長い海外駐在生活を終えたhiro-1が念願のタイ国に移り住んで繰り広げる生活のあれこれ。或る時は、大学のタイ語学科でタイ語を学び、歴史学科ではアユッタヤー王朝の外交史を専攻、或る時は、自家用車を駆ってタイ国内の遺跡を巡り、又或る時は、タイの文化を覗き見る自由で気儘な生活写真日記です。
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2016年06月21日(火) 10時29分04秒

6:比島旅行・ミンドロ島の戦い・艦砲射撃1発で敗残兵

テーマ:フィリッピン旅行
6月12日付けのブログ『5:比島旅行・ミンドロ島・零戦改造の水上戦闘機』の続きです。

前回までの粗筋
バンコク在住の親しき友人K氏の父君が旧日本海軍の航空機整備の補充兵として駐留されたフィリピンの戦跡地を巡ることになりました。最初に訪れたのは、ルソン島に近いミンドロ島西ミンドロ州サンホセ・カミナウイットの海軍護衛航空隊佐世保鎮守府常設航空隊(略称:第955海軍航空隊)の水上機基地跡です(下掲左写真)。

  
左:ミンドロ島西ミンドロ州サンホセ・カミナウイットの第955海軍航空隊水上機基地跡
右:イメージ写真・南太平洋マーシャル諸島の海軍航空隊水上機基地(HPから拝借)

K氏の父君が水上機基地で整備されていた航空機は、三菱零式艦上戦闘機11型(単座単葉)を水上機仕様に改造した中島二式水上戦闘機 (略称:二式水戦)でした。そして、栗田艦隊の重巡洋艦羽黒などが搭載していた三菱零式水上観測機11型(略称:零観)も、レイテ島海戦に備えてカミナウイットに前進駐留していたようです。

  
左:カミナウイット基地の常駐機・中島二式水上戦闘機 (単座単葉)
右:戦艦大和や重巡羽黒等に搭載されていた三菱零式水上観測機11型(複座複葉)
(HPより拝借)


フィリピンの戦跡巡りをするに当たって、K氏の父君(故人)が所属されていた海軍955航空隊の駐屯地を記した資料が無くて困り果てていたのですが・・・

期せずして同時期にミンドロ島西ミンドロ州南西部のサンホセ・バランゲイに駐留されていた大岡昇平氏(陸軍暗号手)の『ミンドロ島ふたたび』と『俘虜記』の著作に助けられて、第955海軍航空隊水上機基地の当時の在り処を推定することが出来たのは幸いでした。

ほぼ同年齢の御両氏は、海軍と陸軍の違いはありますが、ほぼ同時期に日本で補充兵として臨時召集され、フィリピン・ミンドロ島内の近隣地域に駐留、同じ山中で虫の息になっているところを米軍に捉えられて俘虜となり、レイテ島の俘虜収容所に送致されるという同じ足跡を歩まれていたのです。

K氏の父君と大岡昇平氏の軍歴を併せて下掲して置きます。 【青字=大岡氏の軍歴】
 ■1944年3月    近衛歩兵聯隊の暗号兵として教育召集(35歳)
 ■1944年4月1日  舞鶴鎮守府舞鶴海兵団に海軍二等整備兵として入営・臨時招集の補充兵(36歳)。
 ■1944年4月10日 海軍鈴鹿航空隊で航空機整備の初歩訓練。
 ■1944年6月19日 海軍名古屋航空隊・岡崎分遣隊(第二岡崎海軍航空隊)で航空機整備の訓練。
 ■1944年6月     第35軍司令部第105師団陸軍二等兵暗号手として臨時召集
 ■1944年8月    第105師団独立歩兵第359大隊臨時歩兵第1中隊(西矢中尉)本部に配属。
              ミンドロ島西ミンドロ州南西部サンホセ・バランガイの中隊本部暗号手として駐留。
 ■1944年8月1日  海軍護衛航空隊佐世保鎮守府常設航空隊(第955海軍航空隊)に配属。
 ■1944年9月上旬 ミンドロ島南西部サンホセ・カミナウイットの水上機基地に駐留。

四国の半分の大きさのミンドロ島に駐留していた日本軍は、陸軍兵と海軍兵、そして、レイテ島へ向かう途中に撃沈された民間輸送船の船員200名(非戦闘員)を含む726名。しかも、兵士の大半は、敗色が濃くなって臨時召集された戦闘能力の低い補充兵でした。

ミンドロ島の日本軍の駐留地と兵力の内訳(参考)
 ■西矢中尉の率いる臨時歩兵第1中隊=160名・・・第1中隊本部(西ミンドロ州サンホセ)
   第一小隊 プララカオ、第2小隊 パルアン 、第三小隊 サンホセ
   ※大岡昇平氏は第1中隊本部付きの暗号手
 ■塩野中尉の率いる臨時歩兵第2中隊=100名・・・第2中隊本部(東ミンドロ州カラパン)
   第一小隊 ルバング島、第二小隊 ピナマラヤン、第三小隊 カラパン
 ■石橋少尉の率いる海軍955航空派遣隊=60名・・・本部(西ミンドロ州サンホセ・カミナウイット)
   ※K氏の父君の所属部隊
 ■陸軍第四航空軍気象観測班=6名
 ■船舶工兵(大発艇の運航)=200名 
 ■撃沈された徴用民間輸送船の船員=200人(非戦闘員)


ミンドロ島(西ミンドロ州・東ミンドロ州)の日本軍駐留地・・・(赤字)

ルソン島バタンガスの陸軍第8師団本部に駐留する後方要員を合わせても1千人余
りの手薄な守備体制だったことが分かります。兵力を集中して死守すべきはルソン島であり、ミンドロ島は見放された拠点だったのかもしれません。


しかし、連合国軍南西太平洋方面総司令官ダグラス・マッカーサーの考えは違いました。ルソン島に立て籠もる日本陸軍を攻撃する陸上航空基地建設の適地を求めていたマッカーサー大将は、日本陸軍を撃滅して奪還したレイテ島の飛行場よりも、日本軍の手薄なミンドロ島に飛行場3箇所を新たに建設する事を優先したのです。


レイテ島 ⇔ マニラ ⇔ ミンドロ島の位置関係を見るとミンドロ島の優位性が分かります。

米軍のミンドロ島攻略の経緯を振り返ってみましょう。
1944年12月12日
レイテ島を奪還したマッカーサー大将は、ストルーブル准将の艦隊(108隻)を、ルソン島に近いミンドロ島南西部のマンガリン湾へ急行させます。


1944年12月13日
米軍艦隊がミンダナオ海からスールー海に至る海域を航行中、神風特攻第二金剛隊(零戦3機)と陸軍特攻一宇隊(隼1機)が旗艦ナッシュビルの艦橋と艦尾に激突して爆発。砲弾が誘発して戦死133名、戦傷190名を出す大惨事に見舞われます。



戦線離脱を余儀なくされたストルーブル准将座乗の旗艦・軽巡洋艦ナッシュビル(HPより拝借)

ストルーブル准将は、大破した旗艦ナッシュビル号から駆逐艦ダーシュルに旗艦を移し、ミンドロ島への航海を続けます。ナッシュビル号は、フィリピンのコレヒドール島を脱出したマッカーサー大将が豪州→ニューカレドニア→レイテ島上陸に至るまで座乗していた旗艦でした。

当時の日本南方総軍は、ストルーブル准将の上陸地点をパラワン島かネグロス島辺りと誤認して警報を発令していたのですが、暫くして、米軍の目的が全く予期していなかったミンドロ島上陸と分かって慌てふためきます。しかし、とき既に遅しです。

1944年12月15日 06時10分
旗艦・駆逐艦ダーシュルに座乗するストルーブル准将に率いられた米軍艦船108隻が西ミンドロ州サンホセのマンガリン湾を埋め尽くします。


大岡昇平氏は、その時の様子を『ミンドロ島ふたたび』に次のように綴っています。
マンガリン湾の見張りをするために電報局の屋上を共用していた陸軍西矢隊と第955海軍航空隊は、12月15日の早朝、まだ暗いカミナウイットの沖合で盛んに燃えている火を認めた。夜が明けるとマンガリン湾一杯に艦船がいた。『連合軍が来た』と思った途端に艦砲射撃の第1発目が発射された。(hiro-1要約)



ストルーブル准将に率いられた米軍艦船108隻が攻め寄せたマンガリン湾の早朝風景
宿泊したVILLAの食堂から撮影(左奥:サンホセ・カミナウイット)


マンガリン湾を埋め尽くしたストルーブル准将の艦隊編成
  ■護衛艦隊:旗艦・駆逐艦(ダーシュル)、軽巡=2隻、駆逐艦=11隻
  ■支援艦隊:護衛空母=6隻、戦艦=3隻、重巡=2隻、魚雷艇=23隻
  ■上陸支援:高速輸送艦=8隻、戦車揚陸艦=30隻、中型揚陸艦=12隻


1944年12月15日 07:10
駆逐艦による一発目の艦砲射撃(威嚇射撃?)がサンホセ海岸に向けて発射されます。


1944年12月15日 07:30
一発目の艦砲射撃を合図に、米軍の第19歩兵連隊と503空挺歩兵連隊の約2万7千人(内空港建設要員1万7千人)は、サンホセの長い海岸線に上陸を敢行。

しかし、どうしたことか、日本軍の陸上陣地からの反撃はこれぽっちもなく、ブザンガ河口からサンホセ市街地の海岸線までの30㎞、内陸へ10㎞の橋頭堡を呆気なく構築します。


何となれば、米軍による艦砲射撃の最初の1発が発射された時、サンホセ海岸から6㎞内陸に入ったバランゲイの砂糖工場に駐屯していた大岡氏の所属する陸軍第1中隊本部と配下の第3小隊は、端から戦うことを放棄して、後背のバコ山(標高2,487m)に連なる山中へスタコラサッサと退避する真っ最中だったのです。


大岡昇平氏の所属する陸軍西矢中隊本部と第三小隊が駐留していた砂糖工場の跡地
砂糖工場入口周辺に、目印となる緑葉豊かなアカシアの大木が生き残っていました。


大岡氏の著述によると、西ミンドロ州各地に駐留していた西矢中尉の第二中隊(3個小隊)は、ルソン島バタンガスの大隊本部(第105師団独立歩兵第359大隊)から、下記の命令を受けていたとあります。
米軍が上陸したら、1個小隊だけをサンホセ高地の見張り分哨に残し、他の部隊は後背のMt.Bacoの連なる山中に退避して偵察妨害のゲリラ戦に従事せよ』(hiro-1要約)



西ミンドロ州と東ミンドロ州を跨いで聳える標高2,487mのバコ山(HPより拝借)

命令に従って退避した山中には、マラリヤ原虫を持つハマダラ蚊の大群が生息しています。ところが、艦砲射撃に動顛した衛生兵が、必需品のマラリヤ特効薬キニーネを運び出すのを忘れるという大失態を犯してしまいます。これが後に悲惨な結末を露呈することになるのですが・・・・

1944年12月15日 08:55
ミンドロ島駐屯の日本軍がバコ山中に退避した後、日本海軍の特攻機13機と直掩機12機がネグロス島から飛来、マンガリン湾内に碇泊する米艦船に対して猛烈な攻撃を加えます。


 
左:LSTの乗員を救助した駆逐艦・モール 右:神風特攻に慄く巡洋艦の砲手(HPより拝借)
A cruiser and a destroyer Moale covering American landing on the island Mindro 15 Dec.1944.


マンガリン湾北西のブザンガ川河口の海浜に接岸中の戦車揚陸艦(LST-472)も、特攻1機の体当たりを受けて爆発炎上し、積載中の車両250トンを喪失しています。しかし、特攻機の体当たり攻撃だけで、米軍の上陸作戦を阻止することなど出来る筈もありません。

1944年12月15日14:00
日本軍が退去したサンホセ・カミナウイット船着場を米軍魚雷艇隊(23隻)が占領。
この時点では、K氏の父君の駐留されていた水上機基地は、B24爆撃の砲撃を受けて跡形もありません。


12月26日頃
米軍の空港建設要員1万7千人は、大型建設機械をフル活用して、3箇所の空港建設に取り掛かり、12月下旬頃には、飛行場2箇所を仮オープンして、航空機約120機を展開するという凄まじい早業です。人海戦術でモッコを担いで土砂を運ぶ日本軍方式で太刀打ち出来る訳がありません。



現在も使用されている西ミンドロ州サンホセの空港 (旧マクガイヤ飛行場)

1944年12月15日の日没前
米軍による初日の上陸作戦は約12時間で終了。その後、48時間以内に、ミンドロ島を二分する西ミンドロ州と東ミンドロ州の主要地域の占領を終えています。/font>

斯くして、1944年12月15日早朝から日没に掛けての初日の上陸作戦は、米軍の一方的勝利によって終焉となりました。

1944年12月15日早朝の艦砲射撃の最初の1発を受けて、バコ山に連なる山中に逃げ込んだ日本の陸海軍兵士と非戦闘員の多くは、2週間もしない内にマラリヤに罹って横臥し、永続的な低栄養状態から飢餓に陥って急速に体力を消耗、軍隊としての機能を急速に失って行きます。

バコ山に連なる山中で、大岡氏はマラリヤに罹って野天で横臥し、K氏の父君は栄養失調によって身動き出来なくなるのですが・・・・デュタイと呼ばれる山地の灌木の中でマラリアの高熱で意識朦朧となって死を意識した大岡昇平氏の文章が頭に残りました。


フィリピン西部の島々では、12月は収穫期である。我々が歩む前方の原が焼け、トウモロコシの殻を燃やす煙が上がっていたのを思い出した。
『艦砲射撃1発で敗残兵になっちゃたなあ』と或る下士官が嘆いた。
敗走の中で自然がますます美しくなって行くのは、自分の死が近づいた確実なしるしのように、私には思われた。しかし、その時、私が見た自然がフィリピンの観光的美景であったのは皮肉である。


次回は、ミンドロ島の山中で露営しながら壊滅への道程を歩む日本陸軍の2個中隊と海軍955部隊(K氏の父君の部隊)の様子について綴ってみたいと思います。
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2016年06月12日(日) 15時46分50秒

5:比島旅行・ミンドロ島・零戦改造の水上戦闘機

テーマ:フィリッピン旅行
2016年6月5日付けの投稿記事 『3:比島旅行・ミンドロ島の海軍基地跡』の続きです。

前回までの粗筋
2015年の3月頃だったでしょうか、気心の知れたバンコクの呑み友で旅友でもあるK氏が前立腺癌治療のために日本に一時帰国することになって励ましの酒食をした折に、K氏が問わず語りに今は亡き父君の思い出話を始めました。

『フィリピン戦線で米軍の俘虜となった父親は、レイテ島タクロバンの俘虜収容所を経て日本に生還。自分(K氏)が生まれた・・・・』。僕が『今年の海外旅行はフィリピンにしようか?』と軽く問うと、K氏が『いいね!』と即応して比島の戦跡巡りをすることに相成りました。

K氏が厚生労働省から入手した父親の海軍軍歴簿と大岡昇平氏の著作4冊からK氏の父親の所属部隊の足跡を調べあげてから、K氏と一緒にフィリピンのミンドロ島西ミンドロ州サンホセ空港に出立。K氏の父君が所属されていた第955海軍航空隊の水上戦闘機基地跡のカミナウイットの地に佇むことが出来ました。(下掲写真)



第955海軍航空隊水上戦闘機基地が在ったミンドロ島サンホセ・カミナウイットの遠浅の海辺

水上戦闘機がカミナウイットの遠浅の海面で轟音を響かせていたのは、今から70年以上も昔のことなので、当時の痕跡が残っている筈もないのですが・・・昔と変わらないであろう海辺の様相を見つめていると、海面に浮かぶ水上戦闘機(下掲写真)が眼前に浮かび上がって来るような心持ちになります。


1944年8月に南洋に展開された水上戦闘機の基地(写真:南太平洋マーシャル諸島)  (HPから拝借)

K氏の父君が派遣されたミンドロ島サンホセ・カミナウイットの水上機基地は、1944年8月1日付けで、ミンダナオ島ダバオに本部を置いた佐世保鎮守府の護衛航空隊常設部隊(海軍第955航空隊)が南フィリピンの飛行場の無い島嶼を中心に展開した水上戦闘機の派遣基地の一つでした。


米軍のような飛行場建設重機を持たない日本軍が採用した水上戦闘機  (HPから拝借)  

第955海軍航空隊の水上戦闘機の派遣基地の役割は、戦艦大和や長門などを擁する連合艦隊のボルネオ島ブルネイ泊地からフィリピンのルソン島北部に至る南シナ海東縁の海軍の補給線を防衛することにあったようです。

K氏の父君が航空機整備の補充兵として、サンホセ・カミナウイットの水上戦闘機基地(石崎一朗少尉以下60人)に派遣されたのは、1944年9月上旬頃、既に制空権と制海権を失った日本軍の主力が為す術もなく敗走を重ねていた時期とほぼ重なります。


海浜で飛行燃料を給油する日本海軍の水上戦闘機  (HPから拝借)

ミンドロ島のサンホセ・バランゲイに駐屯していた陸軍西矢中隊第一小隊の暗号兵だった大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』の中に、サンホセ・カミナウイットの水上戦闘機基地を若干揶揄したような一節(下記)があります。(hiro-1要約)

マンガリン湾の入り海に1944年9月末から海軍の水上機と地上要員が来ていた
一度空襲を受ければ、ひとたまりもない下駄履きのちゃちな水上偵察機だ
1944年8月1日、佐世保から南フィリピンに展開した海上護衛航空隊であった


大岡昇平氏の言われる“下駄履きのちゃちな水上偵察機”とは、赤トンボの別名がある川西九三式中間練習機(K5Y)のような複葉複座の海軍練習機のことだろうと想像していたのですが、調べてみて吃驚! ゼロ戦で有名な三菱零式艦上戦闘機11型を改造した二式水上戦闘機 (略称:二式水戦)のことでした。

旧日本軍機に疎い僕ですが、三菱零式艦上戦闘機の名称くらいは知っています。しかし、その零戦を改造したという二式水上戦闘機の存在は初耳でした。K氏の父君が精魂込めて整備した水上戦闘機の事を知りたくて、戦闘機オタクの世界をチラッと覗きみたくなりました。此処から先は、興味の無いお方には退屈極まりない内容になること必定ですので、どうぞすっ飛ばして下さい。


中島二式水上戦闘機のベースとなった三菱零式艦上戦闘機11型  (HPから拝借)  

三菱零式艦上戦闘機から中島二式水上戦闘機への改造点は、着艦用の車輪装備等の撤去、海面滑走用浮体と燃料油槽を兼ねたフロートの追加、機体や電気系統の防水と防錆処置、海面滑走と飛行中の安定性向上のために垂直尾翼の増積と安定板の追加等ですが、それ以外の仕様は零戦の仕様に準じていたようです。


ゼロ戦に近似した中島二式水上戦闘機の機体側面  (HPから拝借)

中島二式水上戦闘機と三菱零戦艦載機11型の諸元比較 青字=零戦艦載機11型
■乗員:1 名(←同じ)■全長:10.24m(9.060m)■全幅:12.50m(12.00m
■全高:4.305m(3.570m)■主翼面積: 22.438m²(←同じ)■自重:1,922kg(1,671kg
■エンジン:栄12型空冷複列星型14気筒x1基(←同じ)■離昇出力:940HP、(←同じ)
■最大速度:437km/h-高度4,300m(517.6km/h-高度4,300m)■着水速度:111km/h
■実用上昇限度:10,500m、(10,080m)■航続続距離:1,150km(2,222km-増槽3,502km
■機首固定機銃:九七式7.7mm×2丁・機首と携行各1400発(←同じ
■主翼固定機銃:九九式1号20mm×2丁・翼内と携行各120発(←同じ


迎撃飛行中の中島二式水上戦闘機  (HPより拝借)

たしかに、中島二式水上戦闘機の戦闘記録には、下掲写真の英軍の双発重戦闘機(Bristol Beaufighter)や米軍の戦闘機(Grumman F6F Hellcat)を撃墜したとする記述もあるのですが、それは極めて希少な事例だったのではないでしょうか。何となれば・・・・


左:米軍GrummanF6F戦闘機 右:英軍重戦闘機 Bristol Beaufighter  (HPから拝借)

太平洋戦争の緒戦に華々ばしい戦果を誇った零式戦闘機も、1944年以降になると、米軍戦闘機の性能を下回るようになり、搭乗員の未熟さも手伝って、大苦戦を余儀なくされています。   


米軍戦闘機に撃墜される零式戦闘機  (HPから拝借)

ましてや、空中戦には不利となる固定フロートを装備した中島二式水上戦闘機です。米軍や英軍の格闘を専門とする戦闘機とDogfightしても互角に戦える筈もありません。

しかし、負け惜しみの強い海軍当局は、偵察や哨戒能力を兼ね備えた二式水上戦闘機を『世界一の性能を備えた水上戦闘機!』と自賛し、1942年7月から1943年12月にかけて生産した327機を、単座の水上戦闘機としては『世界最多の生産台数!』と強がっています。

しかし、単座の水上戦闘機の生産を行ったのは、世界で日本だけだったことを思えば、まさに日本海軍お得意の口先だけの巧言冷色と言わざるを得ませんね。



哨戒中の中島二式水上戦闘機  (HPから拝借)

話は変わりますが、大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』の中に、ブルネイ泊地からミンドロ島沖を経由してレイテ沖海戦に向かう栗田艦隊の戦艦大和や重巡洋艦羽黒などに搭載されていた『水上観測機』の記述があります。

ミンドロ島海戦の記述ではなかったので読み過ごしていたのですが、数日前に読み返した折に、迂闊にも重要な文章を読み飛ばしていたことに気付きました。


栗田艦隊の重巡洋艦羽黒と上空を飛ぶ搭載機の水上観測機  (HPから拝借)

上記写真と下記の引用文章にある“羽黒等の艦載機”とは、大砲の弾着確認と偵察のために使われていた複葉複座の『三菱零式水上観測機11型・FIM2』(略称:零観)のことでした。

大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』の抜粋 (hiro-1要約)
『ボルネオのブルネイ泊地からレイテ沖海戦に向かう連合艦隊の戦艦や重巡(羽黒等)は、あらかじめミンドロ島カミナウイットの基地に艦載機の三菱零式水上観測機を前進駐機させていた。レイテ島沖海戦への航行中に、水上観測機の発艦作業に手間どって、レイテ沖に集結する米軍艦隊の偵察に支障を来たすことを避けるためである』


大岡昇平氏の著作にある通り、ミンドロ島サンホセ・カミナウイットの水上機地を発進してレイテ島沖に向かった『三菱零式水上観測機11型』は、レイテ島沖へ2方面から迫る米軍艦隊を発見(25日04:00)してマニラの南西方面艦隊本部へ緊急打電する功績をあげています。

ところが、南西方面艦隊本部からレイテ沖海戦に向かう連合艦隊旗艦の大和にその電文が届いたのは、レイテ沖海戦が日本の敗北に終わった後の25日17:30という信じられない結果に終わっています。まさに負けるべくして負けたレイテ海戦と言わざるを得ません。



戦艦大和、重巡羽黒等に搭載されていた複座複葉の三菱零式水上観測機11型  HPから拝借

日本海軍の保守派が固執していた伝統的大艦巨砲主義(戦艦決戦)を裏方として支えたのが、戦艦の大砲の着弾観測、敵戦艦の近距離偵察、艦隊上空の迎撃戦闘を行う複座複葉の三菱零式水上観測機11型(FIM2)でした。

しかし、日露戦争以来の大砲による艦隊決戦から飛行機による航空母艦決戦への移行によって、戦艦の大砲の着弾観測を主目的としていた水上観測機(艦載機)は、次第に働き場を失って、飛行場のない太平洋島嶼の水上基地の偵察任務機として転用されるようになります。

飛行場の無かったミンドロ島サンホセ・カミナウイットの水上基地に駐留していたK氏の父君は、中島二式水上戦闘機(単座単葉)の整備ばかりではなく、三菱零式水上観測機11型(複座複葉)の整備にも日夜取り組まれていたのではないでしょうか。

それにしても、日中戦争初期ならいざ知らず、太平洋戦争中の最新戦艦の搭載機が複葉機とは!? これまた未知の航空機ですので調べてみました。

日本海軍の三菱零式水上観測機11型(複座複葉)は、世界の航空機が既に単葉機の時代に移行していたにも拘らず、敢えて当時の先端技術を投入して開発された最初で最後の全金属製複葉機でした。1940年の採用以降の全生産台数は、中島二式水上戦闘機(327台)を大きく上回る704機です。

海軍の航空設計部門が敢えて複葉機を採用した理由は何だったのでしょうか?
僕が想像するのもおこがましいのですが、海面滑走用の大きなフロートによる空力的負荷を軽減して離陸に必要な最大限の上昇揚力と長時間の滞空揚力を得るための方策だったのではないでしょうか。三菱零式水上観測機11型は、当時の空力学的技術を極めたユニークな全金属製複葉機だったのかもしれません。


複座複葉の三菱零式水上観測機11型と中島二式水上戦闘機の諸元比較 
青字=中島二式水上戦闘機
■乗員:2名(1名)■全長:9.50m(10.24m)■全幅:11.00m(12.50m)■総重量:2,550kg
■発動機:「端星13型」800馬力/4,000m(栄12型空冷複列星型14気筒x1 基
■最大速度:369km/h/3,000m(437 km/h-高度4,300m
■武装:固定機銃7.7mm×2(九七式7.7mm×2)■旋回機銃7.7mm×1■爆弾60kg×2


今回のブログは、当初予定していた内容から大きく逸脱して、心ならずも水上戦闘機オタクのような記事になってしまったことを深くお詫び致します。

太平洋戦争末期の1945年、山口県宇部市の我が家が米軍爆撃機(B29)の無差別焼夷弾攻撃に遭って逃げのびました。疎開した広島郊外の母親の実家ではピカドン(原子爆弾)に遭遇。僕は吹き飛んだ天井板、欄間、フスマの下敷きになって泣き叫んでいたそうです・・・戦争を直接体験した年代ではないのですが・・・後期高齢者に手の届く年齢になった今でも、戦争大反対の気持ちを強く持ち続けています。決して戦闘機オタクではありません。

次回は、米軍のミンドロ島上陸作戦を受けて、戦わずして山中に逃避して壊滅した日本陸軍と海軍の足跡を辿ってみるつもりです。
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2016年06月05日(日) 10時52分08秒

4:比島旅行・ミンドロ島の旧日本海軍基地跡

テーマ:フィリッピン旅行
2016年5月30日付けの投稿記事 『 3:比島旅行・ミンドロ島サンホセに到着 』の続きです。

前回までの粗筋
旅友で飲み友でもあるK氏とバンコクの居酒屋で酒食を共にしている時、K氏から『フィリピン戦線で米軍の捕虜となった父親がレイテ島タクロバンの俘虜収容所から日本に生還した』という話を聴かされ、お酒の勢いも手伝って、今は亡きK氏の父君の足跡を辿る旅に出ようということになりました。K氏が厚生労働省から入手した父親の海軍軍歴簿によって、K氏の父君の軍隊での大まかな足跡が判明しました。

海軍の舞鶴鎮守府入営⇒鈴鹿海軍航空隊⇒名古屋海軍航空隊⇒岡崎海軍航空隊で航空機整備兵の教育を受けた後に、佐世保鎮守府の海軍護衛航空隊常設部隊(第955部隊)に配属となり、南シナ海に面したミンドロ島西ミンドロ州南端のサンホセ水上機基地に駐屯。四ヶ月後に同島山中で飢餓状態となって米軍に捕らわれ、太平洋に面したレイテ島の俘虜収容所に送致されていました。

K氏の父君の大まかな足跡が分かったところで、僕とK氏は、バンコクからマニラに向かい、ミンドロ島西ミンドロ州のサンホセ空港に到着。サンホセ郊外の宿泊所となるVILLAに到着。

老日本人2名を迎え入れたVILLAの30歳前後の女性主人は、70年前の日本海軍の水上機基地の跡地に行きたいと言う僕とK氏の突飛な目的と質問に少々面食らっていたようですが、そこは客商売、戦跡巡りのための側車付きオートバイ(トライスクル)2台の手配と値段交渉の面倒までもして貰えたのです。



2台のトライスクルに僕とK氏が分乗してVillaを出発。

僕を乗せた運転手君が先導して、先ずは宿泊所から四キロ離れたサンホセ市街を目指します。お世辞にも快適な乗り心地とは言えませんが、空港から宿泊所まで二キロの道程を1台のトライスクルに2人で乗って身体を苛まれた時のことを思えば、なんとか耐えられそうです。

走行しながら運転手君が声を大にして僕に語り掛けるのですが、中国製エンジンの騒音に掻き消されてよく聞き取れません。切れ切れに伝わる言葉から想像すると、VILLAの女性主人から指示された内容を繰り返しているようです。

『70年前の戦争・・・分かりません・・・市役所・・・観光課の職員・・・聴いて下さい』
『日本海軍の場所・・・若し分かれば・・・大丈夫、大丈夫・・・きっと・・・分かります』



西ミンドロ州サンホセ市の中心街を走行する市民の足のトライスクル。

アロマ海岸に面したVILLAからBubog St.を四キロあまり走行するとサンホセの市街地です。トライスクルを脇道に停車させて観光課の建物を捜し回っていた運転手君が両腕をホールドアップする仕草をしながら戻って来て、『担当職員が不在だった』と途方に暮れた表情を浮かべます。

『観光課職員から有益な情報を聴けるかも!』という想定外の展開に喜んでいたのですが、期待の御夢たがいて残念至極。とは言いながらも、運転手君の困惑した表情を見れば、そんな心情はおくびにも出せません。

僕『マンガリン湾内のCaminawitという場所に行って下さい』
彼『Caminawitは・・・本当に何もない所ですよ・・・』
僕『そうかもしれないけれど、とにかくCaminawitへ行って下さい』

運転手君は、サンホセ・セントラルの幹線道路を右折して、マンガリン湾の北側に通じる海岸沿いの曲がりくねった道を走り抜けてCaminawitへと向かいます。

彼『この辺りから先がCaminawitの地域になりますが、まだ先に進みますか?』
僕『マンガリン湾口の辺りまで行って下さい』

埃っぽい道を更に進むと、護岸と護岸の切れ目からマンガリン湾の海面が見えはじめました。現在地を確かめる為にトライスクルを停めてもらい、セメント護岸の上に這い上がると、湾内奥部のサンホセ市街地まで広がるマンガリン湾を一望のもとに見晴るかすことが出来ます。(下掲写真)



Caminawit地区からサンホセ市内まで広がるマンガリン湾。

上掲写真の画面左側に、僕とK氏が乗ってきたトライスクル2台が待機しているのが見えます。運転席に座ったまま僕達を眺めている運転手君は、『外国から高い旅費を払って態々来るような場所じゃないよな』と呆れ返っているように見えなくもありません。


熱帯地域の台風銀座特有のスクラップ&ビルドの質素な住居

護岸道路に面した狭い岩だらけの平地には、台風銀座の中で暮らす人々の生活の知恵でしょうか、スクラップ&ビルドの質素な住居が建ち並んでいます。日本海軍水上機基地の兵舎や修理廠も此のような佇まいだったのかも・・・そんな事を想像させるような雰囲気が漂っています。


サンホセの築港工事が行われていたCaminawitの工事現場

退屈そうに寝そべって待つトライスクルの運転手君を置いて、湾口に近い方向に進むと、二十人前後の労働者らしき人々が三々五々屯している埠頭拡張工事現場の入り口が見えて来ました。

工事現場の正門横の食い物屋台に屯していた上半身裸の労働者に『構内に入っても大丈夫ですか?』と問うても、鋭い眼光を放って僕を見返すだけで何も応えてくれません。エイ儘よとばかりに工事中の構内に踏み入って恐る恐る振り返っても、場違いな異邦人の我ら二人を遠くから眺めるだけで、特に進入を制止する様子もありません。



サンホセ・マンガリン湾内のCaminawitの遠浅の海辺

マンガリン湾に面した足場の悪い遠浅の海辺に歩を進めると、バンカと呼ばれる地元の漁業用の舟溜まりがあります。舟溜りの遠浅の海辺と背景に広がる岸辺を眺めていると、比島旅行出発前に目にした旧日本海軍の二式水上戦闘機(偵察機)の基地を写した古写真(下掲写真)と眼前に広がるCaminawitの海浜が、瞼の奥で重なるように浮かびあがって来ました。


横須賀鎮守府特設航空隊(海軍第802航空隊)の二式水上戦闘機 (偵察機)の基地

上掲写真の海軍基地(南太平洋マーシャル諸島)は、K氏の父君が所属していた海軍第955航空隊の写真ではありませんが、椰子の木立が並ぶ遠浅の海浜に浮かぶ二式水上戦闘機(偵察機)の光景から想像するに、K氏の父君が駐屯されていたCaminawitの二式水上戦闘機(偵察機)の水上基地も、此のような光景だったと思われます。


南太平洋ショートランド基地の二式水上戦闘機(偵察機)の離着陸作業

大岡昇平氏の『俘虜記』、米軍の公刊戦史『モリソン海戦史』、米軍の戦闘詳報係のシャバルテイン一等兵の『レイテ戦記』には、日本海軍のミンドロ島の水上機基地の在り処は、サンホセのCaminawitと記されています。

Caminawit地域は、マンガリン湾の北側に迫り出した狭い陸地の内側に位置します。その狭い領域の中で北風と西風の影響が少なく、離着陸支援の容易な遠浅の立地を備えた場所となれば、此処以外には考えられないような・・・素人思考ではありますが、そんな気がしてなりません。

しかし、僕の見た限りでは、Caminawitには、ルソン島、セブ島、レイテ島、ミンダナオ島で見られるような慰霊碑や祈念碑は無くて確認の術もありません。そんな状況を鑑みると、仮に市役所観光課の職員に会えていたとしても、旧日本海軍の在り処の情報が得られたどうか甚だ疑問と言わざるを得ないような気もします。

ミンドロ島で多くの戦友を失った大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』に目を通しても、日本からの比島遺骨収集団の活動が頻繁に実施されていた頃であっても、ミンドロ島に寄港した遺骨収集船は全く無く、飢餓で壊滅状態となった部隊の戦友の屍は、今だに山中に放置された儘になっていると記されています。

Caminawitの舟溜まりの撮影を終えてからK氏を見返ると、僕の視線から逃れるように踵を返して波静かなCaminawitの海面を押し黙って見つめています。若かりし頃に相撲の選手だったという彼の大きな背中が、その昔この場所で生活していたであろう父君の息吹を感じているかのように、小刻みに震えているように見えました。

次回は、押し寄せた米軍艦隊の放った一発の砲撃で、ミンドロ島山中に退避することになった日本陸軍と海軍について綴りたいと思います。
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2016年05月30日(月) 10時58分58秒

3:比島旅行・ミンドロ島サンホセに到着

テーマ:フィリッピン旅行
2016年5月22日付けの投稿記事 『 2:比島旅行・ミンドロ島へ行こう 』の続きです。

前回までの粗筋
フィリピン戦線で捕虜となり、レイテ島の俘虜収容所生活を経て日本に復員された友人K氏の父君(故人)のフィリピンにおける足跡を辿る旅をすることになりました。しかし、父君のレイテ島以前の軍歴が判然としません。そこで、友人K氏が戸籍謄本を添えて厚生労働省に問い合わせたところ、待つこと40日にして、僅か数行だけの呆れるほど簡単な軍歴記録が到着。

それによると、K氏の父君は、ミンドロ島の山中で飢餓状態になって樹上で転寝をしている時に米軍に捕らわれてレイテ島俘虜収容所に送致され、日本の無条件降伏後にレイテ島から復員されたことが判明。

率直に言って、入手するのに40日も待たなければならない程の書類とはとても思えないのですが・・・それでも、比島で訪れる場所が、南シナ海側の「ミンドロ島」と太平洋岸の「レイテ島」であることが判明したのですから、素直に良しとしなければなりませんね。

せっかくの比島旅行ですので、比島戦線を少しでも識る意味を込めて、下記の五カ所も訪れてみようということになりました。
 ■海軍乙事件が発生したセブ島ナガ地域。
 ■海軍特別攻撃隊の【ゼロ号】が飛び立ったセブ島の航空基地
 ■海軍特別攻撃隊の【第1号】が飛び立ったルソン島のマバラカット基地
 ■海軍特攻艇【震洋】が初めて出撃したカビテ州コレヒドール島。
 ■死の行軍として非難されたルソン島のバターン半島

本日より、先ずは、第一目的地のミンドロ島サンホセの旅を綴ることにします。

南シナ海に面するミンドロ島南部のサンホセ空港へは、マニラのニノイ・アキノ空港から格安航空のCebu Pacific Airが一日一往復の就航をしています。しかし、航空券のネット予約に従ってinputしても、最終画面に至ると原因告知も無いままに『予約不可』になってしまいます。日程変更しても同じ状態が続発するので、『ミンドロ島行を諦めざるを得ないかもしれない』とK氏に途中経過を入れると、K氏から悲しそうなメールが着信。



西ミンドロ州南端の西側に位置するサンホセ
北部沖に小野田少尉で有名になった東ミンドロ州のルバング島、更にその北北東のマニラ湾口には
カビテ州に属するコレヒドール島が位置しています。


K氏の悲しいメールに触発されて今一度 Cebu Pacific air に問い合わせを入れると、マニラ⇔ミンドロ島のネット申し込はCebu Pacific AirのDiret salesしかないことが判明。間髪を容れずに予約申し込みをするも、当初予定の日程は既に満席状態。旅程日を変更して何とか往復チケットを入手する事が出来てホッとひと安心です。

ニノイ・アキノ(マニラ)空港発午前6時5分発の便に乗り込んで、55分のフライトで西ミンドロ州南端のサンホセのアロマ海岸に面したサンホセ空港(San Jose Airpor)に到着。比島国内線としての空港等級は最上級の「第1種空港」らしいのですが、空港建物はとても簡素な佇まいです。



サンホセ(San Jose)空港 (旧名:McGuire Field)

サンホセ空港は、つい最近まで、日本軍機を38機撃墜した米国全軍第二位のエースパイロットのトーマス・マクガイア陸軍少佐(Thomas B.McGuire,Jr.)に因んで「McGuire Field」と呼ばれていたそうです。マクガイア少佐は、フィリピン・ネグロス島上空で、日本陸軍戦闘機隊(四式戦闘機・疾風)の新米パイロットだった福田端則軍曹に撃墜されて戦死(1945年1月24歳没)された方でした。

全米第2位のエース・パイロットが、日本軍の新米飛行士に撃ち落とされたという話が妙に印象に残り、福田端則軍曹の写真を探したのですが見つかりませんでした。福田軍曹は、比島戦線を生き抜いて復員されたようです。



全米第2位の撃墜実績を誇ったエース・パイロットのトーマス・マクガイア陸軍少佐

サンホセ空港(San Jose Airport)は、西ミンドロ州サンホセ市街中心部から北西へ約2km離れた場所に在るのですが、予約した宿泊所のVillaは、空港から更に北西へ二キロ離れたアロマ海岸の辺鄙な場所にあります。

サンホセ空港の車寄せには、予想はしていましたが、乗用車タイプのタクシーは一台もなく、「トライスクル」と呼ばれる中国製オートバイにサイドカーを取り付けたミンドロ・タクシーが客待ちしていました。



サンホセのサイドカースタイルのタクシー「トライスクル」

戦跡を尋ね歩く前に、先ずは手荷物を宿泊先のVillaに預けようと言うことになり、チョット大きめの1台の「トライスクル」に2人で乗り込んだのですが・・・これが間違いの元でした。

客席の横幅が狭い上に、クッション装置のリーフ・スプリング(板バネ)が二人の体重で伸びきってしまい、悪路の凸凹を全く吸収してくれないのです。空港からホテルまで僅か2㎞の道程だというのに、尻・太腿、腰・背中の筋肉の痛みと痺れに苛まれてしまいました。ミンドロ島滞在中のトライスクルの利用は、少々不便であっても、一人一台に如くは無しです。



此の辺りには一軒しかない海岸に面したVila
左側の二階2室が我らの宿泊した部屋。正面二階が海岸に面した自然通気の食堂。


予約したVillaは、サンホセ市街から約四キロ離れたBubog St.アロマ海岸の辺鄙な場所に在りました。街路灯も殆どないので、夜ともなれば真っ暗闇です。途轍もなく辺鄙な海岸沿いのVillaを選んだ理由は、米軍が150隻の艦船を擁して上陸したマンガリン湾を一望することが出来るからに他なりません。

米軍艦船によるミンドロ島サンホセの上陸目的は、ルソン島の日本軍を空から攻撃するための飛行場建設でした。米軍のサンホセ上陸は、米軍がレイテ島上陸に成功してから55日目の1944年12月15日です。

米軍のマッカーサー大将は、後れ馳せながらも、レイテ島タクロバンの空港建設を強行するよりも、日本軍守備の手薄なミンドロ島サンホセの二箇所の不時着飛行場を占拠して拠点飛行場にする優位性に気付いたようです。



1944年12月15日、150隻の米軍艦船が押し寄せたマンガリン湾(Villa食堂より撮影)

Villaに荷物を置いて身軽になったところで、Villa責任者の30歳前後の女性に、戦跡巡り用のサイドカー付きオートバイ(トライスクル)2台の調達を依頼。トライスクルが到着するまでの待ち時間を利用して慌ただしく質問をします。

僕  『日本海軍(955部隊)の基地が在った場所を知っていますか?』
女性 『聴いたこともないし・・・何も知らないわ』
僕  『1944年頃、日本海軍の水上偵察機の基地が在った場所なのですが?』
女性 『 生まれる前のことだし・・・何も分からないわ』

地球の歩き方を見ても、ミンドロ島の戦跡の紹介記事は、これポッチもありません。しかし、今回の旅に携行した大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』と『俘虜記』には、ミンドロ島のカミナウイットには、大岡昇平氏が所属していた第105師団独立歩兵第359大隊臨時歩兵第一中隊(中隊長・西矢政雄中尉)の『橋本軍曹の分隊』(全滅)とK氏の父君が所属していた『第955海軍航空隊』(殆ど戦死)が駐屯していたという記述があります。

更に、米国の公刊戦史『海戦史』(モリソン著)、或いは、米軍の戦闘詳報係のシャバルテイン一等兵の『レイテ戦記』のどちらかだったと思いますが、日本海軍の水上機基地が西ミンドロ州サンホセの『Caminawit』に在ったとする引用記事を思い出して質問を続けます

僕   『サンホセの港の近くにCaminawitと呼ばれる場所がありますか?』
女性 『知っているわよ。サンホセ港の北西側の埠頭辺りがCaminawitですよ』

彼女は、到着したばかりのトライスクルの運転手君に、タガログ語(?)らしき言葉で何かを指示し終わってから、強い訛りはあるものの、流暢な英語で僕に通訳してくれます。

『市役所観光課で日本軍基地について教えて貰うよう、運転手に指示して置きました』

さぁ、愈々、K氏の父君が駐屯されていたと思われるサンホセ港近隣のカミナウイットに向かって出発です。カミナウイットがK氏の父君の駐屯していた場所であることに期待を寄せながら・・・・

次回に続きます。
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2016年05月22日(日) 11時53分55秒

2:比島旅行・さぁミンドロ島へ行こう!

テーマ:フィリッピン旅行
2016年05月13日付けの投稿記事『1:比島旅行・さぁどこの島へ行こう?』の続きです。

前回の概要
太平洋戦争中にフィリピン・レイテ島俘虜収容所から復員された旅友K氏の父君(故人)の比島での足跡を辿る旅に出ようという事になったのですが・・・肝心の足跡の起点となる上陸地点が判然としません。そこで、父君の所属部隊名と移動記録を詳らかにする作業に着手したのですが、なんとかなるものですね、K氏の父君の軍隊来歴の大まかな輪郭が浮かび上がってきました。

①京都府 舞鶴鎮守府に海軍の航空機の整備兵(補充兵)として入隊。
②舞鶴鎮守府⇛鈴鹿航空隊⇛名古屋航空隊⇛岡崎航空隊で整備兵の訓練を受ける。
③海上護衛航空隊 佐世保鎮守府 常設航空隊(第955部隊)へ配属。
④1944年12月26日、比島の海軍955航空隊へ派遣。
⑤ミンドロ島の山地で米軍に捕らえられてレイテ島の俘虜収容所へ送致。
⑥日本の無条件降伏によって、レイテ島から日本に復員。



K氏の父君の第955部隊が駐屯していたミンドロ島マンガリン湾

上記情報から、K氏の父君は、南シナ海側のミンドロ島で米軍の俘虜となり、太平洋側のレイテ島俘虜収容所に送致された事は分かったのですが、父君の比島での最初の上陸地点と駐屯地が判然としません。

そこで、海上護衛航空隊 佐世保鎮守府 常設航空隊(第955海軍航空隊)の比島作戦本部の所在地を求めて諸資料を調べたのですが、第955海軍航空隊本部の詳細を記した資料を見つけることが出来ません。



K氏の父君が俘虜として収容生活を送ったレイテ島(HP写真拝借)

試行錯誤を繰り返しつつネット検索を続行していると、ミンドロ島の第955部隊の派遣小隊は、南シナ海に浮かぶパラワン島プエルト・プリンセサから送り込まれた派遣部隊らしいとか・・・ルソン島マニラ湾南岸のマニラに近い小半島のキャビテ州カナカオ基地からの派遣部隊らしい・・・等の記述を見付けて小躍りして喜んだりしたのですが、何れもその根拠を確かめる術が見つかりません。

めげそうになる気持ちを奮い立たせて調べを進めていると、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものですね、第955海軍航空隊が最初に編成されたのは、フィリピン南部のミンダナオ島ダバオ(編成年月:1944年8月1日付け)であり、時を置かずして、パラワン島のプエルトプリンセサを含む3箇所とミンドロ島サンホセ基地(派遣隊長・石崎一朗少尉)に出先の小さな基地が設置されていたことが分かったのです。



第955海軍航空隊が最初に編成されたミンダナオ島ダバオ市(HP写真拝借)

第955海軍航空隊は、その後の戦況悪化によって、ザンボアンガのレコード基地、ボンガオ島基地、セブ島基地にも展開したようですが、最終的にはマニラ市街戦の陸戦部隊に参加して壊滅していました。しかし、K氏の父君は、それよりずっと以前に、米軍の俘虜となってレイテ島の俘虜収容所に送致されて命拾いされています。

残念ながら、K氏の父君の比島での最初の上陸地点を明らかにすることは叶いませんでしたが、参考図書として併読していた比島の日本軍について著した書籍から、幸運にも第955海軍航空隊の記述を幾つか読み取る事が出来ました。

例えば、日本陸軍の通信兵として、1944年8月~12月にかけてミンドロ島に駐屯していた大岡昇平氏の著作『ミンドロ島ふたたび』の中に次のような記述がありました。

私が駐屯したミンドロ島サンホセにはマンガリン湾という浅い入り海があり、1944年9月末から、下駄履きのちゃちな水上偵察機で、一度空襲を受ければひとたまりもないような海軍の水上機と地上部隊(104名)が来ていた。ミンダナオ島やパラワンから疎開して来たのだろうと思っていたが、1944年8月1日に佐世保鎮守府から南フィリピンに展開した海上護衛航空隊(第955部隊)の派遣隊だった

K氏の父君が海軍の佐世保鎮守府を出発したのが1944年9月上旬頃ですので、海軍第955部隊のミンドロ島サンホセ基地は、その時点で既に設営されていた可能性があります。

何かの記事で読んだのですが、日本海軍がミンドロ島サンホセのマンガリン湾内に水上偵察機の小さな基地を設営した直後、米軍の空襲を受けて約10名が戦死するという事態が起こっています。レイテ島上陸に成功した米軍は、次なる上陸地点として不時着用飛行場のあるミンドロ島サンホセの占領を意図していたので、例え小さな水上偵察機の基地と言えども無視出来なかったのでしょう。

K氏の父君は、米軍の空襲を受けて10名の戦死者を出した水上偵察基地の補充兵として送り込まれたのかもしれません。日本軍によって1941年12月8日に一斉に実施された英領マレー半島上陸、米国準州の真珠湾空襲、米国植民地の比島空襲が行われた後の南支那海一帯は、まさに風雲急を告げる危険海域となり、日本艦船を狙う米国の潜水艦がウヨウヨしていました。

そんな危険な海域を、佐世保からミンダナオ島ダバオの本部まで航海する事はとても危険です。佐世保港を出港したK氏の父君は、ミンドロ島から遥か南に位置するミンダナオ島ダバオ基地に向かうことなく、日本から比較的近いミンドロ島サンホセの水上偵察基地に直接送り込まれた・・・と強引に考えることにしました。



フィリピン諸島の地図

今回のフィリピン旅行で訪れる島として、当初はパラワン島やミンダナオ島をも含めて検討していたのですが、集めた諸資料を鑑みて、今回のK氏の父君の足跡を辿るフィリピンの島は、ミンダナオ島サンホセの周辺地域、そして、俘虜として送られたレイテ島タクロバン地域に絞り込むことにしました。

美しいと伝聞するパラワン島プエルトプリンセサ、そして若かりし頃の僕の個人的思い出が残るミンダナオ島ダバオ(初恋の地はセブ島でしたが)にも足を延ばしてみたい気持ちもありましたが、限られた日程を考えると諦めざるを得ません。
 
ところが、事此処に至っても、ミンドロ島サンホセ地域内の当時の戦跡情報となると、まるで雲を掴むような状態で殆ど何も分かりません。老いたりと言えども、Let's take a chance and go for broke.『当たって砕けろ』の精神で現地の人々にしつこく訊ねる気構えはあるにしても、戦後70年という年月の流れを思うと、当時の負の遺産と記憶をどこまで留めているのか、とても気になるところです。

如何ともし難い問題は多々ありますが、出発までの時間をフル活用して、K氏の父君と殆ど同じ時期にミンドロ島で俘虜となり、レイテ島の俘虜収容所へ送られた大岡昇平氏の『俘虜記』、『ミンドロ島ふたたび』、『レイテ戦記』、『野火』(記述のなかにミンドロ島の情景描写あり)を通して、当時の地域情報をできるだけ拾い上げて今回の旅に備えることにしました。

次回は、ミンドロ島サンホセの旅行記です。


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2016年05月13日(金) 11時49分55秒

1:比島旅行・さぁどこの島へ行こう?

テーマ:フィリピン旅行
バンコクの近現代史を識る会の数人の会員諸氏から、『フィリピン旅行記のブログ投稿はいつ頃になりますか?』との質問を受けて些か慌ててしまいました。と言うのは、今年の2月に同会で『僕の知らなかったフィリピン戦線』のテーマでパワーポイントを使って1時間のプレゼンを行った後でしたので、それ以上の事は、正直にいって、何も考えていなかったのです。

ところが、彼曰く『あれは歴史上の客観的考察として大変勉強になりました。しかし、hiro-1さんの比島旅行の個人的体験ブログ記事は、現地のビールと料理の記事が投稿されただけで尻切れ蜻蛉になっていますよ。続編を期待していますからね』。

そこまで煽てられては、前期高齢者以降の読者さんのご期待にお応えするしかありません。既に忘却の彼方になりつつある比島旅行の個人的体験を、自分の備忘録も兼ねて、書き留めて置くことにしました。お若い方には退屈な記事が続くことになりますが、どうぞ躊躇なくすっと飛ばして下さい。

念の為に僕の過去ログをチェックすると、比島旅行中の簡単な現在地報告と酒食記事を数回投稿しただけで尻切れ状態になっています。周防の猿君以上に深く反省して、当時の走り書きメモを捲って記憶を呼び戻しながら綴っていくことにしましょう。


《追憶》
2015年12月、気心の知れたバンコクの呑み友で旅友のK氏(近現代史を識る会の会員ではありません)と共に、10日余りの日程を掛けてフィリピンの戦跡地巡りをしました。先ずは、比島旅行を思い立った時のK氏と僕の会話から記憶を呼び起こすことにします。

今までK氏と旅をした来歴は古く、タイ国内遺跡、カンボジア遺跡、ラオス戦跡、北東インドの釈迦の足跡、イタリア縦断、英国遺跡、スペイン遺跡、ギリシャ遺跡、フランスのノルマンディ戦跡、オランダ・ドイツ・ポーランドのユダヤ人強制収容所巡り等ですが・・・

フィリピン旅行については、随分前にK氏が『老人看護に優しい国なので移住を考えている』と話題にしたことがあったのですが、僕が気乗りしなかったからでしょうか、それ以降話題になることもなく沙汰止みになっていました。

そのフィリピンが旅先として急に浮上したのは、バンコクの病院で前立腺癌が見つかり、急遽日本の故郷で治療することになったK氏を送別する酒食の席でした。その場で、K氏が問わず語りに今は亡き父君の思い出話を始めたのです。

『舞鶴鎮守府から海軍の補充兵(整備兵)としてレイテ島戦線に送られた』
『ジャングルの木の上で飢餓状態で転寝していた時に米軍に捕らえられた』
『レイテ島の俘虜収容所生活を経て日本に生還。自分(K氏)が生まれた』

それを聴いた僕が『フィリピンに行ってみる?』と軽く問うと、K氏が『いいね!』と即応して、2015年の旅行先が決まってしまいました。K氏と僕の旅先の決定は、大概こんな感じで決まってしまいます。

K氏と僕が一緒に旅行する時、二人の間に暗黙の役割分担があります。飛行機、船、列車、宿泊等の予約、行く先の選定、現地の移動手段と現地交渉は僕の役割となり、現地到着後の二人の旅行費用の両替管理、資金管理、収支管理、酒食の支払い等はK氏の責任となります。


現地の旅程を決め込む役割の僕としては、K氏の父君のフィリピンの上陸地点、駐屯地、戦闘場所、俘虜収容所の場所等の情報を一つでも多く知らなければなりません。ところがK氏から入手できた情報は、『舞鶴鎮守府』と『レイテ島の俘虜収容所』の2つだけです。


情報:舞鶴鎮守府の赤煉瓦倉庫(HPから拝借)
K氏の父君は、陸軍だろうと勝手に思い込んでいたのですが、海軍でした。


先ずは、舞鶴鎮守府に所属する部隊の出征先の記録探しから着手したのですが、比島へ出征した痕跡が見当たらず冒頭から暗礁に乗り上げてしまいました。日本の故郷で病気治療中のK氏に、どんな些細な情報でも構わないからと催促すると・・・K氏からメールが届きました。


情報:K氏の父君が俘虜として収容されたレイテ島(HPより拝借)

K氏から届いたメールには、『陸軍兵士の記録は県庁の管轄。海軍兵士は厚生労働省の管轄。従って、父の軍隊記録を厚生労働省に問い合せ中だが、返事が届くのに40日待たなければならない』とあります。止む無く旅程作りを一旦棚上げすることと相成りました。

40日後、K氏から父君の軍隊記録についての連絡メールがありました。
 ■ 舞鶴鎮守府の航空整備兵から、鈴鹿航空隊、名古屋航空隊、岡崎航空隊へ移動。
 ■ 岡崎航空隊の訓練修了後、海軍第9.55航空隊へ配属。
 ■ 昭和19年12月26、海軍第9.55航空隊の兵士としてフィリピンへ派遣。
 ■ ミンドロ島で空腹疲労により木の上で寝ている時に米軍の俘虜となる。
 ■ ミンドロ島からレイテ島の俘虜収容所へ送致される。
 ■ レイテ島のタクロバン港から米国徴用船で日本に復員。


厚生労働省の資料によれば、K氏の父君が駐屯されていたのは、太平洋側のレイテ島戦線ではなく、インド洋側のミンドロ島でした。ミンドロ島で飢餓のために俘虜となった後にレイテ島の俘虜終収容所へ送られたという新しい事実が判明しました。


情報:K氏の父君が俘虜となったミンドロ島(HPより拝借)

K氏によると、厚生労働省から届いた返書は、癖字の強い手書きの青焼き書類を複写したものだったようです。辛うじて読める『海軍第9.55航空隊』を頼りにネット検索しても、『9.55』、『9』、『.55』からは何も分からず『お手上げ状態』とSOSの発信です。

しかし、これだけの情報が手元に届いたのですから、此れから先は僕の役割領域です。K氏の父君の所属部隊名さえ分かれば、父君の足跡をトレースすることが可能となります。先ずは正確な部隊名を知ることを優先しなければなりません。

日本海軍航空隊に『海軍航空隊番号附与標準』があることをネットで突き止めました。付与標準の内容は時代によって違いがあるようですが、戦史叢書第95巻『海軍航空概史』の海軍航空隊番号附与標準に、1942年11月1日から運用開始になった三桁の識別番号(輸送隊は4桁)の早見表が付与されていました。


K氏の父君が海軍補充兵として実戦部隊に配属されたのが1944年ですので、この番号附与標準でK氏の父君の部隊を捜し当てることが出来る筈です。但し、厚生労働省から届いた『海軍第9.55航空隊』の一桁と小数点を使用した付与標準は存在しません。そこで、『9.55』は『955』の記入ミスだろうと僕なりに仮定して、海軍航空隊番号附与標準に従って読み取ってみました。

■100の位は航空隊の種類表示。⇛ 父君の部隊の900番台は『海上護衛航空隊』と判明。
■10の位は所管の鎮守府を表示。⇛ 父君の部隊の50番台は『佐世保鎮守府』と判明。
■1の位は常設航空隊と特設航空隊の区分表示。⇛ 5は『常設部隊』と判明。

K氏の父君の部隊名955を海軍の番号附与標準に従って読み解くと、『海上護衛航空隊・佐世保鎮守府・常設航空隊』と読み取ることが出来ます。



情報:実戦部隊の海軍第955航空隊が所属していた佐世保鎮守府(HPより拝借)

K氏の父君が補充兵として徴兵されたのは故郷に近い舞鶴鎮守府ですが、その後、航空機整備の教育訓練を受けるために、鈴鹿海軍航空隊、名古屋海軍航空隊を経て岡崎に移動されたことが、厚生労働省の資料から分かっています。

愛知県岡崎には、航空機搭乗員と整備兵を教育する第一岡崎海軍航空隊、第二岡崎海軍航空隊、第三岡崎海軍航空隊がありました。K氏の父君は、海軍の搭乗員ではなく、海軍航空機の整備兵ですので、航空機整備教育6ヶ月教程を実施していた第二岡崎海軍航空隊の整備教育隊(兵士と下士官対象)に配属されたと想像できます。



航空機の整備教育6ヶ月教程を実施した第二岡崎海軍航空隊(HPより拝借)

第二岡崎海軍航空隊での教育訓練を卒えた兵士は、速やかに第一線の戦闘部隊に送り出されていることから、K氏の父君は、実戦部隊である『海上護衛航空隊・佐世保鎮守府・常設航空隊』(第955部隊)の航空機整備兵としてフィリピン戦線に送られたと思われます。

僕の調べによれば、海軍第955部隊の本部は、比島のインド洋側のミンドロ島の西南部に位置するパラワン島プエルト・プリンセサになっています。しかし、厚生労働省資料によると、K氏の父君は『ミンドロ島で米軍捕虜になった』と記されていますので、パラワン島本部からミンドロ島の駐屯地に移動させられたことも考えられます。


情報:第955部隊の本部が置かれていたパラワン島プエルト・プリンセサ(HPより拝借)

K氏の父君の比島の上陸場所がパラワン島なのかミンドロ島なのかは不明ですが、何れにしても、今回のフィリピンに於ける父君の足跡を辿る島は、部隊本部の置かれたパラワン島、父君が捕虜になったミンドロ島、俘虜生活を送ったレイテ島の三島であることが明確になりました。

とは言っても、各々の島内の何処を目指せば良いのかとなれば、まだまだ分からない事だらけです。現地に到着してから当たって砕けろの心つもりで尋ね歩かねばならない事は覚悟していますが、それにしても、もう少し当時の現地情報を入手して置く必要があります。さてどうなりますことやら。

次回に続きます。
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2016年05月05日(木) 13時27分54秒

世界一周航海をした最初の女性

テーマ:花木
前回ブログを書いたのが4月4日でしたので、昨日で一ヶ月も更新無しの状態が続いてしまいました。数人の友人から、『どうしたの?』、『病気になったの?』、『腰痛?』、『旅行中?』などのメールを頂戴しましたが・・・病気でもなく、旅行でもなく、頗る元気に、すっとバンコクで生活していました。

実は、2月と3月に各一回、依頼されていたプレゼンを終えてホットしていたところ、4月になって突然、日独伊三国同盟に関するプレゼンを依頼されてしまい、その下調べと発表用のパワーポイント作りに追われてブログを書く余裕がありませんでした。そのプレゼンも4月30日に成功裏(?)に終了して一安心。不義理をしていた友人との酒食の復活をしたりして、漸くブログを再開する気力が蘇って来た今日此の頃であります。



チェンマイ・ドイステープの碧天に映えるブーゲンビリアの赤苞葉と白花

プレゼンを終了した翌日、友人のA氏に誘われてブーゲンビリアの咲く食堂で会食した折に、僕が数年前にブログに書いていたという『ブーゲンビリアの本当の花』の話題になりました。ブーゲンビリアの花は、『彩り豊かな苞葉の中にポツンと咲いている可憐な白花なり』という内容の記事だったように思いますが・・・A氏の記憶の良さに驚いてしまいます。

と言うことで、久しぶりの更新となる本日は、18世紀に発見されたブーゲンビリアの花に纏わる珍事について書くことにしたいと思います。



白い苞葉に包まれたブーゲンビリアの白花。 苞葉の色に関係なく花弁はいつも白色です。

ブーゲンビリアの花を18世紀に発見採集した御仁は、世界一周のフランス探検艦隊(艦長・ブーゲンビリア氏)がブラジルに立ち寄った時、同艦の船医であり植物採集家でもあったフィリベール・コメルソン氏であったこと。

そして、発見者のコメルソン船医は、ブーゲンビリアの新種登録申請にあたって、尊敬するブーゲンビリア艦長の名前を花名として命名したこと・・・そんな事までも・・・A氏は僕の過去ログを覚えていました。ブログを書いた僕としては嬉しい限りですが、それにしても、A氏はブーゲンビリアの花が余程お好きなのでしょうね。



ブーゲンビリア艦長(左)              コメルソン船医(右)

A氏の記憶は、それに留まらず、書いた僕も覚えていない事までも憶えているのに吃驚。

①18世紀当時、自然の風力だけに頼って長期航海する艦隊や商船の乗組員は、野菜不足で壊血病に罹る水兵が多く、船医の仕事は多忙を極めていた事。特に行く先々の島や大陸で薬品の元となる薬草採集を行う作業は大変だったこと。


②そのために、世界一周艦隊の船医として乗り組むことになったコメルソン氏は、植物知識のあるジャンヌ・バレ氏(Jeanne Barre)を自分の補佐役として雇った・・・という事までも覚えていて、懐かしそうに語るのです。

そこで、徐々に記憶が戻って来た僕が、『世界一周探検艦隊が南太平洋のタヒチ島に寄港した時、コメルソン氏の助手・ジャンヌ・バレ氏を巡って、三文週刊誌が大いに喜びそうな性別に関する珍事が勃発した事も覚えていますよね?』とA氏に相槌を求めると、それまでニコニコしながら饒舌に語っていたA氏が眼の色を少し変えて、『そんな話はブログに書いていなかった』と言い張ります。

投稿したと思っている僕と、僕のブログを漏らさずに読んでいると嬉しい事を言ってくれる友人の間で思わぬ論争になったのですが・・・読んでいないと言い張る彼の剣幕に負けて、僕の思い違いということになってしまいました。その上、その事件の顛末を5月のブログに投稿する約束までさせられてしまったのです。まさに、本日、その約束を果たしているところですが、まさかこんな顛末になるとは思いもよりませんでした。

当時のタヒチ島は、命懸けで来島する白人とのビジネスを良好に運ぶために、島の酋長が若い女性を白人船員に提供する風習があったようです。当然のことながら、コメルソン氏の助手のジャンヌ・バレ氏にも、若い女性が送り込まれました。ところが、ジャンヌ・バーレ氏は、差し向けられたタヒチの若い女性を頑なに拒絶して追い返してしまいます。


コメルソン医師の助手ジャンヌ・バレ氏(Jeanne Barre)。 腕に採集した植物を抱えています。

激怒した酋親がジャンヌ・バレ氏に凄い剣幕で詰め寄ったところ、困窮したジャンヌ・バレ氏が、『実は、私は男性ではなく、女性なのです』と白状したことから、むさ苦しい男所帯の艦隊は、上を下への大騒ぎとなります。

生きて戻れる保証もない果てしなき長期航海で、しかも、大部屋という荒んだ生活環境の中で、誰一人として、ジャンヌ・バレ氏を女性だと気付かなかったと言うのですから、まさに、驚き、桃の木、山椒の木! とても信じられるような話ではありません。 


フランス探検艦隊のFrigate艦 La Boudeuse号
■排水量:550頓 ■全長:40m ■全幅:10.5m ■乗員:214名(士官8名)■船材質:木船


ジャンヌ・バレ女史はどのような出で立ちで艦内生活をしていたのでしょうか?興味に駆られて、駄目もとでネット検索すると・・・なんと! 男装した彼女のイラスト(下図)がヒットしました。ジャンヌ・バレー氏と大部屋生活を共にした同僚船員の話もありました。  

そういえば、奴が水浴びする姿を一度も見たことが無かったな!

狭い艦内に214名もの乗組員が身体を寄せ合って生活する中で、ジャンヌ・バレ氏は、汲々としながら、長い航海の日々を送ったに違いありません。


紫色の苞葉に包まれたブーゲンビリアの可憐な白花

植物採集を行うジャンヌ・バレ女史のイラスト画を見ると、頭部がとても小さく、背の高い細身の優しい風体に見えます。事の顛末を知って見直せば、タイでよく見かける男装した女性の『トムボーイ』のように見えなくもありません。

此の時代の新種植物の登録記録簿には、ジャンヌ・バレ女史が航海中に発見採集した植物名が多数記録されていることから、彼女は研究熱心で才能のある女性博物研究家だったとする意見もあるようですが・・・・当時のフランス雀の間では、『ジャンヌ・バレ女史はコメルソン氏の愛人に違いない』とする噂でもちきりだったようです。

しかし、上司のコメルソン船医は、『全く気付きませんでした』 と言葉少なく語るだけで、それ以上何の弁解も反論しなかったそうです。


女人騒動を起こしてタヒチ島を出港した探検艦隊が、インド洋モーリシャス島に寄港した時、コメルソン船医は、フランス艦隊とジャンヌ・バレ女史に突然別れを告げて下船。島に残ってしまいます。

その後のコメルソン氏は、インド洋の小島を転々としながら、大好きな植物研究に精魂を傾け、新種植物の学名登録のために一時帰国したこともあったかもしれませんが、その後の人生をインド洋の孤島で過ごして生涯を終えたそうです。


赤色の苞葉に包まれたブーゲンビリアの可憐な白花


1769年、Bougainville氏のフランス艦隊は、仏国として初の世界一周航海に成功して、母国フランスの海軍基地・ブルターニュ・サン・マロー港に凱旋帰港しています。フランス国民から歓呼の声で迎えられた事を報ずる当時の新聞記録も残っていました。

ジャンヌ・バレ女史のその後についての短い文章を見つけました。
ジャンヌ・バレ女史は、コメルソン船医がインド洋のモーリシャス島で下船した後も、世界一周艦隊のLa Boudeuse号に乗船して仏国に戻っていました。

彼女は、この時をもって、『世界一周の快挙を成し遂げた初めての女性』 として歴史に名前を刻まれることになったのですが・・・彼女のその後の動静は、杳として知れず、今になっても何一つ掴めないようです。


後日になって偶々目にした記事に、ジャンヌ・バレ氏が女性であることが判明したのは、彼女自身による告白ではなく、船医のコメルソン氏の医学的診断の公表結果であったとする説がありました。しかし、今となっては、それも臆説の一つに過ぎず、真実を確認する手立ては何も残されていません。

世界一周を終えた Bougainville氏は、後になって『世界周航記』(1771年)を著しています。 その著書の中で、彼は、『タヒチ島民は高貴な野蛮人』と記し、毎日飽きること無く怠惰な文明生活に浸る欧州人を揶揄しているのですが・・・その記事に触発されて、未だ見ぬ南の島の生活に飛び込んで行った人々もいたようです。

画家のゴーギャンが、南太平洋島に旅立ったのは有名な話ですね。ひょっとして、彼も『世界周航記』の影響を受けた一人ではないかと想像を逞しくしてチョット調べてみたところ、ゴーギャンは、Bougainville氏よりも百年以上も後の時代の人でした。

(注)ゴーギャンがタヒチに渡ったのは、1991年と1895年の二回。


本日の記事は、A氏との約束を果たすために書いたのですが、A氏の言われる通り、ジャンヌ・バレ女史に関する記事をアメブロに書いたというのは僕の間違いでした。実際は、現在工事中の僕のホームページに投稿していたのを、僕がアメブロに投稿したと勘違いしていたのですね。

という事で、ホームページ内のジャンヌ・バレ女史に関する記事をブログ用に改稿して転載させて戴きました。部分的には、ブログに投稿した記事と重複するところもあると思います。

■ご参考 ブーゲンビリアの植物分類名
学  名: Bougainvillea Spectabilis
科  名: オシロイバナ科  Nyctaginaceae          
属  名: ブーゲンビリア属 Bougainvillea         
性  状: 非耐寒性、ツル性低木
原産地:  中央アメリカ、南アメリカ
英  名: Bougainvillea
日本名:  ブーゲンビリア、イカダカズラ(筏 葛)、九重葛
タイ系タイ人= Fuan Faa  意訳:天空に向いて咲き誇る繁栄の花
中国系タイ人= Trut Jiin  意味:中国正月の春節        
花 言 葉= 情熱、魅力、貴方は魅力に満ちている。


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2016年04月04日(月) 10時15分58秒

1600 Pandas + in the Land of Smiles !

テーマ:タイ首都圏
自宅近くの最寄り駅チットロム駅の一つ隣のプルーンチット駅に隣接する高級ブランド志向の強いセントラル・エムバスィに初めて立ち寄りました。 

隣駅と言っても距離的には歩いて数分程度の違いなので、その気になれば直ぐにでも行ける場所なのですが、ブランド志向の乏しさもあって、今まで一度も立ち寄ったことがなかったのです。

ところが、高架電車で自宅に戻る途中、突如として我慢しきれない生理現象に襲われて、心ならずも一つ手前のプルーンチット駅で下車、大急ぎでセントラル・エムバスィに駆け込むことになってしまったと云う次第です。



左側建物:現行のセントラル・デパート、右側建物:新築のセントラル・エムバスィ  
隣り合った二駅に位置する両店は、自社専用の連絡通路でも繋がっています。  PHOTO:TABLET


セントラル・エムバスィ内の清潔で快適なレストルームで用達を終えてホッと一息。館内の贅沢なほど幅広の通路の空間を見遣ると、『 1600 Pandas + TH Central Embassy 』と表記された意味不明の英語看板がぶら下がっています。

なんだろうと思って近づくと、吹上あげ構造になった場所から下階のGフロアを覗き見ながら歓びの奇声を発しているタイ人中年女性がいます。僕も釣られるようにして下階を覗き込むと・・・・アララ、パンダが 『 うじゃうじゃ 』(方言?)しているではありませんか。


 
Gフロアの一角を埋め尽くす1600 Pandas + の群れ!  PHOTO:TABLET

設置されていた英語説明板にパンダ展示の趣旨が書かれていたのですが、うっかりして撮り忘れましたので、うろ覚えの記憶に頼って書き出しますと・・・・

1600 Pandas + World Tour have been around the world and now landing in the
Land of Smiles Central Embassy・・・・のような内容だったと思います。



1600 Pandas + Now landing in the Land of Smiles!  PHOTO:TABLET  

店内通路の掲示された意味不明の『 1600 Pandas + TH 』 のTHとは Thailand のことだったのですね。 それにしても、手つくりパンダ1600頭とは凄いですね。制作者は、中国人かと思いきや、西欧人のようですね。

タイ人中年女性も大喜び   PHOTO:TABLET
 
見知らぬタイ人中年女性も、子供心に立ち返ったかのように、大声をあげてはしゃいでいます。本来ならば写真の顔に目隠しをすべきでしょうが、全員が見知らぬ僕のカメラに朗らか目線を注いでいますので、肖像権侵害で訴えられることもないでしょう。



パンダ個々の表情がたまらなく可愛いですね。  PHOTO:TABLET

会場にいたタイ人中年女性の交わす会話にそれとなく小耳を挟むと、パンダ1600+の姿形や表情は、作者の思い入れによってそれぞれ微妙に違うのだそうです。


PHOTO:TABLET

そう言われてみれば、たしかに同じ顔や姿形のパンダは見かけませんね。
まさに、1600 Pandas + TH ! Now landing in the Land of Smiles Central Embassy !
でありました。


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2016年03月31日(木) 12時59分49秒

何年たっても馴染めないタイの色使い

テーマ:花木
今朝も俄か雨が降りましたが、数日前の夕方近くにも、バンコク・スクムウイット通りを歩いていて俄か雨に遭遇したことを思い出しました。

友達から引き伸ばしを依頼されていた小半切サイズのカラー写真を持ち運んでいたので、慌ててエム・クオーティエ(通称:エンポリアム2)に駆け込みました。此処数日間の時折の俄か雨は、本格的暑季の訪れを告げる自然界からのアナウンスかもしれません。

エム・クオーティエは、三つの建物(The Glass Quartier, The Helix Quartier,The Waterfall Quartier)が中庭によって繋がっていて、高級ショ ッピング街、高級レストラン街、そして庶民的なフードコート等も入居している大型の複合COMPLEXです。

俄か雨を避けて飛び込んだ建物は、低層階がSHOPPING COMPLEX、高層階がWATER GARDENになっているThe Helix Quartierでした。興味の薄いSHOPPING FLOORを通り過ぎて、エスカレーターを利用して高層階のレストランや喫茶コーナのあるWATER GARDENへと向かいます。



The Helix Quartierの吹上部分の空間を彩る南国らしい色使いの創作花  PHOTO:TABLET

館内の吹上部分の空間を飾る創作花を観て少しばかり時間を過ごし、それでも俄か雨が止まないようであれば、東南アジア最大の日本語書籍を誇る紀伊国屋書房で時間稼ぎをするつもりでいたのですが・・・


鳥肌が立つような思いがする色使い  PHOTO:TABLET

エスカレーターに乗って上階へ移動するにつれて、南国の創作花の花色が極端なグラデュエーションを起こして変化する仕掛けに気付き、昇降機の踊り場に佇んでタイ特有の色使いの変化を楽しむことにしました。


仕掛けられた投光によって極彩色に変化する創作花  PHOTO:TABLET

僕の色彩感覚からは逆立ちをしても出てこない色使いだからでしょうか、半ば呆気にとらわれながらも、暫し魅入られてしまいました。


僕の思考回路からは、此のような色使いは生まれません。  PHOTO:TABLET

白内障を患って手術を受けた僕の老いた瞳が、観てはならない物体に接して本能的に目を瞑るかと思いきや、怖いもの見たさの子供のように、思わず両眼の絞りをめいっぱい開いて魅入ってしまいます。


鳳凰木(孔雀木)の花色を大袈裟に描写するとこんな感じになるのでしょうか。  PHOTO:TABLET

白内障は手術によって眼内に人口レンズを挿入したことにより殆ど完治したと思うのですが、昨年の日本一時帰国の折に検査を受けた眼科医から『軽度の緑内障』の疑いを宣告された僕の左目が、見慣れない色変化を捉えて瞬間的に痙攣したような気もしましたが・・・

実は、同時期に受診した二人目の眼科医から、『僅かな凹はありますが、薬治療で経過観察する程度ですよ』と診断されていますので・・・それ程心配することもないでしょう。


 
『地獄絵図の色使いみたい』と言うと、創作者から怒られてしまうでしょうが・・・  PHOTO:TABLET

これ程までの変色を繰り返し観ていると、創作者には大変申し訳ないのですが、タイの仏教寺院で見かける悪趣味に近い不快な地獄絵図の色使いを思い出してしまいます。 

しかし、周囲のお若いタイ人女性の多くは、『とっても綺麗だわね』 สวยจัง、แหม สวยจัง とうっとりとした表情を浮かべて見入っています。 僕の感じを一言で表現するならば、『こんがらかって、どぎまぎする』というところでしょうか。タイ語で言うならば、適切ではないかもしれませんが วุ่นวายสับสน と言ったところでしょうか。 適当な表現を教えて貰えれば嬉しいです。

20数年に亘ってタイに在住しているというのに、未だに南国特有の色使いに全く馴染めていない自分に気付かされた雨宿りのひとときでした。

ふとWATER GARDENの外を見遣ると、俄か雨が止んで僅かに青空が顔を出しています。さあ気を取り直して、引き伸ばしたばかりの小半切の写真の到着を待っている友人の所に向かうことにしましょう。
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2016年03月28日(月) 11時18分55秒

涅槃仏9形態の写真一覧  พระพุทธไสยาสน์ปางต่าง ๆ

テーマ:涅槃仏
今年1年を掛けて、タイの涅槃仏9形態を自分の足と目で観て回ろうと思い立ったのですが、携帯電話を兼ねたタブレットのGoogleマップによる事前調査が効果的であったことと、自家用車のナビゲーション機能に助けられて、僅か3ヶ月弱で達成してしまいました。

あまりにも短期間で終わったので、集大成と言うのも気恥ずかしいのですが、過去に何度もトライして失敗した事もあり、何はともあれ、自分の備忘録も兼ねて涅槃仏9形態の写真を一つに纏めて置く事にしました。

9形態の涅槃仏の存在とその特徴を自分の目で確認できましたので、今後は、タイ国の彼方此方の寺院に安置されているであろう涅槃仏を、基本的形態を飛び越えた番外編の涅槃仏をも含めて、自由闊達に観て回ろうと思っています。

それでは、第一形態から第九形態の涅槃仏の写真をご覧下さい。本日は、各形態ごとの煩雑な説明は割愛しました。各形態の意味あいに興味をお持ちの方は、ご面倒でしょうが、過去ログをご覧戴きたいと思います。



第一形態:夢うつつの右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๑. พระพุทธไสยาสน์ปางทรงพระสุบิน วัดพิกุลทอง จ.สิงห์บุรี









第ื二形態:世話役僧のアーナンタの按摩を楽しみに待つ右脇臥の釈迦牟尼のお姿 
๒.พระพุทธไสยาสน์ปางทรงพักผ่อนปรกติ วัดถ้ำเขาหลวง จ.เพชรบุรี







第ื三形態:夜叉を統括する阿修羅の副王を帰依させる右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๓. พระพุทธไสยาสน์ปางโปรดอสุรินทราหู วัดขุนอินทประมูล จ.อ่างทอง







第四形態:世話役僧のアーナンタが悟ることを予言する右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๔. พระพุทธไสยาสน์ปางทรงพยากรณ์พระอานนท์ พระปฐมเจดีย์ จ.นครปฐม







第五形態:スパッタを生涯最後の弟子とされる右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๕. พระพุทธไสยาสน์ปางโปรดพระสุภัททะ พระปฐมเจดีย์ จ.นครปฐม






第六形態:生涯最後の教えを説く右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๖. พระพุทธไสยาสน์ปางปัจฉิมโอวาท วัดปทุมวนวนารามราชวรวิหาร กรุงเทพมหานครฯ







第七形態:入滅された直後の右脇臥の釈迦牟尼のお姿
๗. พระพุทธไสยาสน์ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ 1) พระปฐมเจดีย์ จ.นครปฐม







第八形態:両手をお腹の上で重ねた仰臥の姿形で弔問を受ける釈迦牟尼の亡骸
๘. พระพุทธไสยาสน์ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ 2) วัดพระนอน จ.สุพรรณบุรี







第九形態:両手を両脇に伸ばした仰臥の姿形で荼毘を待つ釈迦牟尼の亡骸
๗. พระพุทธไสยาสน์ปางเสด็จดับขันธปรินิพพาน (ปางที่ 3) วัดราชคฤห์วรวิหาร กรุงเทพฯ







以上です。

追伸:タイ人の間で圧倒的に人気度が高いのは第三形態。二位、三位が無くて四位クラスが第七形態、五位クラスが第6形態だろうと思います。僕が個人的に好きなのは、第四と第五形態、とりわけ第五形態の大ファンなのですが・・・此の2つのジャンルに属する大型の涅槃仏は、未だ見たことがありません。今後の楽しみにしています。

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