お店が休みの日曜。
金曜島パールの、素晴らしい価値が表現されていない。。と気になっていたので、ディスプレイ棚に照明を付けてもらいました。
金曜島は、オーストラリア大陸とニューギニアの間、トレス海峡にあります。
お隣の木曜島は、司馬遼太郎さんの「木曜島の夜会」という短編の舞台にもなった場所で、明治時代から戦前にかけて、多くのパールダイバーが真珠を採るために移り住んでいました。
1897年(明治30年)、木曜島の真珠関係の従業者1500人のうち、900人が日本人だったと言います。普通は1日5本のダイブが限界とのころ、日本人はその10倍は潜ったとの記録も。
でも、当時のパールダイビングは、現在のようなダイビング器材がなく、途中で酸素が切れたり、サメに襲われることも多い命がけの仕事。
実に、700人もの日本人の方が命を落としました。
「昭和前期、農村で働いたとして、1年の賃金が15~20円程度。ところが移民の場合、3年間でおおよそ350円稼げたという。
若い日本人が命を懸けてまで潜る理由は、明解だったのだ。 」(http://www.tanken.com/moku2.htmlより)
「下半身は黄色とオレンジの硬いラバースーツで、ヘルメットとネジでつなげるようになっている。首にロープを巻きつけ、浮上するときにはヘルメット横のバルブを閉めることで空気がたまり、浮力で「より速く」浮くことができた。
この潜水服は、水中で浮力をつけても40キロの重量があったという。ダイバーはこの拘束を受けた上で、夏でも冷たい真っ暗な深海を歩き回っていたのである。」
当時は、パールだけでなく、白蝶貝がボタンなどに重宝されていて、大きな財を成した人も大勢いたのですが、プラスチックが台頭し、そして大戦が勃発したことで、木曜島の真珠産業は一気に衰退してしまいました。
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現在、パウチで扱わせていただいているパールは、隣の金曜島で養殖されたもの。
無人島、電気も通っていないこの島で、養殖ひとすじ、真珠のことは何でもご存知の高見さんと昔からの知り合いだったご縁で、お店に置いていただくことになったのでした。
ケアンズで、他に扱っているお店はありません。
高見さんは、真の職人さんであり、妥協が一切ない姿勢に驚かされます。
真珠の照り、巻き、外から見てすぐわからない質の高さが一粒一粒に詰まっている。
私も、もっとパールのことを勉強して、この貴重な南洋真珠のことを皆さんにきちんとお伝えしようと、今、金曜島を訪ねることを計画中です。
私が気に入っていた黒真珠の一粒チョーカーはこの後、お嫁入り?しました。
写真ではよくわからないけど、上品で、鎖骨あたりの納まり感も最高。シンプルな服のポイントにすると大人ですよね。
南洋真珠プロモーションの第一歩としてのディスプレイ変更ですが、違いは一目瞭然!
美しい南洋真珠のために、これから力を注いでゆきます。