2001年夫婦世界旅行のつづきです。まだアムスの2日目は暮れません。旧教会で敬虔な心持ちになった後も、もう少し街を散策しました。





part118  アムス2日目


               ―その7 アンネ・フランクの家!






旧教会を見学した後は、一旦ダム広場まで戻って、さらに西側にある、アンネ・フランクの隠れ家へ行ってみた。





アンネ・フランクといったら、第2次世界大戦時、ヒトラー率いるナチスのユダヤ人狩りを逃れ、隠れ住んでいるときにつけていた日記 『アンネの日記』 の著者として知られている。その日記が書かれた隠れ家が、このアムステルダムの、しかもダム広場から歩いていける所にあるというのだから驚きだ。彼らはこんな都会のど真ん中に、密告されて捕まるまで、25ヶ月も隠れていたのだ。





当時、運河沿いに、アンネ・フランクの父、オットー・フランクの経営する 「ジャムの凝固剤」 製造会社のオフィスと工場があった。1階は工場で、2階から上がオフィスや物置だったらしい。中は 「表の家」 と 「裏の家」 に分かれていて、そのオフィスの裏で、工場の上に位置する 「裏の家」 に、アンネの一家が、隠れ住んでいたのだという。父母、姉、アンネ、そして、同じくナチスの手から逃げてきたユダヤの人々4名、合計8人がその 「裏の家」 に隠れていたという。





その建物は、今はすっきりと整えられた広い通りに、ガラス張りの立派なエントランスを持つ近代的博物館然とした 「アンネ・フランクの家」 という観光名所となっていた。中はきっちりとオーガナイズドされていて、色々趣向を凝らした資料の展示がなされている。





通りには入場を待つ行列ができており、受付には各国の言語でパンフレットが用意されている。(日本語のパンフレットももちろんあった。)





パンフレットによると、1933年、ヒトラー率いる国民社会党が政権の座についたことをきっかけに、フランク一家はドイツのフランクフルトからアムステルダムに移住したのだという。そこで安全に暮らしていた。が、 「ナチス・ドイツはゆっくりと、しかし確実にユダヤ系住民を隔離して」 きた。で、1942年 (アンネが13歳のときだ。)、フランク一家、すなわちアンネの両親と姉とアンネの4人は、父親のジャム凝固剤工場の 「裏の家」 に 「潜行」 した。





オフィスの従業員たちはアンネたちの生活を様々に支えてあげたようだ。が、工場で働く人々は隠れ家について、何も知らなかった。だから、階下の工場で働く人々に気づかれないように、息を潜め足音を忍ばせて、彼らはじっと戦争の終わるのを待ち望んでいたわけだ。結局1944年、 「密告」 されて、フランク一家始め、隠れ家に隠れていた計8名のユダヤ人がすべて 「連行」 されてしまった。そして、アウシュビッツから生きて還ってきたのはアンネの父オットーだけだったという。


 


洗面だって思うようにできない。おしゃべりもできない。大声で笑うこともできない。そんな中にあって、アンネは、壁がむき出しの殺風景な部屋を持参のポスターや写真で飾ったらしい。なんとも健気な子供らしさではないか。彼らの行き詰まる生活がまだすすけた部屋に漂っているのではないだろうか……。そんな粛々とした心持ちで「順路」を進んでいくと、狭いながらも立派な作りの家で、 「隠れ家」 はろくな家具もなく (没収されたままらしい) がらんとしているものの、特別 “悲惨” な住まいでもない。我々の家の方がよほど狭いじゃないか! と思われた。彼らは結構 “いいところ” に潜んでいたんじゃない――これが第一印象だ。





よくよく考えれば、自由に動き回れない息を潜めた生活、人に姿を見られることを恐れて暮らす生活、いつ密告されるかとびくびくして怯えている生活、同じユダヤ人が連行されていくのをドアの隙間から覗きながら何もできず、何もできないでただ見送ることで自分もそのユダヤ人を売っているような罪悪感に駆られる苦しい生活……。確かに辛いものだったろう。





しかし、その程度の苦しさはアンネ一家に限ったことではないし、もっと苦しく恥辱にまみれた生活を強いられた人々は、日本にだってたくさんいたのではないだろうか。自分たちはただ隠れ住んでいるだけで、人々から助けてもらえていたのだから、彼らは戦争被害者としてはかなり恵まれた方だったのではないだろうか、と思ってしまった。





「ユダヤ人だから」 といって死に追いやられることは、もちろん理不尽である。しかし、それってユダヤ人に限ったことではない。黒人だって、人間扱いされず、人間狩りにあって、奴隷にされた。アメリカ先住民だって、いきなり後からやってきた白人に土地を奪われ、生皮を剥がされた。アボリジニーだって、「文化的」に教育するという白人の勝手な大義名分のもとで、親から隔離された。これはもう善意を振りかざした 「拉致」 である。こうした非道な暴挙に人生を狂わされた人々の子孫は、人権を獲得した後でさえ、未だに様々な差別や悪条件と戦っているではないか。





世界各国で非人道的人種差別はあった。今もある。ヒトラーのユダヤ人狩りだけが特別ではない。それなのに、なぜかヒトラーだけが特別に扱われているように私には思える。ヒトラーをスケープゴートにして贖罪を果たし、全体を彼の狂気にすべて起因した不幸な出来事のように片付けようとしていないか? ユダヤ人に対する暴虐がこれほど大々的に挙げ連ねられるのは、被害者が 「ユダヤ人」 だったからではないか? ナチスがあまりにもきっちりと暴虐をこなしたからではないか?





第2次世界大戦が終わったとき、中国やロシアなどに残された日本人が受けた暴虐は 「当然のしっぺ返し」 のように思われて済まされていないか? 





戦争は大義名分を掲げて、人間の残虐性を正当化する。情報は乱れ、ものの是非など分からなくなる。ひとたび戦争に突入すれば、後は戦争指揮者のタクトのままに人々は狂気の群れとなって、頭を空っぽにして人殺しに走るのみではないか。





戦争は一部の既得権益者が己の利害をめぐって起こすものだ。国家主義の名のもとに人々の愛国精神を煽って、まんまと利益を手に入れるか、すべて失うか、大きなギャンブルみたいなものだ。そうと分かっていながら、それでも人は戦争へと絡めとられていく。21世紀の今に至っても。





『アンネの日記』 も、 「アンネ・フランクの家」 も、戦争の負の証拠として、戦争について、人種差別について、人々に疑問を投げかけ、考えさせる契機とはなっているのだろう。アムステルダムにおいては、特にナチスの手からユダヤ人を守ろうとした名誉ある家であるのだろう。 「アンネ・フランクの家」 は、オランダの “自由を愛する精神” の勲章のようだ。





自由というと、オランダは同性愛者に対する偏見もないそうで、今や 「ゲイシティ」 とさえ呼ばれているらしい。侵略、植民、搾取という列強のエゴと策略的暴力によって集められた資産の上に築かれたかつての繁栄の光りの元に、今の 「自由」 の国オランダがあるのではあるが、私はやはりそのまばゆさに圧倒され、感嘆せざるを得ない。





が、結局のところ、 「アンネ・フランクの家」 は全然面白くないのであった。なんだかなぁ。結構いい暮らしじゃん? という肩透かしを食らった感が大きすぎた。 「アンネ・フランクの家がつまらなかった」 なんて感想を持つと、じゃ、もっとすごい残虐非道な形跡を求めていたのか? と思われそうだが (もしかしたら、そんなことを私は期待していたのかもしれないが)、なんといか、この程度で騒ぐなよって感じなのである。オランダ人始め、白人がしてきたことはもっと、もっとひどいんじゃないの? と。こんな私はひねくれているのだろうか。よくわからない。





結局、アンネたちはそのほとんどがアウシュビッツに送られ殺されているのだから、不幸な話だ。アウシュビッツはユダヤ人で人体実験をしたり、ユダヤ人の脂から石鹸を作り、髪から毛織物を作り、金歯は抜いて溶かして金に戻し、等々、 人間の所業とも思われないことをやってのけていたことは周知のことだが、どうもナチスだけが特異な例として捉えられているようで、どうも納得がいかないのである。





当時の 「ユダヤ人立入禁止」 の看板や、ユダヤ人が携帯するように強制された腕章やら、そんなものをガラスケースに陳列されても、これといった感興はない。ああ、これかぁ、って感じであった。他の観光客たちも、学生らしい人はしきりにメモなどしてはいたが、それ以外はつまらなそうに見えた。そりゃ、つまらないだろう。ただの 「ジャム凝固剤工場」 オフィスの跡地だ。アンネたち、たいへんだったんだね……で終わりである。





今の世の中がアンネの隠れていた時代より平和といえるかどうか、より平等になったか、より人種差別がなくなったかどうか、私には甚だ疑問はある。(ユダヤ人にとっては明らかに改善されたのであろうが。)





そんなことを思いつつ、あっという間に見学は終わった。時間は夜の6時。運河沿いのカフェになど入って一息つきつつ、漫然と街を眺める。





アムステルダムの夜はいつまでも明るい。夜の10時頃にようやく日が暮れるのである。まだ暮れもしない明るい夜の道を、夕食を取るため、レストランを探した。トラムが走っている大通りには気軽に入れそうなレストランやビアカフェが軒を連ねている。その一つ、客で賑わうイタリアレストランへ入ってみた。





トマトとモッチェレーラチーズのサラダには、吃驚するほど美味しいムッチリシットリとした “イタリアパン” がバスケットに山盛り供された。二人で軽く突っつこうと頼んだピサは、直径30cmはある巨大サイズ。夫が頼んだスパゲッティは2人前はありそうな量だ。おまけにビールまで頼んでしまってあったので、私は頭を抱えてしまった。 (私はビールを飲むとお腹がパンパンになって食べられなくなってしまうのだ。) 





味は美味しくとも、うんざりするほどの量をどどんと出されると、もう食事は 「苦行」 になる。拷問に近い。そうかといって残すことなど私にはできない! もったいないっ! 食べるぞよ。なんとしても! なにがなんでも! 





決死の覚悟で我々は料理に挑んだ。パクリ。おほほ。なかなか美味! ビールはあまり飲まないようにして……と。しかし味が味わえたのは最初の15分ほどだった。後はもうひたすら口の中に料理を押し込み、全身の気力を振り絞って咀嚼し、ビールで飲み下す。で、うーっっ、く・る・し・い……と喘ぐ。この繰り返しである。最後の方は鳥肌が立ってきた。





我々が肩でふーふー息をしながら、漸くほぼ食べ終えた頃、隣の若いカップルのテーブルに料理が運ばれてきた。彼女の方に、ラグビーボールほどのチキンのパイ包みのような一品が置かれた。彼女は思わず頭を抱え、 「この半分で充分よ」 と言うように、皿の上の巨大なチキンを半分に切る手まねをして見せた。分かる分かる、その気持ち。量が多すぎるのよね。欧米人にとっても多過ぎる量らしい。日本に比べると一品一品の料金はやや高いが、その量と味を考えると、かなり “安い” ことにはなる。もっと量を減らして、その分安くしてくれればいいのに……。





フーフー言いながら、ぞわぞわしながら、やっと食べ終えた。ああ、苦しい。お腹が空くと不機嫌になる私だが、お腹が一杯過ぎるとそれはそれで気持ちが悪く、不愉快なのであった。人間って、本当、勝手なものだ。


        


つづく


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2001年夫婦世界旅行のつづきです。今回は脱線して、日本に帰ってきてから思ったことを書き留めておいた部分です。



part117  これもオランダ? 知らなんだ!





余談だが、 『広辞苑』 を引いていたら、オランダの項に続々と 「オランダ○○」 という言葉が出てきたので、ちょっとここに抜粋してみよう。





阿蘭陀苺(オランダいちご)―バラ科の多年生果菜。いわゆるイチゴ。ヨーロッパで栽培され、世界に広まった。天保年間(1830~1844)にオランダから渡来。


阿蘭陀海芋(オランダかいう)―サトイモ科の多年草。南アフリカ原産で観賞用。(中略)普通、旧属名のカラーで呼ばれる。


阿蘭陀辛子(オランダからし)―クレソンの和名。


阿蘭陀雉隠し(オランダきじかくし)―アスパラガスの和名。


オランダげんげ―シロツメクサの異名。


阿蘭陀正月(オランダしょうがつ)―(寛政6年閏11月11日、太陽暦の元旦に相当するので、蘭学者大槻玄沢が賀宴を開いたのに基づく)太陽暦の正月。


阿蘭陀墨(オランダすみ)―インクのこと。


阿蘭陀石竹(オランダせきちく)―カーネーションの別称。


阿蘭陀芹(オランダせり)―パセリの異称。


阿蘭陀千里眼(オランダせんりがん)―(近世語)眼鏡のこと。


阿蘭陀三葉(オランダみつば)―セロリの異称。





なんとまぁ、私の大好きなイチゴは天保年間から日本に来ていた? (日本イチゴは多分自生の、粒の小さい野苺だったのかしらん。) クレソンもアスパラガスもセロリもパセリもオランダを通して日本に紹介されていたってことか?  “セロリに齧りつく侍” なんて、あまり想像できないね。食べ物としてより、観賞用として楽しんでいたかもしれないぞ。 で、よく見ようとして、「あれ? 私のオランダ千里眼、どこに置いたかな?」 なんて言っていたのか? そう言えば、「ポンズ」もオランダ由来の言葉らしい。我々の日常生活のあちこちにオランダゆかりの言葉が転がっていたんだ。 





医学だって、江戸時代の日本はオランダの医学に相当助けられたはずだ。天然痘の予防接種など、オランダからの西洋医学なくしては取り入れることなどできなかっただろう。(手塚治虫の漫画 『陽だまりの樹』 参照)。





学生時代、歴史の授業で、 「蘭学」 やら 「オランダ商館」 、 「平戸」 という言葉はよく耳にした。だからどーした? って感じで何の感興もなく聞き流していたが、日本が江戸時代いかに “オランダさまさま” だったかということが、改めて思われる。 (もちろん、アンチオランダの人や、オランダのことなどまるで知らない日本人の方が当時は圧倒的に多かったのかもしれないが。) 





江戸時代、オランダが鎖国日本にとって唯一の海外への道であったはずだ。それなのに、開国以降、日本が躍起になって取り入れた外国文化はイギリス、フランス、ドイツ、アメリカが主だったところだろう。なぜ、オランダではなかったのだろう? 今まで世話になりながら、なぜオランダがぷっつりと消えるのだろう。





つまりこういうことか? 日本が開国していきなり欧米への道が開けた。で、実際に行ってみたら、オランダなんかもう古い!  “オランダ君” から噂には聞いていたけれど、フランス君や、エゲレス君や、ドイツ君は段違いに凄いぞ。世界はオランダ君よりもっと進んだ国でいっぱいだぁっ! で、急遽オランダに見切りをつけた。 ……ということなのだろうか。だとしたら、かなりゲンキンな日本だったのではないかしら。





しかしオランダはそれまでに日本の浮世絵だの陶器だの、おいしい芸術品を安く仕入れてヨーロッパで高く売って散々儲けることができている(?)ので、これといった恨みもないのかしらね? 





オランダは今風に言えば、日本の 「元彼(もとかれ)」 とか 「元かの」 とかいう感じ? もっと数倍いい相手がいることに気づいたら、そちらに目が眩んで、さっさと別れた相手って感じ? どうなんでしょ。





日本史の中で、近代に入ると、いきなりオランダとぷつりと縁が切れることに何も疑問を持っていなかったけれど、そしてそれはオランダが他の欧米諸国よりも劣っていたからだろうと勝手に思っていたけれど、アムステルダムの街並みを見ると、なぜオランダが 「先進国」 ではないのか、そしてなぜ日本が 「先進国」 に分類されるのか、全く納得できなかった。 オランダ……あの豊かさはどこから来ているのだろう?





              つづく 


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part116  アムス2日目―その6 旧教会 追記









 





旅を終え日本に帰ってきてから、落ち着いて旧教会でもらった英語のパンフレットをじっくりと読んでみた。当時、ざっと目を通しただけで、ろくに理解もしていなかった単語 (ラテン語、フランス語、ローマ史に源を持つ語が多かった!……教会建築に関してはローマ帝国やフランスの影響が濃いということか? ) などを辞書で調べて読み直してみたところ、色々なことが分かったので、ここで補足しておく。以下、太字はパンフを訳してみた部分である。





The Old Church in Amsterdam (De Oude Kerk) (アムステルダムの旧教会。……こうして英語と併記されれば、オランダ語だって、察しがつこうというものだ。)





旧教会が現在の形に至るまでには3世紀以上の年月を要した。 (300年以上? 気の長い話だ。日本だったら、完成の頃には建て始めた頃の部分が腐ってしまうじゃないか? )





教会はたくさんのphase (位相) を持ち、それと同じくらいたくさんの礼拝堂を持っているが、不幸にも最も初期に立てられた位相はもはや “時の霧” の中に失われてしまった。 (…has been lost in the mists of time……う~ん。なんだか、運河の街、アムステルダムならではの表現っぽい。寒くなったら街中が夜霧に包まれそうだもの。なんとなく。)





そもそもアムステルダマー(Amestelldammers)と呼ばれたアムステルダムの当時の住人が、13世紀初頭、彼らの最初の教会を設立したのが始まりだ。 (13世紀? 日本では室町時代か?) 教会の下の聖なる場所 (おおっ。あの石の床の下のことだね! part115参照) の最も古い部分で残っているものをたどれば、時は1250年に遡る。 (とにかく “13世紀の人々” が、あの教会の床の下に、あるいはその下の下あたりに眠っていらっしゃるらしい。)





教会を建てる地として選ばれた場所は、アムステル川の東の土手で、小高い埋葬地として使われていた小山であった。 (現在、旧教会はアムステル川の西側に位置しているように見える。まぁ、運河増設でアムステル川の流れが昔とは変わってしまっているのかもしれないね。川の土手の辺りの埋葬地、なんだかあまり景気のいい場所ではなさそうだ。)


 


教会は basilica 「バシリカ」 (裁判や集会に用いた長方形の建物) として建てられ、長さ40mだった。 (なんだ。最初はただの長方形の集会所だったのか。つまり墓の上に集会所を作ったということか。) 13年後、教会は増築された。





Court of Holland (オランダ法廷) が1300年に街に地方自治の権利を与え、多くの人々がアムステルダムに引き寄せられるようにやってきた。その結果、ダイナミックな経済発展が起こった。街は成長し始め、そのことが多くの商人や田舎の人々を惹きつけた。 (どの時代も、どの国も、 “自由経済の発展” が活気をもたらすんだね~。)





アムステルダムの新しい教会の設立が強く望まれ、ひとつのnave 「ネーヴ」 ( 「身廊」 =中央の一般会衆席のある部分) と同じサイズの二つのaisle 「アイル」 ( 「側廊」 ) を持つhall-churchホールチャーチが建設された。 (長方形の 「集会所」 がここで 「教会」 へと昇進したわけだね? 「身廊」 と 「側廊」 を設ければ 「教会」 になるわけか。わざわざホールチャーチとなっているから、 「集会所兼教会」 という感じだったんだろうか。だから中央部分がホールのように広々と何も置かれていなかったのかしら? )





「身廊」 の拡張の際、長いchoir 「クワイア」  ( 聖歌隊席 )  が設けられた。教会は、  「船乗りの聖なるパトロン」――すっごく妙だが、後に 「パン屋の聖なるパトロン」 ともなる――セント・ニコラスに捧げられた。 (本当に、なぜ 「船乗りのパトロン」 と 「パン屋のパトロン」 が同一人物なのだろう? 小麦を船で輸入していたということかしら? 謎だ。パンフレットを書いている人自身が 「strangely enough」 とことわって説明を避けているのだから、説明がつかないのだろう。素直でよろしい。)





その後も教会は増築され続ける。で、 「側廊」 を長くして、 「聖歌隊席」 の周りに半円を描くようにしたり、その結果 「祭壇」 を 「聖歌隊席」 の衝立のところまで移動させたりと、教会はどんどん変容していった。 (それだけアムステルダムが破竹の勢いで発展を遂げていったということだね。 「集会所」 も 「教会」 として発展していったんだね~。)





そして、14世紀の終わりから15世紀後半にかけて (1380~1460年) 、教会を十字架の形にするために、transept 「トランセット」 (十字形教会堂の袖廊。身廊ネーヴに直角に交わる翼部。) が北に、そして南にと作られた。  (教会はそもそも東西に長い長方形だったわけだ。やはりただの長方形より十字架形にした方が教会として格が上がるのかしら。それにしても、教会の建物そのものを十字架形にすることを最初に思いついた人は、おおっ! ひらめいたり! 僕ってすごい! と小躍りしただろうね。)





しかし、1421年と1452年、教会の建設は中断された。 “アムステルダムの大火” で、アムステルダムの街の木造家屋は、そのほとんどが灰に帰したのだ。街は壊滅状態。しかし、教会は奇跡的に焼け落ちずに助かった。 (アムステル川が傍にあったからだろうか? 石でできていたからだろうか。)





火事の他にもうひとつ旧教会の建設が遅れた理由として、ダム広場に 「新教会」 を作る仕事があった。新旧二つの教会が財政的に敵対し始めるのに時間はかからなかった。



それに、旧教会の増築計画は、旧教会周辺のその他の建築作業の拡張を妨げるものでもあった。そんなこんなで、旧教会の拡張増築計画は、最終的に最大70m×60m×20mという寸法で落ち着いたわけだ。



幸いにも16世紀の始めに、教会の北側、南側に礼拝堂として現在の翼部がそれぞれ増設を許された。clerestories 「クリィアストリ」 (教会の身廊と側廊を分ける採光用の高窓が並んだ側壁の層。高窓。) によって、身廊と十字の交差部分と聖歌隊席とは高められた。



( 「高められた」 ? なんのこっちゃ? 単語の意味はわかっても、文章の意味がわからない。……これまた “格が上がった” ということか? あるいは、土台を高くしたということだろうか? ) 





おそらく、当時の建築家は、期せずして、教会の元々のオリジナルな “形” へと回帰していくことになったのだった。 (……って、建築家は、教会を十字架形にして “教会然” としたものにしようとしながら、あれこれ修正や増築を繰り返し、知らず知らずのうちに、結局元の “集会所然” とした長方形に造り上げてしまったってことだね。だって、実物は十字架形というより、長方形に近かったもの。結局300年かけて、紆余曲折の果てに、グレードアップして振り出しに戻ったってところか。)





16世紀からは、修正とリフォームの時代だったようだ。旧教会は聖像破壊者の激怒の的とされた。The Beeldenstormと呼ばれるその怒りの嵐は、1566年この低い大地を吹き荒れ、破壊の跡を残した。教会は略奪され、立像や絵画はすべて破壊された。1578年、カソリックに対するプロテスタントの勝利はcleansing 「浄化」 が完結したことを確信させた。





cleansing 「クレンジング」 と言ったら、洗顔のことかと私は思っていたが、辞書を引いてびっくりだ。 「清め。浄化。特定の社会的、民族的集団を地域から排除する暴力的差別行為」 ってあるじゃないか。これって! ドイツのナチスがし始めたことではなかったのか。しかしもともと太古の昔から民族と民族が戦いあったとき、多くは、勝った方が負けた方を根絶やしにするか、奴隷にするかしてきたわけだよね。やっていることは何世紀、何十世紀たっても同じということか。しかし、その行為を 「クレンジング」 と意識するようになったのは一体いつからなのだろう……? 宗教と結びついたときからかもしれない。 宗教の名の元に、身体的虐殺も精神的虐殺も、 「浄化」 という言葉で正当化され神聖化されたのではないか? いやいや、そもそも宗教というものが、そうした性質のものではないか。特に一神教は。もっともらしい理屈が付けば、人間は何でもできてしまうのではないか?! ) 





聖人の像や祭壇は教会から移動させられた。vaultボールト 「芎窿」 (きゅうりゅう。弓形に丸みをつけた天井。) に描かれた絵だけは略奪を免れた。手が届かなかったのだ。 (……? これって笑い話? )





とにかく一年かけて、プロテスタントはカソリックから宗教的、政治的権力を掴み取り、中世の終わりから近世の初めにかけて、旧教会は街のliving room 「リビングルーム」 として機能したのである。 (これって、旧教会が 「教会」 としては機能していなかったということかしらん? 教会としての機能は「新教会」 (プロテスタント) の方に独占されて、旧教会は単なる人々の憩いの場に過ぎなくなったということだよね? アムステルダムにある新教会と旧教会って、創立の新旧を言っているのかと思ったけれど、これって、キリスト教の新旧、つまりプロテスタントかカソリックかの違いなわけなのだね~。)





教会は街で最初の、屋根付きの大きな公共のスペースであった。こうして、教会は乞食や浮浪者、今で言えば、地下鉄や鉄道駅で隠れ家を捜し求める体(てい)の人々などを惹きつけた。ここでは劇も上演されたし、行商人がその商品を並べたり、漁師が帆を修理したり乾かしたりした。ここでは家畜さえ飼われたのである。 ( こりゃまぁ、随分 “何でもあり” の 「リビングルーム」 だったんだね。道理でがらーんと何やら広々としていたはずだ。)





プロテスタントにとって、この状況はすぐに耐えがたいものだと判明。この 「アウイケイアスの牛舎」 はすっかりきれいにされた。で、17世紀からは、当局は教会の内装に焦点を絞って、説教壇を加え、記念碑や記念的石を加えた。 (つまり放って置けば、臭い “よからぬ者たち” が住み着いてゴミタメのようになってしまうので、 「教会」 としての体裁を整えていくことにしたわけか。)





( 「アウイケイアス王の牛舎」 とはギリシャ神話の中のお話。その牛舎は実に30年間! 掃除されなかったので、超不潔だったということだ。川の水を流し込んで、一日できれいにされたそうだが。 「アウイケイアス」  というと 「不潔な。厄介で不愉快な。」 という意味で通用するようだ。30年間掃除されなければ、鼻ももげる臭さだったろう。乞食や浮浪者や家畜がゴチャゴチャごろごろしている広場は、さぞ 「アウイケイアス」 だったんだろうね。よく病気が蔓延しなかったものだ! )





この時期2つのオルガンが設置され(1724年)、教会は日に日にブルジョワ社会の生活を反映して尊敬の念をもって磨き上げられていった。18世紀には外装も整えられていった。修復不可能なほどダメージを受けた芎窿の絵もリニューアルされ、1755年芎窿全体がプロシアンブルーに塗られたのである。 (ふむふむ。大体、今の状態なんじゃない?) このペインティングの下では腐敗が進んでいた。 (……って、だめじゃん、それじゃ。折角のプロシアンブルーが台無しじゃん?)





20世紀の始め、そうした腐敗によるダメージが明らかになってきた。1912年と1914年に行われた緊急の修復 (って、世界は戦争中で大変だった頃じゃないですか? そんなときに旧教会の修復ですか? ) では不十分で、崩壊の虞(おそれ)があるので、1951年に教会は閉鎖された。 (危険なまま40年近く放っておいたってことか? それも随分ですね。) 1955年に旧教会財団が設立された。記念碑の保護と、教会とともに様々な文化的、社会的イベントをオーガナイズしていくこととが目指されたのである。





教会は2度の修復に堪えた。最初の修復は1955~1979年、最後の修復は1998年に完成された。 (我々が訪れたつい2年前のことじゃないか。古びて見えたけれど、新しかったんだね、旧教会! ) 教会は1999年にTransparency (透かし絵? 透明性?) という展覧会で再びオープンした。 (我々が訪れる前年オープンしたばかりだったのか! ラッキーだったなぁ。もし一年早く旅をしていたら、入れなかったのだね。)





旧教会は今日 “リフォームされた教会” として、その役目を果たしており、様々な文化的、社会的活動のためのプラットフォームを提供する 「記念碑」 であり、 「博物館」 である。 (ああ。それで、コンサートやら催し物のスケジュールが色々と用意されていたのか。教会でやたら催し物を企画しているのは、なんだか商業主義に走っているようであまりいい感じがしなかったが、市民の文化会館を自認しているなら、納得だ。開かれた教会という感じで、いいじゃないか。) かくして旧教会は、アムステルダムを訪れる多くの訪問者の 「リビングルーム」 として重大な機能を果たしていると言えるのである。 ( 「アウケイアスの牛舎」 としてでなくて、よかった、よかった。^^)





……こうしてみてくると、教会の歴史ひとつを追うだけで、結構アムステルダムの街の歴史が偲ばれるものだ。自治権が認められ、都市化が進み、商業、経済が発達して、アムス川沿いに商船が行きかうようになった。そのため、売春宿も川沿いの埋葬地あたりの日陰の場所に出来上がったということではなかろうか。そして、その地にこそ、旧教会の前身、市民のためのホールチャーチが建ったのだね。 “赤線地帯” のど真ん中に教会が建っているという不自然さにとても納得できてしまった。やたらだだっ広かった教会内部も、 “ホールとしての教会” という性質ゆえだったのだ。乞食も家畜も住みついていた教会。なんだか、ゆかしい。





旧教会を取り仕切っている人々は、今現在 「カソリック (新) 」 なのか、 「プロテスタント (旧) 」 なのか、聞いてみたいものだ。ここまで分かったら、是非 「新教会」 も見てくりゃよかった! 今さらながら残念である。       


つづく  


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2001年夫婦世界旅行のつづきです。アムステルダム2日目。残り少なくなった昼下がりのひと時。遠出は避けて、アムステルダムで最も古いという 「旧教会」 を目指して街なかをぷらぷら散策しました。思わず迷い込んだ赤線地帯に目を白黒させているうちに、ひょいと目の前に荘厳な建物が。


 


part115  アムス2日目―その5 旧教会! 






「旧教会」 はなんと赤線地帯 「レッドライトディストリクト」 のど真中にあった。 (どちらが先にできたのかしらん? ) 神聖な教会が売春地区のど真ん中に建っているなんて、なんだか不謹慎な気もするが、祈る気持ちの強さ、救いを求める気持ちの強さでは、この地区に働く人々が一番かもしれない。つまり、教会は最も教会が必要とされている場所にある、と言えなくもない。 (私の勝手な思い込みかもしれないが。)


 


教会は荘厳な佇まいであった。その大きな扉の前に立つだけで厳粛な気持ちになる。数ヶ月間、曼荼羅的に極彩色の仏閣や、金ぴかぴかな仏像、あるいはこじんまりした寺などを見慣れてきた私は、仏閣、仏塔とはまた違った重厚な “威厳美” に圧倒される。襟を正してしずしずと近づく。





と、 入り口のカウンターに 「学生料金」 とある。おおっ。ここの入場料には 「学生割引」 があるぞ。いよいよ偽学生になりすます時が来た! 厳粛な気持ちはひとまずひっこめて、財布に忍ばせていた “偽学生証” を取り出す。 (part101参照。)





 さりげなく係員からは遠目になるようにカウンターに差し出した “偽学生証” を、係員はぐいっと手を伸ばして引き寄せた。おいおい。そんなにしっかり見るつもり? 平静を装いながら、係員の顔を見守る。係員は手にした “偽学生証” にじっと目を落としてから、ちらりと上目遣いで私を見る。私は心の中で唱える。 「私は学生。私は学生。I.C.U. (International Continental University 国際大陸大学。私が勝手に作った大学名だ。なかなか壮大でよろしい! なんて、自画自賛している場合ではなかった。) の学生なんだ!」 





係員は何も言わず、すぐに学生証を返してくれた。……長い一瞬だった。要求されたのは 「学生料金」 のみ。 なんと、まかり通ったのだ! 心の中でガッツポーズ。 にやりと緩みそうな頬の肉を無理やり緊張させて、悟られないよう、さりげなく、粛々と、さっさと、学生料金を払って教会に入場する。 (返された学生証は無造作にしまう振りをしつつ、カード面に貼り付けただけの “シール文字” が擦れて消えてしまわないように、大切にそぉぉっとビニールカバーに入れるのだった。 「これは使える!」 という確かな手応えを味わいつつ。のほほ。)





教会内は高い天井まで届くどでかいパイプオルガンが正面の壁に厳然と備えられ、バロック調の曲が自動演奏されていた。重々しい荘厳な曲が、広い教会中に静かに鳴り響いている。





パイプオルガンとは不思議な楽器である。その音色を聞いていると、それが楽器の音色であることを忘れる。天地創造のドラマの果てに今生きてここにある人間の壮絶な運命やら、神の声やら、人間の宿業やらが、 “雰囲気” となって天から降り注いでくる。その中に今自分があるというドラマティックな気分になる。





巨大な大理石で出来たパイプオルガンの台座には、天使などの様々な彫刻が施されて、大理石のまろやかな白さが天使の白い肌をみごとに表現している。空気を震わせるパイプオルガンの信心深い音色に右脳も左脳も打ち震えて、天使の実在を一も二もなく信じてしまたい気分になる。





聖書の物語が描かれてあるらしい巨大なステンドグラスが、見るほどに艶やかに彩りを深め、荘厳さは、いや増しに増す。





壁際に沿って、祈りの台(?)、説教台(?)、会議室(?)、懺悔室(?)のようなものがいくつも設えてあり、神殿を想起させる大きな柱々には、演壇のようなものが作りつけられていた。それぞれの台の彫り込みや柱は、黒ずんだ茶色の木肌がもの古びた荘重さを醸し出しており、その装飾たるや凝りに凝っているのだが、それ以外は、一面の床だ。





乳白色や茶褐色にくすんだ大きな石板が敷き詰められた床が、ところどころ波打ちながら一面に広がっているばかりなのだ。教会の中央に一般信者用の “祈りの台” や椅子が並んでいないせいだろう、正面奥のパイプオルガンから目を落とせば、中央がやけに広々と開けた広場のような教会である。





歩くとコツコツとヒールの音が石に硬く響く……はずだが、私はシューズを履いていたので、きゅぷきゅぷとなんとも安っぽい、緊張感のそがれる音を立てて、石の床を踏み進んだ。そのうち、文字が書かれている床石を見つけた。人の名前と生存年が刻まれている。なんと床石は 「墓石」 であったのだ!





床石は畳1畳ほどのものがほとんどで、中には刻まれた文字が摩滅してよく見えないものもある。意匠を凝らした彫刻を施してあるものも多く、教会の床はかなり歩きにくい。墓石の上を歩いてしまってよいものかと、私などは不安に思うのだが。 





( 「墓石の上に乗ると罰が当たって、脚が曲がって一生歩けなくなるぞ!」 と幼い頃親から脅されたものだから、どうも床が墓石だと分かった途端、薄気味悪いやら申し訳ないやら、忌まわしい迷信が脳裏を掠めるやらで、足が地に付いた心地がしなかった。)





とにかく教会の床は一面墓石なのである。教会の人に聞いてみたら、墓石は大理石で (ぅおっほん) 、実際に墓石の下には死者が4~5層になって眠っている (ぅえっへん) と言う。つまり地下4、5階まで墓だということだ。私の足下に死者が4、5層になっているのかと思うと、これまたなんとも居心地が悪い。立ち心地が悪い。こちらの気持ちを知ってか知らずか (多分全然知ったこっちゃないだろう) 、教会の人はどことなく自慢げでさえあった。





死者が増えれば、どんどん掘り下げていくのだとかなんとか言う。墓石が既に4、5層も重なっている下をどう掘るというのか? 謎だ。抱えている死者の数が多ければ多いほど教会として偉いのだとでも言いたげである。 (趣味悪いよ、あんた……と言ってみたかったが、これはプチ仏教感覚かもしれないので、黙っておいた。)





レンブラントの 「最初の妻サスキア」 の墓石もあった。ここでっせ! とばかりに札が立っているので、簡単に見つけられた。やはり乳白色の大理石の大きな墓石である。観光客を呼べそうな “有名どころ” は1階の床に位置させているのだろうか。 





( 「最初の妻」 ってことは、レンブラントは何回結婚しているのだろう? そもそも 「サスキア」 ってどんな女性だったのだろう? ヨーロッパでは有名なのかしら? なぜレンブラントと別れてしまったのかしら? あれ? キリスト教って離婚してもいいんだっけ? 肝腎のレンブラントはどこに葬られているのか? ……などなど、疑問は尽きないのではあったが、なんの下調べもしていないので、ほぉ、 「サスキア」 の墓ですな、と眺めてきただけだった。) 





墓石を眺め疲れて腰を伸ばせば、光の宝石降り注ぐステンドグラス! 「西蘭戦争 (スペインとオランダの戦争) 終結の記念」 にはめられたというステンドグラスも、これまた見事の一言である。  色ガラスを線に沿ってモザイク風にはめ込んだのではなく、一枚の巨大なガラスそのものに、キリストの物語などが描かれているようだ。





(スペインと戦争した後で、よくこんなに美しい壮大なステンドグラスを創る余裕があったなぁ。あ、戦利品として色々スペインの富を分捕ってきて、その富で創ったのかしらん。疑問は尽きないが、下調べもしていないので、ただ心のままに眺め味わう。) 





ステンドグラスは見る角度によって微妙に色合いが変わる。また、じっと同じ方向から見ていても、雲の流れによって晴れたり曇ったりを始終繰り返すアムステルダムの空の下、ステンドグラスは始終その光の具合を変えるのであった。陽が射すとあらゆる色が鮮やかに輝いて、たちまち教会内は神々しいまでの華やかさに満ちる。まるで色とりどりの光の祝福を受けるようだ。そして、曇ればたちまち粛々とした祈りの色に変わるのであった。





がらんと何も置かれていない、一面墓石が敷き詰められただけの空間は、足下に死者を従えながら、僧侶達が燭台を手に立ち並んでいたことがあったかも知れず、また、あどけない聖歌隊の少年達がその歌声で神を称えたこともあったかも知れず、様々な想像を掻き立て、さまざまな疑問を掻き立て、いくら眺めても飽くことがなかった。





教会の隅には、何箇所だか忘れたが人一人がやっと通れるほどの狭く急な螺旋階段があった。その階段は、 “街が見渡せる塔” へと続いているというが、残念ながら昇ることはできなかった。どれも階段の入り口に小さな門が作られており、その門に施錠がされていたのであった。





荘厳なパイプオルガンの音色の中、深い色合いに彩られたイエスの物語の光を浴びて、何百年という歳月、死者を守り続けている墓石で敷き詰められた床を歩けば、キリスト教信者でなくとも、敬虔な気持ちになって、心洗われる思いがするのであった。





(なお、part115とpart101の “偽学生証” についての記述はフィクションとしておきましょう。)





            つづく


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2001年夫婦世界旅行のつづきです。アムステルダム2日目の最大の課題、ブリュッセルへのチケットも手に入れました。朝10時にホテルを出てから、たっぷり5時間が過ぎてしまいましたが、空は晴れたり曇ったり小雨がぱらついたりしながら、まだまだ明るいのでした。今日の残りは、ダム広場を中心に街をのんびりうろつくことにしました。





part114  アムス2日目―その4


             レッドライトディストリクト! 





さて、バスチケットも無事購入。あとはフリータイムだ。時間は昼も3時をとうに回っている。もうあまり “観光” の時間はないので、無理をせず、近場を散策することにした。





まずは 「旧教会」 に行ってみることにした。ダム広場からちょいと東に行った辺りにあるはずだ。名も知らぬ細い通りを行くと、更に細い路地が縦横に広がる少し怪しげな地域に入った。運河沿いに並んでいるアパートメントの様子が、なんとなく妙だ。





アパートメントはどれも古色蒼然とした肌合いで、歴史的な色合いをしっとりと身に付けた佇まい。その手前を流れる運河のくすんだ水の色と、曇りがちな薄ら青い空と溶け合うようにマッチしていて、なかなか風情がある。だが、何か妙なのだ。





特にアパートメントの1階の部屋が妙だ。運河に面した窓のカーテンが開け放たれているところが多く、狭い部屋の中が丸見えである。と言っても、運河を挟んでいるので、私の位置から何から何まで見えるわけではないのだが、ベッドの端や壁際のドレッサーらしいものが見える。寝室が丸見えなんて、プライバシーに敏感なヨーロッパ人らしくもない。しかも、なんだかどの部屋もやけに薄ら暗い感じがする。





なんだろう、この違和感は? と思いつつ路地に視線を戻すと、次々に妙なモノが目に飛び込んできた。金髪美女のヌード写真。 (おほっ!) 女 (?) のお尻のどアップ写真。 (ほぇ~っ!) 壁飾りなのか置物なのか、巨大なオブジェ。 (肌色に彩色された、いわゆるひとつのオチ●チ●の “レプリカ” ? 一体誰がどこに飾るというのーっ? ) 





右も左も、狭い路地に看板もけばけばしく並ぶ店々のショーウィンドーに、所狭しと思いっきりエロい写真やいかがわしい様々なグッズが飾られているではないか。ポルノショップのオンパレードだ。おおっ。ここは! もしかして? いや、もしかしなくても!





我々が入り込んだのは、 「レッドライトディストリクト」 、あるいは「飾り窓」 と呼ばれるアムステルダムの名だたる “赤線地帯” だったのだ。





「レッドライトディストリクト」……そこでは、運河沿いの建物の窓々に、夜な夜な赤いライトが燈され、ガラス窓越しにしどけない売春婦の姿が立つという。そしてその窓にカーテンが引かれたら、 「客が入った」 という印らしい。





私が先ほど見かけた “丸見えの部屋” は、おそらくそうした売春宿なのだろう。そう思うと、あの妙な雰囲気が頷(うなず)ける。客を取る前の、スタンバイさえしていない部屋。けばけばしい化粧を落とした娼婦の、疲れた素顔のような部屋。





サマータイムに合わせた時計は4時を示している。時折雨の混じる曇りがちな空であったものの、薄日も差して、辺りはまだまだ明るい。再び運河の向こう岸に目をやる。古びたアパートメントが美しく並んでいる。 「赤いライト」 はまだどこにも点いていない。運河沿いの細い通りにも人影はほとんどない。時折住人らしき人が一人二人、行き交うのが見えるだけだ。





と、その向こう岸のアパートメントの一階のガラス窓越しに、大柄な女の黒い下着姿が目に飛び込んできた。窓辺に、黒いブラジャーと黒いパンティだけを身につけた半裸の女が、外を見ながら立ち尽くしているのであった。 (黒い下着が印象的だったのだから、おそらく白人もしくは黄色人種であったろう。びっくりしたので、あまり覚えていない。) 





おおおっ。ああやって客を待つのか。こんなに明るい時分からもう仕事なのか。ということは、あまり儲かっていないのかな? リアルタイムで肉眼で娼婦の立ち様を目にすると、先ほど見かけた “丸見え部屋” がまたも思い出され、彼女たちのくたびれた生活が、うんざりする現実が思いやられる。





しかし、雨風にまろやかに磨き上げられた古びたアパートの壁と、その壁に嵌(は)められた古びた窓枠の向こうに立つ黒い下着姿の女は、それだけで額縁に収められた一枚の絵を見るようで、どこか幻想的でさえあるのだった。





気をつけて見てみると、運河手前のアパートにも “丸見え部屋” があるある。カーテンが開け放たれた透明なガラス窓を通して、狭いベッドルームが丸見えだ。その窓辺窓辺に、半裸の女性がいるわ、いるわ! 





そしてそうした 「飾り窓」 の合間合間に、いわゆる 「大人のおもちゃ屋さん」 や、ポルノ雑誌店、ポルノビデオ店等が軒を連ねた通りがある。その通りの中に小さなレストランやカフェも並んでいる。大小様々(?)な男根の模型が並ぶショーウィンドーに挟まれたピザ屋の店先のテーブルで、ピザをほおばりビールを飲んでいる人々 (この時は、皆白人男性) がいる。どの男たちの顔もどこか緩んで見える。ピザをほおばりながら、何を味わっているのかわかったもんじゃない。あるいはそうしてまったりとビールを飲みながら、 “頃合” を見計らっているのだろうか。





ポルノショップの入り口はどこも狭く、入り口から覗くと、奥は暗くて穴倉のようで、店の中がどんな風なのか、通りからはよくわからない。ショーウィンドーのけばけばしさで引きつけ、いかがわしい暗黒へと客を飲み込んでいくのだろうか。レッドライトディストリクトでは、そうした “けばけばしさ” と “いかがわしさ” が、 “生々しさ” と “歴史的夢見心地” が、実にあっけらかんとひしめき合っていた。





Viva Sex! と叫ぶがごとく、窓辺に、通りに、店先に、 「性」 が陳列されている。あけすけな 「性」 の商品化。あっけらかんと 「性」 がやり取りされる通りでは、どぎまぎしながら、いちいちグッズに目を見張っては目を逸(そ)らす私の方が、挙動不信に映ったかもしれない。





(このとき、夫はどういう目付きをしていたのやら? おそらくやにさがった三日月のごとく、にんまりと弧を描いていた (⋒ ⋒) のではなかろうか。 確認していないが、とにかく一緒に驚いていたことだけは確かである。)





しかし、そんなにあっけらかんと大っぴらなポルノ界隈でも、一歩踏み込んだ路地は道幅がいきなり極端に細くなり、路地の出口で挟み撃ちされたらアウト! 逃げ場のない造りになってもいるのだった。なかなか物騒そうでもある。





窓辺に立つ娼婦は黒人が多いようだった。 (時間帯にもよるのかもしれないが。) 思えば、白人の本拠地ヨーロッパで、最初の都市アムステルダに着いた当初から、街に黒人が多いのに少々驚いたことであった。特にアムステルダム・セントラァール駅周辺では、目付きの悪い黒人とアラブ系の人間が多く目についた。白人社会の中でいい仕事に就けずに、貧しいのか? と思ったものの、さらに街中(まちなか)を歩いていると、なかなか金回りのよさそうな、ゴージャスな身なりの黒人も多いようで、 「自由の国・オランダ」 ゆえに人種差別もなく、平等に稼げているらしい?……とも思っていたのだが。





しかし、結局こういうことだったのか。 (そう言えば、ゴージャスな身なりの黒人は女性ばかりではなかったか?) 昔、アフリカ大陸から奴隷として連れて来られた黒人達の子孫は、今、女は夜な夜な怪しげな赤いライトの元で春を売り、男はバスの運転手や掃除夫などの地味な職を見つけて、バリバリ資本主義の白人社会の中でなんとか日々の生活を保っている? まばゆいばかりのオランダの繁栄の光は、そうした犠牲者の暗い影に支えられている?





しかし、オランダでは売春は2000年に合法化されているし、売春婦の労働組合などもあると聞いている。オランダでは 「売春婦」 とは、立派な一つの労働としての市民権を得た職業だということだろう。やはり我々が考えるほど、暗く哀しいイメージはないのかもしれない。





我々はまだ夜のアムステルダムの街を知らないが、運河にレッドライトの映るさまは美しかろう。レッドライトディストリクトの南の方に 「Bridge of 15 Bridges」 と呼ばれる橋があるらしい。そこからは運河に架かる15の橋が一望できて、ライトアップされたときなどは壮観だという。そうした夜の運河を巡り、このレッドライトディストリクトまで来たとき、運河沿いの古いアパートの窓々から洩れる赤い光は、酔客のだみ声とともに、暗い運河に滲(にじ)むように揺れるのかもしれない。


        


注:


 この日記では、黒人男性の職種として 「バスの運転手」 「掃除夫」を挙げてあるが、黒人に限ったことではない。白人の運転手も掃除夫もいた。掃除夫たちは、白人も黒人も同じ緑のつなぎを着て、同じように道に転がった瓶など拾っていた。同じように長い箒で一緒に道を掃いていた。ただ、大通りに面した店や、ビジネス街の近代的オフィスの中では白人しか見かけなかったので、私の目から見たら、黒人の男性は低所得な目立たない仕事にしかつけないのではなかろうか……と思われた。


また、 「バスの運転手」 と書いたが、今思うと 「バス」 なんて走っていたかしら? と記憶にない。アムスの街なかでは 「トラム」 しか見た覚えがないのだが、日記にそう書いてある以上、当時私は 「黒人のバスの運転手」 を見たのだろうな、と自分を信じることにした次第である。記憶違いだったら、ごめんなさい。(..)


             


つづく


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