長い海外駐在生活を終えたhiro-1が念願のタイ国に移り住んで繰り広げる生活のあれこれ。或る時は、大学のタイ語学科でタイ語を学び、歴史学科ではアユッタヤー王朝の外交史を専攻、或る時は、自家用車を駆ってタイ国内の遺跡を巡り、又或る時は、タイの文化を覗き見る自由で気儘な生活写真日記です。
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2017年01月23日(月) 01時48分56秒

バンコクで咲き始めた大胡蝶の花

テーマ:花木

バンコク・アソークの瞑想会を終えたあと、最寄りのベンジャギティ健康公園まで散歩を兼ねて足を延ばしました。前回訪れた時、僅かしか咲いていなかったオオゴチョウ(大胡蝶)のその後の咲き具合を見てみたいと思ったからです。

 

スアンベンジャギティ (ベンジャギティ公園) の門表

スアンスカパープ (健康公園)

 

11月から1月にかけてのバンコクは、気分が燃え立つような紅花や黄花の開花が最も少ないように思うのですが・・・その中にあって、比較的早く開花するのが大胡蝶ではないかと思います。

 

高さ約3m前後の常緑低木樹に小さな紅花を咲かせるオオゴチョウ(大胡蝶)の花は、熱帯気候のタイの彼方此方で見掛ける馴染み深い花ですが・・・聞くところによると、亜熱帯の沖縄でも、サンタンカとデイゴに加えてオオゴチョウを三大名花の一つとして推す声があると聴きました。

 

海外の仕事に転ずる前の若かりし頃、沖縄に数回出張する機会があったにも拘らず、当時は花木に関心が薄かったこともあって、残念ながら、大胡蝶の花を見たという覚えがありません。

 

 

中程度に咲いていた大胡蝶の花

       

古の日本人は、この花を見て飛翔する胡蝶を想像したようですが、タイ人は、此の花の姿が孔雀の羽根に似ていることから、ハーン・ノック・ユン・タイ(タイの孔雀の尾羽)と呼びます。英語圏の人々も、孔雀を思い起こして、Peacock Flowerと名付けていますね。

 

    

小さな紅花がちらほら程度だった前回訪問時と比較して、今回は6割程度の開花だったのですが、もう少しすれば、南国の青空を背景にして咲き乱れる大胡蝶の乱舞を見られると思います。

 

    

大胡蝶に似た花に鳳凰木の花があります。タイに住んでいる日本人の中には、大胡蝶の紅花と鳳凰樹の紅花を混同している人が少なくありません。

 

大胡蝶は、高さ3m前後の細幹細枝の常緑低木であり、鳳凰木の特徴を太幹太枝の常緑高木であることさえ知れば、誰でも容易に区別化出来ます。

 

タイ人の老若男女の多くは、前者をハーン・ノック・ユン・タイ(タイの孔雀尾羽)と呼び、後者をハーン・ノック・ユン・ファラン(西洋の孔雀尾羽)と呼び分けて区別化しています。 

 

 

花弁をよくよく見ると、長い花柄(かへい)の先に咲いた縮れ花弁の中から、細くて長い雄しべが反り返るように突き出ています。孔雀を思い浮かばた英語圏やタイの人々は、此の部分を見て、孔雀の尾羽を想ったのではないでしょうか。

     

 

2月以降になると気温も次第に上昇し、いつもの熱帯の花々が次から次と咲き始める季節に入ります。花々の開花を追い求めて車を駆って遠出する時期の到来がとても楽しみです。

 

 

参考:植物分類名

科名:ジャケツイバラ科 マメ科

属名:カエサルピニア属

学名:Caesalpinia pulcherrima

タイ名:ノック・ユン・タイ ( タイの孔雀の尾羽)

和名:大胡蝶 (オオゴチョウ )、金鳳花

英名 Peacock Flower  孔雀花 )、Dwarf Poinciana 小猩猩木

原産地 西インド諸島

花言葉  自分らしく生きるのが一番

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2017年01月18日(水) 18時21分11秒

瓢箪の木の仲間・アヒルの足の裏 ตีนเป็ดฝรั่ง 

テーマ:花木

バンコクの陸運局で一年一度の車両税納付を行った帰りに、近くの王妃公園(注)に立ち寄ったところ、 無料駐車場が有料駐車場(3時間以内50バーツ≒150円)になっていました。 (注)公園名:สวนสมเด็จพระนางเจ้าสุิริกิติ ฯ Suan Somdet Phra-nang-jao Sirikit

 

以前は午前と午後の日差しで変化する花木を、時間を気にすること無く、じっくりと観察できる公園だったのですが・・・・最近のなんでもコスト・アップの折から、止むを得ない処置なのかもしれません。

 

シリキット王妃殿下の公園と記された門標 

 

大理石らしき石造門には、王妃殿下の長い名前の頭部分のสมเด็จพระนางเจ้าสุิริกิติ ฯ

(Somdet Phra-nang-jao Sirikit)を冠した公園名が表示されているのですが、此の公園が好きな僕を含む外国人の多くは、『Sirikit公園』と短略して呼ぶ人が多いようです。  

 

瓢箪の木の仲間・タイ語名 :西洋のアヒルの足裏

 

風通しの良い場所で小休憩をと思ってブラ歩きしていると、タイでは珍しくない楕円形の果実がぶら下がる花木が目に入りました。 幹に巻き付けてある標識板を見ると・・・・タイ語の通称名と世界に通用する植物分類上の学名と科名が表記してあります。

 

花木の幹に巻き付けられた標識板
 

タイ語通称名:Tiin Pet Farang (ตีนเป็ดฝรั่ง)・・・・意味:西洋アヒルの足裏

学名:Crescentia alta HBK.

科名:BIGNONIACEAE・・・・ノウゼンカズラ科

 

タイ語名の ตีนเป็ดฝรั่ง(Tiin Pet Farang) を見て、数年前に此の花木の記事をブログ投稿したことを思い出したのですが、寄る年波の所為でしょうか、どのような内容の記事を書いたのか思い出すことが出来ません。

 

自宅に戻ってアメブロの投稿記事を確認したところ・・・投稿時期は2013年11月5日、記事タイトルは『人懐っこいリス』となっていました。掲載写真四枚の内の三枚は幹上を走るリスの写真ですので、読者の方のコメントも栗鼠(リス)に集中しています。

 

2013年11月5日投稿記事:『人懐っこいリス』

 

■だるまさんが転んだ♪ …みたいなリスですね。横浜でも鎌倉に接しているあたりは、外来のリスが多くなって問題になっ  ているようです。ヒョウタンの木は、あたかも太い木の枝に他で採ってきた何かの実を干しているような佇まいですね。面白いです。

kii 2013-11-05 20:42:00  

伊豆にも台湾リスが繁殖しているんですよ。 ミカンとかを持っていくんですよ。 いろんな鳴き声をするし・・・。 ちょっと見た目は可愛いですが、昨年は庭のツツジの木の中に巣をつくっていたと植木屋さんが言ってました。

ワイワイ 2013-11-05

リスの匍匐前進(?)、可愛いですねー!なかなかこんな姿、お目にかかれません。(リスは必死なのでしょうが・・。^^;)
それにしても、「夜に咲く花」というのが、とても気になります。もし夜に見られたら、アップ、お願い致します。^^

シャンティcoco 2013-11-05 07:12:39

 
と言う訳で、本日の記事は、タイ語通称名:Tiin Pet Farang (ตีนเป็ดฝรั่ง)の備忘録を兼ねた記事として書いて置くことにしました。

 

太い幹の節から直接ぶら下がる果実

 

此の常緑小高木(≒5m)の英語名はMexican Calabash、或いは、Gourd Treeとあることから、 ヒョウタンの木の種類に属する花木だと思いますが、中央が縊れた瓢箪でもなく、東南アジアに多いジャックフルーツでもありません。 Tiin Pet Farang (ตีนเป็ดฝรั่ง)の特徴は、太幹から直接ぶら下がる砲弾型果実にあるのですが、その様子が奇妙奇天烈に見えて滑稽ですらあります

 

但し、直径15cm~20cmの砲弾型果実の用途は、食器、民芸品、マラカス等に利用されることはっても、食用に供されることはないようです。その理由として、果実の中の種子に毒が含まれているからとか、美味しくないからといった説もあるようですが、今ひとつ判然としません。

 

少なくとも、此の果実を美味しそうに齧っている栗鼠(リス)を見ると、果実の種子に毒が含まれているとは、とても思えないのですが・・・・

 

太枝の節から何枚もの葉が直接生えています。

 

太い幹の節から直接ぶら下がるのは、大きな果実ばかりではありません。常緑葉の生え方も、小枝から対生するのではなく、太幹や太枝の節から何枚もの葉が直接生えているのも、なんとも奇妙に見えてしまいます(上写真)

 

花も太幹の節から直接開花してします。

 

果実が幹から直接ぶら下がるという事は、当然ながら花序も花弁も、幹から直接発芽することになります。最初は異なる植物の着床か寄生かと思ったのですが、よくよく観察すれば、間違いなく幹の節から直接発芽しているのが分かります。(上写真)

 

タイ語の通称名であるTiin Pet Farang (ตีนเป็ดฝรั่ง)の意味が『西洋アヒルの足裏』であることは、既に冒頭で触れましたが、その由来は『夜に開花する花弁の形状にある』という記述を見つけました。しかし、朝方に撮った上掲の花弁は、先端が窄んでいるために『アヒルの足裏』の由来を確認することが出来ません。

 

前回の拙ブログをお読みになったシャンティcocoさんから、『夜に開花するのを見たらアップお願い!』とのコメントを頂戴しているのですが、未だに確認するまでに至っていません。

 

開花した後に落下した花弁
 
その後、開花した後に落下した花弁を見る機会があったのですが・・・アヒルの足裏を見たことのない僕には・・・どこが? どのように? 似ているの? ・・・・サッパリ分かりませんでした。
 
御参考:植物上の分類名

学名: Crescentia alta HBK.  
別名: Parmentiera alta  
科名: BIGNONIACEAE ノウゼンカズラ科

属名: フクベノキ属
タイ名:TiinPet Farang (ตีนเป็ดฝรั่ง)、意味:西洋アヒルの足裏

英名: Mexican Calabash、Gourd Tree(瓢箪の木)

別名: Tecomate、Jicara、Morro、
原産地:メキシコ、コスタリカ

 

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2017年01月14日(土) 17時47分12秒

松でもなく、杉でもない、しかしてその実態は?

テーマ:花木

バンコク・アソーク交差点とラーマ4世通りの間に位置するベンジャギティ健康公園で新年最初のブラ散策をした時、今まで見向きもしなかった常緑針葉樹に、なぜか目が向いてしまいました。

 

ベンジャギティ健康公園

 

二等辺三角形のような形状をした常緑針葉樹の傍らの標識板には、英名“Norfolk Island Pine”、タイ語名“สนฉัตร”(Son Chat )、学名“Araucaria heterophylla”とあります。樹木の形状と英名とタイ名から想像すると、マツ科マツ属の樹木のようですが・・・・

 

英名:Norfolk Island Pine、タイ名:Son Chat

 

念のために、タイ語名“สนฉัตร”(Son Chat )をタイ語辞書で調べてみると・・・“สนฉัตร”(Son Chat )の“สน”(Son )とは、裸子植物のマツ科、スギ科、マキ科、ヒノキ科、ナンヨウスギ科を意味する総称であって、必ずしもマツ科の松”に限らないとあります。 

 

英名“Norfolk Island Pine”を検索してみても、“Pine”の名前が付いているが、“マツ科のマツ属”ではないと付記してあります。

 

葉と枝ぶりも、日本で見掛ける『松』とは違うようです。

 

“สนฉัตร”(Son Chat )の“ฉัตร”(Chat)とは、傘蓋に似た形のタイ王族の階級を示す段状になった儀式用の標識物を意味します。僕の記憶では、昨年10月に崩御されたプミポン国王のฉัตร”(Chat)は、最も段数の多い9段のChatであり、存命の王妃は7段のChatだったように思います。

王族の階級を示す様々な“Chat” (ฉัตร)

 

ベンジャギティ公園の標識板に記してあった学名の“Araucaria heterophylla”から、“สนฉัตร”(Son Chat )の植物分類名を紐解いてみました。通称名だけで植物を検索するのは困難を伴うことが多いのですが、学名が分かっていさえすれば、植物の正体を比較的容易に探し出すことが出来ます。

 

樹皮を観察すると、杉というよりは、松に近いような? 

 

その結果、ベンジャギティ公園のสนฉัตร”(Son Chat )の科名は、“Araucariaceae”、そして、属名は“Araucaria”と判明しました。 残念ながら日本語訳が分からないのですが・・・少なくとも、マツ科を示す“Pinaceae”でもなく、スギ科を示す“Cupressaceae”でもありません。

 

枝の生え方は、松と言うよりは、杉に近い?

 

ところが、日本名を調べてみると、“コバノナンヨウスギ”(小葉南洋杉)となっています。別名は “シマナンヨウスギ”、漢語名は“異様南洋杉”とあり、何れの名前にも、『杉』の文字が当てられています。

 

マツ科でもスギ科でもないのに、英語圏では“松” (Pine)と呼び、日本語や漢語では“杉”と呼ばれるのは如何にぞや?・・・と思って解説を読み進むと・・・・コバノナンヨウスギ”(小葉南洋杉)の名前で呼ばれるが、けっして“杉”ではない。松にも似ているが、けっして“松”でもない・・・とあります。 

 

紐の編み目にも似た枯れ落ち葉

 

江戸川乱歩氏の『七つの顔の男・多羅尾伴内』の最後の決め文句よろしく、しかしてその実態は?・・・・・とページを捲るも、残念ながら、日本語訳は存在せず、此の樹木は、『生きた化石とも言える Araucaria heterophylla なり』とありました。 

 

“Araucaria” の語源は、南米パタゴニアの先住民族の種族名である “araucanos” から来ており、“heterophylla”は、“異様性”を意味する言葉のようです。つまり、『異様性を有する種族』が転じて、『生きた化石とも言える樹木』)という意味合いを込めた 『Araucaria heterophylla』の学名が生まれたのかもしれませんね。

 

 

御参考:コバノナンヨウスギ(小葉南洋杉)の植物分類

科名      Araucariaceae

属名      Araucaria

学名      Araucaria heterophylla、Araucaria heterophylla、(Salisb.)Franco

種名      A.heterophylla

英名      Norfolk Island Pine

タイ名    Son Chat สนฉัตร

和名      コバノナンヨウスギ(小葉南洋杉)

別名      シマナンヨウスギ

漢名      異様南洋杉

原産      豪州ノーフォーク島

性状      常緑針葉樹、高木(30-50m)

             果は長卵形、葉は光沢あり、

用途      庭園樹、公園樹、観葉樹、鉢植え

 

 

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2017年01月11日(水) 12時38分13秒

比島戦跡旅行 神風特攻0号・久納中尉

テーマ:フィリッピン旅行

 『比島戦跡旅行記 神風特攻第1号・関行男大尉-4』 (1月5日付け)の続きです。

 

前回の粗筋

関行男大尉を含む敷島隊の爆装員五名がマガラパット西飛行場を出撃して、レイテ東沖合の米国第7艦隊・護衛空母群(タフィ3)の4隻に必死必中の体当たり攻撃を行い、撃沈1隻、大破1隻、中破2隻の戦果をあげたのは、1944年10月25日午前10時45分でした。

 

その報告を第二航空艦隊司令長官の大西中将から受けた海軍省は、1944年10月28日のラジオ特別放送で発表、その翌日の新聞記事で、敷島隊指揮官の関行男大尉を『特攻第1号』として大々的に発表します。

連合艦隊司令長官・豊田副武大将

更に、連合艦隊司令長官・豊田副武大将は、1944年10月28日付けで、敷島隊五人の戦果を、忠烈万世に燦たる殊勲として全軍に公式布告(下欄御参照)。指揮官の関行男大尉は2階級特進して中佐となり、部下四人もそれぞれ2階級特進して銀翼の五軍神となります。

 

海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。

 

布告

戦闘〇〇〇飛行隊分隊長 海軍大尉 関行男

戦闘〇〇〇飛行隊付   海軍一等飛行兵曹 中野磐雄

戦闘〇〇〇飛行隊付   同 谷暢夫、同 海軍飛行兵長 永峰肇

戦闘〇〇〇飛行隊付   海軍上等飛行兵 大黒繁男

 

神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日〇〇時「スルアン」島の〇〇度〇〇浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦の一群を補足するや、必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈、同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収める悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり。

 

昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武

 

注:部隊識別番号、突入場所の経緯度、突入時間は明記されていません。

 

ところが、関大尉の敷島隊を除く神風特別攻撃隊の出撃記録をチェックしてみると・・・関行男大尉が体当入りした1944年10月25日以前に、敵機動部隊に体当りをした特攻隊(大和隊、朝日隊、山桜隊、菊水隊、彗星隊、若桜隊)の存在が記録されていることが分かります。敷島隊の出撃日時と他の六隊の出撃日時を順番に並べて比較してみましょう。

 

 ❏10月20日 第一次神風特別攻撃隊の初編成

 10月21日 大和隊:久納中尉・特攻死  (セブ基地)

 ❏10月23日 大和隊:佐藤馨上飛曹・特攻死  (セブ基地)

 ❏10月25日 朝日隊:上野敬一1飛曹・特攻死  (ダバオ基地)

 ❏10月25日 山桜隊:宮原田賢1飛曹、瀧澤1飛曹・突入7時40分AM (ダバオ基地)

 ❏10月25日 菊水隊:加藤豊文1飛曹、宮川正1飛曹・突入7時40分AM (ダバオ基地

 ❏10月25日 敷島隊:関行男大尉含む5名 突入午前10時45分 (マバラカット基地) 

 ❏10月25日 彗星隊:浅尾弘上飛比曹、須内則夫ニ飛曹・特攻死  (マバラカット基地)

 ❏10月25日  大和隊:大坪一男1飛曹、荒木外義飛長・特攻死  (セブ基地)

  ❏10月25日  若桜隊:中瀬清久1飛曹・特攻死 (セブ基地)

  ❏以降の特攻は割愛   

上記の出撃日時を見ると、神風特攻を最初に敢行したのは、セブ基地から出撃した久納好孚中尉であり、連合艦隊布告によって神風特攻の第一号として発表された関行男中尉の率いる敷島隊5名は、第五番目の位置付けであることが分かります。

 

終戦後にアヤラ財閥の再開発が始まった頃のセブ飛行場跡地

 

尚、10月20日の神風特別攻撃隊の初編成から五日後の10月25日に特攻出撃が集中しているのは、神風特攻の編成目的である『栗田艦隊のレイテ湾突入日』に合わせて、第一航艦司令長官の大西中将が発した『神風特別攻撃隊の全機出撃命令』に呼応した結果と思われます。

 

僕が訪れた時のセブ飛行場は、I.T.Parkに姿を変えていました。

 

死の旅路となった出撃日の観点からみれば、神風特攻第一号となる筈だった大和隊の久納好孚中尉(愛知県出身 法政大学専門部・予備学生出身11期)について、少しばかり思いを馳せて見たいと思います。

 

セブ基地時代の久能中尉を偲ぶ話が残っています。

セブ基地の特攻隊員がセブ島の裕福な家庭に招かれてピアノ曲やバイオリン曲でもてなされた時、日本の楽曲演奏を所望されて困惑する隊員を代表して、久納中尉がベートーベンのピアノ協奏曲を演奏して親日家の家族を感激させたことがありました。

(甲飛十期・佐藤精一郎氏の証言)

 

死への出撃となった10月21日の前夜、民間の屋敷を借りあげた士官宿舎のピアノに向かった久能中尉は、大好きなべートーベンのピアノソナタ第十四番『月光』を静かに弾いていました。(通信科暗号士・笹原則省予備少尉の証言)

 

久納好孚中尉 愛知県出身・予備学生11期

 

セブ基地(第201航空隊)に駐屯していた久能中尉の直属上司となる飛行隊長は、部下の特攻隊員から『源田實大佐の腰巾着』と蔑まれていた中島正少佐です。セブ基地からレイテ湾に出撃する特攻隊員に中島少佐が放った非人間的な命令を聴いた直掩隊・角田和男少尉の証言があります。

 

中島正少佐 (セブ航空隊飛行隊長)

 

中島少佐 『レイテ港の桟橋に特攻せよ』

特攻隊長 『桟橋への特攻ではなく、せめて目標を輸送船に変えて下さい』

中島少佐 『文句を言うな、特攻目的は戦果ではなく、死ぬ事にあるのだ』

 

久能中尉は、源田實大佐の腰巾着だった中島少佐に、最後の出撃となる寸前まで悩まされています。僕は中島少佐に個人的恨みは何もないのですが、彼に関わる様々な証言を読むにつけて沸き起こる憤りの気持ちを抑えることが出来ません。

 

1944年10月21日、久納中尉の最後の出撃日の証言

久納中尉の率いる大和隊のゼロ戦を徹夜で整備した中村少尉と波多野ニ整備曹は、敵機動部隊発見の報告を受けて、零式戦闘機5機に航空燃料を充満、250kg爆弾をセットして出発準備を完了します。

 

ところが10分以上待機しても久納中尉の率いる大和隊の搭乗員が到着しません。特攻員に対する中島少佐の自己陶酔した浅薄な精神訓話が延々と続いて終わらないのです。 中村少尉と波多野ニ整備曹は、敵戦闘機グラマンの奇襲を心配して苛立ちます。

 

その時、セブ飛行場に突入して来た敵戦闘機の機銃掃射が滑走路上に駐機していたゼロ戦五機に命中。燃える航空燃料が爆装していた250kg爆弾に引火して次々と誘爆。怒り心頭に発した整備兵が『中島少佐は敵のスパイか!』と叫ぶ面前で、ゼロ戦五機は一瞬にして鉄屑と化します。 

 

整備長の桶泉大尉が木陰から引き出した予備機の三機に、特攻の久能中尉と中瀬一飛曹、直掩の大坪一飛曹の三人が『エンジン回せ!』と叫びながら飛び乗り、航空母艦に戻るであろう筈の敵戦闘機の後を追って飛び立ちます。水盃も帽ふれ儀式もなく、報道員による写真撮影もない慌ただしい出撃だったそうです。 

 

中島少佐は、僅か22日前の9月12日にも、ダバオの第201航空隊で、『敵戦闘機がダバオに接近中』の無線報告を無視して、特攻隊員に対して愚にもつかぬ講話を20分以上も続けている真っ最中に敵戦闘機の攻撃を受けるという大失策を犯しています。

 
ダバオ海軍第201航空隊の瓦解
 
ダバオ飛行場の滑走路に駐機していた戦闘機25機を破壊され、辛うじて迎撃に飛び立った41機の内27機は撃墜され、残り14機も不時着となります。
 
貴重な戦闘機と航空燃料を失った上に、頼りとなる熟練搭乗員の多くを喪失し、離陸はなんとか出来ても、着陸が覚束ない搭乗員を残された大西中将の心に、神風特別攻撃隊を編成する決意が生まれたと言う人もいるようです。
 

中島少佐は、海軍兵学校の机上勉強は優秀だったかもしれませんが、前線基地の指揮官としては無能力且つ不向きな人物だったのではないでしょうか。そして、そんな中島少佐を引き立てた源田實大佐にも責任の一端があるかも・・・ですね。 

 

戦後の航空自衛隊の幕僚長となった源田實氏、同じく航空自衛隊の空将補となった中島正氏のご両名が、航空自衛隊で如何なる教育を実践されたのか・・・とても気になるところです。

 

話がまた横道に逸れてしまいました。

久納好孚中尉の率いる『大和隊』の爆装2機と直掩1がセブ基地から飛び立ったのは、10月21日午前16時25分でした。しかし、折からの悪天候により爆装1機と直掩1機は帰投し、『出撃したら絶対に戻らない。レイテ湾へ飛んで敵艦隊に突っ込む』と語っていた久納好孚中尉(23歳)だけが未帰還となります。

 

直掩機を伴わずに単独でレイテ湾に向かった久納中尉の戦果を証明する決定的な材料は存在しません。しかし、レイテ湾で作戦行動中だった重巡洋艦オーストラリア号(満載排水量:13,450屯)が日本軍戦闘機の突入によって、エミール艦長を含む戦死者30名を喪失したとの記録を残しています。この記録から、久納中尉が体当りしたのでは?との説が広まります。(下掲写真) 

 

体当りによって左舷に傾斜したオーストラリア号

 

世界に例のない250kg爆弾を抱いた必死必中の体当り攻撃を喰らったオーストラリア号は、信じ難い特攻作戦に周章狼狽したのか、突入機を一式陸上攻撃機としたり、九九式艦上攻撃機とする等して記載内容に混乱が見られます。更に、日本軍戦闘機の突入時間を午前中とする記述が正しいとすれば、久納中尉の出撃時間(16時25分)と大幅な齟齬があります。

 

10月21日に久納中尉(?)の体当たり攻撃を被ったオーストラリア号は、四日後の25日にも再度日本軍の体当たり攻撃を受けて大破。翌年の1月に修理を終えて戦線復帰するも、終戦となる8月中旬までの七か月間に、六回の体当たり攻撃を受けて更に86名の戦死者を出しています。

 

10月21日夕方に行方不明となった久納中尉の扱いを“特攻死にすするか、未帰還にするか”について、海軍上層部で紆余曲折があったようですが、11月13日になって、連合艦隊司令長官・豊田副武大将の決定により、久納中尉を特攻戦死とする旨の全軍布告第71号(2階級特進の少佐)が発表されます。 関行男大尉を神風特攻第一号とする布告から16日後の発表でした。 

 

久納中尉の特攻死の認定が遅れた理由として、次のような後日談が伝わっています。

 

❏第一航艦・吉岡参謀談

久納中尉は、天候悪化でレイテ湾に到達出来ず、墜落したと想像するしかなかった。

 

❏軍令部・奥宮中佐談

生還した場合を考慮した連合艦隊・淵田大佐の慎重な措置であった。

 

201航空司令・玉井浅一中佐

久納中尉の特攻に対する熱意から体当たりしたと推し量った。

 

同盟通信記者・小野田政氏談

201航空司令・玉井浅一中佐から、一番早く体当りをした久納中尉だけが報道されないのはあまりにも可哀想だから記事にしてくれと頼まれた。

 

201航空司令・玉井浅一中佐

 

神風特攻第一号は関大尉に譲ったものの、関大尉よりも四日前に特攻した久納中尉の事を、『神風特攻隊・第零号の男』と呼ぶ人が少なからずいます。 それでは、久納中尉よりも四日遅く体当入りした関行男大尉が神風特攻の第一号として全軍布告された理由は那辺にあるのでしょうか。海軍部内では次のような流言蜚語があったようです。

 

❏神風特攻第一号は、海軍兵学校出身者とする筋書きが前もって定められていた。

第一次神風特別攻撃隊の特攻第一号の筋書きは、 海軍予備学生出身や予科練出身よりも海軍兵学校卒を最優先する海軍上層部の意向があった・・・とする説があるようですが・・・定かではありません。

 

❏神風特攻隊の当初の体当たり目標は、敵航空母艦であった。

第一次神風特攻隊が編成された当初の目的は、栗田艦隊のレイテ湾敵突入作戦(10月25日)を成功させるために、敵航空母艦の滑走甲板に体当たりして敵航空戦闘力を喪失させることであったのは事実です。関大尉の敷島隊(5機)は、全機もろとも敵護衛空母に突入して当初目的を達成しています。 久納中尉が重巡洋艦に突入した可能性はあるにしても、航空母艦に体当たりしたという記録は全くありません。

 

しかし、10月25日の栗田艦隊のレイテ湾敵突入作戦失敗により、10月27日以降の第二次神風特攻隊の目標範囲が大幅に拡大されたことから、豊田連合艦隊司令長官の温情によって、久納中尉も全軍布告に加えられたとの説もあるようです。

 

実は、冒頭でも触れましたが、関大尉の敷島隊よりも早く体当たりをしたのは、久納中尉だけではありません。米軍の記録によれば、下欄青字に掲示した特攻6機が米軍第七艦隊の機動部隊に必中必殺の体当たりを行ったことが判明しています。

 

 ❏10月21日 大和隊:久納中尉・特攻死  (セブ基地)

 ❏10月23日 大和隊:佐藤馨上飛曹・特攻死(セブ基地)

 ❏10月25日 朝日隊:上野敬一1飛曹・特攻死 (ダバオ基地)

 ❏10月25日 山桜隊:宮原田賢1飛曹、瀧澤1飛曹・突入7時40分AM(ダバオ基地)

 ❏10月25日 菊水隊:加藤豊文1飛曹、宮川正1飛曹・突入7時40分AM(ダバオ基地)
 ❏10月25日 敷島隊:関行男大尉含む5名 突入10時45分AM (ママバラカット基地) 

 

■10月25日午前7時40分

山桜隊・瀧澤光雄1飛曹(推定)は、敵護衛空母 Suwanee号(満載排水量24,400噸)の上空を警護するF6F戦闘機をかい潜ってSuwanee号の飛行機用リフト部分に体当りを敢行。戦死107名、負傷160名を出す大損害を与えています。(下掲写真)

 

米軍第七艦隊の護衛空母Suwanee号に急降下で体当たりする瀧澤1飛曹(推定)

 

■10月25日午前7時40分

菊水隊の加藤豊文1飛曹も敵護衛空母 Sanntee号(満載排水量24,275噸)に体当たりをしています。米軍側の記録によると、中破したSanntee号は、応急修理によって数時間後に戦線復帰したとあります。(下掲写真。)

 

 

菊水隊・加藤豊文1飛曹(推定)が体当たりした敵護衛空母 Sanntee号

 
山桜隊の瀧澤1飛曹と菊水隊の加藤豊文1飛曹が体当たりをした米軍第七艦隊の護衛空母は、いずれも民間油槽船を改造した護衛空母です。 神風特攻第一号となった関行男大尉と敷島隊が体当たりをした敵艦も全て民間輸送船を改造した護衛空母であり、戦闘力の高い正規空母ではありませんでした。
 

関行男大尉を神風特攻第一号とした理由の一つとして、関行男大尉が体当たりをした敵艦が、『第一次神風特別攻撃隊の体当たり目標である航空母艦に該当』すると唱える人がいます。 

 

そうであるならば、関行男大尉よりも時間的に早く護衛空母に体当たりした山桜隊の瀧澤光雄1飛曹と菊水隊の加藤豊文1飛曹に軍配があがることになりますね。 

 

何れにしても、10月25日の第一次神風特別攻撃隊の敷島隊、菊水隊、山桜隊等の予想以上の戦果を受けて、翌26日、及川軍令部総長は昭和天皇(大元帥)にその戦果を奏上。『かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ』とのお言葉があったようです。

 

第一航空艦隊司令長官の大西中将は、神風特攻を拒絶していた海兵同期の第二航空艦隊司令長官の福留中将に神風特攻作戦の採用を強行談判。10月27付けで第1航艦と第2航艦を統合した連合基地航空隊(司令長官:福留中将)に第二次神風特別攻撃隊を編成します。 

 

連合基地航空隊参謀長 大西中将

 

連合基地航空隊の参謀長となった大西中将は、第二次特攻隊作戦を批判する声に対して、『第二次特攻作戦への批判は絶対に許さん』」として、特攻作戦を強行継続します。

 

かくして、栗田艦隊によるレイテ湾突入作戦を成功させるためだけだった筈の神風特別攻撃隊は、第二次特別攻撃隊に姿を変えて、勝利の望みなき戦いが終戦まで続くことになります。 11月に入ると、陸軍航空隊も特攻作戦を開始しています。

 

純粋に国を思い、愛する家族や恋人のために戦って散華した多くの特攻隊員の御霊に対して、心からの哀悼の意を表します。

 

今回をもって、比島の戦跡訪問で知った神風特攻のブログを終えることにします。

 

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2017年01月05日(木) 04時43分51秒

比島戦跡旅行 神風特攻第1号・関大尉-4

テーマ:フィリッピン旅行

『比島戦跡旅行記 神風特攻第1号・関行男大尉-3』(12月24日付け)の続きです。

 

❏1944年10月25日正午頃

10月25日午前10時45分、レイテ東沖合で、米国第7艦隊所属の護衛空母群の4隻に体当たり攻撃を行い、撃沈1隻、1隻大破、2隻小破の戦果をあげて散華した神風特攻・関行男大尉を含む敷島隊5機の戦果を見届けた直掩隊の西澤廣義飛曹長、本田慎吾上飛曹、馬場良治飛長の三機は、最寄りのセブ海軍飛行場へ立ち寄り、敷島隊の壮烈な戦果をセブ飛行場の中島飛行隊長(少佐)に報告しています。

 

 

セブ飛行場の滑走路跡地 (現Cebu I.T. park)

 

特攻隊を掩護する直掩機の役割は、①特攻機に向けられる対空砲の弾除けになること、②敵迎撃敵戦闘機を撃墜して味方の特攻機を目標に誘導すること、③目撃した特攻機の戦果を基地に帰投して正確に報告することでした。 

 

因みに、直掩隊として出撃した管川操作飛長は、護衛空母に突っ込む関行男大尉と谷暢夫一飛曹の弾除けとなって戦死しています。 また、直掩機のリーダーを担った西澤廣義飛曹長は、体当たりする特攻機を阻止しようとする敵戦闘機二機を撃墜し、敷島隊の特攻戦果を最大限にアシストしています。

 

 

直掩隊・西澤飛曹長(撃墜王第2位)  中島正少佐(セブ飛行隊長)

 

セブ飛行隊長の中島少佐への報告を終えた西澤飛曹長を含む三人の直掩隊は、翌日の26日、中島少佐に搭乗機の零戦を没収され、武装していない通常輸送機に乗せられてマバラカット基地に送り返される途上、敵グラマン戦闘機に襲撃されて全員が敢え無く戦死しています。

 

日本陸海軍の撃墜王第二位の戦闘機乗りだった西澤廣義飛曹長は、予科練や学徒出身の特攻搭乗員を消耗品として見做す中島少佐(海軍兵学校出身)の愚かな対応によって、その命を絶たれたようなものです。当時のマバラカットやセブ飛行場の特攻員の間では、軍令部で特攻の旗振りをしていた源田實大佐の言いなりだった中島少佐を『源田の腰巾着』と呼んで蔑み忌避する動きがあったようです。

 

後日、源田實大佐が軍令部から松山基地の第343航空隊(剣部隊)の航空司令に転任した時、源田司令官は、腹心の中島少佐を、セブ島第201航空隊から松山343航空隊の副長として抜擢しています。 

 

松山第303航空隊掩体壕

 

セブ島第201航空隊は、中島少佐の転属を手を叩いて喜んだそうですが、松山第343航空隊の搭乗員は、特攻一辺倒の中島少佐に総スカンを喰らわせた話が残っています。

 

その中でも、菅野直大尉(特攻死した関行男大尉と海軍兵学校同期生)は、中島少佐の理不尽且つ暴虐的な特攻要請に対して、誰憚ること無く、次のように反抗したと伝わっています。

 

『自分の隊から特攻隊員は絶対に出さない』

『体当たりなんかしなくても、爆弾を命中させる実力がある』

『生きていれば、何回でも敵を攻撃出来るではないか』

『一回の体当たりで、鍛えた戦力を一瞬にして失うのは納得できない』

 

更に、菅野直大尉が『特攻・忠勇隊』の直掩を務めて帰投し、忠勇隊の特攻戦果を中島少佐に報告した時の話があります。忠勇隊に平然と特攻命令を下す中島少佐の口から飛び出したのは、必死必中の特攻隊員と命懸けで掩護する直掩隊員を冒涜し侮辱するものでした。

 

『戦果が大きすぎる。何か勘違いしていないか』

『レイテで本当に体当たりをしたのか、本当に目撃したのか』

 

落下傘を装備せずに必死必中の体当入りをする特攻機を掩護する時、自らも落下傘無しで直掩の役割を果たすことを信条にしていた菅野大尉は、中島少佐が口走った心無い発言に悲憤慷慨。拳銃を引き抜いて床に向けて実弾五発を連射したと言うのです。その菅野大尉も、1945年の屋久島沖の空中戦で戦死しています。 

 

  

          菅野直大尉            志賀淑雄少佐(写真は大尉時代)

 

松山第343航空隊には、菅野大尉以外にも、志賀淑雄少佐(海兵62期)の如く、『自分が征かずに、予科練出身や予備学生出身だけに必死必中の特攻に行けと言うのは、命令の域を越えている。どうしても特攻に行けというのならば、参謀、長官、司令レベルが自ら先に飛ぶべきだ』と主張する人物もいました。

 

しかし、此のような具申に耳を傾ける上層部がいる筈もありません。 源田大佐や中島少佐のような特攻員に対する正気を失ったとも言える非人間的な対応は、特攻隊員達が当初抱いていた厳粛な士気を次第に蝕んでいくことになります。

 

中島少佐を松山第343航空隊へ引っ張った源田大佐は、第343航空隊搭乗員の有り得ない抵抗に直面して周章狼狽。 自らの保身を慮って、中島少佐を、人間ミサイルとも言うべき特攻兵器『桜花』の主力基地になっていた石川県小松市の第721航空隊(通称:神雷隊)へ横滑りさせます。

 

人間ミサイル『桜花』を抱えて飛ぶ母機の一式陸攻

 

ところが、その神雷隊に於いても、中島少佐は、耳学問の急降下特攻一点張りの主張を行い、零戦の直進降下に適した20度から30度の緩降下を是としていた搭乗員から蔑視されています。とは言っても、若い特攻隊員は、理不尽な上官に逆らうことも出来ず、祖国愛と家族や恋人への懐いを胸に抱いて任務に殉じるしかありません。

 

多くの予科練や予備学生出身の搭乗員を消耗品の如く扱った特攻礼賛者の海軍上層部の多くは、太平洋戦争(大東亜戦争)を無事に生き延びています。

 

松山第343航空司令官として終戦を迎えた源田實大佐は、戦後創立された航空自衛隊の第三代航空幕僚長となり、退官後は参議院議員(四期24年)を経て84歳で病死。中島正少佐(最終階級は大佐)も航空自衛隊の空将補まで出世して86歳で没しています。特攻で戦死した若き搭乗員の約4倍の人生を全うしたのですから、それに相当する供養を為されたに違いないと思いたいですね。

 

話が大きく逸れてしまいました。1944年10月25日12時5分の時点に戻りましょう。

 

西澤廣義飛曹長から、関行男大尉を含む神風特攻隊・敷島隊5機の壮烈な戦果報告を受けたセブ島第201航空隊の中島少佐は、直ちに第二航艦司令長官の大西中将に向けて無線電信を発信。大西中将は、日本の軍令部、海軍省、連合艦隊などの部署に対して、神風特別攻撃隊の敷島隊が成し遂げた最初の壮烈な戦果を打電します。

 

1944年10月28日 海軍省によるラジオ特別放送

大西中将からの戦果報告を受けた海軍省は、1944年10月28日にラジオ特別放送を行い、翌日の新聞記事で、敵護衛空母に体当たり攻撃を行った敷島隊指揮官の関行男大尉を『特攻第1号』」として大々的に公表します。

 

1944年10月29日の東京朝日新聞の一面トップ記事

 

連合艦隊司令長官・豊田副武大将は、1944年10月28日付けでもって、敷島隊五人の戦果を、忠烈万世に燦たる殊勲として全軍に布告。関行男大尉は2階級特進して中佐、部下の四人もそれぞれ2階級特進の栄誉を受け、銀翼の五軍神として奉られます。

 

 

銀翼の神々となった敷島隊の5名

 

 

神風特攻隊の第一号として壮烈な戦功をあげた敷島隊の五名は、『軍神』として世間から賞賛されることになります。 軍神となった軍人の門前には『軍神の家』と記された標識が建てられ、軍神を育んだ環境を知るために『軍神の実家への表敬訪問』が勧奨されたというのですから驚きです。(下掲写真)

 

関行男大尉の家を表敬する人

 

しかし、熱しやすく冷めやすいのは、古今東西の人間の性のようです。日本には『人の噂も75日』、英語國にも A wonder lasts but nine days. (驚きは7日しか続かない)と云う諺があります。

 

具体的な日数の長短は別として、日本にも環境や動向の変化によって、一斉に『左向け左』、『右向け右』と豹変する傾向があります。戦中の『一億総特攻』も、敗戦後は一転して『一億総懺悔』に変わってしまいました。

 

軍国主義昂揚に利用された『軍神』の家族は、敗戦後の反軍国主義の高まりの中で、一転して國賊呼ばわりされて日陰の存在になってしまいます。 『軍神の母』だったサカエさんは、豹変した国民から『戦争協力者』として石を投げられる立場に堕ちてしまったのです。

 

生活に困窮したサカエさんは、草餅の行商をするもままならず、住む家として廃屋兵舎の使用を役所に嘆願しても無視され、最終的に、西条の石槌中学校の用務員として住み込まれるのですが・・・心労が重なったからでしょうか、1953年11月9日、石槌中学校の用務員室で倒れられ、『せめて行男のお墓を・・・・』と言い残されて亡くなりました。享年57歳でした。

 

関行男大尉が戦死してから31年後の1975年、愛媛県西条市・楢本神社境内に「関行男慰霊之碑」が建立されています。冷たく掌を返した戦後の風潮は、神風特攻第1号の軍神・関行男大尉の慰霊碑すらも許さなかった・・・ということなのでしょうか。

 

次回は、軍神第一号の関行男大尉(没後2階級特進して中佐)よりも、早く出撃して体当り攻撃を敢行した神風特攻隊員が複数人数いた事実と背景について綴ってみたいと思います。

 

 

 

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2017年01月03日(火) 19時57分26秒

2017年 仏教國タイの元旦

テーマ:タイ大学・タイ語科・入学前

新年明けましてお目出度う御座います。

本年も宜しくお願い致します。

 

今年最初のブログは、仏教国・タイに於ける“Celebrating and praying for 2017”の様子を伝える Bangkok Postの報道写真から抜粋してお送りすることに致します。

 

例年ならば、夜空を揺るがすような轟音の連発花火とともに迎えるバンコクの新年なのですが、今年の新年は、昨年10月に崩御されたタイのプミポン国王(ラマ9世)への服喪ということで、轟音も喧噪もない静かな新年を迎えることが出来ました。

 

 新年のカウントダウンに集まった人々

Central World Shopping Center in Bangkok

 

新年へのカウントダウンをする大勢の老若男女が集まるバンコクのセントラル・ワールド・ショッピング・センター(上掲写真)のすぐ近くに26年以上も住んでいる僕も、実は初めての経験だったのですが、轟音を発する大花火の打ち上げも観衆の叫ぶ喧噪もない本当に静かな新年を迎えることが出来たのです。

 

王宮前広場に集まった人々

 

チャオプラヤー川に近い王宮寺院前広場(サナムルアン)にも、昨年の10月に崩御されたプミポン国王を追悼するために、灯りを手にした大勢の人々が集まりました。

 

王宮前広場に集まった人々

 

王宮寺院前に集った人々は、新年を迎える歓びのお経が掲載された“สวดมนต์ข้ามปี”(スアットモンカームピー)を一斉に開きます。

 

王宮前広場でお経を唱える人々

 

王宮寺院を背にして、パーリ語のお経を唱える9名の上座部仏教寺院の僧侶の読経 “สวดมนต์ข้ามปี”に合わせて、老若男女も唱和します。 同じ仏教国とは言えども、大乗仏教國の日本では見かけない光景です。

 

読経する九人の僧侶と新旧国王の肖像写真

 

王宮前広場に設えられた壇上で読経する九人の上座部仏教の僧侶の傍らには、崩御されたラマ9世王(右側)と後継王に即位されたラマ10世王(左側)の肖像写真が並んでいます。(上掲写真)

 

僧侶の読経に合わせてお経を唱える人々

 

参集した人々の中には、崩御されたプミポン国王(ラマ九世王)と即位されたワチラロンコン国王の皇太子時代の写真を両手でかざしながら、新年祝賀と前国王追悼のために読経する人もいます。

 

バンコクのサケット寺院の新年の儀式

 

山も丘も存在しないバンコクに人工的に造られた高さ50mのプーカオトーン(黄金の丘)の麓と頂上に建つサケット寺院に参集する人々もいます

 

バンコクのサケット寺院の新年の儀式

 

サケット寺院の建つ黄金山と呼ばれるプーカオトーンは、ビルマ王朝に破壊されたアユタヤー王朝の黄金山の復元を意図した現王朝のラーマ三世が、アユタヤー王朝の廃材を利用して小高い丘を造成。後継王のラマ四世(映画の王様と私のモデル)が仏塔を完成(1950年)しました。

 

ヤイ寺院 ピサヌローク県

 

タイで最も美しい仏像と称されるチンナラート仏が安置されているプラシーワッタナマハタート寺院(通称:ヤイ寺)でも、敬虔な仏教徒による新年の祈りが行われていました。(上掲写真)。

 

中国式大乗仏教のモンコン寺院 in Bangkok

 

大乗仏教とは言えども、日本の大乗仏教とはスタイルの大きく異なる中国式寺院(モンコン寺院)の新年の儀式です。(上掲写真)

 

タイ上座部仏教の祈り

 

バンコクのCITY-HALLで行われたタイ式上座部仏教の新年の祈り(上掲写真)です。 敬虔さの極めて薄い大乗仏教徒の僕ですが、タイ式上座仏教の前に出ると、素直に両手を合わせることが出来るのは何故なのでしょうか。 

 

新年の托鉢 ナコンシータマラート県

 

2017年1月7日(土)開催される新年第一回のタイ上座仏教の瞑想会に出席する予定です。(信者で無い僕も出席出来ます)

 

未だに本来の瞑想状態には程遠いレベルの僕ですが、パーリ語のマントラ(お経)を唱えている間は、すくなくとも、自分の心と躰のリズムが心地よくシンクロして、心身の雑念を軽く出来るようになったような気がします。

 

2017年1月7日(土)を、今年の僕の心身の新たな出発日としたいと思っています。

 

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2016年12月31日(土) 06時37分48秒

京都弾丸旅行・伊藤若冲展

テーマ:日本国内 (含旅行)

昨年の一時帰国の時に、金沢とバンコクを行き来している友人K氏に誘われて、『伊藤若冲展』を鑑賞するべく、日程の合間を縫って、東京から京都へ弾丸旅行しました。

 

若冲展が東京で開催された時のポスター

 

東京でも昨年の4月から5月にかけて開催されたのですが、僕の一次帰国は8月~9月頃と決まっているので鑑賞叶わず。ところが、K氏からの情報で京都で開催中と知って、なにわともあれ、京都に向かうことにしました。

 

 

           細見美術館                  美術館内

 

K氏と京都駅で落ち合い、最初に訪れたのは、京都市左京区岡崎の細見美術館です。想像していたよりも小さな美術館でした。

 

 

             伊藤若冲            収集家 Mr.Joe D .Price

 

伊藤若冲(1716生-1800没)は、23歳で家督相続した京都西小路高倉の漬物問屋・桝屋を、40歳で実弟に譲り、それ以降、独特の発想と画法による『花鳥風月』を描いた画家・・・と言った程度の知識しかなかったのですが、何かの画集に掲載されていた『動植綵絵-雄鶏図』を見てから、いつの日にか本物を鑑賞してみたいと思い続けていました。

 

江戸時代後期以降、伊藤若冲の絵画はすっかり忘れ去られていたようですが、1990年代に入って、米国オクラホマ州出身の収集家である Mr.Joe D.Price の尽力によって、その芸術性に対する評価が飛躍的に高まったのだそうです。 

 

江戸時代の芸術作品の中には、日本人ではなく、外国人によって息吹を与えられる作品が少なくないですね。 因みに、Mr.Joe D. Priceは、現在、京都嵯峨芸術大学研究科の客員教授であり、奥様は日本婦人とのことでした。

 

墨画 鶏図押絵貼屏風 6曲1双 1797年(寛政9年) 

 

細見美術館に展示されていた伊藤若冲の作品の殆どは、様々な姿の雄鶏を水墨で描いたものでした。雄鶏の動的な動きの筆致は『凄い!』の一語なのですが、当然ながら撮影禁止なので、その筆致をお伝えすることが出来ないのがとても残念です。

 

相國寺 (画面右奥に入ると承天閣美術館)

 

細見美美術館を堪能してから、京都市神上京区今出川通り東入上ルの相國寺承天閣美術館で開催されている『生誕300年記念・伊藤若冲展』に向かいました。

 

承天閣美術館に展示されていた動植綵絵30幅は、全てコロタイプ印刷により超精密に複元されたものでした。

 

仙人掌群鶏図 襖絵六面・西福寺 1789年(寛政1年)

 

奇異な舶来植物の仙人掌の傍で、世間から距離を置いて立つ雄鶏の姿が、一匹狼を貫く伊藤若冲の姿を表しているのだそうです。

 

  

動植綵絵ー群鶏図 絹本着色 宮内庁三の丸尚蔵館 1761-65年

 

動植綵絵30作品のうち、最も有名な作品が「群鶏図」。精緻に描かれた文様の13羽の鶏が画面いっぱいに生き生きと描かれています。

 

 

動植綵絵ー紫陽花双鶏図  Mr.Joe D.Price所蔵

 

紫陽花双鶏図と名付けられた絵には、二種類あることが分かりました。一枚は、プライスさん所蔵の上掲の作品。 別の一枚は、その昔、僕が何かの画集で見た雄鶏に睨まれた雌鶏が足で頭を掻く作品(宮内庁所蔵)です。同じ題名が付けられた二枚の作品ですが、雌鶏の描き方、紫陽花の表現と構図は、明らかに違います。

 

 

 

雪中雄鶏図

 

残雪が残る中、餌を掘り出して啄む雄鶏を描いた作品です。伊藤若冲が漬物問屋・桝屋を実弟に譲って絵画三昧となる十年位前の初期作品だそうです。とは言え、後年の凄みのある写実感の萌芽が垣間見れるような作品だと思います。

 

 

           老松白鶏図                             棕櫚雄鶏図

 

老松白鶏図(純白の番の鶏)

宝暦7年– 宝暦10年(1757年-1760年)の作品  絹本着色  宮内庁三の丸尚蔵館                              

 

松の上に立って旭日を見る雄鶏。その横で羽繕いする雌鶏。胡粉で描いた羽根の美しさがとても印象に残りました。

 

棕櫚雄鶏図

軍鶏と白鶏がデフォルメされた棕櫚を背景に見合う姿。老松白鶏図と同じように胡粉で描かれた羽根の美しさが際立ちます。
 

 

動植綵絵ー南天雄鶏図


黒と赤の配色が強烈な「南天雄鶏図」には、画面の表面と裏面から彩色して立体感を持たせる技法を駆使しているのだそうです。

 

当該ブログの写真レベルでは、老松白鶏図の羽根の描写もそうなのですが、その凄腕の画法を御覧いただくことが出来ないのが残念です。
 

 

旭日雄鶏図

 

雄鶏が旭日の日之出に向かい鳴き声を発する姿は、鶏(酉)年に相応しい構図です。

 

  

      梅花群鶴図            白鶴図            群鶴図

 

丹頂鶴を描いた作品ですが。上掲中央の白鶴図は、若冲のオリジナルではなく、明国の絵師・文正の『鳴鶴図』を模写したものだそうです。

 

 

  

       紅葉小禽図         秋塘群雀図        バラ小禽図

 

牡丹小禽図

 

相国寺で頂戴したパンフレットを読むと、相國寺の塔頭寺院の一つである鹿苑寺の舎利殿(通称:金閣寺)の大書院の4間と狭屋之間の床壁と襖(50面)に、伊藤若冲が商売をやめて本職の画家に専念した四年目(44歳)の時に描いた作品があると書いてあります。

 

鹿苑寺の舎利殿(通称:金閣寺)


初耳だったので、早速、鹿苑寺を訪れて係の人に訊ねると、今は既に撤去して相國寺に移管しているとのこと。パンフレットをもう一度読み返して見ると・・・・昔は舎利殿に存在したが、既に撤去済と書いてあるではありませんか。不注意に斜め読みした僕の勘違いでありました。

 

鹿苑寺舎利殿の竹図襖  襖絵四面・紙本墨画 1759年(宝暦9年)

 

伊藤若冲は、生涯を通して独身を貫き、絵の世界でも一匹狼のスタンスを通した画家だったようです。 一方、伊藤若冲よりも12歳も若い円山応挙は、朝廷や政権に知己も多く、門弟千人を有する有名人でした。 とは言っても、当時の伊藤若冲は、円山応挙に次ぐ有名な画家だったようです。

伊藤若冲72歳の時、京都を火の海にした天明の大火(1788年)で何もかも失って生活は困窮します。死去するまでの10年間は、石峯寺の門前に庵をむすんで隠棲。画1枚を米一斗(一升の10倍)で売って暮らす悠々自適の生活だったと伝えられています。
 

 

 

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2016年12月28日(水) 13時22分17秒

王様崩御・喪に服するマネキンの衣装

テーマ:未整理

僕がバンコクに赴任した1980年代の頃、バンコクの商業の中心地チットロムには、日系SOGOのエラワンとアマリンが威容を誇っていたものですが、日本のバルブ崩壊後のある日、SOGOの看板が取外されて、地元資本のショッピングプラザに変わってしまいました。

 

現在のアマリンプラザの正面には、10月に崩御されたラマ九世の在りし日の姿が貼付されています。(下掲写真)

 

本日のアマリンプラザの正面 (カメラ:ソニータブレット)

 

本日は、BTSチットロム駅に徒歩で向かう時に、僕が近道として必ず通過するエラワン・プラザ内二階のショーウインドーの様子をご紹介しましよう。

 

王様崩御以前のショーウインドー(カメラ:ソニータブレット)

 

上写真は、タイのプミポン国王(ラマ九世)が崩御される以前に、僕の通う道筋の紹介写真として掲載したことがあります。

 

いつもは斬新なデザインの服装を身に纏ったマネキンが居並んでいるのですが、此の時は、白人女性の超アップ写真が飾られているのが印象的だったので、思わずタブレットで撮ってしまいました。

 

王様崩御の翌日 (カメラ:ソニータブレット)

 

ラーマ九世崩御のニュースが流れた翌朝、なんと!ショーウインドーのマネキンモデルの服装が黒色の喪服に一変していました。派手な小物も全て姿を消して、純白の鳩が飾られています。

 

王様崩御から1ヶ月後のショーウインドー(カメラ:ソニータブレット)

 

ラマ九世の崩御から1ヶ月が経過した日にショーウインドーの前を通ると、マネキンのファッションが通常に近いレベルに変化していました。 

 

暫定軍事政府の告知によると、『政府系の組織は一年間の服喪』、『一般の服喪期間の目処は三十日』とあり、それに従ったのかと思ったのですが・・・・

 

白衣装に変化したショーウインドー(カメラ:ソニータブレット)

 

その数日後のショーウインドーを覗くと、通常レベルの衣装に戻っていたマネキンの衣装が・・・白色に様変わりしていました。

 

王様の崩御から1ヶ月が経過した頃、望ましい服装として、黒衣と白衣、グレー色などの落ち着いたものが推奨されたことは承知していましたが・・・・それがマネキンの衣装に影響したのでしょうか?

 

王様を追悼するクリスマスの白色(写真:ポスト紙 online)

 

この時期に準備が始まった王様を追悼するクリスマス・ツリーの多くは、例年の金綺羅と違って、圧倒的に白色が多いことから、ショーウインドーの企画者も慌てて白色の衣装に路線変更をしたのかもしれませんね。

 

 

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2016年12月25日(日) 19時37分00秒

国王崩御・静かなクリスマス

テーマ:タイ首都圏

タイ・バンコクの現時点の気候は、晴れ時々曇り、最高気温34℃、最低気温27℃、湿度50%、無風状態、体感温度は38℃です。 

 

12月~1月にかけてのバンコクは、一年の中で最も過ごしやすい季節と言われているのですが、此の暑さは何が原因なのでしょうか。

 

いつものように、 「比島戦跡旅行記 神風特攻第1号・関行男大尉-4」を書くつもりだったのですが・・・今日はクリスマス日だと思い至りました。

 

僕はキリスト教徒ではありませんが、平和なクリスマの日に、特攻で散華された関行男大尉を含む五人の話を、態々好んで書き綴ることもありませんね。

 

 

ということで、バンコク・アソーク駅の遊歩道に飾り付けられていた紙製のホワイト・クリスマスの写真を一枚だけ掲載することにしました。 (上掲写真)

 

金綺羅のネオン色を発する電飾もなく、必要以上に大音響を発する音楽もありません。心落ち着く清楚な感じのクリスマスをイメージした好ましい飾りです。

 

タイ国民が敬愛する国王(ラーマ9世)が10月に崩御されました。現在も多くの人々が黒服や白服を纏って服喪中ということもあって、今年のバンコクのクリスマス飾りは、いつもの派手さを極力排除した、とても落ち着いた感じのデコレーションが圧倒的に多いようです。

 

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2016年12月24日(土) 03時29分57秒

比島戦跡旅行記 神風特攻第1号・関行男大尉-3

テーマ:フィリッピン旅行

12月20日付けの『比島戦跡旅行記 神風特攻第1号・関行男大尉-2』の続きです。

 

昭和19年10月25日 (1944年) マバラカット基地

早朝のマバラカット飛行場は、第二航空艦隊の通常攻撃や第一航空艦隊の神風特攻の出撃準備で、緊迫した空気が張り詰めています。

 

❏午前6時50分 第二航艦・通常攻撃隊の出撃

マバラカット西飛行場から、通常攻撃を行う第二航艦(福留中将)の零式戦闘機12機と艦爆機5機(彗星)が、ルソン島南部レガスピー沖のハルゼー・第38機動部隊に向けて出撃します。

 

日本海軍・艦爆機・彗星

 

マバラカット東飛行場からは、第二航艦の九九式爆撃機24機が飛び立ち、隣接のバンバン飛行場からも、零式戦闘機35機が轟音を響かせて出撃して行きます。

 

日本海軍・九九式爆撃機

 

ところが、ハルゼー・第38機動部隊は、前日の夕刻から北方に展開する小沢機動部隊の攻撃に向けて既に転進しており、目指す海域に敵機動部隊の艦影はありません。第二航艦大西中将の神風特攻の依頼を拒絶して通常攻撃だけを行う第二航艦の総出撃(76機 )は、またしても空振りに終わってしまいます。

 

❏昭和19年10月25日  午前7時頃 

通常攻撃の第二航艦が出立した後のマバラカット西飛行場では、神風特攻を行う第一航艦の関行男大尉の敷島隊6機とラバウルの撃墜王と呼ばれた西澤廣義飛曹長が率いる直掩4機の出撃準備が慌ただしく進められています。

 

敷島隊の6名と惜別の言葉を交わす山本指令

写真左端:敷島隊長・関行男大尉

 

関行男大尉の敷島隊は四度目のやり直し出撃になることから、第一回目出撃の四日前の盛大な出陣式と比べると静かな見送りです。

 

前回までの出陣式は、浅井航空司令代行が仕切っていたのですが、四度目となる今回は、飛行機の不時着事故で左足を骨折して長期入院していた第201航空隊司令の山本栄中佐(上写真:松葉杖)が、副島軍医大尉に不自由な躰を支えられて、マバラカット西飛行場に現れ、敷島隊の特攻6名と惜別の言葉を交わします。

 

❏昭和19年10月25日  午前7時25分 敷島隊・四度目の出撃

 

四度目の出撃をする関行男大尉の零戦

 

出立する関行男大尉の零式戦闘機・識別番号888(上写真)に向けて、右手を振る松葉杖姿の山本司令(写真右端)と左手を後頭部に当てて帽子を振る副島軍医大尉(写真中央)の姿が見えます。副島軍医は、三度の出撃を繰り返して懊悩する関行男大尉を傍らで静かに見守って来たルームメートです。

 

敷島隊の特攻6機が飛び立つと、続いて、敷島隊を掩護する直掩隊の西澤廣義飛曹長(ラバウルの撃墜王)、本田慎吾上飛曹、管川操飛長、馬場良治飛長の零戦4機が離陸して行きます。

 

敷島隊に課せられた命令は、栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させる為に、ルソン島東沖ーレイテ島東沖ーミンダナオ島東沖一帯に展開する敵機動部隊の航空母艦の飛行甲板を破壊して航空攻撃を阻止することでした

 

ブルネイからレイテ湾に向かう栗田艦隊

 

❏昭和19年10月25日  午前7時~8時頃 サマール島沖

ブルネイからレイテ湾を目指す栗田艦隊は、サマール島沖にて米軍第七艦隊所属の護衛航空母艦群(タフィ3)を発見。実際の戦闘で発射する機会のなかった戦艦・大和の46cm主砲弾や15cm砲弾を、32,000mの遠距離から104発発射しています。

 

第七艦隊の護衛空母を砲撃する戦艦・大和

 

米軍発表による大和の主砲弾の効果は、護衛空母(ホワイト・プレインズ )と駆逐艦 (USS Johnston, DD-557)の損傷程度で、撃沈による喪失は皆無だったようです。

 

❏10月25日  午前10時10分 敷島隊 サマール島沖到達

敵空母を求めて南下していた関行男大尉の敷島隊は、レイテ沖を航行序列を崩して進む栗田艦隊を上空から視認しています。 

 

その後、米国陸軍部隊のレイテ島上陸を支援するマッカーサー大将管轄下の第七艦隊の護衛航空母艦群(タフィ3)を発見します。

 

タフィ3の司令官・クリフトン・スプレイグ少将

 

第7艦隊所属の護衛空母群(タフィ3)は、 商船などを改造した木造滑走甲板の補助空母です。正式空母の能力と比較すると、攻撃力も防御力も格段に弱く、搭載機も30機程度。速度も遅くて戦艦と行動を共にすることも出来ません。対潜・対空哨戒、陸軍の上陸支援、戦艦搭載の水上艦艇の直掩を主任務とする部隊です。 

 

❏午前10時45分 敷島隊、海面ギリギリの超低空飛行で護衛空母に接近

レイテ湾突入をする筈の栗田艦隊の側面支援をする絶好の機会を得た敷島隊5機()は、敵のレーダー探知を避けて海面ギリギリの超低空で体当たり目標の航空母艦群に迫ります。)特攻6機の内1機がエンジン不調でレガスピー飛行場に不時着。

 

四回目のやり直し出撃で散華した敷島隊の特攻5名

敷島隊指揮官:関行男大尉(23歳)、谷暢夫一飛曹(20歳)、

中野磐雄一飛曹(19歳)、永峯肇飛長(19歳)、大黒繁男上飛(20歳)

 

❏午前10時49分 体当入り特攻の開始

直掩隊・西澤飛曹長の報告によれば、敷島隊の特攻5機は、目標の手前から一斉に急上昇して上空1,900mあたりで二隊に別れ、関大尉の両翼を振る攻撃開始の合図で急降下に入ります。

 

250kg爆弾を抱いて急降下する神風特攻機

 

先ず最初に、一番機の関大尉が護衛空母の「ホワイト・ブレーンズ」を目掛けて急降下、間髪をいれず三番機の谷一飛曹が続きます。重い250kg爆弾を装備しているために空戦の出来ない特攻機を掩護するために直掩機の管川飛長が後を追います。

 

❏午前10時52分 関大尉、護衛空母「セントロー」に突入

「ホワイト・ブレーンズ」に向かった2機の内の1機は、敵の対空砲火に被弾、急遽目標を変更して護衛空母「セントロー」の飛行甲板に激突します。「セントロー」は大爆発を起こして11時23分に沈没。米軍側の戦死者=114名、負傷者=約400名に達しています

(米軍記録より)

 

商船を改造した護衛空母「セントロー」

 

1時間後に沈没したセントロー

 

❏護衛空母「ホワイト・ブレーンズ」に突入
「ホワイト・ブレーンズ」に向かった三番機の谷一飛曹は、対空砲火に被弾して左舷艦尾の海面に激突。250kg爆弾の至近爆発で「ホワイト・ブレーンズ」を破損(米軍記録)

 

護衛空母「ホワイト・ブレーンズ」

 

「ホワイト・ブレーンズ」の左舷艦尾に迫る特攻機

 

❏護衛空母「キトカンベイ」に突入
別の一機は、「キトカンベイ」に機銃を乱射しながら急降下。艦橋を飛び超えて左舷側通路で大爆発を起こして海中に転落。250kg爆弾の至近爆発で「キトカンベイ」を破損。

 

護衛空母「キトカンベイ」

 

「キトカンベイ」の艦橋目掛けて突入する特攻機

 

❏護衛空母「カリニンベイ」大破
残りの二機は、護衛空母「カリニンベイ」に向けて急降下。対空砲火を受けた先頭機は、左舷飛行甲板に突入するも250kg爆弾が起爆せず、飛散した特攻機のガソリンで甲板が火に包まれた。爆撃効果が薄いと判断した別の一機が、30秒後に左舷中央甲板に突入。「カリニンベイ」を大破に追い込んだ。(米軍記録より)

 

護衛空母「カリニンベイ」

 

爆発炎上する「カリニンベイ」

資料によっては、「カリニンベイ」に突入したのは、関大尉と谷一飛曹とする説もあります。


護衛空母「ホワイト・ブレーンズ」の戦闘記録には、『六機の自爆機の内、目標を外れたのは一機のみ』とあります。 特攻機と直掩機の違いが分からない記録係は、特攻機への対空砲火を分散させる任務を果たした直掩隊の管川飛長機を特攻機と勘違いしたようです。

 

人間が自爆特攻するという前代未聞の神風特攻を初めて経験した米兵は、機体が甲板に激突したのは、爆弾投下後の急上昇に失敗した操縦ミスだろうと思ったそうです。ところが連続する体当たり攻撃を見て、俄には信じ難い『自爆攻撃』と知って恐れ慄いたそうです。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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