に顔デカ!( ´艸`)
37歳にしては顔だけが肉付きがよいようで、これが釈迦の“生き写し”というのなら、お釈迦様のイメージは私の中で随分変わるのであった。
本当にこんな顔してたのかな? 俄かには頷けない。
しかし、この釈迦像、X線撮影され、
額には銀でこしらえた一仏が嵌めこまれてあり、
目には黒水晶、
耳には水晶が入れてあり、
鼻と耳の穴は中に貫通していて、
口中には歯、
頭中には「脳」と思われる「水月観音の彫られた鏡」が納入されていることも分かったそうだ。Σ(・ω・ノ)ノ!
解説書は言う。「まさに最古の人体模型であります。」
確かに、仏像などを彫るときに、耳と鼻の穴をわざわざ「中に貫通」させる必要は、普通ないだろう。
生身の釈迦像をできるだけ生身の体に近づけようとする意図が窺われるではないか。
なんだか、釈迦が、「自分が死んだら自分の体を解剖して役立てなさい」とでも遺言していたような気がしてきてしまう。
釈迦の献体……なんてことは、まさかなかっただろうけど、釈迦の骨やらなにやらが釈迦の死後、あちこちに祀られていることを考えると、釈迦の亡骸を本当に弟子たちがみんなしてバラバラに分けたのではあるまいか……なんて思えてきた。
あるいは、
仏像の中には秘宝中の秘宝を納めるわけだから、
当時、中国では解剖学が確立されたきた頃で、五臓六腑はまさしく最先端の人体模型という知的秘宝だったのかもしれない。
清凉寺のお宝はまだまだある。
清凉寺はもともと『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとされる源融(ミナモトノトオル)の山荘跡に阿弥陀仏を建てたのが始まりらしい。
で、彼の面影をとどめているという阿弥陀仏があるのだ。
それは国宝「阿弥陀三尊坐像」。
「霊宝館」の入り口を入ると左手すぐのところに、
天井まで届くほどの大きな座像が3体(柱?)並んでいる。
一体(柱?)の横幅だけでも2m弱くらいか?(はっきり覚えてないが、かなり大きめ。)これらはヒノキの一木造りだそうだ。滅茶苦茶太い1本であるよ。伐採して運び込むだけでも大変だったろう。(=◇=;)
参照:「木彫像の一本造り」
これは山荘主の源融がこの地で亡くなる直前に造らせたもので、特に真ん中の坐像が、自分の顔に似せて造らせたものだという。(=◇=;)
「『光源氏写し顔』の伝説をもっています。」と解説書は言うが、「光源氏の写し顔伝説」とはいかなるものか、よくわからない。単に、この坐像が光源氏(源融)にそっくりだというのだろうか。
確かに美しげなお姿であった。死の直前の面影などない。本当に光源氏のモデルであるならば、亡くなる直前はかなりなご高齢だったはずだよね?(光源氏がいくつで亡くなったことになっているのか、私は知らない。) しかし、老境を感じさせるものもない。むしろ物静かながら精悍といった面持ちだ。麗しくもある。先入観なしに見たら、平安時代の色好みの大家の顔を写したとは思いも寄らない。
左45度から見た姿が一番イケテタ。
清凉寺のお宝はまだまだまだあった。
4月1日~5月31日まで霊宝館特別公開がなされていたため、多くのありがたい秘蔵のお宝にお目にかかれた。
中でも面白かったのは、釈迦の十大弟子像。それぞれ名前が添えられていたが、タクシーの運転手さんが少し説明してくださったことには、
「アーナンダーが一番の弟子で、この人が釈迦の言葉をまとめたのがお経なんですよ。釈迦が生きているときは、お経なんてなかったんですよ。」と。(注)
え!? そうだったの? そうだったのか! と、なんだかすごく驚いた。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
考えたこともなかった。
孔子の言葉を弟子が『論語』にまとめたように、キリストの言葉を弟子が『聖書』にまとめたように、釈迦の言葉は「経」としてまとめられたのだ。そうかぁ……。
タクシー運転手さんは続ける。
「ラゴラ」を指して、「この人は、釈迦の息子ですよ。」と。
え! そうなんだ? あーなんだ、そーなんだ……。( ̄□ ̄;)!!
参照:釈迦の十大弟子
他にも見応えのあるものがたくさんあった。
「十六羅漢図」、「兜跋毘沙門天(トバツビシャモンテン)像」、「文殊菩薩騎獅像」、「普賢菩薩騎象像」などなど。
たくさんあるので、特に目についたものだけを選んでゆっくり見た。
雨が小降りになってきた境内の中は、そこかしこ趣があって、広々しているようで、こじんまりしている。
お宝に見入って疲れた目を休め休め歩く。
↑
弁天堂。屋根は「宝形造(ホウギョウヅクリ)」なり。
↑
「あみだ 母みた 母みた」の碑。
なんのことやらわからぬ碑だが、「なむあみだ~」と繰り返すうちに、略して「母みた~」となったのか、あるいは、昔、「あみだ~」のフレーズが覚えられない者のために、「母みた」を文字って覚えさせようとしたことがあったのか……。
これから清凉寺を訪れる人のために:(-^□^-)
目玉のお宝2つ+αのお宝を味わって、疲れた我々は、庭をそぞろ歩いて早々に清凉寺を後にしてしまったのだが、後で解説書をよく見ると、もっともっとお宝はあったのだった。
「蓮生坊熊谷次郎直実(レンセイボウクマガイジロウナオザネ)自筆誓願状」だって!Σ(・ω・ノ)ノ!
学生の頃、『平家物語』で必ず読まされたといっていいほど有名なくだりの登場人物、熊谷次郎直実!
源平合戦で、己の息子ほどの紅顔の少年武将、平敦盛(タイラノアツモリ)を討ち取った熊谷次郎直実!
彼は敦盛の首を取ったことで、出家を願うようになったのだ。
その彼が、後に法然上人と出会い、出家したという。
ってことは、法然上人は24歳のとき、この清凉寺に7日籠って後、再びこの清凉寺を訪れて、この寺に留まっていたことがあるのかな? その時に、熊谷次郎直実を出家させてあげたのかな?
「誓願状」は、「極楽往生を誓ったときのもの」だという。いずれにしろ、誓願書が遺されてある以上、清凉寺は熊谷次郎直実の出家にゆかりがあるに相違ない。
『平家物語』で何度か名前を目にしていた人物の「直筆」があったとは、是非見てみたいものだった。(ノω・、)
全然気づかずに通り過ぎていた。
清凉寺――「生身の釈迦」といい、「光源氏の生のモデル」といい、「直実の直筆」といい、1000年以上前の人々が現に生きていたのだということを伝えようという心を感じた。
みんな、実在したのだ。
実在したのだ……ということを感じると、誰もがやがて実在しなくなるのだ……ということに思い至る。(ここでは「実在」を哲学的に捉えているわけではござんせん。)
誰もがやがてこの世から消え去る。
生身の体は死んでなくなる。
当たり前のことだが、そんなことが深く心に残った清凉寺である。
そして、後世に遺すべきものは、生き残った人々によって選択され、遺されていく。伝えられていく。
そして、それは確かにかつての人々の存在を伝える。
そして、遺されることなく消え去って行く無数の命も、またあるのだ。
それでいーのだ。
あーなんだ。そーなんだ。
(注):アーナンダがお経をまとめたという話について。
コメント欄に、hiro-1さんが補足してくださってます。どうぞご覧ください。
アーナンダがお経をまとめた一人者というわけではないのですね。(^^ゞ あ、な~んだ。
つづく
3月末に訪れた京都の旅行話です。
2009年桜旅行⑩清凉寺(最古の人体模型と光源氏のモデル)
五臓六腑をしみじみと眺めたら、今一度本物の絹製の五臓六腑が内臓された「生身の釈迦像」を拝む。(。-人-。)
宋で刻まれ、五臓六腑や経文やらを収められたその像は、赤黒いようにも、古びて濁った黄金色にも見えるが、やはりぽってりした頬、ぽってりした瞼。全体的に顔デカ!( ´艸`)
37歳にしては顔だけが肉付きがよいようで、これが釈迦の“生き写し”というのなら、お釈迦様のイメージは私の中で随分変わるのであった。
本当にこんな顔してたのかな? 俄かには頷けない。
しかし、この釈迦像、X線撮影され、
額には銀でこしらえた一仏が嵌めこまれてあり、
目には黒水晶、
耳には水晶が入れてあり、
鼻と耳の穴は中に貫通していて、
口中には歯、
頭中には「脳」と思われる「水月観音の彫られた鏡」が納入されていることも分かったそうだ。Σ(・ω・ノ)ノ!
解説書は言う。「まさに最古の人体模型であります。」
確かに、仏像などを彫るときに、耳と鼻の穴をわざわざ「中に貫通」させる必要は、普通ないだろう。
生身の釈迦像をできるだけ生身の体に近づけようとする意図が窺われるではないか。
なんだか、釈迦が、「自分が死んだら自分の体を解剖して役立てなさい」とでも遺言していたような気がしてきてしまう。
釈迦の献体……なんてことは、まさかなかっただろうけど、釈迦の骨やらなにやらが釈迦の死後、あちこちに祀られていることを考えると、釈迦の亡骸を本当に弟子たちがみんなしてバラバラに分けたのではあるまいか……なんて思えてきた。
あるいは、
仏像の中には秘宝中の秘宝を納めるわけだから、
当時、中国では解剖学が確立されたきた頃で、五臓六腑はまさしく最先端の人体模型という知的秘宝だったのかもしれない。
清凉寺のお宝はまだまだある。
清凉寺はもともと『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとされる源融(ミナモトノトオル)の山荘跡に阿弥陀仏を建てたのが始まりらしい。
で、彼の面影をとどめているという阿弥陀仏があるのだ。
それは国宝「阿弥陀三尊坐像」。
「霊宝館」の入り口を入ると左手すぐのところに、
天井まで届くほどの大きな座像が3体(柱?)並んでいる。
一体(柱?)の横幅だけでも2m弱くらいか?(はっきり覚えてないが、かなり大きめ。)これらはヒノキの一木造りだそうだ。滅茶苦茶太い1本であるよ。伐採して運び込むだけでも大変だったろう。(=◇=;)
参照:「木彫像の一本造り」
これは山荘主の源融がこの地で亡くなる直前に造らせたもので、特に真ん中の坐像が、自分の顔に似せて造らせたものだという。(=◇=;)
「『光源氏写し顔』の伝説をもっています。」と解説書は言うが、「光源氏の写し顔伝説」とはいかなるものか、よくわからない。単に、この坐像が光源氏(源融)にそっくりだというのだろうか。
確かに美しげなお姿であった。死の直前の面影などない。本当に光源氏のモデルであるならば、亡くなる直前はかなりなご高齢だったはずだよね?(光源氏がいくつで亡くなったことになっているのか、私は知らない。) しかし、老境を感じさせるものもない。むしろ物静かながら精悍といった面持ちだ。麗しくもある。先入観なしに見たら、平安時代の色好みの大家の顔を写したとは思いも寄らない。
左45度から見た姿が一番イケテタ。
清凉寺のお宝はまだまだまだあった。
4月1日~5月31日まで霊宝館特別公開がなされていたため、多くのありがたい秘蔵のお宝にお目にかかれた。
中でも面白かったのは、釈迦の十大弟子像。それぞれ名前が添えられていたが、タクシーの運転手さんが少し説明してくださったことには、
「アーナンダーが一番の弟子で、この人が釈迦の言葉をまとめたのがお経なんですよ。釈迦が生きているときは、お経なんてなかったんですよ。」と。(注)
え!? そうだったの? そうだったのか! と、なんだかすごく驚いた。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
考えたこともなかった。
孔子の言葉を弟子が『論語』にまとめたように、キリストの言葉を弟子が『聖書』にまとめたように、釈迦の言葉は「経」としてまとめられたのだ。そうかぁ……。
タクシー運転手さんは続ける。
「ラゴラ」を指して、「この人は、釈迦の息子ですよ。」と。
え! そうなんだ? あーなんだ、そーなんだ……。( ̄□ ̄;)!!
参照:釈迦の十大弟子
他にも見応えのあるものがたくさんあった。
「十六羅漢図」、「兜跋毘沙門天(トバツビシャモンテン)像」、「文殊菩薩騎獅像」、「普賢菩薩騎象像」などなど。
たくさんあるので、特に目についたものだけを選んでゆっくり見た。
雨が小降りになってきた境内の中は、そこかしこ趣があって、広々しているようで、こじんまりしている。
お宝に見入って疲れた目を休め休め歩く。
↑
弁天堂。屋根は「宝形造(ホウギョウヅクリ)」なり。
↑
「あみだ 母みた 母みた」の碑。
なんのことやらわからぬ碑だが、「なむあみだ~」と繰り返すうちに、略して「母みた~」となったのか、あるいは、昔、「あみだ~」のフレーズが覚えられない者のために、「母みた」を文字って覚えさせようとしたことがあったのか……。
これから清凉寺を訪れる人のために:(-^□^-)
目玉のお宝2つ+αのお宝を味わって、疲れた我々は、庭をそぞろ歩いて早々に清凉寺を後にしてしまったのだが、後で解説書をよく見ると、もっともっとお宝はあったのだった。
「蓮生坊熊谷次郎直実(レンセイボウクマガイジロウナオザネ)自筆誓願状」だって!Σ(・ω・ノ)ノ!
学生の頃、『平家物語』で必ず読まされたといっていいほど有名なくだりの登場人物、熊谷次郎直実!
源平合戦で、己の息子ほどの紅顔の少年武将、平敦盛(タイラノアツモリ)を討ち取った熊谷次郎直実!
彼は敦盛の首を取ったことで、出家を願うようになったのだ。
その彼が、後に法然上人と出会い、出家したという。
ってことは、法然上人は24歳のとき、この清凉寺に7日籠って後、再びこの清凉寺を訪れて、この寺に留まっていたことがあるのかな? その時に、熊谷次郎直実を出家させてあげたのかな?
「誓願状」は、「極楽往生を誓ったときのもの」だという。いずれにしろ、誓願書が遺されてある以上、清凉寺は熊谷次郎直実の出家にゆかりがあるに相違ない。
『平家物語』で何度か名前を目にしていた人物の「直筆」があったとは、是非見てみたいものだった。(ノω・、)
全然気づかずに通り過ぎていた。
清凉寺――「生身の釈迦」といい、「光源氏の生のモデル」といい、「直実の直筆」といい、1000年以上前の人々が現に生きていたのだということを伝えようという心を感じた。
みんな、実在したのだ。
実在したのだ……ということを感じると、誰もがやがて実在しなくなるのだ……ということに思い至る。(ここでは「実在」を哲学的に捉えているわけではござんせん。)
誰もがやがてこの世から消え去る。
生身の体は死んでなくなる。
当たり前のことだが、そんなことが深く心に残った清凉寺である。
そして、後世に遺すべきものは、生き残った人々によって選択され、遺されていく。伝えられていく。
そして、それは確かにかつての人々の存在を伝える。
そして、遺されることなく消え去って行く無数の命も、またあるのだ。
それでいーのだ。
あーなんだ。そーなんだ。
(注):アーナンダがお経をまとめたという話について。
コメント欄に、hiro-1さんが補足してくださってます。どうぞご覧ください。
アーナンダがお経をまとめた一人者というわけではないのですね。(^^ゞ あ、な~んだ。
つづく