長い海外駐在生活を終えたhiro-1が念願のタイ国に移り住んで繰り広げる生活のあれこれ。或る時は、大学のタイ語学科でタイ語を学び、歴史学科ではアユッタヤー王朝の外交史を専攻、或る時は、自家用車を駆ってタイ国内の遺跡を巡り、又或る時は、タイの文化を覗き見る自由で気儘な生活写真日記です。
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2016年05月22日(日) 11時53分55秒

2:比島旅行・さぁミンドロ島へ行こう!

テーマ:フィリッピン旅行
2016年05月13日付けの投稿記事『1:比島旅行・さぁどこの島へ行こう?』の続きです。

前回の概要
太平洋戦争中にフィリピン・レイテ島俘虜収容所から復員された旅友K氏の父君(故人)の比島での足跡を辿る旅に出ようという事になったのですが・・・肝心の足跡の起点となる上陸地点が判然としません。そこで、父君の所属部隊名と移動記録を詳らかにする作業に着手したのですが、なんとかなるものですね、K氏の父君の軍隊来歴の大まかな輪郭が浮かび上がってきました。

①京都府 舞鶴鎮守府に海軍の航空機の整備兵(補充兵)として入隊。
②舞鶴鎮守府⇛鈴鹿航空隊⇛名古屋航空隊⇛岡崎航空隊で整備兵の訓練を受ける。
③海上護衛航空隊 佐世保鎮守府 常設航空隊(第955部隊)へ配属。
④1944年12月26日、比島の海軍955航空隊へ派遣。
⑤ミンドロ島の山地で米軍に捕らえられてレイテ島の俘虜収容所へ送致。
⑥日本の無条件降伏によって、レイテ島から日本に復員。



K氏の父君の第955部隊が駐屯していたミンドロ島マンガリン湾

上記情報から、K氏の父君は、南シナ海側のミンドロ島で米軍の俘虜となり、太平洋側のレイテ島俘虜収容所に送致された事は分かったのですが、父君の比島での最初の上陸地点と駐屯地が判然としません。

そこで、海上護衛航空隊 佐世保鎮守府 常設航空隊(第955海軍航空隊)の比島作戦本部の所在地を求めて諸資料を調べたのですが、第955海軍航空隊本部の詳細を記した資料を見つけることが出来ません。



K氏の父君が俘虜として収容生活を送ったレイテ島(HP写真拝借)

試行錯誤を繰り返しつつネット検索を続行していると、ミンドロ島の第955部隊の派遣小隊は、南シナ海に浮かぶパラワン島プエルト・プリンセサから送り込まれた派遣部隊らしいとか・・・ルソン島マニラ湾南岸のマニラに近い小半島のキャビテ州カナカオ基地からの派遣部隊らしい・・・等の記述を見付けて小躍りして喜んだりしたのですが、何れもその根拠を確かめる術が見つかりません。

めげそうになる気持ちを奮い立たせて調べを進めていると、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものですね、第955海軍航空隊が最初に編成されたのは、フィリピン南部のミンダナオ島ダバオ(編成年月:1944年8月1日付け)であり、時を置かずして、パラワン島のプエルトプリンセサを含む3箇所とミンドロ島サンホセ基地(派遣隊長・石崎一朗少尉)に出先の小さな基地が設置されていたことが分かったのです。



第955海軍航空隊が最初に編成されたミンダナオ島ダバオ市(HP写真拝借)

第955海軍航空隊は、その後の戦況悪化によって、ザンボアンガのレコード基地、ボンガオ島基地、セブ島基地にも展開したようですが、最終的にはマニラ市街戦の陸戦部隊に参加して壊滅していました。しかし、K氏の父君は、それよりずっと以前に、米軍の俘虜となってレイテ島の俘虜収容所に送致されて命拾いされています。

残念ながら、K氏の父君の比島での最初の上陸地点を明らかにすることは叶いませんでしたが、参考図書として併読していた比島の日本軍について著した書籍から、幸運にも第955海軍航空隊の記述を幾つか読み取る事が出来ました。

例えば、日本陸軍の通信兵として、1944年8月~12月にかけてミンドロ島に駐屯していた大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』の中に次のような記述がありました。

私が駐屯したミンドロ島サンホセにはマンガリン湾という浅い入り海があり、1944年9月末から、下駄履きのちゃちな水上偵察機で、一度空襲を受ければひとたまりもないような海軍の水上機と地上部隊(104名)が来ていた。ミンダナオ島やパラワンから疎開して来たのだろうと思っていたが、1944年8月1日に佐世保鎮守府から南フィリピンに展開した海上護衛航空隊(第955部隊)の派遣隊だった

K氏の父君が海軍の佐世保鎮守府を出発したのが1944年9月上旬頃ですので、海軍第955部隊のミンドロ島サンホセ基地は、その時点で既に設営されていた可能性があります。

何かの記事で読んだのですが、日本海軍がミンドロ島サンホセのマンガリン湾内に水上偵察機の小さな基地を設営した直後、米軍の空襲を受けて約10名が戦死するという事態が起こっています。レイテ島上陸に成功した米軍は、次なる上陸地点として不時着用飛行場のあるミンドロ島サンホセの占領を意図していたので、例え小さな水上偵察機の基地と言えども無視出来なかったのでしょう。

K氏の父君は、米軍の空襲を受けて10名の戦死者を出した水上偵察基地の補充兵として送り込まれたのかもしれません。日本軍によって1941年12月8日に一斉に実施された英領マレー半島上陸、米国準州の真珠湾空襲、米国植民地の比島空襲が行われた後の南支那海一帯は、まさに風雲急を告げる危険海域となり、日本艦船を狙う米国の潜水艦がウヨウヨしていました。

そんな危険な海域を、佐世保からミンダナオ島ダバオの本部まで航海する事はとても危険です。佐世保港を出港したK氏の父君は、ミンドロ島から遥か南に位置するミンダナオ島ダバオ基地に向かうことなく、日本から比較的近いミンドロ島サンホセの水上偵察基地に直接送り込まれた・・・と強引に考えることにしました。



フィリピン諸島の地図

今回のフィリピン旅行で訪れる島として、当初はパラワン島やミンダナオ島をも含めて検討していたのですが、集めた諸資料を鑑みて、今回のK氏の父君の足跡を辿るフィリピンの島は、ミンダナオ島サンホセの周辺地域、そして、俘虜として送られたレイテ島タクロバン地域に絞り込むことにしました。

美しいと伝聞するパラワン島プエルトプリンセサ、そして若かりし頃の僕の個人的思い出が残るミンダナオ島ダバオ(初恋の地はセブ島でしたが)にも足を延ばしてみたい気持ちもありましたが、限られた日程を考えると諦めざるを得ません。
 
ところが、事此処に至っても、ミンドロ島サンホセ地域内の当時の戦跡情報となると、まるで雲を掴むような状態で殆ど何も分かりません。老いたりと言えども、Let's take a chance and go for broke.『当たって砕けろ』の精神で現地の人々にしつこく訊ねる気構えはあるにしても、戦後70年という年月の流れを思うと、当時の負の遺産と記憶をどこまで留めているのか、とても気になるところです。

如何ともし難い問題は多々ありますが、出発までの時間をフル活用して、K氏の父君と殆ど同じ時期にミンドロ島で俘虜となり、レイテ島の俘虜収容所へ送られた大岡昇平氏の『俘虜記』、『ミンドロ島ふたたび』、『レイテ戦記』、『野火』(記述のなかにミンドロ島の情景描写あり)を通して、当時の地域情報をできるだけ拾い上げて今回の旅に備えることにしました。

次回は、ミンドロ島サンホセの旅行記です。


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2016年05月13日(金) 11時49分55秒

1:比島旅行・さぁどこの島へ行こう?

テーマ:フィリピン旅行
バンコクの近現代史を識る会の数人の会員諸氏から、『フィリピン旅行記のブログ投稿はいつ頃になりますか?』との質問を受けて些か慌ててしまいました。と言うのは、今年の2月に同会で『僕の知らなかったフィリピン戦線』のテーマでパワーポイントを使って1時間のプレゼンを行った後でしたので、それ以上の事は、正直にいって、何も考えていなかったのです。

ところが、彼曰く『あれは歴史上の客観的考察として大変勉強になりました。しかし、hiro-1さんの比島旅行の個人的体験ブログ記事は、現地のビールと料理の記事が投稿されただけで尻切れ蜻蛉になっていますよ。続編を期待していますからね』。

そこまで煽てられては、前期高齢者以降の読者さんのご期待にお応えするしかありません。既に忘却の彼方になりつつある比島旅行の個人的体験を、自分の備忘録も兼ねて、書き留めて置くことにしました。お若い方には退屈な記事が続くことになりますが、どうぞ躊躇なくすっと飛ばして下さい。

念の為に僕の過去ログをチェックすると、比島旅行中の簡単な現在地報告と酒食記事を数回投稿しただけで尻切れ状態になっています。周防の猿君以上に深く反省して、当時の走り書きメモを捲って記憶を呼び戻しながら綴っていくことにしましょう。


《追憶》
2015年12月、気心の知れたバンコクの呑み友で旅友のK氏(近現代史を識る会の会員ではありません)と共に、10日余りの日程を掛けてフィリピンの戦跡地巡りをしました。先ずは、比島旅行を思い立った時のK氏と僕の会話から記憶を呼び起こすことにします。

今までK氏と旅をした来歴は古く、タイ国内遺跡、カンボジア遺跡、ラオス戦跡、北東インドの釈迦の足跡、イタリア縦断、英国遺跡、スペイン遺跡、ギリシャ遺跡、フランスのノルマンディ戦跡、オランダ・ドイツ・ポーランドのユダヤ人強制収容所巡り等ですが・・・

フィリピン旅行については、随分前にK氏が『老人看護に優しい国なので移住を考えている』と話題にしたことがあったのですが、僕が気乗りしなかったからでしょうか、それ以降話題になることもなく沙汰止みになっていました。

そのフィリピンが旅先として急に浮上したのは、バンコクの病院で前立腺癌が見つかり、急遽日本の故郷で治療することになったK氏を送別する酒食の席でした。その場で、K氏が問わず語りに今は亡き父君の思い出話を始めたのです。

『舞鶴鎮守府から海軍の補充兵(整備兵)としてレイテ島戦線に送られた』
『ジャングルの木の上で飢餓状態で転寝していた時に米軍に捕らえられた』
『レイテ島の俘虜収容所生活を経て日本に生還。自分(K氏)が生まれた』

それを聴いた僕が『フィリピンに行ってみる?』と軽く問うと、K氏が『いいね!』と即応して、2015年の旅行先が決まってしまいました。K氏と僕の旅先の決定は、大概こんな感じで決まってしまいます。

K氏と僕が一緒に旅行する時、二人の間に暗黙の役割分担があります。飛行機、船、列車、宿泊等の予約、行く先の選定、現地の移動手段と現地交渉は僕の役割となり、現地到着後の二人の旅行費用の両替管理、資金管理、収支管理、酒食の支払い等はK氏の責任となります。


現地の旅程を決め込む役割の僕としては、K氏の父君のフィリピンの上陸地点、駐屯地、戦闘場所、俘虜収容所の場所等の情報を一つでも多く知らなければなりません。ところがK氏から入手できた情報は、『舞鶴鎮守府』と『レイテ島の俘虜収容所』の2つだけです。


情報:舞鶴鎮守府の赤煉瓦倉庫(HPから拝借)
K氏の父君は、陸軍だろうと勝手に思い込んでいたのですが、海軍でした。


先ずは、舞鶴鎮守府に所属する部隊の出征先の記録探しから着手したのですが、比島へ出征した痕跡が見当たらず冒頭から暗礁に乗り上げてしまいました。日本の故郷で病気治療中のK氏に、どんな些細な情報でも構わないからと催促すると・・・K氏からメールが届きました。


情報:K氏の父君が俘虜として収容されたレイテ島(HPより拝借)

K氏から届いたメールには、『陸軍兵士の記録は県庁の管轄。海軍兵士は厚生労働省の管轄。従って、父の軍隊記録を厚生労働省に問い合せ中だが、返事が届くのに40日待たなければならない』とあります。止む無く旅程作りを一旦棚上げすることと相成りました。

40日後、K氏から父君の軍隊記録についての連絡メールがありました。
 ■ 舞鶴鎮守府の航空整備兵から、鈴鹿航空隊、名古屋航空隊、岡崎航空隊へ移動。
 ■ 岡崎航空隊の訓練修了後、海軍第9.55航空隊へ配属。
 ■ 昭和19年12月26、海軍第9.55航空隊の兵士としてフィリピンへ派遣。
 ■ ミンドロ島で空腹疲労により木の上で寝ている時に米軍の俘虜となる。
 ■ ミンドロ島からレイテ島の俘虜収容所へ送致される。
 ■ レイテ島のタクロバン港から米国徴用船で日本に復員。


厚生労働省の資料によれば、K氏の父君が駐屯されていたのは、太平洋側のレイテ島戦線ではなく、インド洋側のミンドロ島でした。ミンドロ島で飢餓のために俘虜となった後にレイテ島の俘虜終収容所へ送られたという新しい事実が判明しました。


情報:K氏の父君が俘虜となったミンドロ島(HPより拝借)

K氏によると、厚生労働省から届いた返書は、癖字の強い手書きの青焼き書類を複写したものだったようです。辛うじて読める『海軍第9.55航空隊』を頼りにネット検索しても、『9.55』、『9』、『.55』からは何も分からず『お手上げ状態』とSOSの発信です。

しかし、これだけの情報が手元に届いたのですから、此れから先は僕の役割領域です。K氏の父君の所属部隊名さえ分かれば、父君の足跡をトレースすることが可能となります。先ずは正確な部隊名を知ることを優先しなければなりません。

日本海軍航空隊に『海軍航空隊番号附与標準』があることをネットで突き止めました。付与標準の内容は時代によって違いがあるようですが、戦史叢書第95巻『海軍航空概史』の海軍航空隊番号附与標準に、1942年11月1日から運用開始になった三桁の識別番号(輸送隊は4桁)の早見表が付与されていました。


K氏の父君が海軍補充兵として実戦部隊に配属されたのが1944年ですので、この番号附与標準でK氏の父君の部隊を捜し当てることが出来る筈です。但し、厚生労働省から届いた『海軍第9.55航空隊』の一桁と小数点を使用した付与標準は存在しません。そこで、『9.55』は『955』の記入ミスだろうと僕なりに仮定して、海軍航空隊番号附与標準に従って読み取ってみました。

■100の位は航空隊の種類表示。⇛ 父君の部隊の900番台は『海上護衛航空隊』と判明。
■10の位は所管の鎮守府を表示。⇛ 父君の部隊の50番台は『佐世保鎮守府』と判明。
■1の位は常設航空隊と特設航空隊の区分表示。⇛ 5は『常設部隊』と判明。

K氏の父君の部隊名955を海軍の番号附与標準に従って読み解くと、『海上護衛航空隊・佐世保鎮守府・常設航空隊』と読み取ることが出来ます。



情報:実戦部隊の海軍第955航空隊が所属していた佐世保鎮守府(HPより拝借)

K氏の父君が補充兵として徴兵されたのは故郷に近い舞鶴鎮守府ですが、その後、航空機整備の教育訓練を受けるために、鈴鹿海軍航空隊、名古屋海軍航空隊を経て岡崎に移動されたことが、厚生労働省の資料から分かっています。

愛知県岡崎には、航空機搭乗員と整備兵を教育する第一岡崎海軍航空隊、第二岡崎海軍航空隊、第三岡崎海軍航空隊がありました。K氏の父君は、海軍の搭乗員ではなく、海軍航空機の整備兵ですので、航空機整備教育6ヶ月教程を実施していた第二岡崎海軍航空隊の整備教育隊(兵士と下士官対象)に配属されたと想像できます。



航空機の整備教育6ヶ月教程を実施した第二岡崎海軍航空隊(HPより拝借)

第二岡崎海軍航空隊での教育訓練を卒えた兵士は、速やかに第一線の戦闘部隊に送り出されていることから、K氏の父君は、実戦部隊である『海上護衛航空隊・佐世保鎮守府・常設航空隊』(第955部隊)の航空機整備兵としてフィリピン戦線に送られたと思われます。

僕の調べによれば、海軍第955部隊の本部は、比島のインド洋側のミンドロ島の西南部に位置するパラワン島プエルト・プリンセサになっています。しかし、厚生労働省資料によると、K氏の父君は『ミンドロ島で米軍捕虜になった』と記されていますので、パラワン島本部からミンドロ島の駐屯地に移動させられたことも考えられます。


情報:第955部隊の本部が置かれていたパラワン島プエルト・プリンセサ(HPより拝借)

K氏の父君の比島の上陸場所がパラワン島なのかミンドロ島なのかは不明ですが、何れにしても、今回のフィリピンに於ける父君の足跡を辿る島は、部隊本部の置かれたパラワン島、父君が捕虜になったミンドロ島、俘虜生活を送ったレイテ島の三島であることが明確になりました。

とは言っても、各々の島内の何処を目指せば良いのかとなれば、まだまだ分からない事だらけです。現地に到着してから当たって砕けろの心つもりで尋ね歩かねばならない事は覚悟していますが、それにしても、もう少し当時の現地情報を入手して置く必要があります。さてどうなりますことやら。

次回に続きます。
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2016年05月05日(木) 13時27分54秒

世界一周航海をした最初の女性

テーマ:花木
前回ブログを書いたのが4月4日でしたので、昨日で一ヶ月も更新無しの状態が続いてしまいました。数人の友人から、『どうしたの?』、『病気になったの?』、『腰痛?』、『旅行中?』などのメールを頂戴しましたが・・・病気でもなく、旅行でもなく、頗る元気に、すっとバンコクで生活していました。

実は、2月と3月に各一回、依頼されていたプレゼンを終えてホットしていたところ、4月になって突然、日独伊三国同盟に関するプレゼンを依頼されてしまい、その下調べと発表用のパワーポイント作りに追われてブログを書く余裕がありませんでした。そのプレゼンも4月30日に成功裏(?)に終了して一安心。不義理をしていた友人との酒食の復活をしたりして、漸くブログを再開する気力が蘇って来た今日此の頃であります。



チェンマイ・ドイステープの碧天に映えるブーゲンビリアの赤苞葉と白花

プレゼンを終了した翌日、友人のA氏に誘われてブーゲンビリアの咲く食堂で会食した折に、僕が数年前にブログに書いていたという『ブーゲンビリアの本当の花』の話題になりました。ブーゲンビリアの花は、『彩り豊かな苞葉の中にポツンと咲いている可憐な白花なり』という内容の記事だったように思いますが・・・A氏の記憶の良さに驚いてしまいます。

と言うことで、久しぶりの更新となる本日は、18世紀に発見されたブーゲンビリアの花に纏わる珍事について書くことにしたいと思います。



白い苞葉に包まれたブーゲンビリアの白花。 苞葉の色に関係なく花弁はいつも白色です。

ブーゲンビリアの花を18世紀に発見採集した御仁は、世界一周のフランス探検艦隊(艦長・ブーゲンビリア氏)がブラジルに立ち寄った時、同艦の船医であり植物採集家でもあったフィリベール・コメルソン氏であったこと。

そして、発見者のコメルソン船医は、ブーゲンビリアの新種登録申請にあたって、尊敬するブーゲンビリア艦長の名前を花名として命名したこと・・・そんな事までも・・・A氏は僕の過去ログを覚えていました。ブログを書いた僕としては嬉しい限りですが、それにしても、A氏はブーゲンビリアの花が余程お好きなのでしょうね。



ブーゲンビリア艦長(左)              コメルソン船医(右)

A氏の記憶は、それに留まらず、書いた僕も覚えていない事までも憶えているのに吃驚。

①18世紀当時、自然の風力だけに頼って長期航海する艦隊や商船の乗組員は、野菜不足で壊血病に罹る水兵が多く、船医の仕事は多忙を極めていた事。特に行く先々の島や大陸で薬品の元となる薬草採集を行う作業は大変だったこと。


②そのために、世界一周艦隊の船医として乗り組むことになったコメルソン氏は、植物知識のあるジャンヌ・バレ氏(Jeanne Barre)を自分の補佐役として雇った・・・という事までも覚えていて、懐かしそうに語るのです。

そこで、徐々に記憶が戻って来た僕が、『世界一周探検艦隊が南太平洋のタヒチ島に寄港した時、コメルソン氏の助手・ジャンヌ・バレ氏を巡って、三文週刊誌が大いに喜びそうな性別に関する珍事が勃発した事も覚えていますよね?』とA氏に相槌を求めると、それまでニコニコしながら饒舌に語っていたA氏が眼の色を少し変えて、『そんな話はブログに書いていなかった』と言い張ります。

投稿したと思っている僕と、僕のブログを漏らさずに読んでいると嬉しい事を言ってくれる友人の間で思わぬ論争になったのですが・・・読んでいないと言い張る彼の剣幕に負けて、僕の思い違いということになってしまいました。その上、その事件の顛末を5月のブログに投稿する約束までさせられてしまったのです。まさに、本日、その約束を果たしているところですが、まさかこんな顛末になるとは思いもよりませんでした。

当時のタヒチ島は、命懸けで来島する白人とのビジネスを良好に運ぶために、島の酋長が若い女性を白人船員に提供する風習があったようです。当然のことながら、コメルソン氏の助手のジャンヌ・バレ氏にも、若い女性が送り込まれました。ところが、ジャンヌ・バーレ氏は、差し向けられたタヒチの若い女性を頑なに拒絶して追い返してしまいます。


コメルソン医師の助手ジャンヌ・バレ氏(Jeanne Barre)。 腕に採集した植物を抱えています。

激怒した酋親がジャンヌ・バレ氏に凄い剣幕で詰め寄ったところ、困窮したジャンヌ・バレ氏が、『実は、私は男性ではなく、女性なのです』と白状したことから、むさ苦しい男所帯の艦隊は、上を下への大騒ぎとなります。

生きて戻れる保証もない果てしなき長期航海で、しかも、大部屋という荒んだ生活環境の中で、誰一人として、ジャンヌ・バレ氏を女性だと気付かなかったと言うのですから、まさに、驚き、桃の木、山椒の木! とても信じられるような話ではありません。 


フランス探検艦隊のFrigate艦 La Boudeuse号
■排水量:550頓 ■全長:40m ■全幅:10.5m ■乗員:214名(士官8名)■船材質:木船


ジャンヌ・バレ女史はどのような出で立ちで艦内生活をしていたのでしょうか?興味に駆られて、駄目もとでネット検索すると・・・なんと! 男装した彼女のイラスト(下図)がヒットしました。ジャンヌ・バレー氏と大部屋生活を共にした同僚船員の話もありました。  

そういえば、奴が水浴びする姿を一度も見たことが無かったな!

狭い艦内に214名もの乗組員が身体を寄せ合って生活する中で、ジャンヌ・バレ氏は、汲々としながら、長い航海の日々を送ったに違いありません。


紫色の苞葉に包まれたブーゲンビリアの可憐な白花

植物採集を行うジャンヌ・バレ女史のイラスト画を見ると、頭部がとても小さく、背の高い細身の優しい風体に見えます。事の顛末を知って見直せば、タイでよく見かける男装した女性の『トムボーイ』のように見えなくもありません。

此の時代の新種植物の登録記録簿には、ジャンヌ・バレ女史が航海中に発見採集した植物名が多数記録されていることから、彼女は研究熱心で才能のある女性博物研究家だったとする意見もあるようですが・・・・当時のフランス雀の間では、『ジャンヌ・バレ女史はコメルソン氏の愛人に違いない』とする噂でもちきりだったようです。

しかし、上司のコメルソン船医は、『全く気付きませんでした』 と言葉少なく語るだけで、それ以上何の弁解も反論しなかったそうです。


女人騒動を起こしてタヒチ島を出港した探検艦隊が、インド洋モーリシャス島に寄港した時、コメルソン船医は、フランス艦隊とジャンヌ・バレ女史に突然別れを告げて下船。島に残ってしまいます。

その後のコメルソン氏は、インド洋の小島を転々としながら、大好きな植物研究に精魂を傾け、新種植物の学名登録のために一時帰国したこともあったかもしれませんが、その後の人生をインド洋の孤島で過ごして生涯を終えたそうです。


赤色の苞葉に包まれたブーゲンビリアの可憐な白花


1769年、Bougainville氏のフランス艦隊は、仏国として初の世界一周航海に成功して、母国フランスの海軍基地・ブルターニュ・サン・マロー港に凱旋帰港しています。フランス国民から歓呼の声で迎えられた事を報ずる当時の新聞記録も残っていました。

ジャンヌ・バレ女史のその後についての短い文章を見つけました。
ジャンヌ・バレ女史は、コメルソン船医がインド洋のモーリシャス島で下船した後も、世界一周艦隊のLa Boudeuse号に乗船して仏国に戻っていました。

彼女は、この時をもって、『世界一周の快挙を成し遂げた初めての女性』 として歴史に名前を刻まれることになったのですが・・・彼女のその後の動静は、杳として知れず、今になっても何一つ掴めないようです。


後日になって偶々目にした記事に、ジャンヌ・バレ氏が女性であることが判明したのは、彼女自身による告白ではなく、船医のコメルソン氏の医学的診断の公表結果であったとする説がありました。しかし、今となっては、それも臆説の一つに過ぎず、真実を確認する手立ては何も残されていません。

世界一周を終えた Bougainville氏は、後になって『世界周航記』(1771年)を著しています。 その著書の中で、彼は、『タヒチ島民は高貴な野蛮人』と記し、毎日飽きること無く怠惰な文明生活に浸る欧州人を揶揄しているのですが・・・その記事に触発されて、未だ見ぬ南の島の生活に飛び込んで行った人々もいたようです。

画家のゴーギャンが、南太平洋島に旅立ったのは有名な話ですね。ひょっとして、彼も『世界周航記』の影響を受けた一人ではないかと想像を逞しくしてチョット調べてみたところ、ゴーギャンは、Bougainville氏よりも百年以上も後の時代の人でした。

(注)ゴーギャンがタヒチに渡ったのは、1991年と1895年の二回。


本日の記事は、A氏との約束を果たすために書いたのですが、A氏の言われる通り、ジャンヌ・バレ女史に関する記事をアメブロに書いたというのは僕の間違いでした。実際は、現在工事中の僕のホームページに投稿していたのを、僕がアメブロに投稿したと勘違いしていたのですね。

という事で、ホームページ内のジャンヌ・バレ女史に関する記事をブログ用に改稿して転載させて戴きました。部分的には、ブログに投稿した記事と重複するところもあると思います。

■ご参考 ブーゲンビリアの植物分類名
学  名: Bougainvillea Spectabilis
科  名: オシロイバナ科  Nyctaginaceae          
属  名: ブーゲンビリア属 Bougainvillea         
性  状: 非耐寒性、ツル性低木
原産地:  中央アメリカ、南アメリカ
英  名: Bougainvillea
日本名:  ブーゲンビリア、イカダカズラ(筏 葛)、九重葛
タイ系タイ人= Fuan Faa  意訳:天空に向いて咲き誇る繁栄の花
中国系タイ人= Trut Jiin  意味:中国正月の春節        
花 言 葉= 情熱、魅力、貴方は魅力に満ちている。


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2016年04月04日(月) 10時15分58秒

1600 Pandas + in the Land of Smiles !

テーマ:タイ首都圏
自宅近くの最寄り駅チットロム駅の一つ隣のプルーンチット駅に隣接する高級ブランド志向の強いセントラル・エムバスィに初めて立ち寄りました。 

隣駅と言っても距離的には歩いて数分程度の違いなので、その気になれば直ぐにでも行ける場所なのですが、ブランド志向の乏しさもあって、今まで一度も立ち寄ったことがなかったのです。

ところが、高架電車で自宅に戻る途中、突如として我慢しきれない生理現象に襲われて、心ならずも一つ手前のプルーンチット駅で下車、大急ぎでセントラル・エムバスィに駆け込むことになってしまったと云う次第です。



左側建物:現行のセントラル・デパート、右側建物:新築のセントラル・エムバスィ  
隣り合った二駅に位置する両店は、自社専用の連絡通路でも繋がっています。  PHOTO:TABLET


セントラル・エムバスィ内の清潔で快適なレストルームで用達を終えてホッと一息。館内の贅沢なほど幅広の通路の空間を見遣ると、『 1600 Pandas + TH Central Embassy 』と表記された意味不明の英語看板がぶら下がっています。

なんだろうと思って近づくと、吹上あげ構造になった場所から下階のGフロアを覗き見ながら歓びの奇声を発しているタイ人中年女性がいます。僕も釣られるようにして下階を覗き込むと・・・・アララ、パンダが 『 うじゃうじゃ 』(方言?)しているではありませんか。


 
Gフロアの一角を埋め尽くす1600 Pandas + の群れ!  PHOTO:TABLET

設置されていた英語説明板にパンダ展示の趣旨が書かれていたのですが、うっかりして撮り忘れましたので、うろ覚えの記憶に頼って書き出しますと・・・・

1600 Pandas + World Tour have been around the world and now landing in the
Land of Smiles Central Embassy・・・・のような内容だったと思います。



1600 Pandas + Now landing in the Land of Smiles!  PHOTO:TABLET  

店内通路の掲示された意味不明の『 1600 Pandas + TH 』 のTHとは Thailand のことだったのですね。 それにしても、手つくりパンダ1600頭とは凄いですね。制作者は、中国人かと思いきや、西欧人のようですね。

タイ人中年女性も大喜び   PHOTO:TABLET
 
見知らぬタイ人中年女性も、子供心に立ち返ったかのように、大声をあげてはしゃいでいます。本来ならば写真の顔に目隠しをすべきでしょうが、全員が見知らぬ僕のカメラに朗らか目線を注いでいますので、肖像権侵害で訴えられることもないでしょう。



パンダ個々の表情がたまらなく可愛いですね。  PHOTO:TABLET

会場にいたタイ人中年女性の交わす会話にそれとなく小耳を挟むと、パンダ1600+の姿形や表情は、作者の思い入れによってそれぞれ微妙に違うのだそうです。


PHOTO:TABLET

そう言われてみれば、たしかに同じ顔や姿形のパンダは見かけませんね。
まさに、1600 Pandas + TH ! Now landing in the Land of Smiles Central Embassy !
でありました。


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2016年03月31日(木) 12時59分49秒

何年たっても馴染めないタイの色使い

テーマ:花木
今朝も俄か雨が降りましたが、数日前の夕方近くにも、バンコク・スクムウイット通りを歩いていて俄か雨に遭遇したことを思い出しました。

友達から引き伸ばしを依頼されていた小半切サイズのカラー写真を持ち運んでいたので、慌ててエム・クオーティエ(通称:エンポリアム2)に駆け込みました。此処数日間の時折の俄か雨は、本格的暑季の訪れを告げる自然界からのアナウンスかもしれません。

エム・クオーティエは、三つの建物(The Glass Quartier, The Helix Quartier,The Waterfall Quartier)が中庭によって繋がっていて、高級ショ ッピング街、高級レストラン街、そして庶民的なフードコート等も入居している大型の複合COMPLEXです。

俄か雨を避けて飛び込んだ建物は、低層階がSHOPPING COMPLEX、高層階がWATER GARDENになっているThe Helix Quartierでした。興味の薄いSHOPPING FLOORを通り過ぎて、エスカレーターを利用して高層階のレストランや喫茶コーナのあるWATER GARDENへと向かいます。



The Helix Quartierの吹上部分の空間を彩る南国らしい色使いの創作花  PHOTO:TABLET

館内の吹上部分の空間を飾る創作花を観て少しばかり時間を過ごし、それでも俄か雨が止まないようであれば、東南アジア最大の日本語書籍を誇る紀伊国屋書房で時間稼ぎをするつもりでいたのですが・・・


鳥肌が立つような思いがする色使い  PHOTO:TABLET

エスカレーターに乗って上階へ移動するにつれて、南国の創作花の花色が極端なグラデュエーションを起こして変化する仕掛けに気付き、昇降機の踊り場に佇んでタイ特有の色使いの変化を楽しむことにしました。


仕掛けられた投光によって極彩色に変化する創作花  PHOTO:TABLET

僕の色彩感覚からは逆立ちをしても出てこない色使いだからでしょうか、半ば呆気にとらわれながらも、暫し魅入られてしまいました。


僕の思考回路からは、此のような色使いは生まれません。  PHOTO:TABLET

白内障を患って手術を受けた僕の老いた瞳が、観てはならない物体に接して本能的に目を瞑るかと思いきや、怖いもの見たさの子供のように、思わず両眼の絞りをめいっぱい開いて魅入ってしまいます。


鳳凰木(孔雀木)の花色を大袈裟に描写するとこんな感じになるのでしょうか。  PHOTO:TABLET

白内障は手術によって眼内に人口レンズを挿入したことにより殆ど完治したと思うのですが、昨年の日本一時帰国の折に検査を受けた眼科医から『軽度の緑内障』の疑いを宣告された僕の左目が、見慣れない色変化を捉えて瞬間的に痙攣したような気もしましたが・・・

実は、同時期に受診した二人目の眼科医から、『僅かな凹はありますが、薬治療で経過観察する程度ですよ』と診断されていますので・・・それ程心配することもないでしょう。


 
『地獄絵図の色使いみたい』と言うと、創作者から怒られてしまうでしょうが・・・  PHOTO:TABLET

これ程までの変色を繰り返し観ていると、創作者には大変申し訳ないのですが、タイの仏教寺院で見かける悪趣味に近い不快な地獄絵図の色使いを思い出してしまいます。 

しかし、周囲のお若いタイ人女性の多くは、『とっても綺麗だわね』 สวยจัง、แหม สวยจัง とうっとりとした表情を浮かべて見入っています。 僕の感じを一言で表現するならば、『こんがらかって、どぎまぎする』というところでしょうか。タイ語で言うならば、適切ではないかもしれませんが วุ่นวายสับสน と言ったところでしょうか。 適当な表現を教えて貰えれば嬉しいです。

20数年に亘ってタイに在住しているというのに、未だに南国特有の色使いに全く馴染めていない自分に気付かされた雨宿りのひとときでした。

ふとWATER GARDENの外を見遣ると、俄か雨が止んで僅かに青空が顔を出しています。さあ気を取り直して、引き伸ばしたばかりの小半切の写真の到着を待っている友人の所に向かうことにしましょう。
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2016年03月28日(月) 11時18分55秒

涅槃仏9形態の写真一覧  พระพุทธไสยาสน์ปางต่าง ๆ

テーマ:涅槃仏
今年1年を掛けて、タイの涅槃仏9形態を自分の足と目で観て回ろうと思い立ったのですが、携帯電話を兼ねたタブレットのGoogleマップによる事前調査が効果的であったことと、自家用車のナビゲーション機能に助けられて、僅か3ヶ月弱で達成してしまいました。

あまりにも短期間で終わったので、集大成と言うのも気恥ずかしいのですが、過去に何度もトライして失敗した事もあり、何はともあれ、自分の備忘録も兼ねて涅槃仏9形態の写真を一つに纏めて置く事にしました。

9形態の涅槃仏の存在とその特徴を自分の目で確認できましたので、今後は、タイ国の彼方此方の寺院に安置されているであろう涅槃仏を、基本的形態を飛び越えた番外編の涅槃仏をも含めて、自由闊達に観て回ろうと思っています。

それでは、第一形態から第九形態の涅槃仏の写真をご覧下さい。本日は、各形態ごとの煩雑な説明は割愛しました。各形態の意味あいに興味をお持ちの方は、ご面倒でしょうが、過去ログをご覧戴きたいと思います。



第一形態:夢うつつの右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๑. พระพุทธไสยาสน์ปางทรงพระสุบิน วัดพิกุลทอง จ.สิงห์บุรี









第ื二形態:世話役僧のアーナンタの按摩を楽しみに待つ右脇臥の釈迦牟尼のお姿 
๒.พระพุทธไสยาสน์ปางทรงพักผ่อนปรกติ วัดถ้ำเขาหลวง จ.เพชรบุรี







第ื三形態:夜叉を統括する阿修羅の副王を帰依させる右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๓. พระพุทธไสยาสน์ปางโปรดอสุรินทราหู วัดขุนอินทประมูล จ.อ่างทอง







第四形態:世話役僧のアーナンタが悟ることを予言する右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๔. พระพุทธไสยาสน์ปางทรงพยากรณ์พระอานนท์ พระปฐมเจดีย์ จ.นครปฐม







第五形態:スパッタを生涯最後の弟子とされる右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๕. พระพุทธไสยาสน์ปางโปรดพระสุภัททะ พระปฐมเจดีย์ จ.นครปฐม






第六形態:生涯最後の教えを説く右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๖. พระพุทธไสยาสน์ปางปัจฉิมโอวาท วัดปทุมวนวนารามราชวรวิหาร กรุงเทพมหานครฯ







第七形態:入滅された直後の右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๗. พระพุทธไสยาสน์ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ 1) พระปฐมเจดีย์ จ.นครปฐม







第八形態:両手をお腹の上で重ねた仰臥の姿形で弔問を受ける釈迦牟尼の亡骸
๘. พระพุทธไสยาสน์ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ 2) วัดพระนอน จ.สุพรรณบุรี







第九形態:両手を両脇に伸ばした仰臥の姿形で荼毘を待つ釈迦牟尼の亡骸
๗. พระพุทธไสยาสน์ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ 3) วัดราชคฤห์วรวิหาร กรุงเทพฯ







以上です。

追伸:タイ人の間で圧倒的に人気度が高いのは第三形態。二位、三位が無くて四位クラスが第七形態、五位クラスが第6形態だろうと思います。僕が個人的に好きなのは、第四と第五形態、とりわけ第五形態の大ファンなのですが・・・此の2つのジャンルに属する大型の涅槃仏は、未だ見たことがありません。今後の楽しみにしています。

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2016年03月24日(木) 11時53分58秒

究極の涅槃仏

テーマ:涅槃仏
バンコク都心からチャオプラヤー川を越えてトンブリー・バンコクヤイ運河奥の3ヶ所の寺院巡りをして来ました。何れの寺院にも涅槃仏が安置されていることは事前調査済なのですが、此の日の僕の最大目的は、Wat Rachakhru Worawihan(寺院)に安置されている荼毘に臥される直前の仰臥した『究極の涅槃仏』(9形態目の涅槃仏)を観ることです。

涅槃仏には9種類の姿形があり、1形態目から7形態目は右脇臥の涅槃仏。 8形態目から9形態目が仰臥した涅槃仏ですが、8形態目の両手をお腹の上に重ねて仰臥した涅槃仏は、既に僕自身の足と目で確認済です。

しかし、9形態目の涅槃仏は、日本の高野山金剛峯寺の涅槃絵図の複写を見た事はありますが、彫塑された涅槃仏となると、今まで一度もお目に掛かったことがありません。


高野山金剛峯寺の涅槃絵図 (平安後期の絵図だそうです)

正調・涅槃仏には9形態があり、第1形態目から第6形態目は、釈迦牟尼の存命中の姿形であり、7形態目から9形態目は、釈迦牟尼が入滅(死去)された後の姿形であることは再三再四触れてまいりました。

タイ語では、入滅した後の7形態目~9形態の涅槃仏の共通の呼称として、พระพุทธปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน(Phraphutha pang sadet dapkhan parinippan) と言う尊名が付けられています。共通呼称の中にある ปรินิพพาน(parinippan)は、釈迦牟尼と阿羅漢の死だけを意味する仏教語と聞き及びます。

7形態~9形態のそぞれの区別は、語尾に付帯された ปางที่ ๑(姿-1)、ปางที่ ๒(姿ー2)、 ปางที่ ๓(姿-3)として表現されています。


7形態目 ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ ๑)・・・入滅直後の右脇臥の涅槃仏
8形態目 ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ ๒)・・・弔問を受ける仰臥の涅槃仏
9形態目 ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ ๓)・・・荼毘に付される直前の仰臥の涅槃仏


此の日に訪問した3寺院の内、第9形態目の涅槃仏が安置されているのは、วัดราชคฤวรวิหาร Wat Rachakhru Worawihan だけです。

他の2寺院の涅槃仏の姿形は、タイの涅槃仏の殆どを占める ปางโปรดอสุรินทราหู 、つまり、世界の夜叉王を統括する阿修羅の副王に慈悲を与える釈迦牟尼の姿形です。有名なワット・ポー寺院の涅槃仏と同じスタイルですね。


幼少の頃の僕は、大好物は最後に食べるような性格だったようですが、老い先の短くなった今の僕にそんな余裕はありません。いの一番に9形態目の涅槃仏を安置する下欄①のWat Rachakhru Worawihanを訪れました。

備忘録:僕の訪問した3寺院名と安置されている涅槃仏の形態 
①วัดราชคฤวรวิหาร Wat Rachakhru Worawihan, ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ ๓)
②วัดนางชี Wat Nangchi, ปางโปรดอสุรินทราหู・・・・工事中により撮影不可
③วัดราชโอรสารามราชวรวิหาร Wat Racha Orasaram Rachaworarihan, ปางโปรดอสุรินทราหู



ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ ๓) วัดราชคฤวรวิหาร 
Wat Rachakhue Worawihan に安置されていた荼毘に付される直前の究極の涅槃仏


9形態目の涅槃仏が仰臥される部屋に入ると、釈迦牟尼が最も信頼していた直弟子の頭陀第一の พระมหากัสสปะ Phura Mahakassapa が釈牟尼の足元に座して荼毘に付する直前の祈りを捧げているところでした。頭陀第一の Phura Mahakassapaの存在は知っていましたが、彫像を拝観したのは初めてです!


พระมหากัสสปะยืนถวายบังคมอยู่เบื้องพระบาท
釈迦牟尼の足元で、荼毘に付する直前の祈りを捧げる頭陀第一の Phura Mahakassapa

ところが、悲しいかな、肝心の涅槃仏の全身は黄色い布で覆われていて、最大の特徴である両脇に伸びている筈の左右の腕の状態を確認することが出来ません。

無宗教で仏像だけに興味のある罰当たりな僕の勝手な思いであることは重々分かっているのですが・・・それでも、仏像の細部を隅々まで観たい僕としては、まことに残念至極であります。




諦めきれずに、釈迦牟尼の頭の位置に回り込み、肩の隙間から覗き込むのですが・・・ご丁寧にも二枚の布できっちりと被われていて、内部を覗き見る隙間すらもありません。

いくら宗教心の乏しい僕であっても、黄布を捲って覗き見るような不埒なことは出来ません。タイの敬虔な仏教信者の行う黄色い掛け布の寄進行為を恨めしく思いながらも、心を平静にして合掌させて戴きました。



涅槃の世界に入られた釈迦牟尼のやすらかな横顔

涅槃堂内の椅子に腰掛けて、初めてお目に掛かった9形態目の涅槃仏をしげしげと見入っていると、一組の観光客らしい老夫婦が入って来られました。

何気なく白髪老女の手元の古びた冊子の開かれた頁を見遣ると・・・あらら! 此の涅槃仏の写真が掲載されているではありませんか。しかも黄布が被されていない本来の姿形です。 丁重にお願いしてその頁の写真を撮らして頂きました。



老女が持参されていた冊子に掲載されていた第9形態目の涅槃仏の写真

老女持参の写真と僕の持参した第9形態目の涅槃仏のタイ語解説文(下記)を見比べても、目の前の仰臥仏が第9形態目の究極の涅槃仏であることに相違ありません。

変化点と言えば、足元に跪いて祈りを捧げる釈迦牟尼の頭陀第一の直弟子だった พระมหากัสสปะ Phura Mahakassapa の姿形が、現在は漆黒の像になっているのですが、その昔は涅槃仏と同じように金箔が貼り付けられていたことくらいでしょうか。


(下記は僕の備忘録ですのですっ飛ばしてください)
ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ 3) ・・・9形態目の涅槃仏の特徴
พระพุทธรูปปางนี้แสดงอิริยาบถประทับนอนหงาย พระองค์ทอดยาว พระบาทเหยียดขนาบกันทั้งสองข้าง พระหัตถ์วางทาบยาวขนาบพระวรกาย (両手は体を挟んで伸びいている)พระมหากัสสปะยืนถวายบังคมอยู่เบื้องพระบาท(頭陀第一の直弟子が釈迦牟尼お足元で祈りを捧げている) เพื่อรำลึกถึงพุทธประวัติเมื่อครั้งงานถวายพระเพลิงพระบรมศพ ซึ่งเพลิงไม่ลุกไหม้ต่อเมื่อพระมหากัสสปะ พระเถระผู้ใหญ่เดินทางมาถึง เพลิงก็ลุกไหม้เป็นที่อัศจรรย์

白髪の老女に僕の感謝の気持ちを縷縷申し上げると、彼女も自分の事のように喜びを表しながらも、唐突な質問が戻ってきました。

『ところで、貴方のお顔は随分とお若く見えるけれども、頭髪は私と同じ総白髪ね。お歳は幾つなの?』

唐突な質問とは言っても、此処タイでは、日本と違って、初対面の相手から年齢を訊ねられる事は決して珍しいことではありません。正直に答えると・・・

『あら嘘でしょ!私と同じじゃないの!日本人って若く見えるのね!羨ましい!』と言われてしまいました。

正直に言いますと、彼女は僕よりも十才くらい年上だろうと思っていたのですが、その気持ちをぐっと飲み込んで、あらためて同年としてのエール交換をさせて頂きました。

此の日は随分と佳き日でありました。
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2016年03月19日(土) 10時20分55秒

明日から施行されるタイ国不法滞在の罰則変更

テーマ:我が家の出来事
昨日の金曜日は、3ヶ月連続してタイに長期滞在する外国人に義務付けられている90日レポートのために、バンコク郊外の移民局事務所に出かけました。月日の経つのは早いもので、去年末の20日にフィリピンからタイに戻って3ヶ月が過ぎてしまいました。

バンコク都心の我が家を車で出発したのが、午前9時半。移民局事務所が入居しているジェーンワッタナー通りの政府合同庁舎に到着したのが10時5分。金曜日にしては交通混雑もなく順調な滑り出しです。


タイ政府の合同庁舎内の催事広場

移民局の受付案内で貰った90日レポートに必要事項を記入してから順番待ちの呼び出し番号カード『144番』を入手したのが10時15分。90日レポート申請の部屋へと向かうと、『103番』の人が申請中です。午前中に終わることを期待して、文庫本を読みながら椅子席で待ちます。


バンコク居住の一般外国人(BOI事業は不含)対象の90日レポートの申請窓口

90日レポートの日が近づくと、『1年滞在査証を取得しているにも拘わらず、何故に3ヶ月連続滞在毎に報告書を提出する必要があるの?』といつも思います。 しかし、タイ国に滞在させて頂いている身分を慮ると、唯々諾々と移民法に従うしかありません。

今年に入って移民局事務所に足を運んだ回数は、本日を含めて3回目になります。
1回目(2月1日)は、僕の1年滞在ビザの更新だったのですが、午前10時から行列待機が始まり、更新手続きが完了したのは、なんと午後3時半。昼食を挟んでいるとはいえ、5時間半の苦行です。

更新完了直後、脱兎のごとく再入国許可証取得の行列番号窓口に向かったのですが、無情にも『本日の受付は15時半で終了』の立て札が出ています。通常ならば、一年滞在査証を午前中に取得し、再入国許可証を午後に入手できるのですが・・・後日、もう一度出直しするしかありません。

1年滞在査証を入手するための係官との面接は僅かに5分前後なのに、そのための待ち時間が5時間25分。なんとも非効率極まりないお役所仕事としか言いようがありません。比較的待ち時間の少ない再入国許可と90日レポートには事前予約と郵送制度がそれぞれ導入されているのですから、もっとも時間を食い潰す1年滞在査証の更新にも然るべき工夫があっても良いように思うのですが・・・・

2回目は3月1日でした。此の日は、連れ合いの一年滞在査証の更新、再入国許可証の取得、そして90日レポートです。更に、前回申請すら出来なかった僕の再入国許可証取得の再トライです。前回の経験から思えば、百%達成は到底無理と承知の上でのトライです。

ところが、どうしたことでしょう!? 行列番号の順番は2月1日とほぼ同じだったにも拘らず、此の日はスイスイと進み、連れ合いの再入国許可証の取得が午後一番に回っただけで、それ以外は全て午前中に完了したのです。何がどうなっているのか皆目分かりません。

そして、三回目の3月18日(昨日)の僕の90日報告の申請は、待つこと45分で終了しました。次回は3ヶ月後の6月18日が90日レポートの申請日になります。しかし、7月と9月に海外出国の予定が入っていますので、年内に移民局へ出かける必要はありません。ヤレヤレと言ったところです。



タイ政府合同庁舎 左が駐車場ビル、右が庁舎ビル

タイ政府合同庁舎の駐車場に向かう途上、声を張り上げて議論をしている二人連れの外国人男性と一緒になりました。タイ政府が今月の3月20日から施行する『外国人の不法滞在に関する再入国禁止』の解釈について理解の違いがあるらしく、傍にいた僕に意見を求めて来ました。

A『90日レポートを超えて90日以上滞在した外国人は、タイ入国1年間禁止って本当なの?』
僕『90日レポートではなく、滞在査証の許可日数を90日オーバーしたらと言うことですよ』

B『1年間の入国不可ではなく、5年間の入国不可になるって聞いたよ』
僕『自分で出頭した時は1年入国不可で、逮捕された時は5年間だそうですよ』

自分で出頭しても、1年を超える不法滞在ならば3年間、3年以上であれば5年間、5年以上であれば10年間の入国不可になること。逮捕された時に1年以上の不法滞在になっていれば、10年間の入国不可になるらしい事を説明すると、二人は顔を見あわせて目をパチクリさせていました。

聞けば、今までは罰金(袖下も含む?)を支払って凌いで来たのだそうです。

さて明日は、誰とも約束のない日曜日です。トンブリー地区の寺院に9形態目の涅槃仏を探し求めて、一日ゆっくりとぶらつくつもりです。
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2016年03月16日(水) 12時33分58秒

仰向けの涅槃仏 พระพุทธปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน-ปาง ๒

テーマ:涅槃仏
今年1年を掛けて、タイ国内の涅槃仏9形態を観て回る目標を掲げたのですが、3ヶ月目にして、早くも8形態目の記事を書くことになりました。 

過去にも9形態の涅槃仏を観て回ろうと何度もトライしたのですが、5形態目以降の涅槃仏をどうしても見付けることが叶わず、いつも頓挫を繰り返していたのです。

ところが、今年はあれよあれよと言う間に進行して、本日記事にする8形態目の涅槃仏を除けば、残すところ僅かに1形態のみとなりました。9形態目の涅槃仏が安置されている寺院の在り処も既にチェック済みですので 、遅くても来月中にはご報告できるのではないかと思っています。

さて、本日の8形態目の涅槃仏は、1形態目から7形態目の右脇臥仏と違い、『仰向けになっている涅槃仏』です。 仰向けの涅槃仏なんて信じられないと仰る方も居られるかもしれませんが・・・僕の個人的感覚としては、右脇臥仏よりも、仰臥仏の方が入滅された姿形に相応しいのではないかと思っています。



วัดพระนอน ต.พิหารแดง อ.เมือง จ.สุพรรณบุรี
พระพุทธไสยาสน์ปางเสด็จดับขันธปรินิพพานในลักษณะนอนหงาย

スパンブリー県 涅槃寺(プラノーン )  入滅後に仰向けになられた釈迦牟尼仏


何でもありの日本と言えども、仰向けになった涅槃仏だけは無いのでは?・・と思ったのですが・・・あり得る筈がないと思っていた薬師如来の涅槃仏をも創りだす日本ですから、在ったとしても何の不思議もありませんね。 在り処をご存知の方、是非ともお教えください。


วัดพระนอน ต.พิหารแดง อ.เมือง จ.สุพรรณบุรี
両足は真っ直ぐに伸びています。


バンコク在住の日本人男性から質問を受けて、仰向けの涅槃仏の存在について説明すると、『涅槃仏は右脇臥だけと思っていたのに、仰向けって単なる亡骸仏じゃないの ? 本当に涅槃仏のジャンルなの? 気持ち悪いな・・・』と言われてしまいました。


วัดพระนอน ต.พิหารแดง อ.เมือง จ.สุพรรณบุรี
両手はお臍の辺りに、合掌ではなく、右手を左手の上に重ねられています。


しかし、涅槃仏のタイ語解説書を読むと、9形態の内の7形態は『右脇臥の涅槃仏』であり、2形態は『仰臥の涅槃仏』として明記してあります。決して僕の得手勝手な思い込みではないのであります。

仰臥した涅槃仏についてのタイ語解説を見てみましょう。
พระพุทธไสยาสน์ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ 2)
หลังจากพระพุทธเจ้าเสด็จดับขันธปรินิพพาน พระบรมศพได้ถูกนำมาจัดแต่งให้เหมาะสม ซึ่งตามพุทธประวัติกล่าวว่า ทรงบรรทมหงาย(仰臥なされている) พระบาทเหยียดเสมอกัน(両足は真っ直ぐ伸びている) พระหัตถ์วางทับซ้อนกันบนพระอุระ บ้างก็ว่าทับซ้อนบนพระนาภี (両手はお臍のあたりで重ね合わさっている) ดังปรากฏเป็นพุทธลักษณะของพระพุทธรูปปางนี้


此の説明文をご覧いただければ、仰臥した涅槃仏の存在が僕の得手勝手な思い込みではない事をご理解いただけると思います。

普通のタイ人や子供は、涅槃仏を言葉で表現する時、普通語の『พระนอน プラノーン』 (お眠りになっている仏陀)を用いますが、厳格な人は、タイ仏教語の พระพุทธไสยาสน์ (プラプッタサイヤート) と表現する人が多いようです。

また、『仰向けになる』と言う表現も、一般人は『นอนหงาย』(ノンガーイ )と言う親しみ易い言葉を使い、厳格な人は、『ทรงบรรทมหงาย』(ソンバントムガーイ)と言う王室語(大尊敬後)を使用する傾向があります。 

タイマッサージ店をご愛用の方は、仰向けになることを意味する『นอนหงาย』(ノンガーイ )というタイ語を耳にされるのではないでしょうか。 かなり多額のチップをはずむ常連であっても、『บรรทมหงาย』(バントムガーイ)と言われることは、たとえ冗談であろうとも、おそらく無いのでは・・・と思います。

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2016年03月13日(日) 09時08分58秒

土曜日(瞑想会⇒中国墨絵展⇒憂鬱な依頼)

テーマ:我が家の出来事
連れ合あいが実母(94歳)の世話をするために一時帰国して今日で四日目になります。連れ合いの日本一時帰国は、いつもの事なので慣れているつもりでしたが、こんなにも静けさを感ずるとは意外でした。此れも寄る年波の所為なのでしょうか。 しかし、『親孝行したい時には親はいず』と言いますので、耐え忍ばなければなりません。

昨日の土曜日は瞑想会でした。いつものように斎戒沐浴を終えてから、エラワン・ホテル内を抜けてエラワン・プラザに入り、ファッション通りの美人モデルさんに見送られながら、スカイウオークを歩いて高架電車のチッドロム駅へと向かいます。



早朝にも拘わらず、エラワンのモデル嬢は既にお目覚めです。

今回の瞑想会は、いつもの瞑想会に加えて東日本大震災の追悼式典を兼ねているために、3人の指導僧侶が来られていました。知り合いの常連メンバーの多くは、日本に一時帰国している人が多いのですが、タイに短期滞在で来られている人の参加者が多くて満席です。

東日本大震災の追悼式典の案内状


在外生活25年以上になる僕は、淡路・神戸大震災の時もそうでしたが、東日本大震災の時も詳しい事象を知らないままに日々を過ごしてしまいました。バンコクの自宅にはTVすら置いていません。大まかな事象は、ラジオとネットで知る程度です。

瞑想会のタイ人僧侶から『震災地の“風の電話”の事を知っていますか?』と問われても、恥ずかしながら何のことかさっぱり分かりません。 タイ人僧侶の話は、僕の記憶によれば次のような内容だったように思います。

『風の電話ボックスには電話線がありません。静かに目を閉じて耳を澄ましたとき、風の音、波の音、小鳥の囀りが聞こえたならば、あなたの心の想の丈を、空にいる人に伝えることが出来る電話なのです』。『日本民族って、本当に素晴らしいですね。此のような民族は、世界広しと言えども、日本民族だけだと思います』と言うタイ人僧侶の声が今も耳に残っています。



タイ人女性・UTHUMPORNさんの出品作品の中で一番気に入った墨絵の母子猿 ลิงแม่ลูก

瞑想会の心地良い余韻を覚え乍ら、タイ人女性の MS.UTHUMPORN が出展されている中国墨絵展に足を運びました。彼女は、タイの東大と言われるチュラロンコン大学商学部出身の才媛ですが、僕が通っていたタイ語読解教室で、タイ文化と日本文化の違いを教えられていた先生でもあります。

42点の展示作品中、彼女の作品は7点、その中には、墨汁と水彩色を混在させた力作も含まれていました。『墨絵を初めて間もないので習作の段階です』(หัดวาดภาพด้วยหมึกจีน)と謙遜されていましたが、どうしてどうして大したものです。中国墨絵は全く門外漢の僕ですが、最も気に入った作品は、とても素朴な感じを受けた上掲の母子猿 ลิงแม่ลูก でした。

墨絵展を楽しんだ後、昼食を挟んで始まったミニ講演要請の話が夕方まで長引いてしまいました。昨年は2回の講演、今年は既に1回の講演を行っているのですが、正直のところ、パワーポイントの挿入写真と文章スライドの編集作成に時間が掛かり、自分自身の時間が大幅に食われて困惑しています。



エラワン・ホテル地下の食事兼洋酒コーナーで依頼話の延長戦になってしまいました。

せいぜい一年一回程度に抑えたいと思っているのですが・・・一度引き受けてしまうと連鎖する傾向が強いようです。 引き受けた以上は、自分なりに全力を尽くすことになってしまい、結果として悪循環を誘引しているような気がしてなりません。

友人の中には、『スケジュールを埋めるために、また海外旅行にでも出掛ければ』と言う人もいるのですが、連れ合いとの約束で、一人海外旅行は一年一回となっているために、それもままなりません。

瞑想会と墨絵鑑賞で安穏な土曜日になるかと思ったのですが・・・物事はそう簡単に思い通りにはなりませんでした。
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