長い海外駐在生活を終えたhiro-1が念願のタイ国に移り住んで繰り広げる生活のあれこれ。或る時は、大学のタイ語学科でタイ語を学び、歴史学科ではアユッタヤー王朝の外交史を専攻、或る時は、自家用車を駆ってタイ国内の遺跡を巡り、又或る時は、タイの文化を覗き見る自由で気儘な生活写真日記です。
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2017年02月19日(日) 16時52分54秒

比島戦跡旅行記録・マッカーサーの I shall return.

テーマ:タイ大学・タイ語科・入学前
  比島戦跡を巡った時の記事を、1月11日付けの“神風特攻ゼロ号”以降休載していましたが、日本軍壊滅のターニングポイントとなったD・マッカーサーのレイテ島上陸以降の事柄を、ぼちぼちと再開したいと思います。 
 
  太平洋戦(日本名:大東亜戦争)に於けるフィリピン緒戦で日本軍に攻め立てられた敵将のマッカーサーは、首都マニラを逃れてマニラ湾口に面したバターン半島に立て篭もります。 
 
  しかし、結果としてマニラ湾口に浮かぶコレヒドール島に追い詰められて二進も三進もいかなくなり、挙句の果てに、魚雷艇と飛行機を乗り継いでオーストラリアへ向けて不名誉な脱出を敢行。彼の華々しい軍歴に唯一の汚点を残してしまいます。
 
  フィリピンのコレヒドール島からオーストラリアまでの艱難辛苦の逃亡記録は、D・マッカーサーが」自ら著した『マッカーサー大戦回顧録』に詳述されていますので、此のブログでは、マッカーサーが吐露した“I shall return”について触れることにします。
 
コレヒドール島のマッカーサーの“I shall return.”の記念像
 
   コレヒドール島の桟橋の一つであるLorcha Dockの傍らには、敵前逃亡するマッカーサーの“I shall return.”の記念像が残されています。此れを見た観光客の多くは、『あの有名な言葉が宣言された現場は此処だ!』と思い込む仕掛けになっているのですが・・・・ 
 
  実際にD・マッカーサーが“I shall retrn.”と言ったのは、日本軍の襲撃をかい潜ってフィリピンからオーストラリア北部ダウイーン南部のバチュラー飛行場に辿り着いた時でした。
 
 待ち構えていた新聞記者に囲まれたD・マッカーサーは、何気なく応じた談話の締め括りとして、“I shall retrn.”の言葉を発したと『マッカーサー大戦回顧録』の“敗北の記”の章で書き残しています。
 
  オーストラリアで、D・マッカーサーが報道陣に語った発言の一部は、過去ブログでも触れましたが、今一度引用することにしましょう。
 
 The President of the United States ordered me to break through the Japanese lines and proceed from Corregidor to Australia for the purpose, as I understand it, of organizing the American offensive against Japan, a primary objective of which is the relief of the Philippines. I came through and I shall return.
 

  (訳文)私は米国大統領から、日本の戦線を突破して、コレヒドールからオーストラリアに行けと命じられた。その目的は、私の了解するところでは、日本に対する米国の攻勢を構築することで、その最大目的は、フィリピン国の救援にある。私はやってきたが、必ずやまた私は戻るだろう

 

  先月バンコクで開催された“近現代史を識る会”で、主宰者から出席者の英国人に対して、マッカーサーが語った、“I shall return. の“shall”について質問が投げ掛けられました。

 

『“I will be back”ではなく、“I shall return. と言ったのは何故なのですか?』
 
  質問を受けた英国人の方は、『突然の文法的質問なので・・・』と困惑の表情を浮かべて何もお応えになりません。たしかに、話し言葉の文法的用法に関する質問は、例え日本語であっても難しいような気がします。
 
  すると、主宰者が僕の意見を求めるかのように目線を向けます。米國系英語や英國系英語の用法に関する教育を受けた事のない僕に分かろう筈もないのですが・・・勉強会の流れを止めたくない主宰者の意図を慮って・・・『議論の叩き台としてお聴き下さい』とお断りした上で私見を述べることにしました。
 
  僕が60年以上前に教わった中学英語で、助動詞の“will と shall”の用法の違いを頻繁に出題されたことを覚えています。その用法の中に、I will be back.=また来るね、I shall return.=必ず戻って来るぞ、と言ったニュアンスの違いも含まれていたように思います。
 
  中学生の僕は、“shall”の意味合いには、主語の人称によって、『何が何でもやらねばなるまい』という強い義務的感覚と、『何が何でもやらせるぞ』という命令的感覚が含まれていると教えられように思います。 
 
 具体的には、“I shall go.”は、『俺は、何が何でも行くぞ』、“He shall go.”は、『俺は貴様を何が何でも行かせるぞ』(I will make him go)のような例文を作って頭に入れたように思います。
 
  そして、“shall”とは、ヤクザ世界や封建的身分制度の上下関係や旧財閥と下請会社の関係に相応しい助動詞であって、通常の市民生活の日常会話で、“shall”を使用することは殆ど無いに等しいのだと・・・子供心なりに整理して頭に叩き込んだ事を記憶しています。
 
  言語が時代の流れによって大きく変化することは、誰しもが認めるところです。現在の米國系英語における“shall”の用法は、今や古臭さい形式主義的且つ古典的表現と見做されるようになり、死語とまでは言えなくとも、使用頻度の極めて少ない助動詞のようです。
 
  米國系英語よりも遥かに古い歴史を持つ英國系英語では、現在も“shall”の古典的用法が罷り通っているらしい・・・と漏れ聞くのですが、実際はどうなのでしょうか。
 
  一方、話者の意志と約束を表現する時の“I will”のニュアンスは、“I shall”と比較すれば、軽い意志の表現だと思いますが、最近の米國系英語の傾向は、予め行うことが決まっているような場合には、“will” ではなく、“be going to”を多用することが多いようです。但し、伝統を重んじる英國系英語では、現在も“be going to”を使うと眉根に皺を寄せる人がいると漏れ聞きます。
 
  マッカーサーの家系が米国人になったのは、スコットランドの没落貴族だった祖父のA・マッカーサー・シニアが米国に移民(1815年)した時に始まります。スコットランド系の英国首相のチャーチルとは八つの家系、米国大統領のF.ルーズベルトとは七つの家系を隔てた遠戚だそうです。 
 
  スコットランド系米国人二世となったA・マッカーサー・ジュニアは、陸軍の一兵卒(16歳)から陸軍総参謀長まで昇り詰めた叩き上げの軍人で、日露戦争当時、駐日米國大使館の陸軍武官として東京で勤務した経験があるそうです。そして、若き陸軍士官だったD・マッカーサーも、父親の副官として同行しています。
 
  その息子の長男であるA・マッカーサー3世は、将来を嘱望されながらも、海軍大佐の時に病死。日本を占領統治した弟のD・マッカーサーは、少将時代に大将が任ぜられる陸軍参謀総長となり、最終的には父親を凌ぐ陸軍元帥まで昇進しています。 親子二代が陸軍参謀総長になったのは、米國陸軍史上ではマッカーサー親子だけだとか。
 
  まさにコテコテの軍人家族で育てられたD・マッカーサーは、僕の勝手な想像ですが、米國系英語と言うよりは、英國系英語に相応しい軍隊英語を好んだのではないでしょうか。
 
  そんな誇り高いD・マッカーサーが、日本軍に打ち負かされて敵前逃走した後に、“I will be back.”という軽い表現を吐露するわけがありません。
 
  悔しさと復讐の念に凝り固まった彼に最も相応しい台詞は、苛烈な義務を自らに課して、自分自身を叱咤激励する意味を込めた古典的英國系英語表現の “I shall return.”だったのではないでしょうか。
 
  何れにしても、オーストラリア中部の飛行場で新聞記者に囲まれて、“I shall return.”と宣言したD・マッカーサーは、フィリピン奪還司令部をブリスベーンに設置して間もなく、日本軍の迫るパプ・アニューギニアのポートモレスビに司令部を移駐しています。 
 
  南太平洋海域で犠牲の多い正面攻撃を避けて、日本軍への弾薬、燃料、食料の補給線を遮断、南太平洋に展開する日本陣地を孤立化させながら、一直線に北上作戦を実施してフィリピンに迫ります。
 
  やがて、日米のフィリピン攻防戦のターニングポイントとなるレイテ沖海戦とレイテ島上陸が始まり、日本の陸軍と海軍が揃って壊滅への道を直走ることになります。 次回ブログは、D・マッカーサーのレイテ島上陸に触れたいと思います。
 
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2017年02月11日(土) 15時22分01秒

恨めしや、二度手間の役所手続き・・・

テーマ:タイ大学・タイ語科・入学前
 一昨日の木曜日は、バンコク・エカマイの一次会から二次会のタニヤのカラオケに流れるとういう予定外の行動となりました。 翌朝の金曜日、眠い目をこすながら起き出して、お役所に関連した懸案事項の処理に取り掛かりました。
 
バンコク・ウイッタユ通りの交通混雑
 
 先ずは、埃を被った自家用車を洗車するために、契約洗車場に向かったのですが、バンコク・ウイッタユ通りの日本大使館前あたりで早朝の交通混雑に巻き込まれてしまいました。(上写真)
 
 通常ならば、自宅から此処まで車で数分なのですが、此の日は60分以上も時間をロスして漸く通過。 空いている朝一番に洗車を終えてから、気分も新たに次の目的地へ向かうつもりだったのに・・・洗車を終えたのが150分後の正午前。予定が大幅に狂ってしまいました。
 
 急いで向かったのが、ドンムアン空港近辺に位置する政府合同庁舎内の入国管理事務所です。タイに長期居住する外国人が必ず行わなければならない一年間の滞在査証の更新手続きと再入国許可証(マルチ)の取得です。
 
 再入国許可証の取得を同日内に終えるためには、滞在査証の更新手続きを15時までに終了しておかねばなりません。 しかし、入手した番号札では、15時前に終わる確率はとても低そうな感じです。
 
 入国管理事務所のある政府合同庁舎
 
 順番の整理番号を必要としない代行業者が次から次と割り込むからでしょうか、個人で申請している人々の我々の番号が遅々として進みません。 イライラしても何の解決にもならないので、K氏から拝借している『レイテの挽歌』(著:中島健之助氏)を読みながら、只管忍の一字で耐え忍んで順番を待つしかありません。
 
 やっと滞在査証の順番が到来して諸手続きを終えたのが15時10分前。すぐさま政府合同庁舎地下のコピーセンターに走ってパスポートに捺された新滞在査証の頁を複写し、再び入国管理事務所の受付に戻ったのが三時五分前だったのですが・・・・なんとしたことでしょう、再入国許可証申請の受付番号を発行するカウンター上に『クローズ』の紙札が冷たく放置してあります。
 
 今年は、少なくともタイ国から二回出国して、二回入国する予定がありますので、何が何でも再入国許可証を取得して置かなければなりません。 恨めしいことですが、明日以降もう一度、再入国許可証申請のためだけに再出頭することになります。 
 
 今月中に、自動車の強制自賠責保険と車両保険の支払いを行った後に、陸運局に出向いて自動車税の納入をすることになっています。再入国許可証の申請取得は、その時に合わせて行うことにしましょう。
 
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2017年02月02日(木) 19時22分40秒

王室プロジェクト・ドイカム製品の贈物

テーマ:果樹・果物
バンコクが春節の飾りで賑わっている或る日の夜、ほろ酔い加減でコンドーに戻って来ると、顔見知りの守衛さん(ヤーム)に呼び止められました。
 
彼 『会社から貴方への贈物を渡すのが遅れてしまいました』
僕 『エッ? 春節の贈物?』
彼 『実は・・・いつもは年末にお渡しているのですが・・・』
 
守衛さん曰く、年末から新年に掛けて僕が留守がちであった上に、新年以降も、僕の帰宅が遅い日々が続いていたので渡し損ねていた・・・・・云々と言い訳(?)をします。
 
春節に頂戴した贈物は、なんと、お歳暮でした。
 
手渡された贈物(上掲写真)は、見てくれよりもずっしりと重く、思わず両手で抱え込みながら、『いったい何が入っているの?』と尋ねると、『液体飲料だと思います』と言います。
 
部屋に戻って開封すると、三箱の液体飲料と一箱のパウダー飲料(下掲二枚写真)が出て来ました。何れも王室が支援する農村支援プロジェクトによって、低農薬や一部有機によって生産される農産飲料です。
 
ドイカム(ดอยคำ)ブランドの液体飲料
 
上写真左側の二箱の包装表示には、ดอยคำ ดอกคำฝอย ไม่เติมน้ำตาล พลังงานต่ำ ドイカム ドークカムフォーイ マイ トゥーム ナムターン パランガーンタム と記されています 。簡訳すると、日本名『ベニバナ』を原材料とする、ドイカム製の砂糖を含まない低カロリーの液体飲料ですね。
 
上写真右端の包装表示は、ดอยคำ น้ำมะเขือเทด ๙๙% ドイカム ナムマクアテート99%となっています。絵柄を見てお分かりの通り、同じくドイカムブランドのトマト99%の液体飲料です。
 
下写真の包装表示は、นมถ่ัวเหลือง ๑๐๐% ノム-トゥアルアン 100%とあり、パウダー状になった豆乳(100%)の飲み物です。 
 
 
 ドイカム(ดอยคำ)ブランドのパウダー飲料
 
ドイカム(ดอยคำ)とは、 王室が支援する農村支援プロジェクトで生産される製品のブランドです。品物の種類は幅広く、野菜、果物、乳製品、蜂蜜、ハーブなどのヘルシーな食材を生産販売するブランドとして知られています。特に、タイの裕福なマダムの間での評判が高いようです。
 
我が家では、ドイカムの蜂蜜製品とロイヤルレシピのサラダソースを長年愛用しているのですが、今回のような飲料製品は初めての経験です。
 
今まで飲んでいた市販の豆乳やトマト飲料と比べると・・・・率直に言って、最初は、砂糖なしの味覚に物足りなさを覚えたのですが・・・・今では、砂糖なしの自然に近い味にすっかり馴染んでしまいました。
 
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2017年01月31日(火) 13時43分42秒

タイの春節・絵馬ならぬ絵星

テーマ:風土・文化・歴史・治政
毎月一度バンコクで開催される『近現代史を識る会』に出席するために高架電車のプロムポン駅で降りると、プミポン国王崩御の為だと思いますが、かなり自粛気味のタイ春節(旧正月)の飾り物が目に留まりました。
 
Em-Quartier前の広場を睥睨する巨大龍 (Photo:タブレット)
 
中国旅行研究院によると、昨年海外に出掛けた中国人観光客(1億2200万人)の行く先No.1は、日本でも韓国でもなく、タイだったそうです。タイの観光相の発表によると、今年の春節に合わせて来タイした中国人観光客は、一日当たり3万6千人にものぼり、日本人を含む外国人観光客の中でも断トツの第一位だったそうです。
 
僕が子供の頃、日支事変(日中戦争)で陸上の戦闘を経験した大人は、『中国の人海戦術には敵わない!』と言っていましたが、一年間の中国の海外旅行者数が日本の人口と匹敵するのですから、空恐ろしいマンパワーだと思います。GDPで日本を凌ぐのも道理です。
 
微風に揺れてキラキラ輝く飾り物 (Photo:タブレット)
 
昨年10月のプミポン国王崩御を慮って、春節の赤色を極力少なくする代わりに、崩御された王様の誕生曜日の色である『黄色』が圧倒的に多いのですが、その中でもひと際目立ったのが上掲写真のキラキラ輝く飾り物です。
 
よくよく見ると、祈願の絵馬ならぬ絵星でした。  (Photo:タブレット)
 
祈願の絵馬を奉納する風習は、中国が発祥の地かと思っていたのですが、続日本紀によると、奈良時代から、祈願成就を願って神様に実際の馬を奉納することが始まったようですね。
 
奈良時代の当初は、馬舎と生馬を実際に奉納していたのですが、あまりにも大変だということで、模型の神馬を奉納するようになり、やがて、神馬舎の形状をした板面に神馬を描く方法に落ち着いたのだとか。
 
繁体漢語、英語、タイ語、国不明語の絵星 (Photo:タブレット)
 

絵馬ならぬ絵星には、『素敵な彼氏に出会えますように!』、『二人で永遠にそえますように!』、『快快楽々』、『無病息災』などの祈願が、日本国内の絵馬と同じように、様々な言語で託されていました。 

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2017年01月28日(土) 01時32分24秒

初めて見た蔓性のプルメリア! ลันทมเครือ

テーマ:花木
バンコク郊外の Sirikit 王妃公園(下写真)の多くの花木には、タイ文字の花名に加えて、アルファベットで記された植物学上の学名と科名の標識板が取りつけてあるのですが・・・中には標識板のない花木もあったりして、個人的には、未だに名前不明のままになっている花が幾つかあります。
 
公園の正式名:Suan Somdet Phra-naagjao-Sirikit 
(สวนสมเด็จพระนางเจ้าสิริกิติ ฯ )

 

ところが、数日前に名無しの花の前に立ち止まると、正規の花名標識板ではないのですが、簡易のプラスチックケースの中に、タイ語とアルファベット文字で記された名札らしき紙が挿み込んでありました。

 

タイ名:ラントム・クルア

 

ลันทมเครือ、 Agaosma Siamensis Craib、 Apocynaceae

 

タイ名=ラントム・クルア、学名=Aganosma Siamensis Craib、科名=キョウチクトウ

 

名札の冒頭に書かれている『ラントム・クルア』(ลันทมเครือ)の名前を見て、目が点になってしまいました。 タイ語の『ラントム』(ลันทม)とは、良き芳香を放つ五弁の美花として遍く知られるインドソケイ(属名:プルメリア)のことを意味します。 

 

良き芳香を放つ五弁のインドソケイ(プルメリア)

 

ハワイの人々は、インドソケイの属名であるプルメリア(Plumeria)を、そのまま花名として呼んでいますので、此の手のプルメリアならば、皆様もよく御存知だろうと思います。 (上写真)

 

しかし、ラントム・クルア(เครือเครือ)の花弁は、どう贔屓目にみても、レイや女性の髪飾りやレイ、そして、女性が好きなスパのシンボルでもあるプルメリアの花と比較すると、似ても似つかないとても貧相な姿形(下写真)をしています。

 

タイ名:ラントム・クルア (意味:蔓性のプルメリア)

 

学名の『Aganosma Siamensis Craib』の中に付記してあるSiam(シャム)を連想させる

『Siamensis』から想像を逞しくすると、タイと極めて関係の深い植物のようにも思えます。しかし、タイ語WEBにアプローチしても、何の情報も得られません。

 

タイ語のラントム・クルアの『クルア』(เครือ)の意味をチェックすると、地面近くを横方向に這って伸びる蔓性の植物を意味するとあります。タイ語の『ルアイ』(เลื้อย)と同じ意味としてよく使われるタイ語の植物用語でした。

 

地面近くを横に這って伸びるラントム・クルア

 

空に向かって花弁を開くプルメリア(インドソケイ)と、地面近くを横方向に這うように伸びる蔓性のラントム・クルアは、科名は同じキョウチクトウ科であっても、花弁の形状も植物としての性状も大きく異なる花であることが分かります。

 

 

天空に向いて咲くプルメリア(Plumeria)

 

蔓性のラントム・クルアの学名の 『Aganosma Siamensis Craib』 に、タイの古い呼称に似た“Siamensis”が付加されていることから想像すると、ひょっとすると、タイ国内で発見された新品種の蔓性プルメリアかも知れないですね?  

 

もう少し時間を割いて、学名の“Siamensis”の意味するところを調べてみたいと思いますが・・・・どちらにしても、地面近くを横方向に這って伸びる蔓性のプルメリア(ラントム・クルア ลันทมเครือ)の存在を知ったことは格別の喜びでありました。

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2017年01月23日(月) 01時48分56秒

バンコクで咲き始めた大胡蝶の花

テーマ:花木

バンコク・アソークの瞑想会を終えたあと、最寄りのベンジャギティ健康公園まで散歩を兼ねて足を延ばしました。前回訪れた時、僅かしか咲いていなかったオオゴチョウ(大胡蝶)のその後の咲き具合を見てみたいと思ったからです。

 

スアンベンジャギティ (ベンジャギティ公園) の門表

スアンスカパープ (健康公園)

 

11月から1月にかけてのバンコクは、気分が燃え立つような紅花や黄花の開花が最も少ないように思うのですが・・・その中にあって、比較的早く開花するのが大胡蝶ではないかと思います。

 

高さ約3m前後の常緑低木樹に小さな紅花を咲かせるオオゴチョウ(大胡蝶)の花は、熱帯気候のタイの彼方此方で見掛ける馴染み深い花ですが・・・聞くところによると、亜熱帯の沖縄でも、サンタンカとデイゴに加えてオオゴチョウを三大名花の一つとして推す声があると聴きました。

 

海外の仕事に転ずる前の若かりし頃、沖縄に数回出張する機会があったにも拘らず、当時は花木に関心が薄かったこともあって、残念ながら、大胡蝶の花を見たという覚えがありません。

 

 

中程度に咲いていた大胡蝶の花

       

古の日本人は、この花を見て飛翔する胡蝶を想像したようですが、タイ人は、此の花の姿が孔雀の羽根に似ていることから、ハーン・ノック・ユン・タイ(タイの孔雀の尾羽)と呼びます。英語圏の人々も、孔雀を思い起こして、Peacock Flowerと名付けていますね。

 

    

小さな紅花がちらほら程度だった前回訪問時と比較して、今回は6割程度の開花だったのですが、もう少しすれば、南国の青空を背景にして咲き乱れる大胡蝶の乱舞を見られると思います。

 

    

大胡蝶に似た花に鳳凰木の花があります。タイに住んでいる日本人の中には、大胡蝶の紅花と鳳凰樹の紅花を混同している人が少なくありません。

 

大胡蝶は、高さ3m前後の細幹細枝の常緑低木であり、鳳凰木の特徴を太幹太枝の常緑高木であることさえ知れば、誰でも容易に区別化出来ます。

 

タイ人の老若男女の多くは、前者をハーン・ノック・ユン・タイ(タイの孔雀尾羽)と呼び、後者をハーン・ノック・ユン・ファラン(西洋の孔雀尾羽)と呼び分けて区別化しています。 

 

 

花弁をよくよく見ると、長い花柄(かへい)の先に咲いた縮れ花弁の中から、細くて長い雄しべが反り返るように突き出ています。孔雀を思い浮かばた英語圏やタイの人々は、此の部分を見て、孔雀の尾羽を想ったのではないでしょうか。

     

 

2月以降になると気温も次第に上昇し、いつもの熱帯の花々が次から次と咲き始める季節に入ります。花々の開花を追い求めて車を駆って遠出する時期の到来がとても楽しみです。

 

 

参考:植物分類名

科名:ジャケツイバラ科 マメ科

属名:カエサルピニア属

学名:Caesalpinia pulcherrima

タイ名:ノック・ユン・タイ ( タイの孔雀の尾羽)

和名:大胡蝶 (オオゴチョウ )、金鳳花

英名 Peacock Flower  孔雀花 )、Dwarf Poinciana 小猩猩木

原産地 西インド諸島

花言葉  自分らしく生きるのが一番

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2017年01月18日(水) 18時21分11秒

瓢箪の木の仲間・アヒルの足の裏 ตีนเป็ดฝรั่ง 

テーマ:花木

バンコクの陸運局で一年一度の車両税納付を行った帰りに、近くの王妃公園(注)に立ち寄ったところ、 無料駐車場が有料駐車場(3時間以内50バーツ≒150円)になっていました。 (注)公園名:สวนสมเด็จพระนางเจ้าสุิริกิติ ฯ Suan Somdet Phra-nang-jao Sirikit

 

以前は午前と午後の日差しで変化する花木を、時間を気にすること無く、じっくりと観察できる公園だったのですが・・・・最近のなんでもコスト・アップの折から、止むを得ない処置なのかもしれません。

 

シリキット王妃殿下の公園と記された門標 

 

大理石らしき石造門には、王妃殿下の長い名前の頭部分のสมเด็จพระนางเจ้าสุิริกิติ ฯ

(Somdet Phra-nang-jao Sirikit)を冠した公園名が表示されているのですが、此の公園が好きな僕を含む外国人の多くは、『Sirikit公園』と短略して呼ぶ人が多いようです。  

 

瓢箪の木の仲間・タイ語名 :西洋のアヒルの足裏

 

風通しの良い場所で小休憩をと思ってブラ歩きしていると、タイでは珍しくない楕円形の果実がぶら下がる花木が目に入りました。 幹に巻き付けてある標識板を見ると・・・・タイ語の通称名と世界に通用する植物分類上の学名と科名が表記してあります。

 

花木の幹に巻き付けられた標識板
 

タイ語通称名:Tiin Pet Farang (ตีนเป็ดฝรั่ง)・・・・意味:西洋アヒルの足裏

学名:Crescentia alta HBK.

科名:BIGNONIACEAE・・・・ノウゼンカズラ科

 

タイ語名の ตีนเป็ดฝรั่ง(Tiin Pet Farang) を見て、数年前に此の花木の記事をブログ投稿したことを思い出したのですが、寄る年波の所為でしょうか、どのような内容の記事を書いたのか思い出すことが出来ません。

 

自宅に戻ってアメブロの投稿記事を確認したところ・・・投稿時期は2013年11月5日、記事タイトルは『人懐っこいリス』となっていました。掲載写真四枚の内の三枚は幹上を走るリスの写真ですので、読者の方のコメントも栗鼠(リス)に集中しています。

 

2013年11月5日投稿記事:『人懐っこいリス』

 

■だるまさんが転んだ♪ …みたいなリスですね。横浜でも鎌倉に接しているあたりは、外来のリスが多くなって問題になっ  ているようです。ヒョウタンの木は、あたかも太い木の枝に他で採ってきた何かの実を干しているような佇まいですね。面白いです。

kii 2013-11-05 20:42:00  

伊豆にも台湾リスが繁殖しているんですよ。 ミカンとかを持っていくんですよ。 いろんな鳴き声をするし・・・。 ちょっと見た目は可愛いですが、昨年は庭のツツジの木の中に巣をつくっていたと植木屋さんが言ってました。

ワイワイ 2013-11-05

リスの匍匐前進(?)、可愛いですねー!なかなかこんな姿、お目にかかれません。(リスは必死なのでしょうが・・。^^;)
それにしても、「夜に咲く花」というのが、とても気になります。もし夜に見られたら、アップ、お願い致します。^^

シャンティcoco 2013-11-05 07:12:39

 
と言う訳で、本日の記事は、タイ語通称名:Tiin Pet Farang (ตีนเป็ดฝรั่ง)の備忘録を兼ねた記事として書いて置くことにしました。

 

太い幹の節から直接ぶら下がる果実

 

此の常緑小高木(≒5m)の英語名はMexican Calabash、或いは、Gourd Treeとあることから、 ヒョウタンの木の種類に属する花木だと思いますが、中央が縊れた瓢箪でもなく、東南アジアに多いジャックフルーツでもありません。 Tiin Pet Farang (ตีนเป็ดฝรั่ง)の特徴は、太幹から直接ぶら下がる砲弾型果実にあるのですが、その様子が奇妙奇天烈に見えて滑稽ですらあります

 

但し、直径15cm~20cmの砲弾型果実の用途は、食器、民芸品、マラカス等に利用されることはっても、食用に供されることはないようです。その理由として、果実の中の種子に毒が含まれているからとか、美味しくないからといった説もあるようですが、今ひとつ判然としません。

 

少なくとも、此の果実を美味しそうに齧っている栗鼠(リス)を見ると、果実の種子に毒が含まれているとは、とても思えないのですが・・・・

 

太枝の節から何枚もの葉が直接生えています。

 

太い幹の節から直接ぶら下がるのは、大きな果実ばかりではありません。常緑葉の生え方も、小枝から対生するのではなく、太幹や太枝の節から何枚もの葉が直接生えているのも、なんとも奇妙に見えてしまいます(上写真)

 

花も太幹の節から直接開花してします。

 

果実が幹から直接ぶら下がるという事は、当然ながら花序も花弁も、幹から直接発芽することになります。最初は異なる植物の着床か寄生かと思ったのですが、よくよく観察すれば、間違いなく幹の節から直接発芽しているのが分かります。(上写真)

 

タイ語の通称名であるTiin Pet Farang (ตีนเป็ดฝรั่ง)の意味が『西洋アヒルの足裏』であることは、既に冒頭で触れましたが、その由来は『夜に開花する花弁の形状にある』という記述を見つけました。しかし、朝方に撮った上掲の花弁は、先端が窄んでいるために『アヒルの足裏』の由来を確認することが出来ません。

 

前回の拙ブログをお読みになったシャンティcocoさんから、『夜に開花するのを見たらアップお願い!』とのコメントを頂戴しているのですが、未だに確認するまでに至っていません。

 

開花した後に落下した花弁
 
その後、開花した後に落下した花弁を見る機会があったのですが・・・アヒルの足裏を見たことのない僕には・・・どこが? どのように? 似ているの? ・・・・サッパリ分かりませんでした。
 
御参考:植物上の分類名

学名: Crescentia alta HBK.  
別名: Parmentiera alta  
科名: BIGNONIACEAE ノウゼンカズラ科

属名: フクベノキ属
タイ名:TiinPet Farang (ตีนเป็ดฝรั่ง)、意味:西洋アヒルの足裏

英名: Mexican Calabash、Gourd Tree(瓢箪の木)

別名: Tecomate、Jicara、Morro、
原産地:メキシコ、コスタリカ

 

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2017年01月14日(土) 17時47分12秒

松でもなく、杉でもない、しかしてその実態は?

テーマ:花木

バンコク・アソーク交差点とラーマ4世通りの間に位置するベンジャギティ健康公園で新年最初のブラ散策をした時、今まで見向きもしなかった常緑針葉樹に、なぜか目が向いてしまいました。

 

ベンジャギティ健康公園

 

二等辺三角形のような形状をした常緑針葉樹の傍らの標識板には、英名“Norfolk Island Pine”、タイ語名“สนฉัตร”(Son Chat )、学名“Araucaria heterophylla”とあります。樹木の形状と英名とタイ名から想像すると、マツ科マツ属の樹木のようですが・・・・

 

英名:Norfolk Island Pine、タイ名:Son Chat

 

念のために、タイ語名“สนฉัตร”(Son Chat )をタイ語辞書で調べてみると・・・“สนฉัตร”(Son Chat )の“สน”(Son )とは、裸子植物のマツ科、スギ科、マキ科、ヒノキ科、ナンヨウスギ科を意味する総称であって、必ずしもマツ科の松”に限らないとあります。 

 

英名“Norfolk Island Pine”を検索してみても、“Pine”の名前が付いているが、“マツ科のマツ属”ではないと付記してあります。

 

葉と枝ぶりも、日本で見掛ける『松』とは違うようです。

 

“สนฉัตร”(Son Chat )の“ฉัตร”(Chat)とは、傘蓋に似た形のタイ王族の階級を示す段状になった儀式用の標識物を意味します。僕の記憶では、昨年10月に崩御されたプミポン国王のฉัตร”(Chat)は、最も段数の多い9段のChatであり、存命の王妃は7段のChatだったように思います。

王族の階級を示す様々な“Chat” (ฉัตร)

 

ベンジャギティ公園の標識板に記してあった学名の“Araucaria heterophylla”から、“สนฉัตร”(Son Chat )の植物分類名を紐解いてみました。通称名だけで植物を検索するのは困難を伴うことが多いのですが、学名が分かっていさえすれば、植物の正体を比較的容易に探し出すことが出来ます。

 

樹皮を観察すると、杉というよりは、松に近いような? 

 

その結果、ベンジャギティ公園のสนฉัตร”(Son Chat )の科名は、“Araucariaceae”、そして、属名は“Araucaria”と判明しました。 残念ながら日本語訳が分からないのですが・・・少なくとも、マツ科を示す“Pinaceae”でもなく、スギ科を示す“Cupressaceae”でもありません。

 

枝の生え方は、松と言うよりは、杉に近い?

 

ところが、日本名を調べてみると、“コバノナンヨウスギ”(小葉南洋杉)となっています。別名は “シマナンヨウスギ”、漢語名は“異様南洋杉”とあり、何れの名前にも、『杉』の文字が当てられています。

 

マツ科でもスギ科でもないのに、英語圏では“松” (Pine)と呼び、日本語や漢語では“杉”と呼ばれるのは如何にぞや?・・・と思って解説を読み進むと・・・・コバノナンヨウスギ”(小葉南洋杉)の名前で呼ばれるが、けっして“杉”ではない。松にも似ているが、けっして“松”でもない・・・とあります。 

 

紐の編み目にも似た枯れ落ち葉

 

江戸川乱歩氏の『七つの顔の男・多羅尾伴内』の最後の決め文句よろしく、しかしてその実態は?・・・・・とページを捲るも、残念ながら、日本語訳は存在せず、此の樹木は、『生きた化石とも言える Araucaria heterophylla なり』とありました。 

 

“Araucaria” の語源は、南米パタゴニアの先住民族の種族名である “araucanos” から来ており、“heterophylla”は、“異様性”を意味する言葉のようです。つまり、『異様性を有する種族』が転じて、『生きた化石とも言える樹木』)という意味合いを込めた 『Araucaria heterophylla』の学名が生まれたのかもしれませんね。

 

 

御参考:コバノナンヨウスギ(小葉南洋杉)の植物分類

科名      Araucariaceae

属名      Araucaria

学名      Araucaria heterophylla、Araucaria heterophylla、(Salisb.)Franco

種名      A.heterophylla

英名      Norfolk Island Pine

タイ名    Son Chat สนฉัตร

和名      コバノナンヨウスギ(小葉南洋杉)

別名      シマナンヨウスギ

漢名      異様南洋杉

原産      豪州ノーフォーク島

性状      常緑針葉樹、高木(30-50m)

             果は長卵形、葉は光沢あり、

用途      庭園樹、公園樹、観葉樹、鉢植え

 

 

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2017年01月11日(水) 12時38分13秒

比島戦跡旅行 神風特攻0号・久納中尉

テーマ:フィリッピン旅行

 『比島戦跡旅行記 神風特攻第1号・関行男大尉-4』 (1月5日付け)の続きです。

 

前回の粗筋

関行男大尉を含む敷島隊の爆装員五名がマガラパット西飛行場を出撃して、レイテ東沖合の米国第7艦隊・護衛空母群(タフィ3)の4隻に必死必中の体当たり攻撃を行い、撃沈1隻、大破1隻、中破2隻の戦果をあげたのは、1944年10月25日午前10時45分でした。

 

その報告を第二航空艦隊司令長官の大西中将から受けた海軍省は、1944年10月28日のラジオ特別放送で発表、その翌日の新聞記事で、敷島隊指揮官の関行男大尉を『特攻第1号』として大々的に発表します。

連合艦隊司令長官・豊田副武大将

更に、連合艦隊司令長官・豊田副武大将は、1944年10月28日付けで、敷島隊五人の戦果を、忠烈万世に燦たる殊勲として全軍に公式布告(下欄御参照)。指揮官の関行男大尉は2階級特進して中佐となり、部下四人もそれぞれ2階級特進して銀翼の五軍神となります。

 

海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。

 

布告

戦闘〇〇〇飛行隊分隊長 海軍大尉 関行男

戦闘〇〇〇飛行隊付   海軍一等飛行兵曹 中野磐雄

戦闘〇〇〇飛行隊付   同 谷暢夫、同 海軍飛行兵長 永峰肇

戦闘〇〇〇飛行隊付   海軍上等飛行兵 大黒繁男

 

神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日〇〇時「スルアン」島の〇〇度〇〇浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦の一群を補足するや、必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈、同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収める悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり。

 

昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武

 

注:部隊識別番号、突入場所の経緯度、突入時間は明記されていません。

 

ところが、関大尉の敷島隊を除く神風特別攻撃隊の出撃記録をチェックしてみると・・・関行男大尉が体当入りした1944年10月25日以前に、敵機動部隊に体当りをした特攻隊(大和隊、朝日隊、山桜隊、菊水隊、彗星隊、若桜隊)の存在が記録されていることが分かります。敷島隊の出撃日時と他の六隊の出撃日時を順番に並べて比較してみましょう。

 

 ❏10月20日 第一次神風特別攻撃隊の初編成

 10月21日 大和隊:久納中尉・特攻死  (セブ基地)

 ❏10月23日 大和隊:佐藤馨上飛曹・特攻死  (セブ基地)

 ❏10月25日 朝日隊:上野敬一1飛曹・特攻死  (ダバオ基地)

 ❏10月25日 山桜隊:宮原田賢1飛曹、瀧澤1飛曹・突入7時40分AM (ダバオ基地)

 ❏10月25日 菊水隊:加藤豊文1飛曹、宮川正1飛曹・突入7時40分AM (ダバオ基地

 ❏10月25日 敷島隊:関行男大尉含む5名 突入午前10時45分 (マバラカット基地) 

 ❏10月25日 彗星隊:浅尾弘上飛比曹、須内則夫ニ飛曹・特攻死  (マバラカット基地)

 ❏10月25日  大和隊:大坪一男1飛曹、荒木外義飛長・特攻死  (セブ基地)

  ❏10月25日  若桜隊:中瀬清久1飛曹・特攻死 (セブ基地)

  ❏以降の特攻は割愛   

上記の出撃日時を見ると、神風特攻を最初に敢行したのは、セブ基地から出撃した久納好孚中尉であり、連合艦隊布告によって神風特攻の第一号として発表された関行男中尉の率いる敷島隊5名は、第五番目の位置付けであることが分かります。

 

終戦後にアヤラ財閥の再開発が始まった頃のセブ飛行場跡地

 

尚、10月20日の神風特別攻撃隊の初編成から五日後の10月25日に特攻出撃が集中しているのは、神風特攻の編成目的である『栗田艦隊のレイテ湾突入日』に合わせて、第一航艦司令長官の大西中将が発した『神風特別攻撃隊の全機出撃命令』に呼応した結果と思われます。

 

僕が訪れた時のセブ飛行場は、I.T.Parkに姿を変えていました。

 

死の旅路となった出撃日の観点からみれば、神風特攻第一号となる筈だった大和隊の久納好孚中尉(愛知県出身 法政大学専門部・予備学生出身11期)について、少しばかり思いを馳せて見たいと思います。

 

セブ基地時代の久能中尉を偲ぶ話が残っています。

セブ基地の特攻隊員がセブ島の裕福な家庭に招かれてピアノ曲やバイオリン曲でもてなされた時、日本の楽曲演奏を所望されて困惑する隊員を代表して、久納中尉がベートーベンのピアノ協奏曲を演奏して親日家の家族を感激させたことがありました。

(甲飛十期・佐藤精一郎氏の証言)

 

死への出撃となった10月21日の前夜、民間の屋敷を借りあげた士官宿舎のピアノに向かった久能中尉は、大好きなべートーベンのピアノソナタ第十四番『月光』を静かに弾いていました。(通信科暗号士・笹原則省予備少尉の証言)

 

久納好孚中尉 愛知県出身・予備学生11期

 

セブ基地(第201航空隊)に駐屯していた久能中尉の直属上司となる飛行隊長は、部下の特攻隊員から『源田實大佐の腰巾着』と蔑まれていた中島正少佐です。セブ基地からレイテ湾に出撃する特攻隊員に中島少佐が放った非人間的な命令を聴いた直掩隊・角田和男少尉の証言があります。

 

中島正少佐 (セブ航空隊飛行隊長)

 

中島少佐 『レイテ港の桟橋に特攻せよ』

特攻隊長 『桟橋への特攻ではなく、せめて目標を輸送船に変えて下さい』

中島少佐 『文句を言うな、特攻目的は戦果ではなく、死ぬ事にあるのだ』

 

久能中尉は、源田實大佐の腰巾着だった中島少佐に、最後の出撃となる寸前まで悩まされています。僕は中島少佐に個人的恨みは何もないのですが、彼に関わる様々な証言を読むにつけて沸き起こる憤りの気持ちを抑えることが出来ません。

 

1944年10月21日、久納中尉の最後の出撃日の証言

久納中尉の率いる大和隊のゼロ戦を徹夜で整備した中村少尉と波多野ニ整備曹は、敵機動部隊発見の報告を受けて、零式戦闘機5機に航空燃料を充満、250kg爆弾をセットして出発準備を完了します。

 

ところが10分以上待機しても久納中尉の率いる大和隊の搭乗員が到着しません。特攻員に対する中島少佐の自己陶酔した浅薄な精神訓話が延々と続いて終わらないのです。 中村少尉と波多野ニ整備曹は、敵戦闘機グラマンの奇襲を心配して苛立ちます。

 

その時、セブ飛行場に突入して来た敵戦闘機の機銃掃射が滑走路上に駐機していたゼロ戦五機に命中。燃える航空燃料が爆装していた250kg爆弾に引火して次々と誘爆。怒り心頭に発した整備兵が『中島少佐は敵のスパイか!』と叫ぶ面前で、ゼロ戦五機は一瞬にして鉄屑と化します。 

 

整備長の桶泉大尉が木陰から引き出した予備機の三機に、特攻の久能中尉と中瀬一飛曹、直掩の大坪一飛曹の三人が『エンジン回せ!』と叫びながら飛び乗り、航空母艦に戻るであろう筈の敵戦闘機の後を追って飛び立ちます。水盃も帽ふれ儀式もなく、報道員による写真撮影もない慌ただしい出撃だったそうです。 

 

中島少佐は、僅か22日前の9月12日にも、ダバオの第201航空隊で、『敵戦闘機がダバオに接近中』の無線報告を無視して、特攻隊員に対して愚にもつかぬ講話を20分以上も続けている真っ最中に敵戦闘機の攻撃を受けるという大失策を犯しています。

 
ダバオ海軍第201航空隊の瓦解
 
ダバオ飛行場の滑走路に駐機していた戦闘機25機を破壊され、辛うじて迎撃に飛び立った41機の内27機は撃墜され、残り14機も不時着となります。
 
貴重な戦闘機と航空燃料を失った上に、頼りとなる熟練搭乗員の多くを喪失し、離陸はなんとか出来ても、着陸が覚束ない搭乗員を残された大西中将の心に、神風特別攻撃隊を編成する決意が生まれたと言う人もいるようです。
 

中島少佐は、海軍兵学校の机上勉強は優秀だったかもしれませんが、前線基地の指揮官としては無能力且つ不向きな人物だったのではないでしょうか。そして、そんな中島少佐を引き立てた源田實大佐にも責任の一端があるかも・・・ですね。 

 

戦後の航空自衛隊の幕僚長となった源田實氏、同じく航空自衛隊の空将補となった中島正氏のご両名が、航空自衛隊で如何なる教育を実践されたのか・・・とても気になるところです。

 

話がまた横道に逸れてしまいました。

久納好孚中尉の率いる『大和隊』の爆装2機と直掩1がセブ基地から飛び立ったのは、10月21日午前16時25分でした。しかし、折からの悪天候により爆装1機と直掩1機は帰投し、『出撃したら絶対に戻らない。レイテ湾へ飛んで敵艦隊に突っ込む』と語っていた久納好孚中尉(23歳)だけが未帰還となります。

 

直掩機を伴わずに単独でレイテ湾に向かった久納中尉の戦果を証明する決定的な材料は存在しません。しかし、レイテ湾で作戦行動中だった重巡洋艦オーストラリア号(満載排水量:13,450屯)が日本軍戦闘機の突入によって、エミール艦長を含む戦死者30名を喪失したとの記録を残しています。この記録から、久納中尉が体当りしたのでは?との説が広まります。(下掲写真) 

 

体当りによって左舷に傾斜したオーストラリア号

 

世界に例のない250kg爆弾を抱いた必死必中の体当り攻撃を喰らったオーストラリア号は、信じ難い特攻作戦に周章狼狽したのか、突入機を一式陸上攻撃機としたり、九九式艦上攻撃機とする等して記載内容に混乱が見られます。更に、日本軍戦闘機の突入時間を午前中とする記述が正しいとすれば、久納中尉の出撃時間(16時25分)と大幅な齟齬があります。

 

10月21日に久納中尉(?)の体当たり攻撃を被ったオーストラリア号は、四日後の25日にも再度日本軍の体当たり攻撃を受けて大破。翌年の1月に修理を終えて戦線復帰するも、終戦となる8月中旬までの七か月間に、六回の体当たり攻撃を受けて更に86名の戦死者を出しています。

 

10月21日夕方に行方不明となった久納中尉の扱いを“特攻死にすするか、未帰還にするか”について、海軍上層部で紆余曲折があったようですが、11月13日になって、連合艦隊司令長官・豊田副武大将の決定により、久納中尉を特攻戦死とする旨の全軍布告第71号(2階級特進の少佐)が発表されます。 関行男大尉を神風特攻第一号とする布告から16日後の発表でした。 

 

久納中尉の特攻死の認定が遅れた理由として、次のような後日談が伝わっています。

 

❏第一航艦・吉岡参謀談

久納中尉は、天候悪化でレイテ湾に到達出来ず、墜落したと想像するしかなかった。

 

❏軍令部・奥宮中佐談

生還した場合を考慮した連合艦隊・淵田大佐の慎重な措置であった。

 

201航空司令・玉井浅一中佐

久納中尉の特攻に対する熱意から体当たりしたと推し量った。

 

同盟通信記者・小野田政氏談

201航空司令・玉井浅一中佐から、一番早く体当りをした久納中尉だけが報道されないのはあまりにも可哀想だから記事にしてくれと頼まれた。

 

201航空司令・玉井浅一中佐

 

神風特攻第一号は関大尉に譲ったものの、関大尉よりも四日前に特攻した久納中尉の事を、『神風特攻隊・第零号の男』と呼ぶ人が少なからずいます。 それでは、久納中尉よりも四日遅く体当入りした関行男大尉が神風特攻の第一号として全軍布告された理由は那辺にあるのでしょうか。海軍部内では次のような流言蜚語があったようです。

 

❏神風特攻第一号は、海軍兵学校出身者とする筋書きが前もって定められていた。

第一次神風特別攻撃隊の特攻第一号の筋書きは、 海軍予備学生出身や予科練出身よりも海軍兵学校卒を最優先する海軍上層部の意向があった・・・とする説があるようですが・・・定かではありません。

 

❏神風特攻隊の当初の体当たり目標は、敵航空母艦であった。

第一次神風特攻隊が編成された当初の目的は、栗田艦隊のレイテ湾敵突入作戦(10月25日)を成功させるために、敵航空母艦の滑走甲板に体当たりして敵航空戦闘力を喪失させることであったのは事実です。関大尉の敷島隊(5機)は、全機もろとも敵護衛空母に突入して当初目的を達成しています。 久納中尉が重巡洋艦に突入した可能性はあるにしても、航空母艦に体当たりしたという記録は全くありません。

 

しかし、10月25日の栗田艦隊のレイテ湾敵突入作戦失敗により、10月27日以降の第二次神風特攻隊の目標範囲が大幅に拡大されたことから、豊田連合艦隊司令長官の温情によって、久納中尉も全軍布告に加えられたとの説もあるようです。

 

実は、冒頭でも触れましたが、関大尉の敷島隊よりも早く体当たりをしたのは、久納中尉だけではありません。米軍の記録によれば、下欄青字に掲示した特攻6機が米軍第七艦隊の機動部隊に必中必殺の体当たりを行ったことが判明しています。

 

 ❏10月21日 大和隊:久納中尉・特攻死  (セブ基地)

 ❏10月23日 大和隊:佐藤馨上飛曹・特攻死(セブ基地)

 ❏10月25日 朝日隊:上野敬一1飛曹・特攻死 (ダバオ基地)

 ❏10月25日 山桜隊:宮原田賢1飛曹、瀧澤1飛曹・突入7時40分AM(ダバオ基地)

 ❏10月25日 菊水隊:加藤豊文1飛曹、宮川正1飛曹・突入7時40分AM(ダバオ基地)
 ❏10月25日 敷島隊:関行男大尉含む5名 突入10時45分AM (ママバラカット基地) 

 

■10月25日午前7時40分

山桜隊・瀧澤光雄1飛曹(推定)は、敵護衛空母 Suwanee号(満載排水量24,400噸)の上空を警護するF6F戦闘機をかい潜ってSuwanee号の飛行機用リフト部分に体当りを敢行。戦死107名、負傷160名を出す大損害を与えています。(下掲写真)

 

米軍第七艦隊の護衛空母Suwanee号に急降下で体当たりする瀧澤1飛曹(推定)

 

■10月25日午前7時40分

菊水隊の加藤豊文1飛曹も敵護衛空母 Sanntee号(満載排水量24,275噸)に体当たりをしています。米軍側の記録によると、中破したSanntee号は、応急修理によって数時間後に戦線復帰したとあります。(下掲写真。)

 

 

菊水隊・加藤豊文1飛曹(推定)が体当たりした敵護衛空母 Sanntee号

 
山桜隊の瀧澤1飛曹と菊水隊の加藤豊文1飛曹が体当たりをした米軍第七艦隊の護衛空母は、いずれも民間油槽船を改造した護衛空母です。 神風特攻第一号となった関行男大尉と敷島隊が体当たりをした敵艦も全て民間輸送船を改造した護衛空母であり、戦闘力の高い正規空母ではありませんでした。
 

関行男大尉を神風特攻第一号とした理由の一つとして、関行男大尉が体当たりをした敵艦が、『第一次神風特別攻撃隊の体当たり目標である航空母艦に該当』すると唱える人がいます。 

 

そうであるならば、関行男大尉よりも時間的に早く護衛空母に体当たりした山桜隊の瀧澤光雄1飛曹と菊水隊の加藤豊文1飛曹に軍配があがることになりますね。 

 

何れにしても、10月25日の第一次神風特別攻撃隊の敷島隊、菊水隊、山桜隊等の予想以上の戦果を受けて、翌26日、及川軍令部総長は昭和天皇(大元帥)にその戦果を奏上。『かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ』とのお言葉があったようです。

 

第一航空艦隊司令長官の大西中将は、神風特攻を拒絶していた海兵同期の第二航空艦隊司令長官の福留中将に神風特攻作戦の採用を強行談判。10月27付けで第1航艦と第2航艦を統合した連合基地航空隊(司令長官:福留中将)に第二次神風特別攻撃隊を編成します。 

 

連合基地航空隊参謀長 大西中将

 

連合基地航空隊の参謀長となった大西中将は、第二次特攻隊作戦を批判する声に対して、『第二次特攻作戦への批判は絶対に許さん』」として、特攻作戦を強行継続します。

 

かくして、栗田艦隊によるレイテ湾突入作戦を成功させるためだけだった筈の神風特別攻撃隊は、第二次特別攻撃隊に姿を変えて、勝利の望みなき戦いが終戦まで続くことになります。 11月に入ると、陸軍航空隊も特攻作戦を開始しています。

 

純粋に国を思い、愛する家族や恋人のために戦って散華した多くの特攻隊員の御霊に対して、心からの哀悼の意を表します。

 

今回をもって、比島の戦跡訪問で知った神風特攻のブログを終えることにします。

 

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2017年01月05日(木) 04時43分51秒

比島戦跡旅行 神風特攻第1号・関大尉-4

テーマ:フィリッピン旅行

『比島戦跡旅行記 神風特攻第1号・関行男大尉-3』(12月24日付け)の続きです。

 

❏1944年10月25日正午頃

10月25日午前10時45分、レイテ東沖合で、米国第7艦隊所属の護衛空母群の4隻に体当たり攻撃を行い、撃沈1隻、1隻大破、2隻小破の戦果をあげて散華した神風特攻・関行男大尉を含む敷島隊5機の戦果を見届けた直掩隊の西澤廣義飛曹長、本田慎吾上飛曹、馬場良治飛長の三機は、最寄りのセブ海軍飛行場へ立ち寄り、敷島隊の壮烈な戦果をセブ飛行場の中島飛行隊長(少佐)に報告しています。

 

 

セブ飛行場の滑走路跡地 (現Cebu I.T. park)

 

特攻隊を掩護する直掩機の役割は、①特攻機に向けられる対空砲の弾除けになること、②敵迎撃敵戦闘機を撃墜して味方の特攻機を目標に誘導すること、③目撃した特攻機の戦果を基地に帰投して正確に報告することでした。 

 

因みに、直掩隊として出撃した管川操作飛長は、護衛空母に突っ込む関行男大尉と谷暢夫一飛曹の弾除けとなって戦死しています。 また、直掩機のリーダーを担った西澤廣義飛曹長は、体当たりする特攻機を阻止しようとする敵戦闘機二機を撃墜し、敷島隊の特攻戦果を最大限にアシストしています。

 

 

直掩隊・西澤飛曹長(撃墜王第2位)  中島正少佐(セブ飛行隊長)

 

セブ飛行隊長の中島少佐への報告を終えた西澤飛曹長を含む三人の直掩隊は、翌日の26日、中島少佐に搭乗機の零戦を没収され、武装していない通常輸送機に乗せられてマバラカット基地に送り返される途上、敵グラマン戦闘機に襲撃されて全員が敢え無く戦死しています。

 

日本陸海軍の撃墜王第二位の戦闘機乗りだった西澤廣義飛曹長は、予科練や学徒出身の特攻搭乗員を消耗品として見做す中島少佐(海軍兵学校出身)の愚かな対応によって、その命を絶たれたようなものです。当時のマバラカットやセブ飛行場の特攻員の間では、軍令部で特攻の旗振りをしていた源田實大佐の言いなりだった中島少佐を『源田の腰巾着』と呼んで蔑み忌避する動きがあったようです。

 

後日、源田實大佐が軍令部から松山基地の第343航空隊(剣部隊)の航空司令に転任した時、源田司令官は、腹心の中島少佐を、セブ島第201航空隊から松山343航空隊の副長として抜擢しています。 

 

松山第303航空隊掩体壕

 

セブ島第201航空隊は、中島少佐の転属を手を叩いて喜んだそうですが、松山第343航空隊の搭乗員は、特攻一辺倒の中島少佐に総スカンを喰らわせた話が残っています。

 

その中でも、菅野直大尉(特攻死した関行男大尉と海軍兵学校同期生)は、中島少佐の理不尽且つ暴虐的な特攻要請に対して、誰憚ること無く、次のように反抗したと伝わっています。

 

『自分の隊から特攻隊員は絶対に出さない』

『体当たりなんかしなくても、爆弾を命中させる実力がある』

『生きていれば、何回でも敵を攻撃出来るではないか』

『一回の体当たりで、鍛えた戦力を一瞬にして失うのは納得できない』

 

更に、菅野直大尉が『特攻・忠勇隊』の直掩を務めて帰投し、忠勇隊の特攻戦果を中島少佐に報告した時の話があります。忠勇隊に平然と特攻命令を下す中島少佐の口から飛び出したのは、必死必中の特攻隊員と命懸けで掩護する直掩隊員を冒涜し侮辱するものでした。

 

『戦果が大きすぎる。何か勘違いしていないか』

『レイテで本当に体当たりをしたのか、本当に目撃したのか』

 

落下傘を装備せずに必死必中の体当入りをする特攻機を掩護する時、自らも落下傘無しで直掩の役割を果たすことを信条にしていた菅野大尉は、中島少佐が口走った心無い発言に悲憤慷慨。拳銃を引き抜いて床に向けて実弾五発を連射したと言うのです。その菅野大尉も、1945年の屋久島沖の空中戦で戦死しています。 

 

  

          菅野直大尉            志賀淑雄少佐(写真は大尉時代)

 

松山第343航空隊には、菅野大尉以外にも、志賀淑雄少佐(海兵62期)の如く、『自分が征かずに、予科練出身や予備学生出身だけに必死必中の特攻に行けと言うのは、命令の域を越えている。どうしても特攻に行けというのならば、参謀、長官、司令レベルが自ら先に飛ぶべきだ』と主張する人物もいました。

 

しかし、此のような具申に耳を傾ける上層部がいる筈もありません。 源田大佐や中島少佐のような特攻員に対する正気を失ったとも言える非人間的な対応は、特攻隊員達が当初抱いていた厳粛な士気を次第に蝕んでいくことになります。

 

中島少佐を松山第343航空隊へ引っ張った源田大佐は、第343航空隊搭乗員の有り得ない抵抗に直面して周章狼狽。 自らの保身を慮って、中島少佐を、人間ミサイルとも言うべき特攻兵器『桜花』の主力基地になっていた石川県小松市の第721航空隊(通称:神雷隊)へ横滑りさせます。

 

人間ミサイル『桜花』を抱えて飛ぶ母機の一式陸攻

 

ところが、その神雷隊に於いても、中島少佐は、耳学問の急降下特攻一点張りの主張を行い、零戦の直進降下に適した20度から30度の緩降下を是としていた搭乗員から蔑視されています。とは言っても、若い特攻隊員は、理不尽な上官に逆らうことも出来ず、祖国愛と家族や恋人への懐いを胸に抱いて任務に殉じるしかありません。

 

多くの予科練や予備学生出身の搭乗員を消耗品の如く扱った特攻礼賛者の海軍上層部の多くは、太平洋戦争(大東亜戦争)を無事に生き延びています。

 

松山第343航空司令官として終戦を迎えた源田實大佐は、戦後創立された航空自衛隊の第三代航空幕僚長となり、退官後は参議院議員(四期24年)を経て84歳で病死。中島正少佐(最終階級は大佐)も航空自衛隊の空将補まで出世して86歳で没しています。特攻で戦死した若き搭乗員の約4倍の人生を全うしたのですから、それに相当する供養を為されたに違いないと思いたいですね。

 

話が大きく逸れてしまいました。1944年10月25日12時5分の時点に戻りましょう。

 

西澤廣義飛曹長から、関行男大尉を含む神風特攻隊・敷島隊5機の壮烈な戦果報告を受けたセブ島第201航空隊の中島少佐は、直ちに第二航艦司令長官の大西中将に向けて無線電信を発信。大西中将は、日本の軍令部、海軍省、連合艦隊などの部署に対して、神風特別攻撃隊の敷島隊が成し遂げた最初の壮烈な戦果を打電します。

 

1944年10月28日 海軍省によるラジオ特別放送

大西中将からの戦果報告を受けた海軍省は、1944年10月28日にラジオ特別放送を行い、翌日の新聞記事で、敵護衛空母に体当たり攻撃を行った敷島隊指揮官の関行男大尉を『特攻第1号』」として大々的に公表します。

 

1944年10月29日の東京朝日新聞の一面トップ記事

 

連合艦隊司令長官・豊田副武大将は、1944年10月28日付けでもって、敷島隊五人の戦果を、忠烈万世に燦たる殊勲として全軍に布告。関行男大尉は2階級特進して中佐、部下の四人もそれぞれ2階級特進の栄誉を受け、銀翼の五軍神として奉られます。

 

 

銀翼の神々となった敷島隊の5名

 

 

神風特攻隊の第一号として壮烈な戦功をあげた敷島隊の五名は、『軍神』として世間から賞賛されることになります。 軍神となった軍人の門前には『軍神の家』と記された標識が建てられ、軍神を育んだ環境を知るために『軍神の実家への表敬訪問』が勧奨されたというのですから驚きです。(下掲写真)

 

関行男大尉の家を表敬する人

 

しかし、熱しやすく冷めやすいのは、古今東西の人間の性のようです。日本には『人の噂も75日』、英語國にも A wonder lasts but nine days. (驚きは7日しか続かない)と云う諺があります。

 

具体的な日数の長短は別として、日本にも環境や動向の変化によって、一斉に『左向け左』、『右向け右』と豹変する傾向があります。戦中の『一億総特攻』も、敗戦後は一転して『一億総懺悔』に変わってしまいました。

 

軍国主義昂揚に利用された『軍神』の家族は、敗戦後の反軍国主義の高まりの中で、一転して國賊呼ばわりされて日陰の存在になってしまいます。 『軍神の母』だったサカエさんは、豹変した国民から『戦争協力者』として石を投げられる立場に堕ちてしまったのです。

 

生活に困窮したサカエさんは、草餅の行商をするもままならず、住む家として廃屋兵舎の使用を役所に嘆願しても無視され、最終的に、西条の石槌中学校の用務員として住み込まれるのですが・・・心労が重なったからでしょうか、1953年11月9日、石槌中学校の用務員室で倒れられ、『せめて行男のお墓を・・・・』と言い残されて亡くなりました。享年57歳でした。

 

関行男大尉が戦死してから31年後の1975年、愛媛県西条市・楢本神社境内に「関行男慰霊之碑」が建立されています。冷たく掌を返した戦後の風潮は、神風特攻第1号の軍神・関行男大尉の慰霊碑すらも許さなかった・・・ということなのでしょうか。

 

次回は、軍神第一号の関行男大尉(没後2階級特進して中佐)よりも、早く出撃して体当り攻撃を敢行した神風特攻隊員が複数人数いた事実と背景について綴ってみたいと思います。

 

 

 

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