長い海外駐在生活を終えたhiro-1が念願のタイ国に移り住んで繰り広げる生活のあれこれ。或る時は、大学のタイ語学科でタイ語を学び、歴史学科ではアユッタヤー王朝の外交史を専攻、或る時は、自家用車を駆ってタイ国内の遺跡を巡り、又或る時は、タイの文化を覗き見る自由で気儘な生活写真日記です。
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2016年09月07日(水) 08時53分10秒

10:比島戦跡旅行・K氏の父君の日本生還

テーマ:フィリッピン旅行
7月下旬から9月初旬までの間、タイを離れていたために、ブログ更新が滞ってしまいました。
本日のブログは、2016年07月20日付けの『9:比島旅行・ミンドロ島・米軍俘虜となった友人の父君』の続きとなります。バンコクの古い友人であるK氏と共に、K氏の父君が旧日本海軍の航空整備兵として駐留されたフィリピン戦跡地を巡った時の最終回となります。

1944年12月25日
米軍の艦砲射撃を逃れた大岡昇平氏の所属する日本軍の独立歩兵二個中隊とK氏の父君が所属する海軍第955航空部隊が露営する西ミンドロ島山中のデュタイ(小高地)に、米軍の掃討部隊が迫ります。追い詰められた日本軍は、マラリヤ熱や栄養失調で身動き出来なくなった戦友を捨て置いて、更に山奥へと逃亡して行きます。『俘虜記』によると、食料不足に陥った海軍第955航空隊では、『自死することがお国への御奉公だ』と強要された兵士もいたようです。


1944年12月26日
厚生労働省のK氏の父君の軍歴簿を見ると、栄養失調になって捨て置かれたK氏の父君は、『山中の立木によじ登って朦朧としていたところを、(幸いにも)掃討作戦中の米兵に捕らえられて俘虜になった』と記録されていました。“幸いにも”は僕の勝手な挿入ですが、結果として、『K氏の父君の命を救ったのは米兵』という事実を思えば、やはり幸運だったと言わざるを得ません。



日本軍が彷徨ったミンドロ島のバコ山の山並(HPより拝借)

戦陣訓によって『俘虜になることは最大の恥辱』と叩きこまれた日本兵士の多くは、俘虜になることを恐れるあまり、食料の乏しい山奥に逃走して落命しています。一方、マラリアや栄養失調によって友軍に見捨てられて米軍の俘虜になった瀕死の兵士の多くは、九死に一生を得たという真逆の結果を知るつけ、日本軍大本営の命を軽んじた軍隊的精神教育に唖然としてしまいます。

K氏の父君が俘虜になった12月26日、米軍のミンドロ島上陸部隊は、新たに完成した2箇所の飛行場に、レイテ島の飛行場から約120機の戦闘機や爆撃機の移動を完了、フィリピン戦の最終段階となるルソン島攻略作戦に着手します。

12月26日深夜~27日早朝
そうはさせじと、キスカ奇跡作戦を成功させた日本海軍の木村昌福少将の率いる第二水雷戦隊は、ミンドロ島南部に完成した米軍飛行場と米軍上陸軍を破壊する礼号作戦(ミンドロ島沖海戦)を90分間に亘って実施。米軍輸送船1隻の沈没と数隻の魚雷艇を破壊しています。


    
木村艦隊が損害を与えた米軍の魚雷艇(同型)

一方、木村艦隊と対峙した米軍のチャンドラー艦隊は、木村艦隊の重巡洋艦の足柄を中破、軽巡洋艦の大淀を小破、駆逐艦6隻を撃沈したと簡略に記しています。


米軍の攻撃によって中破した木村艦隊の重巡洋艦 足柄

ところが、日本軍の大本営は、『礼号作戦は、日本海軍の組織的戦闘の勝利』と大仰な発表を行っています。しかし、両軍の戦闘結果を比較すれば、誰が見ても日本軍の喪失が遥かに大きいことは明らかであり、大本営発表は、戦時下の自国民を欺く勝利宣言と言わざるを得ません。

1945年1月4日~
日本の陸軍航空隊と海軍航空隊による悪足掻きとも言える特攻がサンホセの米軍飛行場に対して行われています。米軍の公的戦史によると、日本の陸海軍による絶望的特攻回数は、なんと334回にも及んだと記録されています。



日本軍の攻撃対象となった旧米軍飛行場(現在のサンホセ飛行場)

米軍の公的戦史によると、日本軍の空爆によって受けた米軍側の被害は、サンホセの飛行場に駐機していた飛行機30機の損傷、飛行場施設の損傷、マンガリン湾に停泊中の運搬船1隻沈没、魚雷艇2隻中破、数隻の上陸用舟艇損傷、戦死者475人と負傷者385人とあります。

一方、米軍の公的戦史に記された日本軍の喪失は、航空機103機撃墜(戦闘機・爆撃機)とあり、此の戦闘に関しては、米軍側の喪失が甚大であったことが分かります。


しかし、決死の覚悟で臨んだ日本軍の特別攻撃にも拘らず、サンホセの米軍飛行場からルソン島山中の日本軍陣地への激しい空爆を阻止することは出来ませんでした。寧ろ、山下大将の率いる第14方面軍への物量に任せた報復空爆が激しさを増し、結果として、山下大将と配下の第14方面軍の全面降伏を早める結果となります。


山下大将の率いる第14方面軍が立て籠もったルソン島北部の山塊(HPより拝借)
  
1945年1月18日
ミンドロ島からルソン島にかけての制空権と制海権を喪失した最前線の日本軍と大本営陸軍部は、山下奉文大将の第14方面軍に対して、ミンドロ島の米軍飛行場を奪取する逆上陸作戦を執拗に求めます。


ルソン島北部山中での長期持久戦を決定していた山下大将は、戦力分散につながる逆上陸作戦を拒否するのですが・・・あまりにも執拗な現場の声におされて、第8師団歩兵第17連隊から選出された小幡中隊長以下3個小隊120名の斬込隊編成を許可し、船舶工兵第24連隊の大発動艇に乗せてミンドロ島南部のサンホセやブララカオに投入します。

1945年1月23日
小幡中隊長の率いる斬込隊は、西ミンドロ州サンホセの米軍第24師団の上陸軍(27,000人)が守備するヒル飛行場とエルモア飛場(重爆滑走路を設営中)に対して斬込みを敢行、戦死者45名を出して敢えなく撤退しています。27,000人の守備する敵陣に対して、僅か120名で斬り込むという、無意味、無謀、稚拙、愚の骨頂と言っても過言ではない突撃でした。


斬込隊の生き残りは、サンホセ飛行場から西北20㌔のアヤメタン高原(標高1,000m)まで逃れて自給自足の原始生活に入ります。僕が小学校6年生の頃だったと思いますが、山本少尉(第14方面軍司令部情報部出身)を含む四人の生き残り兵士が、12年振りに日本に生還したことを報ずるラジオニュースを聴いた事を朧気ながら憶えています。

今回の戦跡巡りの旅で、日本降伏後も30年間に亘ってルバング島で残置諜報を行ったことで知られる小野田寛郎少尉の名前が、第一次ミンドロ島逆上陸の斬込隊の候補者名簿に記載されていたとする情報を知って驚きました。


小野田少尉が戦後30年に亘って残置諜報を行った東ミンドロ州ルバング島(HPより拝借)

中野学校二股学校出身で第14方面軍参謀部特別工作班に所属していた小野田少尉ですが、此の時点では、専門とする残置諜報員としてではなく、玉砕要員である斬込隊候補の一人だったのですね。


1974年3月12日、東ミンドロ州ルバング島で降伏した小野田元少尉(HPより拝借)

小野田寛郎少尉と一緒に闘った小塚金七一等兵は、1972年10月19日に比島軍との銃撃戦によって『太平洋戦争の最後の戦死者』となります。小塚金七一等兵は、大岡昇平氏と同じ近衛第二連隊で補充兵訓練を受けた後に、大岡氏やK氏の父君が派遣されたミンドロ島に送り込まれた補充兵でした。

 
左:太平洋戦争の最後の戦死者となった補充兵の小塚金七氏
右:小塚金七氏と近衛第二連隊で補充兵教育を受けた大岡昇平氏


大岡昇平氏は、自著の『俘虜記』の中で、臨時召集された中年補充兵の自分のことを『弱い兵隊』と揶揄されていますが・・・小塚金七一等兵は、威張り散らす現役古参兵などよりも、遥かに意志堅固な補充兵だったようですね。

1945年1月24日
米軍第24師団一個小隊がミンドロ島山中のデュタイ(小高地)に立て籠もる日本軍の最終的掃討戦を開始します。迎え撃つ日本軍兵士の内、マラリア熱と栄養失調で横臥する兵士が170名、戦闘可能な兵士は僅か30人だけだったそうです。


大岡昇平氏の『俘虜記』によれば、此の戦闘中に大岡氏の所属部隊の第1中隊長が砲撃弾の炸裂で戦死。マラリア熱と栄養失調で虫の息になった兵士は、陸軍で1日あたり1人、海軍で1日あたり2人のペースで次々と戦病死したとあります。

1945年1月25日
此の日をもって、米軍によるミンドロ島デュタイ(小高地)の掃討作戦は終了します。マラリアによる高熱を再発した大岡昇平氏は、逃亡する友軍に追随出来ずに、灌木の中で一人仰向けになって昏倒しているところを米軍兵士に発見されて俘虜となります。栄養失調のK氏の父君が俘虜になってから1ヶ月後のことでした。


1945年1月29日
西ミンドロ州サンホセの米国第8軍の野戦病院で応急処置を受けた大岡昇平氏は、レイテ島東海岸タクロバンの俘虜病院場へと空路で送られます。



大岡昇平氏が移送された現在のタクロバン空港

レイテ島タクロバンに着いた大岡昇平氏は、空港から二㌔離れた俘虜病院でマラリアの回復治療を受けます。1ヶ月前に栄養失調状態状態で俘虜になったK氏の父君も、此の病院で体力を回復されたと思われます。


日本軍の傷病兵が収容されたレイテ島の仮設俘虜病院

1945年3月中旬
俘虜病院で体力を取り戻した大岡昇平氏は、パロから海岸から六㌔離れたタナウアン海岸の2千坪の平野に設置されたニッパ椰子を葺いた第1俘虜収容所へ移され、更にパロ海岸に近い木造バラックの第2俘虜収容所へと移されています。3度に亘る収容所移転の理由は、増え続ける日本人俘虜に対応するために、仮設の俘虜収容所が次から次と増築されたからではないでしょうか。


僕とK氏は、第一俘虜収容所跡地のタナウアンへ行きたかったのですが、折からの台風27号の暴雨風を嫌った運転手に拒否されて断念。目的地を第2俘虜収容所に変更して、振り続ける雨の中を進むと、俘虜収容所内から見えていたという裏山に聳える十字架を発見! しかし、収容所跡地は、70年余りの歳月を経て住宅地に変貌してしまい、何の痕跡も残っていませんでした。


住宅地に変貌していた第ニ俘虜収容所跡地と思しき場所

レイテ沖海戦(1944年10月23日~同25日10月)とレイテ島陸戦(1944年10月20日~1945年終戦)で日本軍を殲滅した米軍は、日本軍の手薄だったミンドロ島を占拠して3箇所の飛行場設営を完了(1945年2月下旬)。フィリピン戦局は、愈々、首都マニラ決戦とルソン島北部山中での最終決戦に突入します。

1945年2月3日
マニラに迫った米軍は、米英の民間人3,521人が俘虜として収用されていた聖トーマス・ドミニカ大学を包囲し、大学内に立て籠もる林陸軍中佐に対して、米英人俘虜の即時解放を強く要求します。


林中佐は、民間人俘虜の全員解放の交換条件として、林中佐以下65名の日本軍の武装を維持したまま日本軍の振武陣地まで米軍に護送して貰う約束を取り付けて、聖トーマス・ドミニカ大学から撤収。それを契機にして凄まじいマニラ決戦の火蓋が切って落とされます。


米英の民間人俘虜3,521人が収用されていた聖トーマスドミニカ大学。

当時、日本の大本営陸軍部は、マニラの死守を発令していたのですが、第14方面軍の山下奉文陸軍大将は、マニラの無防備都市宣言を主張して、ルソン島バギオ山中に方面軍司令部を移して米軍との長期持久戦に入ります。

山下大将が大本営命令に逆らって北部山中に篭ったのは、米軍の日本本土攻撃を遅らせるための時間稼ぎだったとする説があるそうですが、果たして長期持久戦の効果があったのかどうか・・・僕にはよく分かりません。


山下大将配下の第14方面軍の第4陸軍航空軍と第3南遣艦隊の第31特別根拠地隊(岩渕海軍少将)の海軍陸戦隊は、山下大将のマニラ無防備都市宣言に逆らって、大本営が発令したマニラ市街戦を決行。レイテ沖海戦で壊滅した西村艦隊の生き残り兵やK氏の父君が所属していた海軍第955航空隊の生き残りもマニラ決戦に合流。しかし、圧倒的な戦力を有する米軍に完膚なきまで打ちのめされて壊滅します。


日米軍の市街決戦で壊滅したマニラ旧市街(イントラムロス近辺)

ルソン島北部バギオに第14方面軍司令部を移した山下大将は、ルバング島の小野田寛郎少尉からの『敵艦見ゆ、針路北』の無線通信を受けて、第14方面軍の主力をリンガエン湾岸に配置して米国第7艦隊の突入に対峙します。


ルソン島北部のリンガエン湾に突入する米軍第7艦隊

しかし、制空権と制海権を奪われた上に武器弾薬も食料も乏しい山下大将の第14方面軍に、米軍第7艦隊を迎撃する戦力は既にありません。圧倒的な兵力差に押されて北部山岳の奥へ奥へと追い遣られ、先の展望もない悲惨な持久戦を強いられます。


リンガエン湾岸の日本軍陣地に向かう米軍第7艦隊の上陸用舟艇

1945年9月3日
日本がポツダム宣言を受けて無条件降伏した後も、ルソン島イフガオ州キアンガン地区の山中で食うや食わずの露営をしていた第14方面軍の山下大将は、キアンガン村で米軍に降伏を申し入れます。

マニラ軍事法廷に出廷した山下大将は、マレーの虎と呼ばれた巨漢の面影はなく、食料不足で痩せ細った体躯にダブダブの略式軍服を纏っていました。



痩せ衰えた姿でマニラ軍事法廷に出廷した山下大将

1945年11月30日
ミンドロ島のデュタイ(小高地)で米軍俘虜となり、レイテ島で10ヶ月間の俘虜生活を送った大岡昇平氏は、レイテ島タクロバン港から日本へ帰還することになります。



日本人俘虜が生還の途に着いたレイテ島タクロバン港

大岡昇平氏が乗船した帰還船の信濃丸は、1900年4月に英国のグラスゴーので造船進水した日本郵船所有のシアトル航路の貨客船です。信濃丸は、日露戦争時に仮装巡洋艦として日本海大海戦に参戦。日本海の対馬沖を北上するバルチック艦隊を最初に発見して通報し、日本海軍の勝利に貢献したことで知られています。


大岡昇平氏を日本へ移送した日本郵船の貨客船・信濃丸

1945年12月10日
信濃丸に乗船した大岡昇平氏は博多港に上陸。翌日、陸軍一等兵暗号手として召集解除となり、12月12日に家族の待つ疎開先の明石市大久保に帰還されています。


大岡昇平氏の軍歴を見ると、年令35歳で補充兵として臨時召集されてミンドロ島に渡り、僅か2ヶ月にしてマラリア熱に冒され、その6ヶ月後には米兵に捕らえられて俘虜となっています。大岡昇平氏は自著の中で、『米兵に対して三八式歩兵銃の銃弾を発した事は一度もなかった・・・弱い兵隊だった』と記されています。

■大岡昇平氏の軍歴
・1944年 6月  第35軍司令部第105師団陸軍二等兵暗号手として臨時召集(35歳)。
・1944年 8月  第105師団独立歩兵第359大隊臨時歩兵第1中隊(西矢中尉)配属。
・1944年 8月  ミンドロ島西ミンドロ州サンホセ・バランガイの暗号手として駐留。
・1945年 1月25日 ミンドロ島デュタイ(小高地)でマラリア熱で昏倒中に俘虜となる。
・1945年12月10日 信濃丸で博多港に生還

1945年12月7日
K氏の父君も、11ヶ月間の俘虜収容所生活を経て、米軍のヘレナモジェスカ号で日本に生還されています。召集解除時点の階級は海軍一等兵航空機の整備兵でした。帰還船のヘレナモジェスカ号は、米軍が戦争中に大量に造船したliberty 型と呼ばれる戦時標準船だったと思われます。


36歳で補充兵として臨時召集されたK氏の父君の軍歴簿(厚生労働省発行)を読むと、ミンドロ島に海軍航空整備兵として送られ、僅か4ヶ月後に栄養失調で身動き出来なくなったところを米兵に捕らえられて俘虜になっています。

■K氏の父君の軍歴
・1944年 4月 1日 舞鶴鎮守府舞鶴海兵団海軍二等航空機整備兵として 臨時招集(36歳)
・1944年 9月上旬 ミンドロ島南西部サンホセ・カミナウイットの水上機基地に駐留。
・1944年12月26日 ミンドロ島デュタイ(小高地)で栄養失調で昏倒中に俘虜となる。
・1945年 1月29日 レイテ島の俘虜収容所に入所。
・1945年12月 7日 米軍のヘレナモジェスカ号で日本に生還

生還を果たした大岡昇平氏は、自分が所属していたミンドロ島の独立歩兵第359大隊の臨時第1中隊180名の内159名が戦死(戦死率88%)したことを知り、その時の心の慟哭を、自著の『俘虜記』と『ミンドロ島ふたたび』に綴られています。

■ミンドロ島の陸上決戦 (1944年12月13日-2月下旬)
・ミンドロ島駐留の日本軍兵力180名の内、戦死者は159名(戦死率88%)
・日本軍生存者数(俘虜)は21名のみ。(大岡氏とK氏の父君を含む)
・大岡氏の属した班の生存者は3名のみ。(下士官1名と大岡氏を含む兵士2名)

更に、レイテ島の俘虜収容所で生活を共にしたレイテ島戦役の生存者の話から得た日本兵の凄惨な死闘(戦死率94%)を『レイテ戦記』として世に問われています。

■レイテ島の陸上決戦 (1944年10月20日-1945年8月15日)
・日本軍兵力 84,006人、戦死者 79,261人(戦死率 94.4%)
・米国軍兵力 200,000人、戦死者 3,504人(戦死率 1.7%)

僕とK氏がフィリピンの戦跡巡りをした1ヶ月後、天皇皇后両陛下は、両国の国交回復60周年を記念して、フィリピンを御訪問されました。アキノ大統領主催の歓迎晩餐会で天皇陛下がお話しされた『日本人が決して忘れてはならないこと』の記事が、今も頭にこびりついて離れません。


天皇皇后両陛下のフィリピン御訪問  1916年1月27日(HPより拝借)

■フィリピン戦線全体 (1944年10月-1945年8月) 
・日本軍兵力 ≒400,000人、戦死者 336,352人、(戦死率 84.1%)
・米国軍兵力 1,250,000人、戦死者  23,313人、(戦死率 1.9%)、 
・比国軍兵力  260,715人、戦死者   不明
・比国一般人          死者 ≒111万人(諸説あり)

兵力数と犠牲者数は、様々な情報がありますが、此処ではウイキペディアと大岡昇平氏の記述を使用。

今回のフィリピンの戦跡巡りの旅は、大岡昇平氏の著作三冊と厚生労働省から取り寄せたK氏の父君の軍歴簿に記された数行の記録に触発されたからですが、日本と米國の戦闘によって母国を戦場にされたフィリピン人の犠牲者数・111万人(諸説あり)を知って慄くばかりでした。

戦中生まれ(1942年)の僕は、本当の戦争が如何なるものかを知りません。中学校の社会科の先生も、『近現代史の章は各自自習しておきなさい』とスルー、僕もこれ幸いと放り投げてしまったのですが・・・

それでも、日本軍による真珠湾奇襲攻撃とマレー半島強襲上陸が12月8日に行われた事は知っていました。しかし、同じ日に、日本海軍の台湾航空隊がフィリピン戦争を始めたという歴史的事実は、迂闊にも、全く知りませんでした。

天皇陛下の仰った『日本人が決して忘れてはならないこと』を、僕は此の歳になるまで知らないまま過ごして来たようです。知らない事を忘れる事は出来ません。

しかしながら、フィリピン国民に多大な迷惑を掛けておきながら、『知らなかったから仕方ない』という屁理屈が通る筈もありません。今回のフィリピン戦跡巡りの旅は、『決して忘れてはならないこと』を、自分の足と眼と耳で感知するという重い旅となりました。
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2016年07月20日(水) 12時39分54秒

9:比島旅行・ミンドロ島・米軍俘虜となった友人の父君

テーマ:フィリッピン旅行
8:比島旅行・ミンドロ島・脱出に失敗した海軍敗残兵からの続きです。

バンコク在住の友人であるK氏と共に、K氏の父君が旧日本海軍の兵士として駐留されたフィリピンの戦跡地を巡った時の感想的備忘録記を書いています。

前回の粗筋
1944年12月15日 06時10分、 サンホセ駐屯の日本陸軍第1中隊本部&第三小隊(51名)、陸軍航空気象班(6名)、在留邦人(4名)のグループと、カミナウイット駐屯の海軍第955部(60名)と第1中隊第三小隊橋本分隊(10名)のグループは、米軍の艦砲射撃を受けると、直ちに2ルートに分かれて退避。バコ山東端に連なる山並を歩いて南南東10㌔先のプララカオ・デュタイ(小高地)の集結地へと向かいます。



標高2,487mのバコ山国立公園 Mts.Iglit-Baco National Park  (Google MapのHPより拝借)

1944年12月18日、 ブララカオ・デュタイ(小高地)の集結地に到着。其処には、デュタイ(小高地)ら10km離れたブララカオに駐屯していた陸軍第1中隊第1小隊(60名)が貴重な食料在庫を携えて先着していました。

1944年12月20日、ゲリラが跋扈するラバンガン上流を抜けて退避した石橋一郎少尉配下の海軍第955部隊(51名)の内48名が集結地に到着します。脱出時に、米軍水雷艇との銃撃戦で2名戦死、俘虜1名を出していました。 同行していた筈の陸軍第三小隊の橋本分隊10名の姿が見えません。2名がマラリア、8名が餓死によって全滅していました。

K氏の父君が所属する海軍第955部隊の48名はデュタイ(小高地)から南方10㌔のブララカオ海岸で機帆船を奪取してルソン島への脱出を企図しますが、ゲリラに発見されて銃撃戦となり、指揮官の石崎少尉以下10名が戦死。K氏の父君を含む生き残りの38名は、戦友の死体をブララカオ山麓の叢林に隠蔽したまま、命辛辛デュタイ(小高地)へと逃げ帰ります。


現在も昔と同じように海岸線にへばりつくように建つブララカオの魚村

翌日、陸軍第1中隊第3小隊(大岡昇平氏同行)は、ルソン島バタンガスから到着予定の山本少尉配下の斬り込み隊(120名)を迎えにプララカオに降りた折に、海軍第955部隊の戦死者10名をブララカオ山中に埋葬するのを手伝ったと書き残されています。当然ながら、K氏の父君を含む海軍955部隊の生き残りも同行していたに違いありません。

さて、
海軍第955部隊が脱出失敗騒動を起こしている頃、西ミンドロ州北部のパルアンに駐屯していた陸軍第1中隊第2小隊(渡辺勝少尉)からの無線通信連絡が途絶えます。米軍のパルアン掃討作戦は翌年の1月5日なので、渡辺小隊を全滅させたのは、米軍が支援する現地ゲリラということになります。陸軍第1中隊の3個小隊の中で全員戦死によって壊滅したのは渡辺小隊だけでした。



ミンドロ島西ミンドロ州北端のパルアン  (HP Trip aviser拝借)

大岡昇平氏の記述によれば、ブララカオ山中で何もすることなく屯していた日本陸海軍の多くは、マラリヤ蚊が棲息し難いと言われる標高500m以上のデユタイ(小高地)を本拠にして、北東の721高地と南西の517高地近辺に露営していたようです。(高地名を示す数字は標高m)


米軍上陸地点のサンホセ、露営地のデュタイ(小高地)、517高地、721高地の位置図
訂正:地図内の217高地は721高地のミスタイプ


しかし、多くの日本軍兵士の身体は、サンホセの平地に駐留していた頃から、既に悪性のマラリア原虫に冒されていたようです。マラリア特効薬のキニーネを飲まずに手元に貯め置き、現地住人に与えて甘菓子と交換していた大岡昇平氏も例外ではありませんでした。


ハマダラカが媒介するマラリア原虫の電子顕微鏡写真 (ウイキペディア)

劣悪な山中の露営生活で甚だしく体力を消耗した兵士は、マラリア特有の高熱や頭痛を併発、やがて意識障害や腎不全に至って斃れる兵士が続出。退避する時に衛生兵がマラリヤ特効薬のキニーネを携行するのを忘れたために、軍医も手の施しようがなかったようです。

1944年12月20日、日本軍兵士の大半が山中でマラリア熱と食料不足で疲弊している頃、サンホセ海岸線に上陸した27,000名の米軍部隊は、海軍のゼロ戦や陸軍の一式戦闘機による特攻を受けながらも、3箇所の空港建設を急ピッチで遂行し、先ず最初にヒル飛行場を完成させてレイテ島の陸軍機180機の移動を終えています。

更に、二番目のエルモーア飛行場内に爆撃機用滑走路の追加工事を行い(12月28日完成)、三番目となるアトキンソン飛行場の工事にも着工するという凄まじいほどの早業です。
(資料:モリソン氏の米國海軍第大戦史・フィリピン解放より)


ルソン島北部山中に籠もる日本軍(山下大将)を攻撃した米軍のB-25爆撃機 (HPより拝借)

1944年12月25日、ブララカオ基地からデュタイ(小高地)に退避していた陸軍第1中隊第1小隊(田中少尉)は、米軍上陸地点サンホセの敵情監視をするために、デュタイ(小高地)から南西9㌔の517高地へ移動。サンホセ海岸線近くに出現した新設飛行場からB25爆撃機が頻繁に離発着するのを見留めて報告しています。

デュタイ(小高地)に屯する日本陸海軍の食料在庫は乏しく、多くの兵士が栄養失調に陥っていた・・・と僕は思い込んでいたのですが、大岡昇平氏の『ミンドロ島ふたたび』を何度も読み返している中で、食料在庫の供給が偏向していたらしい事に思い至りました。

僕の思い違いは、何の役にも立たないマラリア患者に対して『自死するのが最高のご奉公だ』として食料供給を止めたり、野戦病院側も『食料を持参しない患者の入院を拒絶』したりして、1日当たり平均3名がマラリアと栄養失調で死亡していたとする衝撃的記述に惑わされてしまったからでした。

ところが、デュタイ(小高地)から517高地へ偵察に出た陸軍第1中隊第1小隊(田中少尉)や、次回ブログで触れる『山本少尉の率いる120名の斬り込み隊』に対しては、相応の食料供給が行われていたと思われる表現がちらほらと垣間見えて来たのです。

プララカオから機帆船を奪取して脱出を試みたK氏の父君の所属する海軍第955部隊は、ゲリラの襲撃から逃れる時に貴重な食料を全て失ってしまったために、デュタイ(小高地)に逃げ戻ってからは、小動物や草木を求めて山野を彷徨うしかなかったと思われます。

1944年12月26日、 米軍によるデュタイ掃討作戦を逃れて立木に登って身を潜めていた海軍第955部隊のK氏の父君は、あまりの空腹で意識朦朧になっていたところを、米国第8軍の兵士に発見されて俘虜となります。

俘虜となったK氏の父君は、米兵に伴われてデュタイ(小高地)からブララカオまで四時間余りをかけて下山。米軍の上陸支援艇でサンホセの野戦病院へ移送されて入院。体力を回復後に、遠く離れたレイテ島のタクロバン俘虜収容所へと移されています。大岡昇平氏が同じ場所のデュタイ(小高地)で米軍俘虜となる1ヶ月前の事でした。     

1944年12月26日23:00、 K氏の父君がデュタイ(小高地)で俘虜として捉えられた同じ日、仏領カムラン湾から到着した日本海軍の第二水雷戦隊(司令官:木村昌福少将)は、ミンドロ島マンガリン湾内の米軍艦隊に向けて40分間に亘る艦砲射撃を行っています。


ミンドロ島海戦(礼号作戦)で木村少将が座乗した旗艦の駆逐艦 霞

しかし、デュタイ(小高地)で何もすることなく屯している日本陸海軍の兵士や、意識朦朧状態で俘虜になったばかりのK氏の父君は、サンホセ海上で起こっている事を知る由もありません。

日本の海戦史では、木村昌福少将が行ったミンドロ島海戦(礼号作戦)を、太平洋戦線における帝国海軍の組織的戦闘における最後の勝利として高く評価していますので、御承知の方も多いのではないでしょうか。

しかし、米軍側の損害は、輸送船1隻喪失、魚雷艇数隻損傷、航空機30機損傷、飛行場施設若干損傷程度であり、ミンドロ島の戦況に大きな影響を与える程の作戦ではなかったようです。

次回のミンドロ島旅行の最終章では、デュタイ(小高地)で俘虜となった大岡昇平氏とK氏の父君が、レイテ島タクロバンの俘虜収容所を経て日本に生還されるまでの経緯を、乏しい資料しかないのですが、綴ってみたいと思っています。
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2016年07月12日(火) 13時20分47秒

8:比島旅行・ミンドロ島・脱出に失敗した海軍敗残兵

テーマ:フィリピン旅行
前回の粗筋
バンコク在住の親しき友人K氏と共に、K氏の父君が旧日本海軍の航空機整備兵として駐留されたフィリピンの戦跡地を巡った時の旅行記を書いています。本日は、6月30日付けブログ、7:比島旅行・ミンドロ島・山中へ退避の続きです。

1944年12月15日 06時10分、ミンドロ島南西部のマンダリン湾に米軍艦隊(108隻)が押し寄せ、大岡昇平氏の所属する陸軍第1中隊本部&第三小隊とK氏の父君が所属する海軍第955航空部隊が守備するサンホセに艦砲射撃を開始します。

やがて、米軍の空港建設要員1万7千人を含む約2万7千人がサンホセに上陸し、海岸線に沿って30㎞、内陸に10㎞の橋頭堡を難なく構築。ルソン島、硫黄島、沖縄などの日本軍陣地を攻撃するための空港建設(3箇所)に取り掛かり、12月下旬までに2箇所の飛行場を完成させます。

サンホセ駐屯の日本陸軍第1中隊本部&第三小隊(51名)、陸軍航空気象班(6名)海軍第955部隊(60名)、そして在留邦人の4名を含む総員121名は、米軍からの最初の一発目の艦砲射撃を受けると直ちに持ち場を放棄。予め定められていたバコ山に連なる山中の集結地点に向けて退避を開始します。



大岡昇平氏の所属部隊が最初の一夜を過ごした鋸山(標高400m)の山麓
(現地呼称:エンジェル山)(HPより拝借)


12月16日、大岡昇平氏の所属する陸軍部隊と在留邦人の一行は、鋸山の山麓に沿ってバコ山に連なる山塊に取り付き、集結地点に定められていた南南東20㎞のプララカオのデュタイ(小高地)を目指して山越えの途につきます。


鋸山から日本軍の集結地点・小高地(デュタイ)へ連なる山並

西ミンドロ州南部プララカオのデュタイ(小高地)へは、米軍の艦砲射撃と掃討作戦から逃れる日本軍敗残兵の4グループ(下記)が、其々のルートに分かれて向かっていました。

①バランゲイ砂糖工場に駐屯する陸軍第1中隊本部と第三小隊の51名(中矢中尉)。
②カミナウイット分掌に駐屯する陸軍第1中隊第三小隊橋本隊の10名。
③カミナウイット水上機基地に駐屯するK氏の父君の海軍第955部隊の60名(石橋少尉)。
④プララカオ海岸線に駐屯する陸軍第1中隊第一小隊(田中少尉)。



日本軍の集結地点・デュタイ(小高地)へ連なる山並

12月16日早朝、険しい山中を運搬するのが困難になった陸軍航空気象班の大型無線機を焼却処分することになり、陸軍第1中隊本部付き暗号手の大岡昇平氏は、ルソン島バタンガスの大隊本部宛に最後の通信文を電送しています。

昨15日0600、敵は艦船60隻(*)をもってサンホセ西方4㌔のサンドラヤンに上陸せり。本隊は3日の予定をもってプララカオに向かい、田中隊と連絡の上新たに企図せんとす。現在地サンホセ北方10㌔。全員士気極めて旺盛、誓って撃滅を期す。

*)米軍艦船60隻は、サンホセ海岸から内陸6㌔に位置する砂糖工場の屋上から陸軍下士官が視認した隻数ですが、実際にマンガリン湾に押し寄せた米軍艦船は108隻でした。

大岡昇平氏の電文から、鋸山からバコ山の南南東10㌔先に位置するデュタイ(小高地)までの道程は3日間。一方、ラバンガン川上流からデュタイ(小高地)を目指した海軍第955部隊(60名)と陸軍第一中隊第三小隊橋本分掌隊(10名)の道程は5日間だったことが分かります。


西ミンドロ州と東ミンドロ州を跨いで聳える標高2,487mのバコ山(HPより拝借)

12月18日、中矢中尉の率いる陸軍部隊の主力(大岡昇平氏の所属部隊)は、山中誘導を依頼した現地住民のお陰で、在留邦人2名の脱走はあったものの、犠牲者を出すことも無く集結地のデュタイ(小高地)に到達。誘導してくれた案内人に帰途の食料を与えて解放。荷物運搬の水牛も返却しています。


西ミンドロ州のバランゲイで見かけた水牛

12月20日、2日後れで、ゲリラが跋扈するラバンガン上流を抜けて退避して来た石橋一郎少尉配下の海軍第955部隊(57名)がデユタイ(小高地)で合流します。カミナウイット水上機基地退避時に米軍魚雷艇の襲撃を受けた折に、1名戦死、1名俘虜、1名が行方不明になっていました。

海軍部隊に同行していた陸軍第三小隊カミナウイット分掌の橋本隊の10名は、5日間の退避行中に全員が死亡しています。ラバンガン河口でマラリヤの2名が落伍して行方不明となり、残り8名は餓死したと記録されています。

カミナウイット駐屯中に既にマラリヤに感染していて、逃避行中に発病して死亡することは想像できるとしても、僅か5日間の道程で8人全員が餓死するなんてことがあるのでしょうか?逃走中にゲリラによって狙い撃ちされた可能性もあるのでは・・・? 当時の事情を何も知らない戦中生まれの僕には???ばかりです。

同行していた陸軍の分掌隊が全員死亡するという衝撃を目の当たりにしたからでしょうか?それとも逃避地点を秘匿するためでしょうか? 海軍第955部隊の古参下士官は、デュタイ(小高地)まで案内してくれた現地住民を尽く刺殺したそうです。荷物運搬の水牛は、当然の如く、食料として刺殺したに違いありません。 

集結地のデュタイに先着していた大岡氏の所属する陸軍部隊(戦闘能力の低い補充兵部隊)は、海軍の峻烈な下士官の刺殺行為を見て慄いたのではないでしょうか。大岡昇平氏の作成したデュタイ(小高地)に於ける其々の部隊の露営位置図を見ると、海軍第955部隊の露営地だけが離れた場所にあって孤高を持しているように見えるのは・・・僕だけでしょうか。

K氏の父君の所属する海軍第955部隊の生き残り48名の目には、命辛辛到達したデュタイ(小高地)は、ゲリラ部隊に囲繞された危険極まりない地帯に見えたのでしょうか? 海軍単独で南方10㌔のプララカオ海岸へ下山する決定を下します。


僕とK氏が乗ったサンホからプララカオに向かう小型バス

戦後、サンホセを訪れた大岡昇平氏がプララカオの山中に眠る戦友に逢いに行こうとしたところ、反日感情の残るプララカオに案内するのを嫌ったフィリピン軍将校と下士官のサボタージュにより、旅の究極的願望を果たせなかったという恨みの記述がありました。

僕とK氏は、K氏の父君が所属する海軍第955部隊が下山したミンドロ島最南端のプララカオに行くために、民間の小型バスに乗り込みました。サンホセからプララカオまでの約20㌔余りの旅程は、バコ山に連なる小高地を幾つも越えて突っ走る埃の舞い立つ山道でした。


サンホセからプララカオに向かう途上の山道

年代物の9人定員のトヨタ箱バンに、17人~20人の乗客が押し込められます。建て付けの悪い窓から熱風と埃が舞い込み、故障したエアコンは扇風機の役割すらも果たしていません。悪路の衝撃を吸収する四本のバンパーも既に機能を失っていて、お尻の筋肉と尾骶骨をこれでもかとばかりに突き上げます。

話を本筋に戻しましょう。
山中のデュタイ(小高地)から海岸線のプララカオに下山した海軍第955部隊(48名)の目的は、プララカオの舟溜りで機帆船を奪取してルソン島へ脱出することでした。まさに海軍らしい発想と言えますね。



南シナ海に面するプララカオの舟溜まりに浮かんでいたバンカと呼ばれる小型漁船

ところが、直ぐに動かせる手頃な機帆船が見つからず、夜陰を利用して故障していた機帆船1隻の修理に取り掛かります。しかし、三日目にゲリラの襲撃に遭い、石崎少尉(東京商大出身の予備学徒)以下10名は敢え無く命を落としてしまいます。K氏の父君を含む生き残りの38名は、戦友の死体を叢林に隠蔽して這々の体でデュタイ(小高地)へ逃げ帰ります。

数日後、陸軍第1中隊第三小隊(大岡昇平氏同行)は、ルソン島バタンガスから到着予定の山本少尉配下の斬り込み隊(120名)を迎えにプララカオに降りた折に、海軍第955部隊の戦死者10名をプララカオの山裾に埋葬するのを手伝っています。K氏の父君を含む海軍第955部隊の生き残りも、当然ながら、同行していたと思われます。

兵隊時代の大岡昇平氏は、デュタイ(小高地)からプララカオに四回下山しています。三回はプララカオに上陸する斬り込み隊の受け入れ(1回目は海軍第955部隊の戦死者の埋葬を兼ねていました)。四回目は、デュタイ(小高地)でマラリヤで昏倒して米軍の俘虜になって下山した時だったそうです。

大岡昇平氏のプララカオ・デュタイ(小高地)再訪の目的は、マラリヤと飢餓で落命した多くの戦友の魂に額ずいて語り合い、自らも手伝って埋葬した海軍兵士(10名)の遺骨の一部でも持ち帰りたかった・・・・と述懐されています。

大岡昇平氏に成り代わることは到底できませんが、プララカオの海岸線から北方10㌔の山中に位置するデュタイ(小高地)に向かって合掌し、心のなかで祈りを捧げました。

次回は、西ミンドロ島のデュタイで米軍の俘虜となった大岡昇平氏とK氏の父君がレイテ島の俘虜収用所を経て日本へ生還するまでについて書こうと思っています。
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2016年06月30日(木) 15時15分06秒

7:比島旅行・ミンドロ島・山中へ退避

テーマ:フィリッピン旅行
バンコク在住の親しき友人K氏と共に、K氏の父君が旧日本海軍の航空機整備兵として駐留されたフィリピンの戦跡地を巡った時の旅行記を書いています。本日は、6月21日(火)付けブログ、6:比島旅行・ミンドロ島の戦い・艦砲射撃1発で敗残兵の続きです。

前回までの粗筋
1944年12月15日 06時10分、ミンドロ島南西部のマンダリン湾に米軍艦隊(108隻)が押し寄せ、大岡昇平氏の所属する陸軍第1中隊本部(第三小隊含む)とK氏の父君が所属する海軍第955航空部隊が守備するサンホセに艦砲射撃を開始。

米軍の空港建設要員1万7千人含む約2万7千人がサンホセの海岸線に上陸を敢行。海岸線に沿って30㎞、内陸に10㎞の橋頭堡を難なく構築します。


上陸した米軍の空港建設要員1万7千人は、建設重機を活用して、日本軍陣地のルソン島、硫黄島、沖縄などの攻撃拠点となる3箇所の空港建設に取り掛かり、12月下旬までに2箇所の飛行場を完成させるという凄まじい早業をみせます。

ミンドロ島サンホセ周辺地域を警備していた日本陸軍第1中隊本部と第三小隊(60余名)、そして海軍第955部隊(60名)は、最初の一発目の艦砲射撃を受けると、予め受けていた命令に従って、其々の持ち場を放棄して後背の山中へと退避します。

米軍が上陸したマンガリン湾のサンホセ・カミナウイットを守備していたK氏の父君の所属する海軍第955部隊(60名)と陸軍第1中隊第3小隊第3分隊の橋本分哨隊(10名)の逃亡の記録が残されていました。

米軍のヴァルテイン報告には、米軍魚雷艇隊(23隻)がカミナウイットのK氏の父君の所属する海軍第955部隊の石崎少尉派遣隊(60名)を襲撃した時に、逃げ遅れた通信兵1名を殺害、1名を俘虜にしたとする記述があります。米軍の掃討を逃れてラバンガン河口から後方山地へ退避した海軍第955航空隊派遣隊は、K氏の父君を含めて58名だったことが分かりました。


ミンドロ島南西部サンホセ・カミナウイットの海軍955航空隊跡地
画面奥のラバンガン河口から後方山中の集結地へと脱出。


陸軍第1中隊の橋本分哨隊(10名)は、海軍第955航空隊派遣隊と一緒に、マンガリン湾に注ぐラバンガン河口の沼沢地を抜けて、集結地のミンドロ島南部プララカオ山中の小高地(デュタイ)へと脱出するのですが・・・その5日間の敗走中に全員が命を失っています、2名はマラリヤ、8名は栄養失調による落命でした。

ところが、全滅した橋本分哨隊(10名)と一緒に行動していたK氏の父君の海軍第955航空隊(60名)は、戦死2名、俘虜1名を出したものの、残り57名は集結地点のプララカオ山中の小高地(デュタイ)に到達しています。同じルートを一緒に敗走したにも拘らず、此の大きな違いは何が原因だったのでしょうか?


砂糖工場内の壁面に描かれていた当時の砂糖工場
(戦後になって再稼働するも、1964年に経営破綻)


一方、ミンドロ島南西部サンホセ警備の主力51名が属する陸軍第1中隊本部と第三小隊、陸軍航空部隊気象班(6名)、在留邦人(4名)の総員61名は、海岸から約6㎞内陸のバランゲイ地区ある砂糖工場敷地に集結。砂糖工場に隣接する小学校を兵舎としていた大岡昇平氏の所属する第1中隊本部通信隊も合流しています。


陸軍第1中隊本部の第三小隊が警備していた砂糖工場跡地。
操業停止していた工場内には5千俵の砂糖在庫があったそうです。


フィリピン旅行の出立前に、レイテ島を舞台とする小説『野火』と紀行文『ミンドロ島ふたたび』(両書とも大岡昇平氏の著作)を読み直しました。大岡昇平氏の後日談に『野火の中で描写した“アカシアの立ち並ぶ部落や野火を見た野戦病院への道程”の光景は、実はレイテ島ではなく、ミンドロ島内陸の砂糖工場に向かう道すがらの光景です』という述懐があったのを思い出したからです。

更に、『日本の樹高の低いアカシヤは偽木だが、ミンドロ島南西部のバランゲイ地区の百本以上のアカシヤの喬木は本物だ』、『四方に張り出した根を、自分の陰で蔽う景観は、死の予感に怯えていた私には、この上もなく頼もしい自立の映像だった』と追想されています。


バランゲイの不時着用飛行場跡地の彼方に見えるアカシアの立木
(不時着飛行場は陸軍第1中隊の守備対象でした)


米軍の上陸から逃れてバランガイの砂糖工場に集結した陸軍部隊と在留邦人(4名)を含む総員61名は、西側に広がるサトウキビ畑に沿って少し戻り、不時着用飛行場を過ぎた辺りから左折して牛歩道に入り、北東に連なるバコ山(標高2,487m)連山の西端を目指します。徒歩で約1日の行程だったようです。

僕とK氏が移動用に雇った2台の側車付きオートバイ(地元呼称:トライスクル)も、彼らが徒歩で歩いたと思われる田舎道を辿ります。当時は砂糖黍畑と不時着飛行場があったのでしょうが、今は山裾まで一面に水田と圃場が広がり、所々にアカシヤの並木が残っているのを眺めることが出来ました。


大岡氏の陸軍第一中隊本部と第三小隊が目指したバコ山の西端。
画面中央に鋸山が微かに見えます。


台風27号通過後の熱帯低気圧で生憎の天候でしたが、雨雲の切れ間からギザギザ状の尖った稜線を持つ岩山が見えてきました。大岡昇平氏の部隊は、その山容が鋸の刃先に似ていることから『鋸山』と呼んでいたそうです。

何方かの紀行文に、現地呼称は『チョコレート山』や『悪魔の山』とする記述がありましたが、僕が雇った側車付きオートバイの運転手君は、『エンジェル山だよ』と即答しました。その由来を訊くと、天使の背中の翼の形状に似ているからとのこと。

中新世期頃に出来た礫岩からなる独立峰の鋸山の現地名を、『Mounts Iglit』と主張する人もいました。バコ山に連なる山塊が『Mounts Iglit-Baco National Park』と命名されていることを慮ると・・・当たらずとも遠からじかも知れませんが、本当のところはよく分かりません。



バコ山の西端に位置する標高四百の独立峰・鋸山(HPより拝借)

大岡氏の『ミンドロ島ふたたび』を読むと、青息吐息で最初の宿営地となる鋸山に近づくと、礫岩の尖った峰に次々と狼火が灯るのを見たと記されています。その狼火は、タガログ族と決別してエンジェル山の山中で古代的生活を続けるマンギャン族の連絡手段らしいのですが、敗走を続ける日本軍には、日本軍を襲撃するゲリラの合図に見えたようです。

大岡昌平氏のレイテ島を舞台とした小説『野火』は、ミンドロ島西ミンドロ州の鋸山で見たマンギャン族の狼火を印象深く思われて、『野火』の中の一節に写し換えられたのではないでしょうか。

バランゲイの砂糖工場から鋸山に向けて徒歩で出発した大岡昇平氏は、既にマラリヤに罹って苦しい行軍を余儀なくされています。ミンドロ島は、比島7千群島の中で最もマラリヤの多い島にも拘らず、マラリヤ特効薬のキニーネが無いために、大岡氏やK氏の父君の駐屯されていた地域の住民の半数はマラリヤ患者だったそうです。


熱帯熱マラリアを媒介するハマダラカ(HPより拝借)

大岡氏を含む日本軍は、毎晩の点呼後にキニーネ1錠を飲むことを強制されていたのですが、実際には飲むふりをしてポケットに隠し持ち、外出時に青小豆や菓子とキニーネを交換していたと吐露されています。そのために自分自身がマラリヤに罹ってしまい、山中で生死の境を彷徨うことになるのですが・・・

薬剤は全くの門外漢ですが、キニーネはマラリヤの治療剤だと思っていました。しかし、大岡氏の記述によると、抗マラリヤ剤として使用されていたようですね。当時は、治療剤と抗マラリア剤を兼ねた特効薬だったのかも知れませんね。

僕が現役の時に応援出張した時の話ですが、アフリカ西岸の某国に駐在していた友人も抗マラリヤ剤を服用する振りを装って、実際には現地の人々に無料で分け与えていました。親切心からと言うよりは、強力な抗マラリア剤を服用する事による内蔵への悪影響を考慮したからだったのですが・・・案の定マラリヤを発病し、飛行機をチャーターしてロンドンの病院へ直送されて命拾いしたことがありました。

バコ山の西端に到達した陸軍兵士(57名)と在留邦人(2名)の59名は、独立峰の鋸山で最初の露営をすることになります。バランゲイの砂糖工場から同行していた在留邦人4名の内2名は、これから先の山越と縦走に危険を覚えたのか、いつの間にか姿をくらましてしまいます。ゲリラに殺害されたのか、生き延びて日本に生還したのか、ようとして行方が知れないそうです。

1日だけ鋸山で宿営した第1中隊本部と第3小隊(在留邦人2名含)の59名は、他のルートから脱出した陸軍第三小隊分哨隊(10名)とK氏の父君の海軍第955部隊(57名)との集結地点を目指し、山中を南南東に向けて20㎞の縦走に出発します。

この時点では、大岡氏の一行は、仲間の陸軍第三小隊分哨隊の10名全員と海軍第955部隊60名の内の3名が死亡した事実を知る由もありません。

次回は、バコ山の連山を敗走する途中で、大岡昇平氏の陸軍第1中隊とK氏の父君の海軍第955部隊)の大半がマラリヤと飢餓によって斃れる道中に触れてみたいと思います。




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2016年06月21日(火) 10時29分04秒

6:比島旅行・ミンドロ島の戦い・艦砲射撃1発で敗残兵

テーマ:フィリッピン旅行
6月12日付けのブログ『5:比島旅行・ミンドロ島・零戦改造の水上戦闘機』の続きです。

前回までの粗筋
バンコク在住の親しき友人K氏の父君が旧日本海軍の航空機整備の補充兵として駐留されたフィリピンの戦跡地を巡ることになりました。最初に訪れたのは、ルソン島に近いミンドロ島西ミンドロ州サンホセ・カミナウイットの海軍護衛航空隊佐世保鎮守府常設航空隊(略称:第955海軍航空隊)の水上機基地跡です(下掲左写真)。

  
左:ミンドロ島西ミンドロ州サンホセ・カミナウイットの第955海軍航空隊水上機基地跡
右:イメージ写真・南太平洋マーシャル諸島の海軍航空隊水上機基地(HPから拝借)

K氏の父君が水上機基地で整備されていた航空機は、三菱零式艦上戦闘機11型(単座単葉)を水上機仕様に改造した中島二式水上戦闘機 (略称:二式水戦)でした。そして、栗田艦隊の重巡洋艦羽黒などが搭載していた三菱零式水上観測機11型(略称:零観)も、レイテ島海戦に備えてカミナウイットに前進駐留していたようです。

  
左:カミナウイット基地の常駐機・中島二式水上戦闘機 (単座単葉)
右:戦艦大和や重巡羽黒等に搭載されていた三菱零式水上観測機11型(複座複葉)
(HPより拝借)


フィリピンの戦跡巡りをするに当たって、K氏の父君(故人)が所属されていた海軍955航空隊の駐屯地を記した資料が無くて困り果てていたのですが・・・

期せずして同時期にミンドロ島西ミンドロ州南西部のサンホセ・バランゲイに駐留されていた大岡昇平氏(陸軍暗号手)の『ミンドロ島ふたたび』と『俘虜記』の著作に助けられて、第955海軍航空隊水上機基地の当時の在り処を推定することが出来たのは幸いでした。

ほぼ同年齢の御両氏は、海軍と陸軍の違いはありますが、ほぼ同時期に日本で補充兵として臨時召集され、フィリピン・ミンドロ島内の近隣地域に駐留、同じ山中で虫の息になっているところを米軍に捉えられて俘虜となり、レイテ島の俘虜収容所に送致されるという同じ足跡を歩まれていたのです。

K氏の父君と大岡昇平氏の軍歴を併せて下掲して置きます。 【青字=大岡氏の軍歴】
 ■1944年3月    近衛歩兵聯隊の暗号兵として教育召集(35歳)
 ■1944年4月1日  舞鶴鎮守府舞鶴海兵団に海軍二等整備兵として入営・臨時招集の補充兵(36歳)。
 ■1944年4月10日 海軍鈴鹿航空隊で航空機整備の初歩訓練。
 ■1944年6月19日 海軍名古屋航空隊・岡崎分遣隊(第二岡崎海軍航空隊)で航空機整備の訓練。
 ■1944年6月     第35軍司令部第105師団陸軍二等兵暗号手として臨時召集
 ■1944年8月    第105師団独立歩兵第359大隊臨時歩兵第1中隊(西矢中尉)本部に配属。
              ミンドロ島西ミンドロ州南西部サンホセ・バランガイの中隊本部暗号手として駐留。
 ■1944年8月1日  海軍護衛航空隊佐世保鎮守府常設航空隊(第955海軍航空隊)に配属。
 ■1944年9月上旬 ミンドロ島南西部サンホセ・カミナウイットの水上機基地に駐留。

四国の半分の大きさのミンドロ島に駐留していた日本軍は、陸軍兵と海軍兵、そして、レイテ島へ向かう途中に撃沈された民間輸送船の船員200名(非戦闘員)を含む726名。しかも、兵士の大半は、敗色が濃くなって臨時召集された戦闘能力の低い補充兵でした。

ミンドロ島の日本軍の駐留地と兵力の内訳(参考)
 ■西矢中尉の率いる臨時歩兵第1中隊=160名・・・第1中隊本部(西ミンドロ州サンホセ)
   第一小隊 プララカオ、第2小隊 パルアン 、第三小隊 サンホセ
   ※大岡昇平氏は第1中隊本部付きの暗号手
 ■塩野中尉の率いる臨時歩兵第2中隊=100名・・・第2中隊本部(東ミンドロ州カラパン)
   第一小隊 ルバング島、第二小隊 ピナマラヤン、第三小隊 カラパン
 ■石橋少尉の率いる海軍955航空派遣隊=60名・・・本部(西ミンドロ州サンホセ・カミナウイット)
   ※K氏の父君の所属部隊
 ■陸軍第四航空軍気象観測班=6名
 ■船舶工兵(大発艇の運航)=200名 
 ■撃沈された徴用民間輸送船の船員=200人(非戦闘員)


ミンドロ島(西ミンドロ州・東ミンドロ州)の日本軍駐留地・・・(赤字)

ルソン島バタンガスの陸軍第8師団本部に駐留する後方要員を合わせても1千人余
りの手薄な守備体制だったことが分かります。兵力を集中して死守すべきはルソン島であり、ミンドロ島は見放された拠点だったのかもしれません。


しかし、連合国軍南西太平洋方面総司令官ダグラス・マッカーサーの考えは違いました。ルソン島に立て籠もる日本陸軍を攻撃する陸上航空基地建設の適地を求めていたマッカーサー大将は、日本陸軍を撃滅して奪還したレイテ島の飛行場よりも、日本軍の手薄なミンドロ島に飛行場3箇所を新たに建設する事を優先したのです。


レイテ島 ⇔ マニラ ⇔ ミンドロ島の位置関係を見るとミンドロ島の優位性が分かります。

米軍のミンドロ島攻略の経緯を振り返ってみましょう。
1944年12月12日
レイテ島を奪還したマッカーサー大将は、ストルーブル准将の艦隊(108隻)を、ルソン島に近いミンドロ島南西部のマンガリン湾へ急行させます。


1944年12月13日
米軍艦隊がミンダナオ海からスールー海に至る海域を航行中、神風特攻第二金剛隊(零戦3機)と陸軍特攻一宇隊(隼1機)が旗艦ナッシュビルの艦橋と艦尾に激突して爆発。砲弾が誘発して戦死133名、戦傷190名を出す大惨事に見舞われます。



戦線離脱を余儀なくされたストルーブル准将座乗の旗艦・軽巡洋艦ナッシュビル(HPより拝借)

ストルーブル准将は、大破した旗艦ナッシュビル号から駆逐艦ダーシュルに旗艦を移し、ミンドロ島への航海を続けます。ナッシュビル号は、フィリピンのコレヒドール島を脱出したマッカーサー大将が豪州→ニューカレドニア→レイテ島上陸に至るまで座乗していた旗艦でした。

当時の日本南方総軍は、ストルーブル准将の上陸地点をパラワン島かネグロス島辺りと誤認して警報を発令していたのですが、暫くして、米軍の目的が全く予期していなかったミンドロ島上陸と分かって慌てふためきます。しかし、とき既に遅しです。

1944年12月15日 06時10分
旗艦・駆逐艦ダーシュルに座乗するストルーブル准将に率いられた米軍艦船108隻が西ミンドロ州サンホセのマンガリン湾を埋め尽くします。


大岡昇平氏は、その時の様子を『ミンドロ島ふたたび』に次のように綴っています。
マンガリン湾の見張りをするために電報局の屋上を共用していた陸軍西矢隊と第955海軍航空隊は、12月15日の早朝、まだ暗いカミナウイットの沖合で盛んに燃えている火を認めた。夜が明けるとマンガリン湾一杯に艦船がいた。『連合軍が来た』と思った途端に艦砲射撃の第1発目が発射された。(hiro-1要約)



ストルーブル准将に率いられた米軍艦船108隻が攻め寄せたマンガリン湾の早朝風景
宿泊したVILLAの食堂から撮影(左奥:サンホセ・カミナウイット)


マンガリン湾を埋め尽くしたストルーブル准将の艦隊編成
  ■護衛艦隊:旗艦・駆逐艦(ダーシュル)、軽巡=2隻、駆逐艦=11隻
  ■支援艦隊:護衛空母=6隻、戦艦=3隻、重巡=2隻、魚雷艇=23隻
  ■上陸支援:高速輸送艦=8隻、戦車揚陸艦=30隻、中型揚陸艦=12隻


1944年12月15日 07:10
駆逐艦による一発目の艦砲射撃(威嚇射撃?)がサンホセ海岸に向けて発射されます。


1944年12月15日 07:30
一発目の艦砲射撃を合図に、米軍の第19歩兵連隊と503空挺歩兵連隊の約2万7千人(内空港建設要員1万7千人)は、サンホセの長い海岸線に上陸を敢行。

しかし、どうしたことか、日本軍の陸上陣地からの反撃はこれぽっちもなく、ブザンガ河口からサンホセ市街地の海岸線までの30㎞、内陸へ10㎞の橋頭堡を呆気なく構築します。


何となれば、米軍による艦砲射撃の最初の1発が発射された時、サンホセ海岸から6㎞内陸に入ったバランゲイの砂糖工場に駐屯していた大岡氏の所属する陸軍第1中隊本部と配下の第3小隊は、端から戦うことを放棄して、後背のバコ山(標高2,487m)に連なる山中へスタコラサッサと退避する真っ最中だったのです。


大岡昇平氏の所属する陸軍西矢中隊本部と第三小隊が駐留していた砂糖工場の跡地
砂糖工場入口周辺に、目印となる緑葉豊かなアカシアの大木が生き残っていました。


大岡氏の著述によると、西ミンドロ州各地に駐留していた西矢中尉の第二中隊(3個小隊)は、ルソン島バタンガスの大隊本部(第105師団独立歩兵第359大隊)から、下記の命令を受けていたとあります。
米軍が上陸したら、1個小隊だけをサンホセ高地の見張り分哨に残し、他の部隊は後背のMt.Bacoの連なる山中に退避して偵察妨害のゲリラ戦に従事せよ』(hiro-1要約)



西ミンドロ州と東ミンドロ州を跨いで聳える標高2,487mのバコ山(HPより拝借)

命令に従って退避した山中には、マラリヤ原虫を持つハマダラ蚊の大群が生息しています。ところが、艦砲射撃に動顛した衛生兵が、必需品のマラリヤ特効薬キニーネを運び出すのを忘れるという大失態を犯してしまいます。これが後に悲惨な結末を露呈することになるのですが・・・・

1944年12月15日 08:55
ミンドロ島駐屯の日本軍がバコ山中に退避した後、日本海軍の特攻機13機と直掩機12機がネグロス島から飛来、マンガリン湾内に碇泊する米艦船に対して猛烈な攻撃を加えます。


 
左:LSTの乗員を救助した駆逐艦・モール 右:神風特攻に慄く巡洋艦の砲手(HPより拝借)
A cruiser and a destroyer Moale covering American landing on the island Mindro 15 Dec.1944.


マンガリン湾北西のブザンガ川河口の海浜に接岸中の戦車揚陸艦(LST-472)も、特攻1機の体当たりを受けて爆発炎上し、積載中の車両250トンを喪失しています。しかし、特攻機の体当たり攻撃だけで、米軍の上陸作戦を阻止することなど出来る筈もありません。

1944年12月15日14:00
日本軍が退去したサンホセ・カミナウイット船着場を米軍魚雷艇隊(23隻)が占領。
この時点では、K氏の父君の駐留されていた水上機基地は、B24爆撃の砲撃を受けて跡形もありません。


12月26日頃
米軍の空港建設要員1万7千人は、大型建設機械をフル活用して、3箇所の空港建設に取り掛かり、12月下旬頃には、飛行場2箇所を仮オープンして、航空機約120機を展開するという凄まじい早業です。人海戦術でモッコを担いで土砂を運ぶ日本軍方式で太刀打ち出来る訳がありません。



現在も使用されている西ミンドロ州サンホセの空港 (旧マクガイヤ飛行場)

1944年12月15日の日没前
米軍による初日の上陸作戦は約12時間で終了。その後、48時間以内に、ミンドロ島を二分する西ミンドロ州と東ミンドロ州の主要地域の占領を終えています。/font>

斯くして、1944年12月15日早朝から日没に掛けての初日の上陸作戦は、米軍の一方的勝利によって終焉となりました。

1944年12月15日早朝の艦砲射撃の最初の1発を受けて、バコ山に連なる山中に逃げ込んだ日本の陸海軍兵士と非戦闘員の多くは、2週間もしない内にマラリヤに罹って横臥し、永続的な低栄養状態から飢餓に陥って急速に体力を消耗、軍隊としての機能を急速に失って行きます。

バコ山に連なる山中で、大岡氏はマラリヤに罹って野天で横臥し、K氏の父君は栄養失調によって身動き出来なくなるのですが・・・・デュタイと呼ばれる山地の灌木の中でマラリアの高熱で意識朦朧となって死を意識した大岡昇平氏の文章が頭に残りました。


フィリピン西部の島々では、12月は収穫期である。我々が歩む前方の原が焼け、トウモロコシの殻を燃やす煙が上がっていたのを思い出した。
『艦砲射撃1発で敗残兵になっちゃたなあ』と或る下士官が嘆いた。
敗走の中で自然がますます美しくなって行くのは、自分の死が近づいた確実なしるしのように、私には思われた。しかし、その時、私が見た自然がフィリピンの観光的美景であったのは皮肉である。


次回は、ミンドロ島の山中で露営しながら壊滅への道程を歩む日本陸軍の2個中隊と海軍955部隊(K氏の父君の部隊)の様子について綴ってみたいと思います。
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2016年06月12日(日) 15時46分50秒

5:比島旅行・ミンドロ島・零戦改造の水上戦闘機

テーマ:フィリッピン旅行
2016年6月5日付けの投稿記事 『3:比島旅行・ミンドロ島の海軍基地跡』の続きです。

前回までの粗筋
2015年の3月頃だったでしょうか、気心の知れたバンコクの呑み友で旅友でもあるK氏が前立腺癌治療のために日本に一時帰国することになって励ましの酒食をした折に、K氏が問わず語りに今は亡き父君の思い出話を始めました。

『フィリピン戦線で米軍の俘虜となった父親は、レイテ島タクロバンの俘虜収容所を経て日本に生還。自分(K氏)が生まれた・・・・』。僕が『今年の海外旅行はフィリピンにしようか?』と軽く問うと、K氏が『いいね!』と即応して比島の戦跡巡りをすることに相成りました。

K氏が厚生労働省から入手した父親の海軍軍歴簿と大岡昇平氏の著作4冊からK氏の父親の所属部隊の足跡を調べあげてから、K氏と一緒にフィリピンのミンドロ島西ミンドロ州サンホセ空港に出立。K氏の父君が所属されていた第955海軍航空隊の水上戦闘機基地跡のカミナウイットの地に佇むことが出来ました。(下掲写真)



第955海軍航空隊水上戦闘機基地が在ったミンドロ島サンホセ・カミナウイットの遠浅の海辺

水上戦闘機がカミナウイットの遠浅の海面で轟音を響かせていたのは、今から70年以上も昔のことなので、当時の痕跡が残っている筈もないのですが・・・昔と変わらないであろう海辺の様相を見つめていると、海面に浮かぶ水上戦闘機(下掲写真)が眼前に浮かび上がって来るような心持ちになります。


1944年8月に南洋に展開された水上戦闘機の基地(写真:南太平洋マーシャル諸島)  (HPから拝借)

K氏の父君が派遣されたミンドロ島サンホセ・カミナウイットの水上機基地は、1944年8月1日付けで、ミンダナオ島ダバオに本部を置いた佐世保鎮守府の護衛航空隊常設部隊(海軍第955航空隊)が南フィリピンの飛行場の無い島嶼を中心に展開した水上戦闘機の派遣基地の一つでした。


米軍のような飛行場建設重機を持たない日本軍が採用した水上戦闘機  (HPから拝借)  

第955海軍航空隊の水上戦闘機の派遣基地の役割は、戦艦大和や長門などを擁する連合艦隊のボルネオ島ブルネイ泊地からフィリピンのルソン島北部に至る南シナ海東縁の海軍の補給線を防衛することにあったようです。

K氏の父君が航空機整備の補充兵として、サンホセ・カミナウイットの水上戦闘機基地(石崎一朗少尉以下60人)に派遣されたのは、1944年9月上旬頃、既に制空権と制海権を失った日本軍の主力が為す術もなく敗走を重ねていた時期とほぼ重なります。


海浜で飛行燃料を給油する日本海軍の水上戦闘機  (HPから拝借)

ミンドロ島のサンホセ・バランゲイに駐屯していた陸軍西矢中隊第一小隊の暗号兵だった大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』の中に、サンホセ・カミナウイットの水上戦闘機基地を若干揶揄したような一節(下記)があります。(hiro-1要約)

マンガリン湾の入り海に1944年9月末から海軍の水上機と地上要員が来ていた
一度空襲を受ければ、ひとたまりもない下駄履きのちゃちな水上偵察機だ
1944年8月1日、佐世保から南フィリピンに展開した海上護衛航空隊であった


大岡昇平氏の言われる“下駄履きのちゃちな水上偵察機”とは、赤トンボの別名がある川西九三式中間練習機(K5Y)のような複葉複座の海軍練習機のことだろうと想像していたのですが、調べてみて吃驚! ゼロ戦で有名な三菱零式艦上戦闘機11型を改造した二式水上戦闘機 (略称:二式水戦)のことでした。

旧日本軍機に疎い僕ですが、三菱零式艦上戦闘機の名称くらいは知っています。しかし、その零戦を改造したという二式水上戦闘機の存在は初耳でした。K氏の父君が精魂込めて整備した水上戦闘機の事を知りたくて、戦闘機オタクの世界をチラッと覗きみたくなりました。此処から先は、興味の無いお方には退屈極まりない内容になること必定ですので、どうぞすっ飛ばして下さい。


中島二式水上戦闘機のベースとなった三菱零式艦上戦闘機11型  (HPから拝借)  

三菱零式艦上戦闘機から中島二式水上戦闘機への改造点は、着艦用の車輪装備等の撤去、海面滑走用浮体と燃料油槽を兼ねたフロートの追加、機体や電気系統の防水と防錆処置、海面滑走と飛行中の安定性向上のために垂直尾翼の増積と安定板の追加等ですが、それ以外の仕様は零戦の仕様に準じていたようです。


ゼロ戦に近似した中島二式水上戦闘機の機体側面  (HPから拝借)

中島二式水上戦闘機と三菱零戦艦載機11型の諸元比較 青字=零戦艦載機11型
■乗員:1 名(←同じ)■全長:10.24m(9.060m)■全幅:12.50m(12.00m
■全高:4.305m(3.570m)■主翼面積: 22.438m²(←同じ)■自重:1,922kg(1,671kg
■エンジン:栄12型空冷複列星型14気筒x1基(←同じ)■離昇出力:940HP、(←同じ)
■最大速度:437km/h-高度4,300m(517.6km/h-高度4,300m)■着水速度:111km/h
■実用上昇限度:10,500m、(10,080m)■航続続距離:1,150km(2,222km-増槽3,502km
■機首固定機銃:九七式7.7mm×2丁・機首と携行各1400発(←同じ
■主翼固定機銃:九九式1号20mm×2丁・翼内と携行各120発(←同じ


迎撃飛行中の中島二式水上戦闘機  (HPより拝借)

たしかに、中島二式水上戦闘機の戦闘記録には、下掲写真の英軍の双発重戦闘機(Bristol Beaufighter)や米軍の戦闘機(Grumman F6F Hellcat)を撃墜したとする記述もあるのですが、それは極めて希少な事例だったのではないでしょうか。何となれば・・・・


左:米軍GrummanF6F戦闘機 右:英軍重戦闘機 Bristol Beaufighter  (HPから拝借)

太平洋戦争の緒戦に華々ばしい戦果を誇った零式戦闘機も、1944年以降になると、米軍戦闘機の性能を下回るようになり、搭乗員の未熟さも手伝って、大苦戦を余儀なくされています。   


米軍戦闘機に撃墜される零式戦闘機  (HPから拝借)

ましてや、空中戦には不利となる固定フロートを装備した中島二式水上戦闘機です。米軍や英軍の格闘を専門とする戦闘機とDogfightしても互角に戦える筈もありません。

しかし、負け惜しみの強い海軍当局は、偵察や哨戒能力を兼ね備えた二式水上戦闘機を『世界一の性能を備えた水上戦闘機!』と自賛し、1942年7月から1943年12月にかけて生産した327機を、単座の水上戦闘機としては『世界最多の生産台数!』と強がっています。

しかし、単座の水上戦闘機の生産を行ったのは、世界で日本だけだったことを思えば、まさに日本海軍お得意の口先だけの巧言冷色と言わざるを得ませんね。



哨戒中の中島二式水上戦闘機  (HPから拝借)

話は変わりますが、大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』の中に、ブルネイ泊地からミンドロ島沖を経由してレイテ沖海戦に向かう栗田艦隊の戦艦大和や重巡洋艦羽黒などに搭載されていた『水上観測機』の記述があります。

ミンドロ島海戦の記述ではなかったので読み過ごしていたのですが、数日前に読み返した折に、迂闊にも重要な文章を読み飛ばしていたことに気付きました。


栗田艦隊の重巡洋艦羽黒と上空を飛ぶ搭載機の水上観測機  (HPから拝借)

上記写真と下記の引用文章にある“羽黒等の艦載機”とは、大砲の弾着確認と偵察のために使われていた複葉複座の『三菱零式水上観測機11型・FIM2』(略称:零観)のことでした。

大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』の抜粋 (hiro-1要約)
『ボルネオのブルネイ泊地からレイテ沖海戦に向かう連合艦隊の戦艦や重巡(羽黒等)は、あらかじめミンドロ島カミナウイットの基地に艦載機の三菱零式水上観測機を前進駐機させていた。レイテ島沖海戦への航行中に、水上観測機の発艦作業に手間どって、レイテ沖に集結する米軍艦隊の偵察に支障を来たすことを避けるためである』


大岡昇平氏の著作にある通り、ミンドロ島サンホセ・カミナウイットの水上機地を発進してレイテ島沖に向かった『三菱零式水上観測機11型』は、レイテ島沖へ2方面から迫る米軍艦隊を発見(25日04:00)してマニラの南西方面艦隊本部へ緊急打電する功績をあげています。

ところが、南西方面艦隊本部からレイテ沖海戦に向かう連合艦隊旗艦の大和にその電文が届いたのは、レイテ沖海戦が日本の敗北に終わった後の25日17:30という信じられない結果に終わっています。まさに負けるべくして負けたレイテ海戦と言わざるを得ません。



戦艦大和、重巡羽黒等に搭載されていた複座複葉の三菱零式水上観測機11型  HPから拝借

日本海軍の保守派が固執していた伝統的大艦巨砲主義(戦艦決戦)を裏方として支えたのが、戦艦の大砲の着弾観測、敵戦艦の近距離偵察、艦隊上空の迎撃戦闘を行う複座複葉の三菱零式水上観測機11型(FIM2)でした。

しかし、日露戦争以来の大砲による艦隊決戦から飛行機による航空母艦決戦への移行によって、戦艦の大砲の着弾観測を主目的としていた水上観測機(艦載機)は、次第に働き場を失って、飛行場のない太平洋島嶼の水上基地の偵察任務機として転用されるようになります。

飛行場の無かったミンドロ島サンホセ・カミナウイットの水上基地に駐留していたK氏の父君は、中島二式水上戦闘機(単座単葉)の整備ばかりではなく、三菱零式水上観測機11型(複座複葉)の整備にも日夜取り組まれていたのではないでしょうか。

それにしても、日中戦争初期ならいざ知らず、太平洋戦争中の最新戦艦の搭載機が複葉機とは!? これまた未知の航空機ですので調べてみました。

日本海軍の三菱零式水上観測機11型(複座複葉)は、世界の航空機が既に単葉機の時代に移行していたにも拘らず、敢えて当時の先端技術を投入して開発された最初で最後の全金属製複葉機でした。1940年の採用以降の全生産台数は、中島二式水上戦闘機(327台)を大きく上回る704機です。

海軍の航空設計部門が敢えて複葉機を採用した理由は何だったのでしょうか?
僕が想像するのもおこがましいのですが、海面滑走用の大きなフロートによる空力的負荷を軽減して離陸に必要な最大限の上昇揚力と長時間の滞空揚力を得るための方策だったのではないでしょうか。三菱零式水上観測機11型は、当時の空力学的技術を極めたユニークな全金属製複葉機だったのかもしれません。


複座複葉の三菱零式水上観測機11型と中島二式水上戦闘機の諸元比較 
青字=中島二式水上戦闘機
■乗員:2名(1名)■全長:9.50m(10.24m)■全幅:11.00m(12.50m)■総重量:2,550kg
■発動機:「端星13型」800馬力/4,000m(栄12型空冷複列星型14気筒x1 基
■最大速度:369km/h/3,000m(437 km/h-高度4,300m
■武装:固定機銃7.7mm×2(九七式7.7mm×2)■旋回機銃7.7mm×1■爆弾60kg×2


今回のブログは、当初予定していた内容から大きく逸脱して、心ならずも水上戦闘機オタクのような記事になってしまったことを深くお詫び致します。

太平洋戦争末期の1945年、山口県宇部市の我が家が米軍爆撃機(B29)の無差別焼夷弾攻撃に遭って逃げのびました。疎開した広島郊外の母親の実家ではピカドン(原子爆弾)に遭遇。僕は吹き飛んだ天井板、欄間、フスマの下敷きになって泣き叫んでいたそうです・・・戦争を直接体験した年代ではないのですが・・・後期高齢者に手の届く年齢になった今でも、戦争大反対の気持ちを強く持ち続けています。決して戦闘機オタクではありません。

次回は、米軍のミンドロ島上陸作戦を受けて、戦わずして山中に逃避して壊滅した日本陸軍と海軍の足跡を辿ってみるつもりです。
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2016年06月05日(日) 10時52分08秒

4:比島旅行・ミンドロ島の旧日本海軍基地跡

テーマ:フィリッピン旅行
2016年5月30日付けの投稿記事 『 3:比島旅行・ミンドロ島サンホセに到着 』の続きです。

前回までの粗筋
旅友で飲み友でもあるK氏とバンコクの居酒屋で酒食を共にしている時、K氏から『フィリピン戦線で米軍の捕虜となった父親がレイテ島タクロバンの俘虜収容所から日本に生還した』という話を聴かされ、お酒の勢いも手伝って、今は亡きK氏の父君の足跡を辿る旅に出ようということになりました。K氏が厚生労働省から入手した父親の海軍軍歴簿によって、K氏の父君の軍隊での大まかな足跡が判明しました。

海軍の舞鶴鎮守府入営⇒鈴鹿海軍航空隊⇒名古屋海軍航空隊⇒岡崎海軍航空隊で航空機整備兵の教育を受けた後に、佐世保鎮守府の海軍護衛航空隊常設部隊(第955部隊)に配属となり、南シナ海に面したミンドロ島西ミンドロ州南端のサンホセ水上機基地に駐屯。四ヶ月後に同島山中で飢餓状態となって米軍に捕らわれ、太平洋に面したレイテ島の俘虜収容所に送致されていました。

K氏の父君の大まかな足跡が分かったところで、僕とK氏は、バンコクからマニラに向かい、ミンドロ島西ミンドロ州のサンホセ空港に到着。サンホセ郊外の宿泊所となるVILLAに到着。

老日本人2名を迎え入れたVILLAの30歳前後の女性主人は、70年前の日本海軍の水上機基地の跡地に行きたいと言う僕とK氏の突飛な目的と質問に少々面食らっていたようですが、そこは客商売、戦跡巡りのための側車付きオートバイ(トライスクル)2台の手配と値段交渉の面倒までもして貰えたのです。



2台のトライスクルに僕とK氏が分乗してVillaを出発。

僕を乗せた運転手君が先導して、先ずは宿泊所から四キロ離れたサンホセ市街を目指します。お世辞にも快適な乗り心地とは言えませんが、空港から宿泊所まで二キロの道程を1台のトライスクルに2人で乗って身体を苛まれた時のことを思えば、なんとか耐えられそうです。

走行しながら運転手君が声を大にして僕に語り掛けるのですが、中国製エンジンの騒音に掻き消されてよく聞き取れません。切れ切れに伝わる言葉から想像すると、VILLAの女性主人から指示された内容を繰り返しているようです。

『70年前の戦争・・・分かりません・・・市役所・・・観光課の職員・・・聴いて下さい』
『日本海軍の場所・・・若し分かれば・・・大丈夫、大丈夫・・・きっと・・・分かります』



西ミンドロ州サンホセ市の中心街を走行する市民の足のトライスクル。

アロマ海岸に面したVILLAからBubog St.を四キロあまり走行するとサンホセの市街地です。トライスクルを脇道に停車させて観光課の建物を捜し回っていた運転手君が両腕をホールドアップする仕草をしながら戻って来て、『担当職員が不在だった』と途方に暮れた表情を浮かべます。

『観光課職員から有益な情報を聴けるかも!』という想定外の展開に喜んでいたのですが、期待の御夢たがいて残念至極。とは言いながらも、運転手君の困惑した表情を見れば、そんな心情はおくびにも出せません。

僕『マンガリン湾内のCaminawitという場所に行って下さい』
彼『Caminawitは・・・本当に何もない所ですよ・・・』
僕『そうかもしれないけれど、とにかくCaminawitへ行って下さい』

運転手君は、サンホセ・セントラルの幹線道路を右折して、マンガリン湾の北側に通じる海岸沿いの曲がりくねった道を走り抜けてCaminawitへと向かいます。

彼『この辺りから先がCaminawitの地域になりますが、まだ先に進みますか?』
僕『マンガリン湾口の辺りまで行って下さい』

埃っぽい道を更に進むと、護岸と護岸の切れ目からマンガリン湾の海面が見えはじめました。現在地を確かめる為にトライスクルを停めてもらい、セメント護岸の上に這い上がると、湾内奥部のサンホセ市街地まで広がるマンガリン湾を一望のもとに見晴るかすことが出来ます。(下掲写真)



Caminawit地区からサンホセ市内まで広がるマンガリン湾。

上掲写真の画面左側に、僕とK氏が乗ってきたトライスクル2台が待機しているのが見えます。運転席に座ったまま僕達を眺めている運転手君は、『外国から高い旅費を払って態々来るような場所じゃないよな』と呆れ返っているように見えなくもありません。


熱帯地域の台風銀座特有のスクラップ&ビルドの質素な住居

護岸道路に面した狭い岩だらけの平地には、台風銀座の中で暮らす人々の生活の知恵でしょうか、スクラップ&ビルドの質素な住居が建ち並んでいます。日本海軍水上機基地の兵舎や修理廠も此のような佇まいだったのかも・・・そんな事を想像させるような雰囲気が漂っています。


サンホセの築港工事が行われていたCaminawitの工事現場

退屈そうに寝そべって待つトライスクルの運転手君を置いて、湾口に近い方向に進むと、二十人前後の労働者らしき人々が三々五々屯している埠頭拡張工事現場の入り口が見えて来ました。

工事現場の正門横の食い物屋台に屯していた上半身裸の労働者に『構内に入っても大丈夫ですか?』と問うても、鋭い眼光を放って僕を見返すだけで何も応えてくれません。エイ儘よとばかりに工事中の構内に踏み入って恐る恐る振り返っても、場違いな異邦人の我ら二人を遠くから眺めるだけで、特に進入を制止する様子もありません。



サンホセ・マンガリン湾内のCaminawitの遠浅の海辺

マンガリン湾に面した足場の悪い遠浅の海辺に歩を進めると、バンカと呼ばれる地元の漁業用の舟溜まりがあります。舟溜りの遠浅の海辺と背景に広がる岸辺を眺めていると、比島旅行出発前に目にした旧日本海軍の二式水上戦闘機(偵察機)の基地を写した古写真(下掲写真)と眼前に広がるCaminawitの海浜が、瞼の奥で重なるように浮かびあがって来ました。


横須賀鎮守府特設航空隊(海軍第802航空隊)の二式水上戦闘機 (偵察機)の基地

上掲写真の海軍基地(南太平洋マーシャル諸島)は、K氏の父君が所属していた海軍第955航空隊の写真ではありませんが、椰子の木立が並ぶ遠浅の海浜に浮かぶ二式水上戦闘機(偵察機)の光景から想像するに、K氏の父君が駐屯されていたCaminawitの二式水上戦闘機(偵察機)の水上基地も、此のような光景だったと思われます。


南太平洋ショートランド基地の二式水上戦闘機(偵察機)の離着陸作業

大岡昇平氏の『俘虜記』、米軍の公刊戦史『モリソン海戦史』、米軍の戦闘詳報係のシャバルテイン一等兵の『レイテ戦記』には、日本海軍のミンドロ島の水上機基地の在り処は、サンホセのCaminawitと記されています。

Caminawit地域は、マンガリン湾の北側に迫り出した狭い陸地の内側に位置します。その狭い領域の中で北風と西風の影響が少なく、離着陸支援の容易な遠浅の立地を備えた場所となれば、此処以外には考えられないような・・・素人思考ではありますが、そんな気がしてなりません。

しかし、僕の見た限りでは、Caminawitには、ルソン島、セブ島、レイテ島、ミンダナオ島で見られるような慰霊碑や祈念碑は無くて確認の術もありません。そんな状況を鑑みると、仮に市役所観光課の職員に会えていたとしても、旧日本海軍の在り処の情報が得られたどうか甚だ疑問と言わざるを得ないような気もします。

ミンドロ島で多くの戦友を失った大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』に目を通しても、日本からの比島遺骨収集団の活動が頻繁に実施されていた頃であっても、ミンドロ島に寄港した遺骨収集船は全く無く、飢餓で壊滅状態となった部隊の戦友の屍は、今だに山中に放置された儘になっていると記されています。

Caminawitの舟溜まりの撮影を終えてからK氏を見返ると、僕の視線から逃れるように踵を返して波静かなCaminawitの海面を押し黙って見つめています。若かりし頃に相撲の選手だったという彼の大きな背中が、その昔この場所で生活していたであろう父君の息吹を感じているかのように、小刻みに震えているように見えました。

次回は、押し寄せた米軍艦隊の放った一発の砲撃で、ミンドロ島山中に退避することになった日本陸軍と海軍について綴りたいと思います。
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2016年05月30日(月) 10時58分58秒

3:比島旅行・ミンドロ島サンホセに到着

テーマ:フィリッピン旅行
2016年5月22日付けの投稿記事 『 2:比島旅行・ミンドロ島へ行こう 』の続きです。

前回までの粗筋
フィリピン戦線で捕虜となり、レイテ島の俘虜収容所生活を経て日本に復員された友人K氏の父君(故人)のフィリピンにおける足跡を辿る旅をすることになりました。しかし、父君のレイテ島以前の軍歴が判然としません。そこで、友人K氏が戸籍謄本を添えて厚生労働省に問い合わせたところ、待つこと40日にして、僅か数行だけの呆れるほど簡単な軍歴記録が到着。

それによると、K氏の父君は、ミンドロ島の山中で飢餓状態になって樹上で転寝をしている時に米軍に捕らわれてレイテ島俘虜収容所に送致され、日本の無条件降伏後にレイテ島から復員されたことが判明。

率直に言って、入手するのに40日も待たなければならない程の書類とはとても思えないのですが・・・それでも、比島で訪れる場所が、南シナ海側の「ミンドロ島」と太平洋岸の「レイテ島」であることが判明したのですから、素直に良しとしなければなりませんね。

せっかくの比島旅行ですので、比島戦線を少しでも識る意味を込めて、下記の五カ所も訪れてみようということになりました。
 ■海軍乙事件が発生したセブ島ナガ地域。
 ■海軍特別攻撃隊の【ゼロ号】が飛び立ったセブ島の航空基地
 ■海軍特別攻撃隊の【第1号】が飛び立ったルソン島のマバラカット基地
 ■海軍特攻艇【震洋】が初めて出撃したカビテ州コレヒドール島。
 ■死の行軍として非難されたルソン島のバターン半島

本日より、先ずは、第一目的地のミンドロ島サンホセの旅を綴ることにします。

南シナ海に面するミンドロ島南部のサンホセ空港へは、マニラのニノイ・アキノ空港から格安航空のCebu Pacific Airが一日一往復の就航をしています。しかし、航空券のネット予約に従ってinputしても、最終画面に至ると原因告知も無いままに『予約不可』になってしまいます。日程変更しても同じ状態が続発するので、『ミンドロ島行を諦めざるを得ないかもしれない』とK氏に途中経過を入れると、K氏から悲しそうなメールが着信。



西ミンドロ州南端の西側に位置するサンホセ
北部沖に小野田少尉で有名になった東ミンドロ州のルバング島、更にその北北東のマニラ湾口には
カビテ州に属するコレヒドール島が位置しています。


K氏の悲しいメールに触発されて今一度 Cebu Pacific air に問い合わせを入れると、マニラ⇔ミンドロ島のネット申し込はCebu Pacific AirのDiret salesしかないことが判明。間髪を容れずに予約申し込みをするも、当初予定の日程は既に満席状態。旅程日を変更して何とか往復チケットを入手する事が出来てホッとひと安心です。

ニノイ・アキノ(マニラ)空港発午前6時5分発の便に乗り込んで、55分のフライトで西ミンドロ州南端のサンホセのアロマ海岸に面したサンホセ空港(San Jose Airpor)に到着。比島国内線としての空港等級は最上級の「第1種空港」らしいのですが、空港建物はとても簡素な佇まいです。



サンホセ(San Jose)空港 (旧名:McGuire Field)

サンホセ空港は、つい最近まで、日本軍機を38機撃墜した米国全軍第二位のエースパイロットのトーマス・マクガイア陸軍少佐(Thomas B.McGuire,Jr.)に因んで「McGuire Field」と呼ばれていたそうです。マクガイア少佐は、フィリピン・ネグロス島上空で、日本陸軍戦闘機隊(四式戦闘機・疾風)の新米パイロットだった福田端則軍曹に撃墜されて戦死(1945年1月24歳没)された方でした。

全米第2位のエース・パイロットが、日本軍の新米飛行士に撃ち落とされたという話が妙に印象に残り、福田端則軍曹の写真を探したのですが見つかりませんでした。福田軍曹は、比島戦線を生き抜いて復員されたようです。



全米第2位の撃墜実績を誇ったエース・パイロットのトーマス・マクガイア陸軍少佐

サンホセ空港(San Jose Airport)は、西ミンドロ州サンホセ市街中心部から北西へ約2km離れた場所に在るのですが、予約した宿泊所のVillaは、空港から更に北西へ二キロ離れたアロマ海岸の辺鄙な場所にあります。

サンホセ空港の車寄せには、予想はしていましたが、乗用車タイプのタクシーは一台もなく、「トライスクル」と呼ばれる中国製オートバイにサイドカーを取り付けたミンドロ・タクシーが客待ちしていました。



サンホセのサイドカースタイルのタクシー「トライスクル」

戦跡を尋ね歩く前に、先ずは手荷物を宿泊先のVillaに預けようと言うことになり、チョット大きめの1台の「トライスクル」に2人で乗り込んだのですが・・・これが間違いの元でした。

客席の横幅が狭い上に、クッション装置のリーフ・スプリング(板バネ)が二人の体重で伸びきってしまい、悪路の凸凹を全く吸収してくれないのです。空港からホテルまで僅か2㎞の道程だというのに、尻・太腿、腰・背中の筋肉の痛みと痺れに苛まれてしまいました。ミンドロ島滞在中のトライスクルの利用は、少々不便であっても、一人一台に如くは無しです。



此の辺りには一軒しかない海岸に面したVila
左側の二階2室が我らの宿泊した部屋。正面二階が海岸に面した自然通気の食堂。


予約したVillaは、サンホセ市街から約四キロ離れたBubog St.アロマ海岸の辺鄙な場所に在りました。街路灯も殆どないので、夜ともなれば真っ暗闇です。途轍もなく辺鄙な海岸沿いのVillaを選んだ理由は、米軍が150隻の艦船を擁して上陸したマンガリン湾を一望することが出来るからに他なりません。

米軍艦船によるミンドロ島サンホセの上陸目的は、ルソン島の日本軍を空から攻撃するための飛行場建設でした。米軍のサンホセ上陸は、米軍がレイテ島上陸に成功してから55日目の1944年12月15日です。

米軍のマッカーサー大将は、後れ馳せながらも、レイテ島タクロバンの空港建設を強行するよりも、日本軍守備の手薄なミンドロ島サンホセの二箇所の不時着飛行場を占拠して拠点飛行場にする優位性に気付いたようです。



1944年12月15日、150隻の米軍艦船が押し寄せたマンガリン湾(Villa食堂より撮影)

Villaに荷物を置いて身軽になったところで、Villa責任者の30歳前後の女性に、戦跡巡り用のサイドカー付きオートバイ(トライスクル)2台の調達を依頼。トライスクルが到着するまでの待ち時間を利用して慌ただしく質問をします。

僕  『日本海軍(955部隊)の基地が在った場所を知っていますか?』
女性 『聴いたこともないし・・・何も知らないわ』
僕  『1944年頃、日本海軍の水上偵察機の基地が在った場所なのですが?』
女性 『 生まれる前のことだし・・・何も分からないわ』

地球の歩き方を見ても、ミンドロ島の戦跡の紹介記事は、これポッチもありません。しかし、今回の旅に携行した大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』と『俘虜記』には、ミンドロ島のカミナウイットには、大岡昇平氏が所属していた第105師団独立歩兵第359大隊臨時歩兵第一中隊(中隊長・西矢政雄中尉)の『橋本軍曹の分隊』(全滅)とK氏の父君が所属していた『第955海軍航空隊』(殆ど戦死)が駐屯していたという記述があります。

更に、米国の公刊戦史『海戦史』(モリソン著)、或いは、米軍の戦闘詳報係のシャバルテイン一等兵の『レイテ戦記』のどちらかだったと思いますが、日本海軍の水上機基地が西ミンドロ州サンホセの『Caminawit』に在ったとする引用記事を思い出して質問を続けます

僕   『サンホセの港の近くにCaminawitと呼ばれる場所がありますか?』
女性 『知っているわよ。サンホセ港の北西側の埠頭辺りがCaminawitですよ』

彼女は、到着したばかりのトライスクルの運転手君に、タガログ語(?)らしき言葉で何かを指示し終わってから、強い訛りはあるものの、流暢な英語で僕に通訳してくれます。

『市役所観光課で日本軍基地について教えて貰うよう、運転手に指示して置きました』

さぁ、愈々、K氏の父君が駐屯されていたと思われるサンホセ港近隣のカミナウイットに向かって出発です。カミナウイットがK氏の父君の駐屯していた場所であることに期待を寄せながら・・・・

次回に続きます。
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2016年05月22日(日) 11時53分55秒

2:比島旅行・さぁミンドロ島へ行こう!

テーマ:フィリッピン旅行
2016年05月13日付けの投稿記事『1:比島旅行・さぁどこの島へ行こう?』の続きです。

前回の概要
太平洋戦争中にフィリピン・レイテ島俘虜収容所から復員された旅友K氏の父君(故人)の比島での足跡を辿る旅に出ようという事になったのですが・・・肝心の足跡の起点となる上陸地点が判然としません。そこで、父君の所属部隊名と移動記録を詳らかにする作業に着手したのですが、なんとかなるものですね、K氏の父君の軍隊来歴の大まかな輪郭が浮かび上がってきました。

①京都府 舞鶴鎮守府に海軍の航空機の整備兵(補充兵)として入隊。
②舞鶴鎮守府⇛鈴鹿航空隊⇛名古屋航空隊⇛岡崎航空隊で整備兵の訓練を受ける。
③海上護衛航空隊 佐世保鎮守府 常設航空隊(第955部隊)へ配属。
④1944年12月26日、比島の海軍955航空隊へ派遣。
⑤ミンドロ島の山地で米軍に捕らえられてレイテ島の俘虜収容所へ送致。
⑥日本の無条件降伏によって、レイテ島から日本に復員。



K氏の父君の第955部隊が駐屯していたミンドロ島マンガリン湾

上記情報から、K氏の父君は、南シナ海側のミンドロ島で米軍の俘虜となり、太平洋側のレイテ島俘虜収容所に送致された事は分かったのですが、父君の比島での最初の上陸地点と駐屯地が判然としません。

そこで、海上護衛航空隊 佐世保鎮守府 常設航空隊(第955海軍航空隊)の比島作戦本部の所在地を求めて諸資料を調べたのですが、第955海軍航空隊本部の詳細を記した資料を見つけることが出来ません。



K氏の父君が俘虜として収容生活を送ったレイテ島(HP写真拝借)

試行錯誤を繰り返しつつネット検索を続行していると、ミンドロ島の第955部隊の派遣小隊は、南シナ海に浮かぶパラワン島プエルト・プリンセサから送り込まれた派遣部隊らしいとか・・・ルソン島マニラ湾南岸のマニラに近い小半島のキャビテ州カナカオ基地からの派遣部隊らしい・・・等の記述を見付けて小躍りして喜んだりしたのですが、何れもその根拠を確かめる術が見つかりません。

めげそうになる気持ちを奮い立たせて調べを進めていると、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものですね、第955海軍航空隊が最初に編成されたのは、フィリピン南部のミンダナオ島ダバオ(編成年月:1944年8月1日付け)であり、時を置かずして、パラワン島のプエルトプリンセサを含む3箇所とミンドロ島サンホセ基地(派遣隊長・石崎一朗少尉)に出先の小さな基地が設置されていたことが分かったのです。



第955海軍航空隊が最初に編成されたミンダナオ島ダバオ市(HP写真拝借)

第955海軍航空隊は、その後の戦況悪化によって、ザンボアンガのレコード基地、ボンガオ島基地、セブ島基地にも展開したようですが、最終的にはマニラ市街戦の陸戦部隊に参加して壊滅していました。しかし、K氏の父君は、それよりずっと以前に、米軍の俘虜となってレイテ島の俘虜収容所に送致されて命拾いされています。

残念ながら、K氏の父君の比島での最初の上陸地点を明らかにすることは叶いませんでしたが、参考図書として併読していた比島の日本軍について著した書籍から、幸運にも第955海軍航空隊の記述を幾つか読み取る事が出来ました。

例えば、日本陸軍の通信兵として、1944年8月~12月にかけてミンドロ島に駐屯していた大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』の中に次のような記述がありました。

私が駐屯したミンドロ島サンホセにはマンガリン湾という浅い入り海があり、1944年9月末から、下駄履きのちゃちな水上偵察機で、一度空襲を受ければひとたまりもないような海軍の水上機と地上部隊(104名)が来ていた。ミンダナオ島やパラワンから疎開して来たのだろうと思っていたが、1944年8月1日に佐世保鎮守府から南フィリピンに展開した海上護衛航空隊(第955部隊)の派遣隊だった

K氏の父君が海軍の佐世保鎮守府を出発したのが1944年9月上旬頃ですので、海軍第955部隊のミンドロ島サンホセ基地は、その時点で既に設営されていた可能性があります。

何かの記事で読んだのですが、日本海軍がミンドロ島サンホセのマンガリン湾内に水上偵察機の小さな基地を設営した直後、米軍の空襲を受けて約10名が戦死するという事態が起こっています。レイテ島上陸に成功した米軍は、次なる上陸地点として不時着用飛行場のあるミンドロ島サンホセの占領を意図していたので、例え小さな水上偵察機の基地と言えども無視出来なかったのでしょう。

K氏の父君は、米軍の空襲を受けて10名の戦死者を出した水上偵察基地の補充兵として送り込まれたのかもしれません。日本軍によって1941年12月8日に一斉に実施された英領マレー半島上陸、米国準州の真珠湾空襲、米国植民地の比島空襲が行われた後の南支那海一帯は、まさに風雲急を告げる危険海域となり、日本艦船を狙う米国の潜水艦がウヨウヨしていました。

そんな危険な海域を、佐世保からミンダナオ島ダバオの本部まで航海する事はとても危険です。佐世保港を出港したK氏の父君は、ミンドロ島から遥か南に位置するミンダナオ島ダバオ基地に向かうことなく、日本から比較的近いミンドロ島サンホセの水上偵察基地に直接送り込まれた・・・と強引に考えることにしました。



フィリピン諸島の地図

今回のフィリピン旅行で訪れる島として、当初はパラワン島やミンダナオ島をも含めて検討していたのですが、集めた諸資料を鑑みて、今回のK氏の父君の足跡を辿るフィリピンの島は、ミンダナオ島サンホセの周辺地域、そして、俘虜として送られたレイテ島タクロバン地域に絞り込むことにしました。

美しいと伝聞するパラワン島プエルトプリンセサ、そして若かりし頃の僕の個人的思い出が残るミンダナオ島ダバオ(初恋の地はセブ島でしたが)にも足を延ばしてみたい気持ちもありましたが、限られた日程を考えると諦めざるを得ません。
 
ところが、事此処に至っても、ミンドロ島サンホセ地域内の当時の戦跡情報となると、まるで雲を掴むような状態で殆ど何も分かりません。老いたりと言えども、Let's take a chance and go for broke.『当たって砕けろ』の精神で現地の人々にしつこく訊ねる気構えはあるにしても、戦後70年という年月の流れを思うと、当時の負の遺産と記憶をどこまで留めているのか、とても気になるところです。

如何ともし難い問題は多々ありますが、出発までの時間をフル活用して、K氏の父君と殆ど同じ時期にミンドロ島で俘虜となり、レイテ島の俘虜収容所へ送られた大岡昇平氏の『俘虜記』、『ミンドロ島ふたたび』、『レイテ戦記』、『野火』(記述のなかにミンドロ島の情景描写あり)を通して、当時の地域情報をできるだけ拾い上げて今回の旅に備えることにしました。

次回は、ミンドロ島サンホセの旅行記です。


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2016年05月13日(金) 11時49分55秒

1:比島旅行・さぁどこの島へ行こう?

テーマ:フィリピン旅行
バンコクの近現代史を識る会の数人の会員諸氏から、『フィリピン旅行記のブログ投稿はいつ頃になりますか?』との質問を受けて些か慌ててしまいました。と言うのは、今年の2月に同会で『僕の知らなかったフィリピン戦線』のテーマでパワーポイントを使って1時間のプレゼンを行った後でしたので、それ以上の事は、正直にいって、何も考えていなかったのです。

ところが、彼曰く『あれは歴史上の客観的考察として大変勉強になりました。しかし、hiro-1さんの比島旅行の個人的体験ブログ記事は、現地のビールと料理の記事が投稿されただけで尻切れ蜻蛉になっていますよ。続編を期待していますからね』。

そこまで煽てられては、前期高齢者以降の読者さんのご期待にお応えするしかありません。既に忘却の彼方になりつつある比島旅行の個人的体験を、自分の備忘録も兼ねて、書き留めて置くことにしました。お若い方には退屈な記事が続くことになりますが、どうぞ躊躇なくすっと飛ばして下さい。

念の為に僕の過去ログをチェックすると、比島旅行中の簡単な現在地報告と酒食記事を数回投稿しただけで尻切れ状態になっています。周防の猿君以上に深く反省して、当時の走り書きメモを捲って記憶を呼び戻しながら綴っていくことにしましょう。


《追憶》
2015年12月、気心の知れたバンコクの呑み友で旅友のK氏(近現代史を識る会の会員ではありません)と共に、10日余りの日程を掛けてフィリピンの戦跡地巡りをしました。先ずは、比島旅行を思い立った時のK氏と僕の会話から記憶を呼び起こすことにします。

今までK氏と旅をした来歴は古く、タイ国内遺跡、カンボジア遺跡、ラオス戦跡、北東インドの釈迦の足跡、イタリア縦断、英国遺跡、スペイン遺跡、ギリシャ遺跡、フランスのノルマンディ戦跡、オランダ・ドイツ・ポーランドのユダヤ人強制収容所巡り等ですが・・・

フィリピン旅行については、随分前にK氏が『老人看護に優しい国なので移住を考えている』と話題にしたことがあったのですが、僕が気乗りしなかったからでしょうか、それ以降話題になることもなく沙汰止みになっていました。

そのフィリピンが旅先として急に浮上したのは、バンコクの病院で前立腺癌が見つかり、急遽日本の故郷で治療することになったK氏を送別する酒食の席でした。その場で、K氏が問わず語りに今は亡き父君の思い出話を始めたのです。

『舞鶴鎮守府から海軍の補充兵(整備兵)としてレイテ島戦線に送られた』
『ジャングルの木の上で飢餓状態で転寝していた時に米軍に捕らえられた』
『レイテ島の俘虜収容所生活を経て日本に生還。自分(K氏)が生まれた』

それを聴いた僕が『フィリピンに行ってみる?』と軽く問うと、K氏が『いいね!』と即応して、2015年の旅行先が決まってしまいました。K氏と僕の旅先の決定は、大概こんな感じで決まってしまいます。

K氏と僕が一緒に旅行する時、二人の間に暗黙の役割分担があります。飛行機、船、列車、宿泊等の予約、行く先の選定、現地の移動手段と現地交渉は僕の役割となり、現地到着後の二人の旅行費用の両替管理、資金管理、収支管理、酒食の支払い等はK氏の責任となります。


現地の旅程を決め込む役割の僕としては、K氏の父君のフィリピンの上陸地点、駐屯地、戦闘場所、俘虜収容所の場所等の情報を一つでも多く知らなければなりません。ところがK氏から入手できた情報は、『舞鶴鎮守府』と『レイテ島の俘虜収容所』の2つだけです。


情報:舞鶴鎮守府の赤煉瓦倉庫(HPから拝借)
K氏の父君は、陸軍だろうと勝手に思い込んでいたのですが、海軍でした。


先ずは、舞鶴鎮守府に所属する部隊の出征先の記録探しから着手したのですが、比島へ出征した痕跡が見当たらず冒頭から暗礁に乗り上げてしまいました。日本の故郷で病気治療中のK氏に、どんな些細な情報でも構わないからと催促すると・・・K氏からメールが届きました。


情報:K氏の父君が俘虜として収容されたレイテ島(HPより拝借)

K氏から届いたメールには、『陸軍兵士の記録は県庁の管轄。海軍兵士は厚生労働省の管轄。従って、父の軍隊記録を厚生労働省に問い合せ中だが、返事が届くのに40日待たなければならない』とあります。止む無く旅程作りを一旦棚上げすることと相成りました。

40日後、K氏から父君の軍隊記録についての連絡メールがありました。
 ■ 舞鶴鎮守府の航空整備兵から、鈴鹿航空隊、名古屋航空隊、岡崎航空隊へ移動。
 ■ 岡崎航空隊の訓練修了後、海軍第9.55航空隊へ配属。
 ■ 昭和19年12月26、海軍第9.55航空隊の兵士としてフィリピンへ派遣。
 ■ ミンドロ島で空腹疲労により木の上で寝ている時に米軍の俘虜となる。
 ■ ミンドロ島からレイテ島の俘虜収容所へ送致される。
 ■ レイテ島のタクロバン港から米国徴用船で日本に復員。


厚生労働省の資料によれば、K氏の父君が駐屯されていたのは、太平洋側のレイテ島戦線ではなく、インド洋側のミンドロ島でした。ミンドロ島で飢餓のために俘虜となった後にレイテ島の俘虜終収容所へ送られたという新しい事実が判明しました。


情報:K氏の父君が俘虜となったミンドロ島(HPより拝借)

K氏によると、厚生労働省から届いた返書は、癖字の強い手書きの青焼き書類を複写したものだったようです。辛うじて読める『海軍第9.55航空隊』を頼りにネット検索しても、『9.55』、『9』、『.55』からは何も分からず『お手上げ状態』とSOSの発信です。

しかし、これだけの情報が手元に届いたのですから、此れから先は僕の役割領域です。K氏の父君の所属部隊名さえ分かれば、父君の足跡をトレースすることが可能となります。先ずは正確な部隊名を知ることを優先しなければなりません。

日本海軍航空隊に『海軍航空隊番号附与標準』があることをネットで突き止めました。付与標準の内容は時代によって違いがあるようですが、戦史叢書第95巻『海軍航空概史』の海軍航空隊番号附与標準に、1942年11月1日から運用開始になった三桁の識別番号(輸送隊は4桁)の早見表が付与されていました。


K氏の父君が海軍補充兵として実戦部隊に配属されたのが1944年ですので、この番号附与標準でK氏の父君の部隊を捜し当てることが出来る筈です。但し、厚生労働省から届いた『海軍第9.55航空隊』の一桁と小数点を使用した付与標準は存在しません。そこで、『9.55』は『955』の記入ミスだろうと僕なりに仮定して、海軍航空隊番号附与標準に従って読み取ってみました。

■100の位は航空隊の種類表示。⇛ 父君の部隊の900番台は『海上護衛航空隊』と判明。
■10の位は所管の鎮守府を表示。⇛ 父君の部隊の50番台は『佐世保鎮守府』と判明。
■1の位は常設航空隊と特設航空隊の区分表示。⇛ 5は『常設部隊』と判明。

K氏の父君の部隊名955を海軍の番号附与標準に従って読み解くと、『海上護衛航空隊・佐世保鎮守府・常設航空隊』と読み取ることが出来ます。



情報:実戦部隊の海軍第955航空隊が所属していた佐世保鎮守府(HPより拝借)

K氏の父君が補充兵として徴兵されたのは故郷に近い舞鶴鎮守府ですが、その後、航空機整備の教育訓練を受けるために、鈴鹿海軍航空隊、名古屋海軍航空隊を経て岡崎に移動されたことが、厚生労働省の資料から分かっています。

愛知県岡崎には、航空機搭乗員と整備兵を教育する第一岡崎海軍航空隊、第二岡崎海軍航空隊、第三岡崎海軍航空隊がありました。K氏の父君は、海軍の搭乗員ではなく、海軍航空機の整備兵ですので、航空機整備教育6ヶ月教程を実施していた第二岡崎海軍航空隊の整備教育隊(兵士と下士官対象)に配属されたと想像できます。



航空機の整備教育6ヶ月教程を実施した第二岡崎海軍航空隊(HPより拝借)

第二岡崎海軍航空隊での教育訓練を卒えた兵士は、速やかに第一線の戦闘部隊に送り出されていることから、K氏の父君は、実戦部隊である『海上護衛航空隊・佐世保鎮守府・常設航空隊』(第955部隊)の航空機整備兵としてフィリピン戦線に送られたと思われます。

僕の調べによれば、海軍第955部隊の本部は、比島のインド洋側のミンドロ島の西南部に位置するパラワン島プエルト・プリンセサになっています。しかし、厚生労働省資料によると、K氏の父君は『ミンドロ島で米軍捕虜になった』と記されていますので、パラワン島本部からミンドロ島の駐屯地に移動させられたことも考えられます。


情報:第955部隊の本部が置かれていたパラワン島プエルト・プリンセサ(HPより拝借)

K氏の父君の比島の上陸場所がパラワン島なのかミンドロ島なのかは不明ですが、何れにしても、今回のフィリピンに於ける父君の足跡を辿る島は、部隊本部の置かれたパラワン島、父君が捕虜になったミンドロ島、俘虜生活を送ったレイテ島の三島であることが明確になりました。

とは言っても、各々の島内の何処を目指せば良いのかとなれば、まだまだ分からない事だらけです。現地に到着してから当たって砕けろの心つもりで尋ね歩かねばならない事は覚悟していますが、それにしても、もう少し当時の現地情報を入手して置く必要があります。さてどうなりますことやら。

次回に続きます。
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