長い海外駐在生活を終えたhiro-1が念願のタイ国に移り住んで繰り広げる生活のあれこれ。或る時は、大学のタイ語学科でタイ語を学び、歴史学科ではアユッタヤー王朝の外交史を専攻、或る時は、自家用車を駆ってタイ国内の遺跡を巡り、又或る時は、タイの文化を覗き見る自由で気儘な生活写真日記です。
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2016年12月08日(木) 23時58分44秒

諸行無常・沙羅の花

テーマ:花木

今日のブログ予定稿は、神風特攻隊員の第一号としてフィリピン東沖で散った関行男海軍中佐の話のつもりでしたが、なんとなく気分が沈んでタイプする指先の運びが思わしくないために、四日の日曜日に眺めた花の中から『沙羅の花』をご紹介する事にしました。勝手な変更で申し訳ありません。

 

久しぶりに花を眺めたくなって、バンコク都心から外に出かけてみました。残念ながら、乾季(寒季)なので、開花は少なく、咲き方も色艶が弱くて小ぶりな花が大半だったのですが・・・それでも久しぶりに接した自然の空気を満喫することが出来ました。

 

久しぶりに見た沙羅の花弁と蕾

 

沙羅の花を見た時、貴方は何を思い浮かべますか?

敬虔な仏教徒のタイ人ならば、釈迦牟尼が入滅の直前に沙羅双樹の下で説かれたパーリ語のお詞と沙羅の花を思い浮かべて合掌し、いつにもまして真摯に読経するのではないでしょうか。

 

涅槃経  (sabbe sankhara anicca)

anicca vata sa◻khara   (諸行無常)

uppadavayadhammino   (是生滅法)  

 uppajjitva nirujjhanti    (生滅滅已 ) 

tesa◻vupasamo sukho   (寂滅為楽)

 

頭を枕、右手を床上・入滅直後の釈迦牟尼

 

多くの日本人は、僕もそうなのですが、中学校時代に歴史か国語の授業で教わった平家物語の冒頭に出て来る無常観あふれる詞を思い出されるのではないでしょうか。

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす、おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし、猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ

 

沙羅花と棘の多い太枝木になる砲丸果実

 

最近の僕は、もう一つ別の詞を思う浮かべます。それは小学校高学年の頃に教わった『いろは歌』なのですが、子供心に御神歌のような独特の節回しが面白くて、よく口ずさんでいました。 

 

この詞もまた、仏教の根本思想である『諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽』を表していると知ったのは、お粗末ながら随分と齢いを重ねてからでした。

 

見るからに南国の花らしい沙羅の花

 

以前のブログでも書いた事がありますが、釈迦牟尼が降誕された時と入滅された時、(タイでは、両方とも陰暦六月の満月の日)、その傍らで見守るように咲いていたのが沙羅双樹の花だったそうです。

 

経典によりますと、80歳の釈迦牟尼がインド北東のクシナガルで入滅された時、頭と足の傍らの沙羅双樹の花蕾が一斉に白く咲き揃い、釈迦牟尼の亡骸を飾るかのように舞散って降りそそいだとあります。

 

一度見たら忘れられない沙羅の花

 

日本の気候では、南国のサガリバナ科・ホウガンボク属の沙羅の木は育たないことから、当時の日本仏教界は、経典の『白い花』の記述から、ツバキ科・ツバキ属の夏椿を沙羅の花と定めたようですね。

 

しかし、タイで多く見る沙羅の木の花(トン・サ-ラ・ランカー)は、御覧の通り、誰がどう見ても『白花』には見えません。

 

古のタイには、トン・サ-ラ・インディア(意味:インドを原産地とする沙羅木)とトン・サ-ラ・ランカー(意味:スリランカを原産地とする沙羅木)の聖木を彼方此方で見ることが出来たそうです。しかし現在、トン・サ-ラ・インディアは、殆ど生滅して見ることが出来なくなりました。

砲丸果実を付けた沙羅の高木(15m~20m)

和名:砲丸木、英名:Canon ball、タイ名:サ-ラ・ランカー

 

ひょっとすると、生滅したインド原産の沙羅の花が『白色』だった可能性もある訳ですが・・・・・植物好きのタイ人ブログを読むと、『トン・サ-ラ・ランカ-=トン・サ-ラ・インディア』とする記述が大勢を占めていて、僕の念願である白花説の確認を得る情報がありません。

 

あれから何年も経過したと言うのに、沙羅の白花説に関しては、何も確認出来ないまま現在に至っています。日本に本帰国するであろう数年後までには、なんとかして結論を得たいのですが・・・・どうなりますことやら・・・・ 

 

 

 

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2016年12月05日(月) 18時41分41秒

比島戦跡旅行記 神風特攻隊が初出撃した飛行場跡

テーマ:フィリッピン旅行

フィリピン五島を巡る戦跡旅行の中で、ルソン島で是非訪れてみたいと思っていた場所の一つは、神風特別攻撃隊が初めて出撃した『マガラパット飛行場跡地』(1944年3月建設~1945年1月撤退)でした。しかし、宿泊したホテルの係員に訊いても、クラーク経済特区の1画に在るらしいと言うだけで、正確な位置が判然としません。

 

ホテル前で客待ちをしていた箱バンタクシーの運転手に藁をも掴む思いで訊ねると、『知っているよ』と事も無げに言います。車両代とガゾリン代込の費用と日時の交渉も成立し、翌早朝にホテル発の日帰り旅行に出で立ちました。

 

大渋滞の首都マニラとケソン市を抜けて北上、クラーク経済特区(旧米軍のクラーク基地)に向けて約二時間あまり直走ります。パンパンガ州サンフェルナンドからアンヘレスを抜けてマガラパットに近づく頃になると、行く手の右側の平野と水田の向こうに孤立した山容が見えて来ました。

 

アヤラット山 (Mt.Arayat)


比島戦跡旅行に出かける前にバンコクで読んだ神風特別攻撃隊の書籍に書かれていた、『仰向けになって寝ている女性の横顔に似ているアラヤット山』(標高:10,26m)に違いありません。 

 

ゼロ戦で出撃する神風特攻隊員は、母親の面影とアラヤット山の姿を重ねて、両翼を左右にバンクさせながら、遥か日本の母親に感謝と永遠の別れの挨拶を送ったと云う話が残されているマガラパットに聳える孤高の山です。

 

広大な地が広がるクラーク空軍基地跡

 

そうこうするうちに、広大な面積を有する旧米軍のクラーク空軍基地跡の区域に到着です。1903年建設~1991年の米軍駐留引揚げまでは、比島駐留の米国空軍基地でしたが、現在は、クラーク国際空港、クラーク工業団地、観光エリア、そしてフィリピン空軍の基地などが入るクラーク経済特区になっています。

 

その広大な面積は、シンガポール国家がスッポリと入ってしまう程の広さだそうです。我ら二人を乗せた箱バンの運転手君は、あまりにも広大な経済特区の中に迷い込んでしまったらしく、偶に歩いている現地の人を見つけては、タガログ語で Kamikaze Airfield の在処を訊ねるのですが・・・今ひとつ要領を得ず・・・かれこれ半時間ばかりも右往左往していたでしょうか・・・

 

旧日本軍飛行場跡地に続く凸凹道路

 

どうやらこうやら、旧日本軍のマバラカット飛行場は、旧クラーク米空軍基地の緑美しい敷地から遠く離れた北西端の寂しげな場所に在るらしいことが判明。クラーク経済特区内の美しく整備された環境とは打って変わった未舗装の凸凹道を走りながら、運転手君と我ら打ち揃ってキョロキョロと見回していると・・・・

 

Kamikaze West Air Field 発見!

 

未舗装道路の左側の狭いスペースの入り口に『 KAMIKAZE WEST AIRFIELD 』 と記された緑色の標識を発見。芝生ならぬ雑草原の広がる空間の奥まった場所に白壁の記念碑と司令壕らしき洞穴が見えます。

 

旧日本軍が神風特攻で使用した飛行場は二箇所あると分っていたのですが、我らが漸く到達した此の場所は、マガラパット西飛行場でした。当時の日本軍の飛行場滑走路は舗装ではなく、ローラーで雑草原と泥土を固めた程度の代物だったようです。

 

飛行場跡の記念碑(左)と司令壕(右)

 

旧西飛行場の説明板には、次のように経緯が記されています。

①日本海軍第201航空隊による飛行場建設=1944年3月

②比島東沖米軍輸送船団への神風特攻出撃=1944年10月21日

③日本海軍第201航空隊、台湾への全面撤退=1945年1月10日

④米軍による日本第201航空隊飛行場の占領=1945年1月28日

 

上記②の通り、初めての神風特攻出撃命令が出されたのは1944年10月21日ですが、特攻の父とも称される大西瀧治郎中将(第一航空艦隊司令長官)が、マガラパット海軍飛行場の責任者である玉井浅一大佐(第201海軍航空隊司令代行)を訪れて、神風特別攻撃隊の編成要請をしたのは、神風特攻初出撃の三日前となる1944年10月19日でした。初出撃する隊長と搭乗員の選抜は、玉井浅一大佐に一任されています。

 

現地のD・ディソン氏建立の記念碑
 

神風特別攻撃隊の敷島隊の隊長に選抜された関行男中尉が初めて出撃したのは、上記②の1944年10月21日ですが、それ以降24日まで毎日連続して比島東沖に出撃するも、体当りする敵艦を発見することが出来ずに苦しい帰投を四回も繰り返しています。

 

平和観音菩薩像  (鹿児島最福寺寄贈)

 

五回目の出撃となった10月25日、今日こそはの思いでサマール島

沖合に出撃した関大尉の敷島隊は、洋上に複数の米軍護衛空母を発見して体当入り特攻を敢行。神風特別攻撃隊として最初となる戦果をあげて壮烈な戦死を遂げ、全軍布告によって、敷島隊の特攻隊員五人が軍神に叙せられています。

 

マガラパット西飛行場の司令壕跡

 

マガラパット西飛行場の北西端の小さな丘に洞窟が残っていました。説明板によると、第201航空隊司令代行の玉井浅一大佐が飛行場内の司令壕と搭乗員や基地要員の待避壕として掘ったものでした。

 

マバラカット東飛行場の看板

 

マバラカット西飛行場の見学を終えて、マニラへも戻る為にマッカーサーハイウエーの途上でガソリン補給の為にGSに立ち寄り、駄目元でマバラカット東飛行場の在処を訊ねると、何としたことでしょう! GSの斜め前に、日本語と英語で書かれた神風の東飛行場の看板と鳥居が在るのに吃驚仰天!

 

マバラカット東飛行場の立派な鳥居

 

マバラカット西飛行場から車で約10分程度に位置する東飛行場もフィリピン人のダニエル・ディソン氏の御苦労によって建設されたものでした。

 

マバラカット東飛行場の特攻隊員の銅像

 

旧日本海軍の東西のマバラカット飛行場からは、600人以上の特攻隊員が出撃したと言われています。マバラカット東飛行場には一人の特攻隊員の銅像が建てられていました。

 

此の銅像のモデルになったのは、チョット意外だったのですが、2015年5月に大腸がんで亡くなられた俳優の今井雅之さんだそうです。

 

その詳しい経緯は分かりませんが、舞台俳優の今井さんがライフワークにしていた神風特攻を主題にした『The Winds of God』(No More War)と関係があるのかも知れませんね。

 

夕闇迫るマガラパットからマニラへの道


マガラパット飛行場を訪れた後に、バターン死の行進の最後の徒歩行進のコースとなったタルラック州カパスからオドンネル俘虜収容所までの12.8kmの一部を自分達の足で歩きたかったのですが、マバラカット飛行場の探訪で時間を使い過ぎてしまい・・・・残念ながら夕闇に包まれたマッカーサーハイウエイをマニラへと戻ることになりました。

 

バンコクに戻って調べ直すと、マガラパットには、旧飛行場以外にも、第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将の居留地跡や日本軍コーナーを備えたクラーク博物館も在ったことが判明。 

 

今になって後悔しても女々しい限り、否、男々しい限りです。行き当たりばったりの旅好き派なので当然の帰結ですが・・・それにしても残念至極です。

 

次回ブログ記事は、マガラパット飛行場から神風特攻隊長として出撃して洋上に散った関行男大尉(死後二階級特進して中佐)に纏わることを書く予定です。

 

 

 

 

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2016年12月03日(土) 17時01分19秒

タイの新国王・ラマ10世の即位

テーマ:未整理

昨日(12月2日)のタイ国の新聞一面は、10月13日に崩御されたプミポン国王陛下の長男であるワチラロンコン皇太子殿下が立法議会議長の王位継承要請を受け、新国王(ラマ10世)に正式に即位されたと云う見出し สมเด็จพระเจ้าอยู่หัวรัชกาลที่10เสด็จขึ้นทรงราชย์แล้ว.... と写真で賑わっていました。

 

新聞によると、故プミポン国王陛下が崩御された10月13日以降、ワチラロンコン皇太子殿下は『国民と共に喪に服したいので、暫くの間は即位しない』と仰っていたのですが・・・・

 

The royal motorcade of His Majesty King Maha Vajiralongkorn Bodindradebayavarangkun

passes the Royal Plaza and heads for the Grand Palace for a merit-making ceremony

to pay respects to the late King Bhumibol Adulyadej..    Photo: Bangkok Post

 

12月1日、現暫定軍事政権下の立法議会議長から王位継承要請を受けて、『亡き国王陛下のご意志に従って、タイ国民すべてのために王位に就くことを受け入れます』と述べられ、王位継承の儀式を完了されたことが報じられていました。

 

Prem had served as Regent pro tempore after the death of King Bhumibol in mid-October.

He resigned as President of the Privy Council for the late King yesterday.

His re-appointment for the new monarch was announced on TV Pool last night.  Photo: The Nation

 

10月13日のプミポン国王陛下の崩御以降、ワチラロンコン皇太子殿下が直ちに王位継承されなかったために、法律に基いて、枢密院議長のプレム氏が、一時的に枢密院議長の地位を辞して『暫定摂政』を務めておられたのですが、昨日の王位継承手続きを終えた後に、新国王・ラマ10世による再認定を受けて枢密院議長に復帰されています。

 

People wait for the royal motorcade of His Majesty King Maha Vajiralongkorn Bodindradebayavarangkun

near the Grand Palace.   Photo: Bangkok Post

 

急な王位継承の発表で、ラマ10世の『10』(タイ数字:๑๐)と染め込まれた旗やTシャツが間に合わず、前王様のラマ9世(タイ数字:๙)の9が染め込まれた喪旗や喪服のTシャツを身に纏った姿で、宮殿に向かわれる新国王・ラーマ10世を見守る庶民の姿が掲載されていました。

 

Photo: The Nation

 

画廊店では、早々と新国王・ラマ10世の王衣姿の大小の肖像画が販売されています。近い将来、この肖像画をタイの彼方此方で見ることになるでしょう。

 

Photo: The Nation

 

バンコクの仏教寺院(チャトチャック)では、今週の木曜日の夕方、新国王のラマ10世の即位を祝う祈りが行われていました。

 


Thai Muslims pray for His Majesty King Maha Vajiralongkorn Bodindradebayavarangkun

at the Islamic Centre Thailand in Bangkok.        Photo: Bangkok Post   

 

バンコクのムスリムセンターでも、新国王(ラマ10世)の即位を祝う礼拝儀式が行なわれていました。 

 

古今東西、宗教衝突の激しい時代ですが、タイの国王は、タイ国憲法により信奉される諸宗教を保護し振興させる任務を負った擁護者とされています。

 

新国王(ラマ10世)の戴冠式は、来年の10月以降に行われる予定の故プミポン国王の火葬の儀の後になるようです。新国王(ラマ10世)の徳が敬われ、その治世が盛んになることを心から祈念したいと思います。

 

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2016年11月30日(水) 19時28分53秒

タイの国王を偲ぶ小さな肖像画展

テーマ:未整理

バンコクに移り住んだ当初は足繁く通ったスクムウイット・エムポリアム駅界隈も、最近は年寄りになったからでしょうか、有志が集まる一カ月一回の会合の時だけ足を運ぶ程度になってしまいました。

 

先日開催された定例会に出向いた時、少し早めに着いたので、時間潰しに珈琲でもと思ってエムポリアムショッピングセンターに入ると、10月13日に崩御されたタイのプミポン国王を偲ぶ小規模な肖像画展が行われていました。

 

エムポリアム内で開催されていたプミポン国王を偲ぶ小規模な肖像画展

タイ語フレーズの読み:Tha Sathit nai Duang-jai-thai niran

 

肖像画展のキャッチフレーズは、外国人にも理解できるように英語の名訳が添えられていましたが、敢えて日本語に直訳すれば、『永遠にタイ人の心の中におわします国王様』と言ったところでしょうか。

 

 

日本製カメラで農作業等を記録され続けたプミポン国王

 

プミポン国王の在りし日の姿を偲ぶ報道写真展や肖像写真は、ネットニュースや展示会で観る機会は多かったのですが、肖像画展を観るのは初めての経験です。

 

 

 

プミポン国王の趣味は幅広く、サックス奏者としてジャズ演奏会への参加や作曲を楽しまれたり、はたまた小型ヨットを自作されたり、アジア大会のセーリングレースに出場されて優勝されたこともあると聴きました。

 

 

 

上掲左写真は、僕が米国の仕事からタイの仕事に移動した1980年代頃、TV報道や新聞報道で毎日のようにお見掛けしたプミポン国王のイメージに近いような感じがします。

 

右写真は、長兄のラマ8世王の不幸な事故死によって、急遽チャクリ王朝のラマ9世として国王に即位された18歳以降の頃の肖像画でしょうか? 

 

プミポン国王が愛された雑種犬の愛称トーンデーン

 

タイ人女性から聴いた話ですが・・・プミポン国王は、長期入院中のスリラート病院の医師に対して、『愛犬のトーンデーンをこの場所に呼んで戴けないでしょうか』と王様らしからぬ丁寧語でお願いをされ、医師団が恐懼した事があったそうです。新聞報道で電動車椅子に乗られた国王を嬉しそうに伴走する愛犬トーンデーンの写真を拝見したことがありますが・・・あの写真がそうだったのでしょうか。

 

プミポン国王は、タイの通貨危機(1997年)前のバブル経済の反省を踏まえた経済指針として、タイ国の政治家、経済人、庶民に対して、『セタキットポーピーアン』を強く説かれました。その意味合いは、釈迦牟尼の説かれた『少欲知足』、つまり『足るを知る経済』の教えに倣ったお言葉だろうと思います。

 

聴衆の最前列に座ってプミポン国王の『少欲知足』の話を聴いていた当時の金権政治家タクシン首相夫妻のニヤニヤ顔をTVで視ながら、異国の首相とは言えども、何とも言い難い悲しくて不快な気持ちになったことを思い出してしまいました。

 

新聞によると、ワチラロンコン皇太子の希望は、一年後のプミポン国王の火葬後に国王戴冠式を行いたいとの事らしいのですが、現在の暫定軍事政権による暫定議会(11月29日)は、戴冠式は一年後としても、それ以前の国王就任を要請したようです。・・・・どうなるのでしょうか。

 

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2016年11月27日(日) 22時11分46秒

比島戦跡旅行記 バターン半島死の行進

テーマ:フィリッピン旅行

比島戦跡旅行をスタートした数日後から、ルソン島北部に迫った大型台風による風雨のために難儀していたのですが、南シナ海に抜けて熱帯低気圧になったとの情報を信じて、ルソン島パンパガ州クラーク経済特区に残っているという日本海軍第一航空艦隊長官(大西龍治郎司令官)統率下のマガラパット飛行場を尋ねることにしました。旧マガラパット飛行場は、日本海軍がゼロ戦による最初の特攻出撃を行った飛行場として知られています。

 

マガラパット飛行場の在処を知っているという運転手君(実は曖昧な知識だった)を雇ってマニラ市内のホテルを午前九時頃に出発したところ、北隣のケソン市に通じる道路は唖然とするほどの大渋滞!世界で最悪の道路渋滞と思っていたバンコクの数倍にも匹敵する交通麻痺地獄です。運転手君の強引な割り込み運転によって、どうにかこうにか渋滞を乗り切ってマニラ北北西のパンパガ州サンフェルナンドの外縁を走る幹線道路に入りました。

 

台風雨の降りそそぐサンフェルナンド外縁の幹線道路

 

やがて『サンフェルナンド』と記された道路標識や宣伝看板が次から次と車窓外に見え始めます。僕の記憶によると、サンフェルナンドは、『バターン死の行進』』(Batan Death March)で米比軍の俘虜が通過した町の一つの筈です。

 

パパンガ州サンフェルナンドの町

 

僕    『この辺りは“Batan Death March”のルートだと思うのですが?』

運転手 『そうですよ、出発点はバターン半島南端ですがね』

K氏   『そうと知れば、ぜひとも歩いてみたいな』

運転手 『米比軍が徒歩で行軍したのは、もう少し北の“カパス”だと思います』

僕    『それではカパスの辺りで車を停めて下さい。実際に歩いてみたいので』

 

運転手君曰く、米比軍が歩いた“カパス”は、旧マガラパット飛行場の在るパンパンガ州の北隣のTarlac州なので、旧マガラパット飛行場を観た後にした方が良いと言うので、素直に従うことにします。

 

旧マガラパット飛行場に到着するまでの間、持参したタブレットのWordにメモしていた“Batan Death March”を読み返しながら、米比軍の俘虜78,400人が炎天下を徒歩で行進したとされる経路を再整理してみました。

 

現地に出掛ける前に資料で得た知識はあまり身に付かないものですが、現地に到着して読み直すと、現実の位置関係や空気環境が作用するからでしょうか、頭の中が綺麗に整理整頓されるような気分になるから不思議です。これが旅の魅力かも知れません

 

死の行進“Batan Death March”と呼ばれる経路ポイント

 

マニラ西方のマニラ湾口に浮かぶコレヒドール島の北側に位置するNo.1のバターン半島南端のMarivelesが死の行進の出発点です。最終目的地は、No.5の北方約150km先のタルラック州オドンネル俘虜収容所です。No.2~No.4の経路については、後でもう少し具体的に触れることにします。

 

話を少し戻して、米比軍俘虜78,400人が、フィリピンのバターン半島とコレヒドール島の戦闘で日本軍の俘虜となるまでの経緯を、写真を挿みながら簡単に整理したいと思います。

 

その端緒は、1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃と同じ日に、台湾の日本軍第11航空艦隊(塚原二三四中将)がフィリピンの米軍基地のクラークとイバ飛行場を襲った空襲でした。数時間前に行われた真珠湾奇襲攻撃の事実を知ったマッカーサー大将の参謀長が“台湾の日本軍航空隊への緊急攻撃”を何度にも亘って具申したにも拘らず、何故かマッカーサー大将は躊躇して後手に回っています。 

 

結果として、米軍戦闘機のカーチスP40(108機)は、滑走路上で敢え無く壊滅されてしまい、僅か二日間の空襲で日本軍に制空権を奪われてしまいます。日本軍台湾航空隊のフィリピン攻撃を、真珠湾と同じように奇襲攻撃と決めつける米国人もいるようですが、実際には、マッカーサー大将の優柔不断によって被った喪失だろうと思います。

 

1941年12月8日:日本軍第11航空艦隊、比島米軍飛行場を襲撃、制空権を完全奪取。

1941年12月24日:マッカーサー軍、バターン半島とコレヒドール島に立て籠もり。
1942年1月2日:日本南方軍第14軍、無防備都市宣言下のマニラを無血占領。

1942年1月16日:日本軍と米比軍によるバターン半島の戦闘開始

1942年3月12日:マッカーサー大将と家族、コレヒドール島から豪州へ敵前逃亡。(下写真)

 

Lorcha Dock から豪州へ逃亡するマッカーサー大将の像

 

1942年4月9日:マッカーサー逃亡後、南方軍第14軍本間中将がバターン半島占領。(下写真)

 

占領したバターン半島を見回る第14軍本間中将

 

バターン半島で降伏した米比軍の俘虜数は、日本軍が予想した25,000人を大幅に上回る63,400人以上でした。

 

1942年5月6日:日本軍南方軍第14軍(司令官:本間中将)、コレヒドール島占領。(下写真)

 

コレヒドール島を占領して万歳を叫ぶ日本軍第14軍の兵士

 

1942年5月7日:米比軍のウエインライ中将、比国全土の米比軍に降伏命令を発令(下写真)

 

バターン半島で降伏交渉を行うウエインライ中将と本間中将

 

1942年5月 ウエインライ中将の命令に従って降伏するコレヒドール島の米比軍(下写真)

 

コレヒドール島で日本軍に降伏する約15,000人の米比軍兵士

 

バターン半島で死の徒歩行進をさせられた米比軍の俘虜78,400人とは、日本軍南方軍14軍(本間中将)に敗れたバターン半島の俘虜63,400人とコレヒドール島の俘虜15,000人の合計です。

 

五人前後の日本軍に連行される米比軍の俘虜軍団

 

米比軍俘虜を25,000人程度と予想していた日本軍は、78,400人に上る俘虜に慌てふためきます。米比軍俘虜を150km先のオドンネル俘虜収容所まで連行するために緊急召集した日本兵士は僅か300人程度。日本兵一人当たり261人もの俘虜を連行する有様となります。

 

バターン半島南端から150km先のタルラック州オドンネル俘虜収容所まで米比軍俘虜を搬送するトラックは、日本軍には一台もなく、破壊されずに残っていた米軍の約200台に頼るしかなかったようです。米軍にはまだ百台以上のトラックがあったようですが、日本軍に接収されるのを嫌った米軍が自軍の手で破壊して役に立ちません。

 

バターン半島南端からオドンネル俘虜収容所までの経路

 

それでは、冒頭で触れたバターン半島南端のマリベレス(No.1)から、約150km先のオドンネル俘虜収容所(No.5)に至るまでの搬送経路をもう少し具体的に見てみましょう。

 

①マリベレス     ⇒ ②バランカ              30.4km  徒歩

②バランカ        ⇒ ③サンフェルナンド         57.6km  トラック200台で輸送

③サンフェルナンド   ⇒ ④カパス                48.0km    鉄道輸送

④カパス           ⇒  ④オドンネル俘虜収容所     12.8km   徒歩

 

炎天下を徒歩で連行される米比軍の俘虜

 

全長 約150kmの内、約107kmをトラックと鉄道で輸送。残り約43kmを3日間掛けて徒歩行進したことになっているようです。単純計算をすると、一日当たり約14kmを徒歩で行進したことになります。当時の日本軍の一日当たりの行進距離は、フル武装をして15km~20kmは日常茶飯事だったこともあって、行進途中に簡単に倒れる米比軍を見て、日本兵は驚きつつも呆れたようです。

 

米比軍側は、悪性マラリアやデング熱の重症患者の多かった俘虜に、炎天下を約100㎞も行進させたことが死の行進の要因になったと主張しています。米軍の主張する100㎞の行進距離と、日本軍の主張する約43kmの行進距離との違いは、バランカからサンフェルナンドに向かう57.6km の区間で、トラック移動をした部隊と徒歩で行進した部隊の差にあると思われます。

 

つまり、トラックを破壊しなかった米軍部隊の俘虜は、トラックの荷台に乗ってサンフェルナンドに向かい、トラックを破壊してしまった部隊の俘虜は、サンフェルナンドまでの57㎞を徒歩で進むしかなかった・・・・と僕は想像しているのですが・・・・

 

バターン死の行進中に米比軍俘虜を虐待する日本軍を『殺人鬼』の如く訴求するプロパガンダの新聞記事や報道写真が多く残っています。先ずは、米国民を激怒させたと伝わる当時のアメリカ側のポスターを見てみましょう。

 

殺人者ジャプを殲滅しろの見出しが踊るポスター

 

ポスターに刷り込まれた新聞記事には、冷酷非情な日本兵がアメリカ兵の俘虜 5,200人を殺害した等と書かれています。(死亡者数は様々の記録があって判然としません)

 

後手に縛られ、顔面を殴打されて血みどろの米軍兵士

 

当時の日本軍には、戒めの教育と称して、上官が部下を拳骨で殴りつける事を当たり前とした風習があったようです。日本軍隊を扱った日本映画でも、そのようなシーンが頻繁に描かれているのを何度も観たことがあります。日本兵に向かって権利を主張して服従しない米兵俘虜に対して、日本兵が怒りの鉄拳制裁を振るったであろうことは容易に想像出来ます。

 

炎天下の徒歩行進で死亡した米比軍俘虜の一部

 

米比軍俘虜78,400名の内、バターン死の行進の最中の死没者を10,000人以上(米軍兵2,300人、比軍兵士7,700)、行進の途中に村人に紛れて脱走したフィリピン兵士を約12,000人とする記事を見たことがあります。真実の程はよく分かりません。

 

一方、『世界戦争犯罪辞典』から抜書きされた資料を見ると、バターン死の行進の最中に死没した米軍俘虜は約600人であり、残りの米軍死者約1,700人は、過酷な生活環境のオドンネル俘虜収容所に到着した後の数字である・・・・と記す資料もありました。

 

米比軍俘虜が搬送されたオドンネル俘虜収容所跡地

 

オドンネル俘虜収容所は、水不足に加えて、食料は米と塩しかないために、栄養失調による死亡者が絶えなかったようです。俘虜を収容する建物も足らず、定員48人の大部屋に192人が詰め込まれ、多くの俘虜は敷地内の地面上で寝るという劣悪な環境を強いられたようです。

 

収容所内で死没した俘虜を埋葬場所に運ぶ俘虜の列

 

火野葦平氏(作家)は、オドンネル俘虜収容所について、『臭気のある収容所だったが、それは屍臭であった』と書き残しておられます。オドンネル俘虜収容所内では、行進を生き長らえて到着した俘虜が次々と死亡し、亡骸を担いで埋葬場所に運ぶ俘虜の行列が毎日のように続いたそうです。(上写真)

 

タルラック州に建つ O’donnell Shrine

 

現在のフィリピンでは、米比軍がバターン半島で降伏した4月9日(注)は、『勇者の日』として国民の休日になっています。そして、日本軍と米比軍が戦ったバターン半島のサマット山と俘虜収容所のあったタルラック州オドンネルには、米比軍と日本軍すべての兵士の英雄的行為を称える慰霊塔が建てられています。   (注)日本の記録:バターン半島降伏日は4月11日

 

バターン半島のサマート山に建つ祈念塔

 

実は、旅の相棒のK氏の発案で、カパス ⇒ オドンネル俘虜収容所の道程の一部を、自分達の足で歩くつもりだったのですが、その前に訪れた零戦特攻が初めて出撃したマガラパット飛行場で時間を使い過ぎた上に、27号台風の影響による雨が強くなって実行できませんでした。返すがえすも残念でした。

 

今回のバターン半島死の行進経路のサンフェルナンドを通り過ぎる旅を通じて、マッカーサー大将が愛した彼の歴代の専用飛行機の愛称である『バターン号』を思い出しました。マッカーサーは、自分の専用飛行機となった三機の全てに『バターン号』の愛称を用いています。

 

『バターン1号機』: B-17改装のフライングオートレス

『バターン2号機』: C-54B輸送機・・・・厚木に到着した時の機体

『バターン3号機』:Vc121A ロッキードコンステレーション・・・・解雇により離日した時の機体

 

日本軍がポツダム宣言の受諾を宣した後に、マッカーサー大将が厚木基地に安全に乗り込むための事前整合のために、日本軍の予備使節団が沖縄のマッカーサー軍本部に呼び出されています。その折に日本軍使節団が使用した二機の一式陸攻機に対して、マッカーサー大将が指示したコールサインも、『バターン1』と『バターン2』でした。

 

マッカーサー大将にとってのバターン半島の戦闘は、彼の華々しい軍歴の中で最初の汚点となった退却の地であり、更に、バターン半島から逃げ出した先のコレヒドール島からも敵前逃亡せざるをえなくなるという堪え難い二重の屈辱を被ることになった忌まわしい地名です。

 

『バターン』の名前なんて、普通に考えれば二度と思い出したくもない不快な記憶だろうと思うのですが・・・・マッカーサー大将は、如何なる心持ちで『バターン』の名前に拘ったのでしょうか。

 

あのような屈辱を二度と繰り返さないという心構えの表われなのか、それとも、名誉ある勝利を得た太平洋戦争の全ての原点は『バターンにあり』だったのでしょうか。

 

これにて、バターン半島死の行進を完結します。 次回は、息抜きの記事を挟んだ後に、今回のサンフェルナンドの旅では割愛した『零戦特攻が初めて出撃した旧マガラパット飛行場』を尋ねた時のことを書こうと思っています。

 

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2016年11月23日(水) 04時36分17秒

比島戦跡旅行記 コレヒドール島(特攻震洋)-5

テーマ:フィリッピン旅行

11月19日付けの「比島戦跡旅行記 コレヒドール島(特攻震洋)-4」の続きです。

 

僕が体当たり特攻の『震洋艇』(米軍呼称:Japanese Suicide Boat)の存在を知ったのは、大学時代に知り合った作家志望の先輩から読むように推奨された島尾敏雄氏の私小説『出発は遂に訪れず』でした。

 

九州帝国大学の東洋史科を半年繰り上げ卒業した島尾敏雄氏は、海軍予備学生を経て奄美群島加計呂麻島の第18震洋特攻隊(180名)の部隊長(中尉)として赴任。終戦直前の1945年8月13日夕方に特攻出撃命令を受けて発進待機中にポツダム宣言受諾となって命拾いされた方でした。 震洋隊員からの生還者としては、社民党代議士だった田英夫氏(八丈島の震洋隊)、マヒナスターズのボーカルだった三島敏夫氏などがいらっしゃいます。

 

バンコクの「近現代史を識る会」で「比島戦跡旅行記」の講話をした折に、震洋隊の部隊長の出身学校は、一般大学(予備学生)65%、海軍兵学校35%。搭乗員は、予科練で飛行機乗りを目指していた甲種飛行予科と乙種飛行予科を卒えた若者だったことを説明すると、震洋隊員だった御高齢者の方から「部隊長の多くは海軍兵学校の卒業生だった筈」との御指摘を受けました。ご自分が所属されていた内地の震洋隊で御覧になった実経験からのご意見だろうと思います。

 

僕の手元データーでは、震洋1型の部隊長は海兵卒=33名、予備学生=40名、震洋2型の部隊長は海兵卒=10名、予備学生=38名。全体では海兵卒43名、予備学生38名となっているのですが・・・・震洋1型が配備された地域によっては、海兵卒の部隊長が多かったのかもしれませんね。

 

  

震洋隊指揮官としての経験を著した島尾敏雄氏(予備学徒出身)の著作

 

話を島尾敏雄氏に戻しましょう。 

私小説作家の島尾敏雄氏を御存知でない方でも、僕と同世代の映画好きの方ならば、1990年に松坂慶子さんと岸部一徳さん主演で映画化された『死の棘』(小栗康平監督)の原作者と言えば、思い出される方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

映画『死の棘』は、第八回カンヌ映画祭で最高賞に次ぐ審査員グランプリ賞を受賞しています。日本アカデミー賞でも男優主演賞と女優主演賞を獲得。原作の『死の棘』も日本文学大賞、読売文学賞、芸術選奨を受賞した当時の話題作でした。

 

 

松坂慶子&岸部一徳主演で1990年に映画化された『死の棘』(小栗康平監督)

 

『震洋』の話に戻りましょう。

島尾敏雄氏の私小説『出発は遂に訪れず』を読んで特攻自殺ボート『震洋』のことを初めて知った訳ですが・・・・あまりにも若かった僕は、風雲急を告げる戦時下にあって、特攻で死ぬことを求められた指揮官(作者)の心理的葛藤に囚われ過ぎて、特攻艇の震洋に対する印象は薄かったような気がします。

 

マニラ湾を見晴るかす場所に建つ日本軍兵士の慰霊碑

 

バンコクに住む友人のK氏と共に、フィリピン戦跡地旅行をした時に訪れたコレヒドール島は、日本軍に追われたマッカーサー大将が敵前逃亡して豪州に退却した島という認識はあったものの、まさか『震洋』の特攻陣地が六ヶ所もあり、尚且つ震洋艇としての最初の特攻出撃を命じられた場所であったこと、更には、その震洋隊が敵艦艇を撃沈するという唯一の戦果をあげたという事実・・・を何も知らなかったのです。

 

コレヒドール島の震洋隊の犠牲者数を示す説明板


女性ガイドの語る震洋艇(Japanese Suicide Boat)の話に、白人観光客は、眉根に皺を寄せて嫌悪感の混じった驚きを示したものの、それ以上の興味を示すこともなく、トイレ休憩を優先して散開します。 話し相手を失った女性ガイドは、日本人の僕達二人を捉えて喋り始めるのですが・・・・気がつけば、友人K氏もトイレに行ったのか姿を消してしまいました。

 

・・・To defend Manila entrance at Corregidor island against Americans・・・・上図の点を指差しながら・・・・It was only solely by Matsue Force to achieve brilliant war results. Matsue Force fallen soldiers 131・・・・Philippine Shinyo-tai fallen soldiers were 1,144 out of 1,700. Total Shinyo-tai forces fallen soldiers were 2,557. So Philippine Shinyo-tai had 45% died of total overall Shinyou-tai.

 

彼女曰く、比島の震洋隊員1,700人の67%に当たる1,144人が戦死。それは、本州、九州、奄美、沖縄の、中国沿岸に展開していた震洋隊の戦死者2,557人の45%に相当する・・・云々。概ねそのような説明だったように思います。

 

  

海軍兵学校当時の松枝義久生徒(前列右端)        クロズアップ

 

彼女が語る Matsue Force とは、上掲の英語説明板も誤って記入されていましたが、第12震洋隊の部隊長・松枝義久中尉 (享年24歳)の事にほかなりません。(上掲写真)

 

海軍の横須賀水雷学校

 

松枝隊185名(搭乗員50名、基地員100名、整備員35名)は、横須賀水雷学校で猛訓練を受けた後に、1944年10月16日、徴用貨物船の神福丸(2800噸)で田浦港を出港。おそらく、東松1号乙船団の輸送船として台湾経由マニラを目指したと思われます。

 

松枝隊の15名の生命を奪ったグラマン艦載機(F6F6-3)

 

九州沖-済州島沖-台湾-バシー海峡での敵潜水艦の猛爆は何とか凌いだものの、マニラ港岸壁到着目前に襲来したグラマン艦載機の猛爆撃によって神福丸の船橋が吹き飛ぶほどの被害を受け、松枝震洋隊は15名の戦死者を出してしまいます。生還者の後日談によると、一緒に出港した輸送船の中で、マニラに無事到着出来たのは神福丸一隻だけだったそうです。 

 

コレヒドール島の岩壁に残る震洋艇の格納壕跡

 

マニラ岸壁で小艇に積荷を載せ替えて、どうにかこうにかコレヒドール島に到着。部隊全員で震洋艇の格納壕造りに全力で取り掛かるも、米軍爆撃機のB-24とB-25がコレヒドール島の道路や施設を粉砕し、将校を含む日本軍兵士約200名が犠牲となります。居住場所を失った日本陸軍と海軍、そして軍属の約4,000名は、島内中央の桜隧道(米軍呼称:マリンタトンネル)に立て篭もります。

 

コレヒドール島を猛爆した米軍爆撃機のB-25

 

米軍の爆撃によって何もかも失った日本軍の最後の頼みの綱は、特攻・震洋艇260艇を有する5個隊の929人だけとなります。 1945年2月15日の午前、第12震洋隊(松枝隊)に対して、『スービック湾オロンガポの米国艦隊を撃滅すべし』との出撃準備命令が出ます。

 

第12震洋隊の特攻目的地・ス-ビック湾オロンガポの米軍基地

 

特攻する搭乗員は、艇首に250kg爆弾を搭載、艇中央部に13mm弾の機銃、船尾に12cmのロサ弾をセット、食料3日分を搭載して準備完了。白装束の搭乗服を身に纏い、拳銃一丁、手榴弾3個、弾薬40発、日本刀一振りを背中に仕込み、鉢巻の日の丸を締めながら、『俺らの戦果を山の上から見とれよ』と見送りの仲間に語り掛けます。

 

夜陰に紛れて走行する特攻・震洋艇

 

1945年2月15日の21時、トヨタ特Kc型ガソリンエンジンを始動した松枝義久隊長に統率された36隻・36人の震洋艇は、仲間の基地要員と整備要員138人に見送られ、夜陰に紛れてスピック湾内オロンガポのアメリカ海軍基地に向けて出撃して行きます。

 

マニラ湾口に浮かぶコレヒドール島

 

『俺らの戦果を山の上から見とれよ』の搭乗員の言葉を胸に、松枝隊の138人はコレヒドール島最頂部(海抜121m)に駆け登り、北北西方向のスービック湾オロンガポ基地の暗闇に神経を集中します。

 

コレヒドール島最頂部に建つスペイン燈台(復元)

 

待つこと久し数時間、暗闇の彼方のスービック湾に、鼓膜をつんざくような『ダダーン』の爆発音が響き、暗闇の空高くに紅蓮の炎が燃え上がります。 更に『ダダーン』、『ダダーン』の爆発音が続いて起こり、高く舞い上がった火炎が夜空を焦がします。それを見た松枝隊の138人は、『ヤッタ!』、『凄いぞ!』と互いに肩を抱き合い、泣き叫びながら万歳を唱えたと言います。

 

しかし、その爆発の瞬間に搭乗員の尊い命が砕け散ったことを思えば、あまりに哀れで心が張り裂ける思いがします。 松枝隊36隻に乗り込んだ36人は、二度と仲間の前に帰って来ることはありませんでした。松枝義久隊長の遺詠が大東亜戦争殉難遺詠集に残っています。

 

『楽しみは 彼方の空の紅(くれない)を ただひとすじに 思い込むとき』 松枝義久 享年24歳

 

松枝隊が撃沈した3隻の上陸支援艇(LSSL)

全長48m、幅7m、250排水噸、乗組員70名

 

米国公刊の『モリソン戦史』(モリソン少将著)によると、松枝中尉の震洋隊がスービック湾オロンガポ基地で撃沈したのは、戦車揚陸艦(LST)を護衛していた3隻の上陸支援艇(Landing Support Ship,Large)であったと記録されています。オロンガポ基地の米軍艦艇は、震洋艇の体当たり特攻を封じるために、艦艇の周囲に防材をつないで流していたとありますので、松枝隊が敵艦に体当りするには大変な困難が伴ったと思われます。

 

戦後勃発した朝鮮動乱の影響を受けて、日本の海上自衛隊が発足した折に、一隻の艦艇も持たない海上自衛隊に、アメリカ海軍が最初の艦艇として貸与したのが、なんと、松枝中尉の震洋隊が比島のスービック湾で撃沈した上陸支援艇と同型の Landing Suport Ship,Large でした。8基の主機を二軸に纏めて推進する旧式の艦艇だったそうです。

 

話を戻しましょう。沖縄の豊廣稔大尉の第22震洋隊の基地要員だった方の手記によると、日本国内と海外に展開した震洋隊113個隊の中で、本格的に米軍と戦闘を交えたのは、コレヒドール島の松枝義久中尉の第12震洋隊と沖縄の豊廣稔大尉の第22震洋隊だけだったとあります。

 

定員1名の震洋艇に、三人が乗艇してテストラン

 

豊廣稔大尉の第22震洋隊の話によると、震洋艇が不足して特攻する機会を失った血気盛んな搭乗員は、1名定員の艇に2名乗り込んで出撃することもあったようですが、敵艦を撃沈する戦果をあげるまでには至らず・・・・・結果として、米軍艦艇を撃沈する戦果をあげたのは、コレヒドール島の松枝義久中尉の第12震洋隊だけだった・・・・と語られています。

 

Lorcha Dock  MacArthur's Departure Point for Australia

 

マッカーサー大将が豪州に敵前逃亡した桟橋の映る上掲写真の右端の海岸線に残る岩穴を、松枝震洋隊の格納壕だと言う人がいました。未確認のままバンコクに戻って来たのがとても残念です。

 

マニラ湾を見晴るかす場所に建つ日本兵戦没者の慰霊碑

 

今一度、震洋隊の損害状況を整理してみましょう。コレヒドール島の英語掲示板のデーターと若干異なりますが、此処では、震洋隊の生還者が纏められた数値を使用しています。何れにしても、比島のコレヒドール島に派遣された震洋隊の戦死率の高さが目立ちます。

 

●震洋艇 総生産隻数 =6,197隻 (比島へ配備された震洋艇数:405隻)

●震洋隊113個隊の兵数≒5,000人、 戦死者=2,557人、 戦死率≒51%

●比島派遣の震洋隊員  =1,490人、 戦死者=1,045人、 戦死率=70%

●震洋隊の戦果=米軍上陸支援艇3隻のみ。

(注):震洋隊113個隊=本州、九州、奄美、沖縄、中国、比島

 

11月19日付けの「比島戦跡旅行記 コレヒドール島(特攻震洋)の記事でも書きましたが、体当たり特攻艇『震洋』の開発提案は、海軍軍令部二部長の黒島亀人少将が1944年4月4日に作成した『作戦上急速実現を要望する兵力』(特攻兵器)に端を発しています。 

 

それを受けて、“太平撼とさせる特攻艇”という意味を込めて『震洋』と命名したのは、特攻部長の大森少将でした。軍令部第一部長の中沢佑氏、部員の源田実氏も特攻隊戦略を担った軍人ですが・・・・此の四人の方は、戦後も余生を長らえて畳の上で往生されています。

 

      

      黒島亀人少将        大森仙太郎少将        中澤佑中将               源田実大佐

 

比島の現場の責任者として、軍令部の命令を受けて零戦特攻を指揮した大西瀧治郎中将(第一航空隊司令官)は、零戦特攻の全責任を背負って、介錯を受けることなく自力で切腹を遂げています。頬被りを決め込んだ軍令部トップとの意識の落差に愕然とせざるを得ません。現場に責任を追わせて逃げ切る組織トップの能面を垣間見る思いがします。

 

海軍反省会400時間の証言の中にあった鳥巣健之助元大佐の反省が心に留まりました。

鳥巣氏は、黒島亀人少将の『作戦上急速実現を要望する兵力』(特攻兵器)によって出来た試作艇を不採用にして、黒島亀人少将から『この國賊めが!』と怒鳴られた軍人です。

 

鳥巣健之助氏(元大佐)の言葉

「確かに特攻に準じた若者達の行為は如何なる賛美も惜しむものではない。だからと言って、特攻作戦を賛美することはできない。そこには深刻な反省と懺悔がなければならない」
 

兵士の生身の身体を兵器に代える過酷な作戦となった最初の零戦特攻、そして震洋による最初の特攻も、此処フィリッピンから出撃していました。

 

本日をもって、コレヒドール島の特攻震洋艇の話を終わります。お読み頂き有り難うございました。 次回の比島戦跡旅行記は、「バターン半島死の行進」を予定しています。

 

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2016年11月19日(土) 21時33分21秒

比島戦跡旅行記 コレヒドール島の戦い(特攻震洋)-4

テーマ:フィリッピン旅行

事前案内では、『バターン半島死の行進』を投稿予定としていましたが、コレヒドール島で壊滅した『水上特攻艇・震洋』について、迂闊にも書き漏らしていることに気付きました。申し訳ありませんが、『バターン半島死の行進』は、震洋艇を終えた後のテーマとさせて戴きますので御了承下さい。

 

『特攻機・零戦』の話は、殆どの方が御存知だろうと思うのですが、『特攻艇・震洋』(秘匿名称:マルヨン金物)となると、御存知で無い方もいらしゃるのではないでょうか。

 

『震洋とは何か?』を簡単に表せば、全長5.1mのベニヤ板のモーターボートの船首部に250kg爆弾を装着して敵艦に体当たりする自殺兵器です。 海軍の帳簿管理上は、震洋艇は艦艇ではなく、兵器扱いとなっていたようです。 当時の『震洋』の詳細が分かる外観写真は殆ど残されていないのですが、米軍に捕獲された『震洋』の俯瞰写真によって、その概要を識ることが出来ます。(下掲写真)

 

『震洋』  秘匿名称『マルヨン金物』(○の中に四)の外観写真

 

体当たり特攻艇『震洋』の発案は、山本五十六連合艦隊司令長官のお気に入り参謀を務めた後に軍令部二部長になった黒島亀人少将の作成した『作戦上急速実現を要望する兵力』(1944年4月4日作成)に端を発しているようです。

 

フィリピンのレイテ沖海戦で零戦による最初の特攻が実施された1944年10月下旬より遡ること5ヶ月前の5月に艇体開発が開始され、なんと翌月の6月25日には量産開始となって瞬く間に6,197隻が生産されています。 そして、同年の11月6日には、フィリピン戦線に配備された震洋艇 310隻に対して、“艇首内部に 250kg 爆弾を装着して敵艦に体当たり特攻する許可”が発令されています。

 

 

ベニヤ板特攻艇・震洋の一般配置図  

全長5.1m、定員1名、速度42km、トヨタトラックEng.67hp、機銃1基、ロケットランチャ2基

 

艇体の開発開始から僅か半年で体当り特攻の第一線に投入され、その間に約5,000人の基地要員と搭乗員訓練も行っているのですから、拙速を通り越したお座成りの手際の良さと言うか、はたまた、その程度の兵器だったと評価されていたのか・・・何れにしても、日本軍の考える人命の軽さに唖然とせざるを得ません。

 

テスト走行中の震洋1型  船尾にロケットランチャーを装備

 

『震洋』と命名したのは、“太平撼とさせる特攻艇なり”と標榜した海軍特攻部長の大森少将のようですが、米軍側の記録には、“Japanese Suicide Boat”(日本の自殺ボート)と呆れ甚しの感を込めた俗称で冷たく記されていました。

 

コレヒドール島内の簡易観光バスの女性ガイド

 

女性観光ガイドが、白人観光客を盛り立てようとして、『日本軍の“Shinyou”を知っていますか?』と繰り返し訊いても些か反応が鈍かったのですが、“Japanese Suicide Boat”と一言付け加えただけで、殆どの白人観光客が眉根に大袈裟な皺を作って頷き合います。

 

コレヒドール島北側に残る震洋艇の格納壕

 

女性観光ガイドの説明によると、日本軍の震洋隊は、岩場が多くて砂州の少ないコレヒドール島の北側(バターン半島に面する海岸線)の洞窟を震洋艇の格納壕としていたが、岩場の少ない南側の砂州にも震洋隊陣地を設けていたようです。

 

バンコクに戻ってコレヒドール島に派遣された震洋隊の記録を調べてみると・・・・

コレヒドール島へ送られた震洋隊は全部で8隊の1,490名でした。しかし、その内の3隊(561名)を乗せた輸送船は、フィリピンへの航海中に敵潜水艦に沈められ、震洋艇150隻は海の藻屑と消え、兵士561名の内300名(53%)は水漬く屍となっていました。

 

 

コレヒドール島の震洋隊の配置図(隊員929名・震洋艇310隻)

  第7震洋184名、第9震洋184名、第10震洋187名、第11震隊186名、第12震洋188名

    ●特攻・回転の基地  震洋隊の兵舎

 

生還した搭乗員の話を youtube で視聴すると、岩場の少ない南側の砂州上に震洋艇を置いていた第7震洋隊(184人・55隻)は、敵潜水艦(?)の機銃攻撃によって250kgの爆装が誘発して大爆発を起こし、全艇体55隻は木っ端微塵となって吹き飛び、全隊員184人の内97名が肉片となって爆死したと追憶されていました。(記録上は109人戦死となっています)

 

コレヒドール島北側に残る震洋艇の格納壕

 

島内専用観光バスが出発して最初に停車した場所は、米軍が Middle-Side-Barracks と呼んでいた兵舎の廃墟でした(下掲写真)。 第二次バターン戦闘に勝利してコレヒドール島を占拠した日本軍は、米軍が浅野セメントを使用して建設した兵舎を、『震洋隊』の兵舎として転用していたようです。日本軍の最前線の貧相な木造兵舎と比較すると、随分と豪華な兵舎だったのではないでしょうか?

 

米軍が統治していた時代の Middle-Side-Barracks 

(日本軍が島を占領した時は、震洋隊の兵舎として活用)

 

島内観光バスがトイレ休憩で停車した時、観光ガイドの女性が僕を古ぼけた写真額の前に半ば強引に誘います。その集合写真は、震洋隊の兵士を撮影した集合写真(下掲写真)でした。

 

コレヒドール島の休憩所にあった震洋隊員の集合写真

 

彼女 『震洋隊員は、胴体にも沢山のダイナマイトを巻きつけていたのよ』

僕   『これはダイナマイトではなくて、救命胴衣の浮力体ですよ』

彼女 『いいえ、細長い棒状の物は、ダイナマイトなのです』

僕   『昔の救命胴衣の浮力体は、このような形をしていたのです』

 

救命胴衣を纏った震洋隊員の写真


僕の見解に納得しない彼女は、震洋隊員のアップ写真(上掲写真)の前に僕を連れて行き、僕を何とかして説得しようと試みます。

 

彼女 『此れを見たら、ダイナマイトであることが一目瞭然ですね』

僕   『此れは間違いなく昔スタイルの救命胴衣ですよ』

彼女 『そうとは思えないわ・・・・』

 

彼女は頑なること限りなしです。彼女の頑迷さから想像すると、震洋隊員に限らず、当時の日本兵が俘虜になった時のために携帯していた自殺用手榴弾の話と混同して、救命胴衣の棒状の膨らみをダイナマイトと勘違いしているのかも知れませんね。

 

もっとも、俘虜になることを恥じて自爆して命を断つという日本的発想は、外国人から見ればとても信じ難いことだろうと思います。戦中生まれの僕ですが、当時の日本軍の兵士の人命に対する価値観を思うと、日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識と言われても・・・仕方ないような気もします。

 

次回の投稿記事は、コレヒドール島から敵艦船に向けて出撃した震洋艇の予定です。

その次の投稿記事は、バターン死の行進を予定しています。

 

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2016年11月15日(火) 04時11分14秒

タイ国王の喪に服して1ヶ月経過

テーマ:未整理

タイ国王のプミポン国王が先月の13日に亡くなられてから一ヶ月が経過しました。暫定軍事政権は、公務員に対して1年間の服喪、一般国民に対しては1ヶ月程度の喪に服して欲しい願いを表していました。

 

POST紙

 

プミポン国王を心から敬愛するタイの一般国民は、暫定軍事政府の要請が出るよりも早く、自発的に黒衣を纏って悲しみに耽っていたように思います。

 

POST紙

 

プミポン国王の御遺体が入院されていたシリラート病院から王宮に向かわれる河川超えの道路沿いには、涙に咽ぶ数万人の一般人が黒衣に身を包んでお見送りに押し寄せていました。

 

POST紙

 

王宮前広場では、タイの子供も諳んじている『国王讃歌』を数万人の人々が大合唱し、夜になると、それぞれが蝋燭に火を灯してプミポン国王を忍びます。

 

『国王讃歌』

心も頭も陛下に捧げます 陛下の威徳、慈愛はあまねくとこしえに 

生きとし生けるは陛下のおかげ ご自愛はますます深く 

恵みをもたらす 陛下の望みはすべて かなえられましょう 

すべて陛下のおんために捧げます♪

 

POST紙

 

バンコク隣県のナコンパトムの仏塔前の広場にも地元の人々が参集、国王を偲んで『国王讃歌』を高らかに合唱します。

 

大学構内の追悼式  POST紙

 

タイの大学構内でも、男女の職員や学生が参集してプミポン国王を偲んで涙にくれました。大学の制服の白ブラウスや白シャツを纏った学生の左肩には、黒いリボンがピン留めされています。

 

某ショッピングモール  POST紙

 

ショッピングモールの従業員も、プミポン国王の肖像写真を両手で掲げて追悼の意を示しています。此処では割愛しますが、病院、小学校、中高学校、兵士、警察官などあらゆる職種の人々が昼夜を通して哀悼の意を表していました。

 

タイ上座部仏教寺院   POST紙

 

タイの上座部仏教の寺院でも追悼のマントラを唱えていました。タイ国民の90%以上は上座部仏教の経験な信者です。タイ男性の殆どは、一生に一度は出家して僧侶になる習慣がありますが、プミポン国王も王位に即位された後に出家され、バンコクの寺院で修業されました。

 

POST紙

 

アジア像も、お亡くなりになったプミポン国王を偲んで、王宮前でひれ伏しています。

 

POST紙

 

ニューヨークの国連本会場でも追悼式が行われました。安倍首相も駐日タイ大使館に出向いて追悼されたようですね。

 

ガルーダーに乗って天国へと旅立たれる国王  Nation紙

 

いつもは厳しい風刺漫画を掲載する新聞のNationですが、此の日はガルーダーの背中に乗って天国に向かわれるプミポン国王を涙でお見送りをする庶民の絵柄でした。

 

御座船に乗って天の川を辿られる国王   Nation紙

 

同じくNation紙に掲載された絵柄です。御座船に移乗されたプミポン国王が天の川を伝って天国に向かわれるところでしょうか。

 

Nation紙

 

Nation紙の第三弾目の絵柄は、幼児の祈りに送られて天国に向かうプミポン国王です。この絵柄は、その昔に行幸されたプミポン国王の足元に駆け寄って合掌した幼児と国王の有名な写真をイメージして描かれたのだろうと思います。僕の好きな絵柄の一つです。

 

POST紙

 

バンコクに向かう幹線道路の傍らに、在りし日のプミポン国王の年度毎のお写真が66枚並んで掲示されていました。何故に66枚なのか・・・聞き忘れてしまいました。

 

黒リボンを付けたタイの国土

 

知人のタイ人曰く、一ヶ月の服喪期間が明けた一般国民は、通常の服装でもOKなのだそうですが、まだ暫くは、自分の意思で黒衣スタイルを続ける人が殆どだろうと言います。

 

薄手の黒衣のシャツを三枚しか持たない僕は、此の一ヶ月間、こまめに洗濯をしながらやりくりしたのですが・・・・明日からは、週の半分は通常のシャツに自作の黒リボンをピン留めして着用し、残りの週半分は半袖の黒シャツで対応するつもりでいます。

 

一ヶ月間喪に服した日本人の僕達を、知人のタイ人はとても喜んでくれました。更に、今から先も黒リボンを右肩に付けるつもりだと言うと、僕達の肩を抱いて喜びを示しながら、どうして日本人の振る舞いは、中国人や韓国人と差があるのだろうと訊ねます。それは『差』ではなくて、『違い』でしょうと応えると、『違い』とは何ですかと質問が続きます。

 

文化人類学(?)を勉強した事のない僕には、此の質問はかなり難しい問題ですが・・・タイには王室、日本には皇室が存在します。現在の中国と韓国には、為政者としての元首は存在しても、タイと日本のように象徴としての国王や天皇を敬う文化はありません。

これは『差』ではなく、文化と制度の『違い』だろうと、僕は思うのですがね・・・

 

すると知人のタイ人曰く、タイ、中国、韓国、日本は、歴史的に仏教文化の流れを経験した国々なので、精神には潜在的共通性があると思っていたのですが・・・・そうとも言えないようですね。 

 

どのような文化の違いがあろうとも、僕達は異国のタイに住まわせて戴いている外国人なのだから、少なくともタイの文化や風習を尊重するのが人間としての礼儀だろうと、僕は思いますが・・・

 

次回は、フィリピン旅行記の続きとなるバターン半島死の行進の話を綴りたいと思います。

 

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2016年11月12日(土) 10時37分49秒

比島戦跡旅行記 コレヒドール島の戦い-3

テーマ:フィリッピン旅行

11月8日付けの 『比島戦跡旅行記 コレヒドール島-2』 の続きです。

 

1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃から数時間後、台湾駐留の日本航空隊がフィリピン・ルソン島の米軍飛行場二箇所に対して、零式戦闘機と陸上攻撃で空襲を敢行して米軍保有戦闘機の殆どを破壊、足掛け2日でフィリピンの制空権を手中にしています。間髪を容れず、ルソン島に上陸した日本南方軍第14軍(本間陸軍中将)は首都マニラに向かって進軍するも、米軍極東軍南西総司令官のマッカーサ大将は、マニラの無防備都市を宣言した後に、西方160kmのバターン半島南端に近い山岳部に退避して籠城作戦に入ります。

 

コレヒドール島上空を飛ぶ日本軍の97式爆撃機(米軍呼称:Sally) 

 

1942年1月16日から日本軍とマッカーサー軍の間で行われたバターン半島の第一次陸上攻防戦は、150,000人の兵力を投じた連合軍が日本軍第14軍(7,500人)を圧倒し、日本側は戦死傷率93%(戦死2,955人)の甚大な損害を被って総退却を強いられます。

 

しかし、仕切り直しの第二次攻防戦では、台湾駐留の日本軍航空隊と中国大陸の歩兵と砲兵の支援を受けた日本軍第14軍が起死回生の大反撃をしてマッカーサー軍を追い詰めます。

 

逃げ場を失った極東軍南西総司令官のマッカーサー大将は、バターン半島の戦いを部下の Edward Postell KingJr.,少将に任せ、バターン半島沖合6kmに浮かぶ大砲57門と兵士15,000人が守るコレヒドールへ逃げ込んで籠城します。

 

コレヒドールから見た現在のバターン半島

 

日本軍第14軍は、バターン半島の南端に100門の砲台を設置し、沖合6kmに浮かぶコレヒドール島の米軍施設に向けて、13日間で6万発もの砲弾を雨霰と打ち込みます。観光ガイドの説明によると、コレヒドールの緑木は全て焼失し、攻撃によって崩壊した軍事施設が遠くからでも見えるほどの凄まじい砲撃だっようです。

 

バターン半島の沖合6kmに浮かぶコレヒドール島

(1942年当時)

 

マッカーサー大将がコレヒドール島からオーストラリアへ敵前逃亡したのは、バターン半島の連合軍が日本軍に降伏する以前の1942年3月11日未明でした。しかし、マッカーサーの逃亡を知る由もない日本軍は、それ以降も砲撃を執拗に続けてコレヒドール島の米軍施設の殆どを破壊してしまいます。

 

世界最長の兵舎・Mile Long Barracの残骸

 

コレヒドール島内には、現在も多くの負の遺産が観光施設として保存されていて、日野トラックのアンダーフレームを活用した簡易観光バスで観て廻ることが出来ます。その極一部を御紹介しましょう。

 

 

将校用の映画館 兼 劇場の残骸

 

当時のコレヒドール島内には、米兵15,000人、比軍兵5,000人程

 

度が駐屯してようです。要塞化された島ですが、兵士の憩いのた

 

めの映画館、ナイクラブ、遊技場、そしてゴルフ場っも整っていたそ

 

うです。

 

 

観光の安全性を考慮して改修された保存遺跡が多いのですが、そ

 

れほど手が加えられずに破壊当時の様子が偲ばれる残骸も散見

 

されます。

 

 

 

 

観光ガイドの説明によりますと、コレヒドール島のコンクリート製の

 

米軍施設は、“品質の優れた日本のアサノ・セメント”のコンクリート

 

で造られているので大変堅牢であり、70年を経た今でも崩壊しない

 

で残っているのだと、お世辞のつもりなのでしょうか、日本人の僕

 

にウインクを送りながらいます。 

 

 

途中のトイレ休憩の時、彼女から次のような質問がありました。

 

『日本の若者は浅野セメントの名前を知らないのよ。どうして?』

 

 

“浅野セメント”は、戦後になって直ぐに“日本セメント”に改称され、

 

その後、秩父小野田セメントと合併して、今は太平洋セメントになっ

 

ているので、若者の多くは知らないかも・・・・と適当な知識で応えると・・・・・

 

 

彼女『太平洋セメントは比国に工場があるので知っているわよ』

 

僕  『太平洋セメントの合併記録を戦前まで遡れば、浅野セメン

 

         トの前が出て来ると思いますよ』

 

彼女『日本の若者が知らないのは、昔の会社名だからなのね』

 

 

 

話が横道に逸れてしまいました。本筋に戻しましょう。

 

ルーズベルト大統領の命令によりコレヒドール島から敵前逃亡した

 

マッカーサー大将から、コレヒドール島の防衛を託された米軍のウ

 

エインライト陸軍中将は、日本軍の猛攻撃に堪え切れず、1942年5

 

月6日午後6時、日本軍の本間中将に降伏を申し入れます。

 

 

降伏会談中のウエインライト中将と本間中将

1942年5月6日午後6時

 

駐英日本陸軍武官の経験を持つ本間中将(右列手前から三人目)は、日本陸軍きっての英語上手だったらしく、上写真を見ても、ウエインライト中将(左列手前から二人目)と英語で直談判している雰囲気が漂っていますね。

 

尚、コレヒドール島のウエインライト中将とバターン半島のキング少将は、降伏後に満州の俘虜収容所へ送致され、日本の敗戦後に釈放されています。 

 

本間中将は、バターン半島攻略の不手際(戦死傷率93%)の責任を問われて1942年8月に予備役編入(解雇)となりますが、その後、マッカーサー大将の呼び出しに応じてマニラのBC級裁判に出頭し、バターン半島死の行進の罪により銃殺刑に処されています。

 

降伏命令を放送するウエインライト中将

 

バターン半島カブカベンで行った本間中将との降伏会談の翌日(5月7日)、ウエインライト中将は、ラジオ放送を通じて、フィリピン全土に散らばる連合軍兵士に向けて降伏を命じます。7,000以上の島を有するフィリピンに命令が伝わるには数日を要したようです。

 

ギャラリー砲台を占拠する日本軍

 

コレヒドール島のウエインライト中将の降伏により、バターン半島南端に布陣していた日本軍第14軍がコレヒドール島の戦略上の要所に設置された57門の砲台の全てを占拠します。

 

コレヒドール島のハーン砲台前で万歳する日本軍

 

1942年4月14日から5月7日に掛けて行われた第一次コレヒドール島の戦いは、日本軍の圧倒的勝利で終結。コレヒドール島の戦闘で被った日本軍の損害は、戦死者446人、戦傷者457人と記録されています。

 

保存されていた巨大なハーン砲台 

 

コレヒドール島を制圧した時に日本軍が万歳を叫んだハーン砲台が残されていました。古い写真のハーン砲台の砲身の向きが違いますが、日本兵が万歳をした場所の大砲に間違いないそうです。日本人観光客の多くが、この砲台の前で万歳をしながら記念写真を撮るのだそうですが・・・・

 

コレヒドール島に上陸する日本軍

 

コレヒドール島の海岸線に上陸した日本軍は、島中央部の山腹を穿った大防空壕のマリンタトンネルに向かいます。マッカーサーが逃亡直前まで指揮をとっていたトンネル内は、後任のウエンライト少将が降伏した後は、兵舎を破壊されて居場所を失った15,000人の連合軍兵士が雨露を避ける退避所と化していました。

 

トンネルから出て降伏する兵士

(1942年5月7日)

 

マッカーサー司令部のあったマリンタトンネルから両手を挙げてゾロゾロと出て来る15,000人の連合軍兵士を見た日本軍は、その人数のあまりの多さに驚愕したそうです。

 

現存する改修後のマリンタトンネル

 

マッカーサー司令部が立て籠もった全長245mの現在のマリンタトンネルは、当時の戦闘の様子を再現した戦争記念館(有料)になっていました。

 

1945年5月7日の時点では、連合軍兵士の降伏の場となったマリンタトンネルですが、1945年には一転して、日本軍が壊滅させられる凄惨な場所になると誰が想像したでしょうか? その話は、後ほど書くことにしたいと思います。

 

 

1941年12月8日の真珠湾攻撃の数時間後、台湾の日本航空隊の零戦と陸上攻撃機がフィリピン・ルソン島のクラークフィールドとイバ飛行場を急襲し、フィリピン戦線の火蓋が切って落とされました。

 

その後は、日本南方軍第14軍(本間陸軍中将)がルソン島の戦略的要所に上陸を敢行。マッカーサー大将をオーストラリアに追い払って、ルソン島のバターン半島とコレヒドール島に立て籠もる連合軍を降伏に追い込み、第一次フィリピンの戦いに勝利するのですが・・・・・

 

次回は、コレヒドール島をめぐるその後の戦闘の行方について綴ることにします。

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2016年11月08日(火) 03時45分50秒

比島戦跡旅行記 コレヒドール島の戦い-2

テーマ:フィリッピン旅行

11月5日付けの『比島戦績旅行記 コレヒドール島-1』の続きです 。

 

1942年1月16日から始まったバターン半島の日本と連合軍の第一次攻防戦は、米軍司令官 Edward Postell KingJr.,少将の指揮する連合軍(米軍+比軍150,000人)の圧倒的兵力により、本間雅晴中将率いる南方軍第14軍の主力(7,500人)は壊滅状態に陥り、2月8日に態勢の立て直しをするために退却します。

 

その後、台湾の日本海軍航空艦隊の空からの支援と中国大陸の歩兵と砲兵の支援を取り付けた本間中将は、マッカーサー軍に対して起死回生の報復戦を挑み、4月13日になって漸く勝利を捥ぎ取ります。しかし、戦死戦傷率93%(戦死者2,955人、戦傷者数4,049人)という大きな犠牲を払った薄氷の勝利でした。

 

バターン半島に於けるEdward Postell KingJr.,少将指揮下の連合軍の戦況が危機に瀕した時、マッカーサー総司令官は、米軍兵士10,000人と比軍兵士5,000人、そして57門の大砲に護られたバターン半島沖合6kmに浮かぶコレヒドール島に渡って籠城します。

 

コレヒドール島の地下司令部に籠ったマッカーサー大将とサザーランド参謀長

 

日本軍は、バターン半島南端に設置した100門の大砲攻撃と台湾の海軍航空艦隊の空からの攻撃によって、コレヒドール島の姿形が変わるほどの攻撃を実施。マッカーサーの連合軍は、島内の山を穿って作ったコンクリ―ト製の大防空壕(マリンタトンネル)の中に閉じ込められて身動きできなくなります。

 

バターン半島やコレヒドール島の塹壕内の司令部に立て籠るマッカーサー大将を見た野戦の連合軍兵士は、『Dugout Doug』(塹壕に籠ったまま出てこないダグラス・マッカーサー)の戯れ歌を作っ揶揄したそうです。

♪ダグアウト・ダグは横になり♪岩石の上で震えている♪爆撃からは安全で♪どんなショックも怖くない♪

 

このままでは日本軍の俘虜になりかねないまでに追い詰められたマッカーサー大将の危機的状況が米国本土に伝わり、マッカーサーを南西太平洋の英雄として崇めていた米国民の間で動揺が広がります。マッカーサーの気性と人気を毛嫌いしていたルーズベルト大統領も、米国の極東軍南西総司令官と比国独立準備政府のケソン暫定大統領が日本軍の俘虜になるという国家的不名誉は何が何でも避けなければなりません。

 

ルーズベルト大統領は、コレヒドール島に立て籠るマッカーサー大将と家族(奥さんと子供)に対して、オーストラリアへの緊急脱出を命令します。

 

マッカーサー大将の夫人と息子 (写真は8年後の1950年の撮影)

 

ルーズベルト大統領からの緊急命令を受けたマッカーサー大将は、右腕のジョナサン・ウエインライト少将(直後に中将に昇進)にコレヒドール島の死守を託し、バターン半島の Edward Postell KingJr.,司令官(少将)が日本軍に降伏する5日前の1942年3月11日未明に、家族を伴なってコレヒドール島から脱出することに決します。

 

絶対絶命の殿軍(しんがり軍)の司令官に任命されたジョナサン中将

左:ジョナサン中将(少将から昇格)    右:マッカーサー総司令官

 

その昔の実話ですが、ロンドン海軍軍縮会議(1930年)に出席した財部海軍大臣が奥さんを同伴したことが発覚した時、東郷平八郎元帥(85歳)が『戦争に“かかあ”を連れて行くとは何事か!』と激怒したそうです。東郷元帥にとって、軍縮会議の会議場は、命をやり取りする戦場と同じだったのでしょうね。そんな厳めしい東郷元帥が、砲弾が雨霰と降る戦場に妻子を同伴していたマッカーサー大将の事を知ったら、怒りを通り越して卒倒していたかもしれませんね。

 

 

ロンドン海軍軍縮会議に奥さん同伴で出張した財部彪海軍大臣(左)

怒り心頭に発した東郷平八郎海軍元帥(右) 

 

財部海軍大臣は、首相や外務大臣から『国際会議には奥さん同伴が礼儀である』と強く諭されて従っただけらしいのですが、頑迷固陋な東郷元帥には通じなかったようですね。 帰国後暫くして、財部海軍大将は、海軍大臣を更迭となった後に予備役編入(解雇)になっています。

 

話を元に戻しましょう。

逃走に使用する予定の潜水艦の到着が遅れたために、最高速力40ノット(時速74km)の高速魚雷艇(PT)に乗り換えてコレヒドール島を脱出したマッカサー大将一家の逃走経路の記録がありました。

 

コレヒドール島に別れを告げるマッカーサー大将の記念像

右後方の桟橋が脱出した桟橋のLorcha Dock

 

3月11日未明にコレヒドール島を高速魚雷艇で出港した大将は、三日目の3月13日午前7時にミンダナオ島ボゴ桟橋に到着。四日目の17日午前9時にパイナップル畑の隠し飛行場から爆撃機B-17に乗り換えてオーストラリア・ダーウインの南バッチェラー飛行場へ移動し、3時間後に豪州大陸中央部のアリス・スプリングスの飛行場にに安着。その後は列車に移乗して、オーストラリア南部のアデレード駅に向かうという長旅でした。

 

  

マッカーサーの家族が敵前逃亡に使用した高速魚雷艇(PT)とB-17爆撃機

 

尚、比島独立準備政府のケソン暫定大統領一行は、 マッカーサー大統領の敵前逃亡よりも一ヶ月早い1942年2月20日夜11時に、米軍潜水艦Swordfish号でコレヒドール島からオーストラリアへ脱出しています。

 

   

比島独立準備政府のケソン暫定大統領(左)が逃走に使用した米軍潜水艦の Swordfish号

 

日本南方軍の本間中将によって不名誉な敵前逃亡を強いられ、自尊心をズタズタに傷つけられたマッカーサー大将は、艱難辛苦の逃亡を経て到着したオーストラリアのアデレード駅で大勢の新聞記者に囲まれ、 あの有名な “I shall return ” の名言を残すことになります。巷では、コレヒドール島から逃走する時に、絶対絶命の殿軍(しんがり)を委ねた連合軍兵士とフィリピン国民に向けて発せられた名言とされていますが・・・・実際はそうではありませんでした。マッカーサー大将が報道陣に語った発言の一部は次のような内容でした。

 

The President of the United States ordered me to break through the Japanese lines and proceed from Corregidor to Australia for the purpose, as I understand it, of organizing the American offensive against Japan, a primary objective of which is the relief of the Philippines. I came through and I shall return.

簡約:私は米国大統領から、日本の戦線を突破して、コレヒドールからオーストラリアに行けと命じられた。その目的は、私の理解するところでは、日本に対する米国の攻勢を構築することで、その主たる目的は、フィリピン国の救援にある。私はやってきたが、必ずや私は戻るだろう

 

“敵前逃亡”という言葉を僕は勝手に多用していますが、マッカーサー大将の口から“日本軍から逃亡”という言葉が出て来る筈もありません。 それにしても、米国人のマッカーサー大将が、英国紳士の好む古風で格調高い自然の摂理を殊更に強調するような “ I shall ” を用いるとは! 

 

報道陣と語った場所が英国を宗主国とするオーストラリアだったからなのか? それとも、マッカーサー大将が育った時代の米国は、まだ英国調の話法が主流とされていて、米語は極一部の若者の言葉だったのでしょうか? 

 

メルボルンで連合軍南西太平洋方面軍最高司令官に就任したマッカーサー大将

 

アデレードからメルボルンに入ったマッカーサー大将は、それまでの米軍の極東軍南西総司令官から昇格して、連合軍の南西太平洋方面軍の最高司令官に就任しています。僕の想像ですが、マッカーサー大将は、メルボルンで行われた就任式の演説の中でも、きっと、お気に入りの英国話法で、I shall return. を使ったのではないでしょうか。

 

日本南方軍第14軍司令官の本間雅晴陸軍中将によって、バターン半島で一敗地に塗れ、その後にコレヒドール島から不名誉な敵前逃亡を強いられたマッカーサー大将の心根は、本間雅晴陸軍中将への復讐心で煮え滾っていたのではないでしょうか。 

 

マッカーサー大将の本間雅晴陸軍中将への復讐は、後日のマニラBC級裁判の項で触れることにして・・・・・次回は、僕のカメラが捉えた日本軍によるコレヒドール島砲撃の残骸と日本軍の一時的勝利について綴りたいと思います。

 

次回に続きます。

 

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