2012年9月3日付で約一年ぶりに日記を書いた模様。
内容的には一顧の価値もないが、これまで何をしていたのか気になるところ。
2011年03月18日18:30付 「財閥富を奢れども社稷を思う心無し」について

あれほど2ちゃんねるで警告されているのに、まだ経済や会計について知ったかぶろうとしている。
おそらくFXで大損でもしたのだろう。
憤懣やるかたなくて円高の背景を何とか貶めたいとの考えのようだ。

そもそも論として、急激な円高の背景にあるのは実需というよりは、
投機的な取引によるものではないか、との指摘も成り立つのだが、それは置いておこう。

企業の主な財務諸表として、「貸借対照表」、「損益計算書」、「キャッシュフロー計算書」があるが、
大尉氏はこれをまったく理解していないようである。
さらに、損益計算書上の「損益」には、営業利益、経常利益、当期純利益などがあるが、これも理解できていない。

対外資産を売却して利益がでたとしても、それが本業の利益を示す営業利益あるいは経常利益には通常入らない。
投資家が企業の決算を見るときには営業利益、経常利益を重視する。
そのため、一時的に特別利益を計上するなどという幼稚な考えは全く通用せず、企業もそんなことは全く考えない。

また、企業によってはこのような取引を特別利益としない場合もあるが、
そもそも通常は時価会計を導入しているので、売却する前から「含み益」が計上されており、
損益にはあまり影響しない。
対外資産を売却するのは、キャッシュフロー(固定資産を流動化する)のためであり、
「キャシュフロー計算書」や「貸借対照表」にはおおいに影響があるものの、
どう転んでも「赤字の埋め合わせ」にはならないのだ。


> すると、市場にはドル為替があふれ、円為替が少なくなる。
> こうなれば、「希少価値」によって当然円の価値は高まり、円高となる。

この文章もおかしい。
対外資産を売却すれば日本企業はドルを得るが、そのドルはもともと市場にあったものだ。
したがって、対外資産を売却しても市場にあるドルの流通量は変わらない。
同様に、取引の前後で円の流通量も変わらない。
異なるのはドルを円に変えたいという「円への需要」だけなのである。
大尉氏はいつも需要が価格を決定すると嘯いているではないか。


> けど、売る場所は外国だ。

これもおかしい。
為替相場はNYでも東京でもロンドンでも取引時間の差こそあれ、基本的に同じだ。
マネーに国境はないと良く言われるではないか。
NYで円を買って、東京でドルを売っても構わない。
だから、市場関係者は24時間相場から離れられないのだ。

日本企業がネアンデルタールなのではなく、いつまでも正しい知識を身につけない者がサルなのだ。
3か月ぶりに「騙る会」会長殿が日記を更新したようである(2009年09月01日23:02付「いいおんなって・・・」)。

このタイミングで日記を書くこと関する「騙る会」会長殿の動機として以下を指摘したい。
(1)独自の日記を執筆することで、大尉氏から独立した存在であることをアピールする。
(2)「女性の視点」を強調することで、男性による執筆であることを否定する(過去数回の日記に共通の特徴である)。

しかしながら、みれば見るほど大尉氏の文体と酷似しているのみならず、男性(あるいは同性愛者)による執筆であるとしか考えられない幾つかの特徴を有している。

外形的な特徴では、行頭に全角スペースが一つ入ること、体言止めや疑問文(クエスチョンマーク)、括弧、改行を多用することなど。
他にも幾つかあるのだが、あまり公表すると大尉氏と「騙る会」会長殿に入れ知恵をすることになるので、このあたりまでで差し控えたい。

内容面では、大尉氏の人間の能力をハードディスクとCPUに例える話法(もったいぶって「理論」といっているが、ただの比喩に過ぎず、それで何か新しい解釈が生まれるわけではない)、「恋愛能力は共感能力」という主張を下敷きにしたもので、そんなことを素面で日記書けるのは本人以外にあり得ないという疑念をむしろ強く抱かせる結果となっている。
しかも、文章をよく見れば、完全に「男目線」の文章であって、到底女性によって書かれたものとは思えない(あるいは同性愛者)内容である。

以下に幾つか例を示したい。

まず、女性は普通「女」という表現を使わない。
「女性」あるいは「女の子」という言葉は頻繁に使われるが、「女」ということばは男性による蔑称とみなされる傾向があり、心理的な抵抗感があるからである。
「騙る会」会長殿もその点を心得ているのか、タイトルや本文一行目では「いいおんな」として、ひらがなで表現の語感を弱めている。
しかしなが、終盤では「買ってくる女」という表現を使っている。
「男性目線の成句」であるとしてかぎかっこ付きで使えば、むしろ女性が使用しても違和感の少ない「いい女」の表現に気を使う人間が、ここで「買ってくる女」とするのはあまりに不自然だ。
女性による文章であれば、当然「買ってくる人」などとするところだろう。

さらに特徴的なのは、「これ、わたしが男だったとしても、かなりメロメロだと思います!!」の件である。
自分が女性であって、男性だった場合のことを仮定して会話をする場合、「男だったとしても」ではなく、「男だったとしたら」とするのが正しい表現だ。
「男だったとしても」の場合、「自分が男性でなくてもメロメロであるが、仮に自分が男だったとしても同じくメロメロだと思う」という意味になる。
何気ない表現かもしれないが、「騙る会」会長殿は普段からそのような女性に対して「かなりメロメロ」になっていることを暗示しており、「騙る会」会長殿が女性であるならば相当な女好きでもない限り不自然だ。

大体の話が、冒頭の「三日で飽きる」という表現で、すでに女性による発言とは思えないのであるが・・・。


ふとしたところで、女性蔑視の大尉氏の視線が見え隠れする文章であり、「騙る会」会長殿は墓穴を掘ったというべきだろう。

今後も、同一人物説については他にも多数のネタがあるので順次公表していきたい。
仮に、であるが、大尉氏と「騙る会」会長の市松氏が同一人物であるとすれば、即刻どちらかのアカウントを今後使用しないこととし、管理人を務めるコミュニティを手放すことを勧告したい。

なお、規約違反者の通報はこちらから可能である。
http://mixi.jp/inquiry.pl?mode=inquiry&category=9
27日早朝、またしても大尉氏と「騙る会」会長殿が全く同じタイミングでログイン・ログオフをしていたので報告する。
(なお、騙る会会長殿は約3日ぶりとなるログインであった)


今回も同一人物説の状況証拠を提供したい。

「騙る会」会長殿の過去の日記(昨年まで)が消去されていることに注目してほしい。
自らの過去の日記を消去する理由は何であろうか。
可能性として、同一人物説を強く印象付ける特徴が残っているからということが考えられる。
両者の文章には今まで挙げたもののほかにも、言葉には複数の語義があるにも関わらずたった一つの定義に拘泥することや、句読点やスペースの使い方等酷似する点が多数ある。
日記を消去したとしても、騙る会会長殿の文章は多数のコミュニティの書き込みに残っているので容易に参照できるのだが、少なくともばれにくくすることは可能である。

なお、個人で複数のアカウントを持つことや、嫌がらせ・中傷行為については、mixiの利用規約に反するので、以下から運営側に通報することができるので、参考までにお知らせする。
http://mixi.jp/inquiry.pl?mode=inquiry&category=9

大尉氏や騙る会会長が同一人物なのかは分からないが、「嫌がらせ・中傷行為」については度々確認できるので、あまりにひどければ通報するのも一案かもしれない。
「語る会」会長殿と大尉氏が同一人物ではないか、ということについては、過去(http://ameblo.jp/captain-teaser/entry-10321048568.html)、(http://ameblo.jp/captain-teaser/entry-10294307067.html)、(http://ameblo.jp/captain-teaser/entry-10281835259.html)で述べたとおりであるが、昨日また会長殿がログインしていたことが確認された(そしてほぼ同時刻に両者ともログオフしている)ので、従来の方針どおり、少しずつ追加で状況証拠を提供することにしたい。


まず、大尉氏は他人(そして女性)を騙ることについて抵抗感がないどころか、それを楽しみにしているという事実を見逃すことはできない。

たとえば、2007年12月07日22:29付の「何故、僕は30分後にネカマとなったか」においては、大尉氏がいかにしてネカマになったかということが詳細に書いてある。

また、この日記によれば、女性のふりをする際のコツとして以下を挙げている。
「リアルな女の子は、さほど女らしい話し方をしない。」
これは、会長殿の文章の特徴にも当てはまるものであり、大尉氏が会長殿の名義で文章を書く際に大いに参考していることと考えられる。

なお、2009年06月26日14:48付「2ちゃんねる的お育ち」においては、過去に2ちゃんねるにて「19才女子大生」を騙り、「1999年当時、『在日韓国人にレイプされました』スレを立ち上げ、『パート20』まで盛り上げた。 」としている。
これは過去の話であるものの、本件について今年になっても誇らしげに日記に書いていることから、他人(女性)を騙ることについて現在も何の後ろめたさも持っていないことを如実に示している。


また、会長殿のキャラクター設定については、大尉氏が常々公言している自分自身の女性の好みを的確に反映していることも指摘しなければならない。
たとえば、会長殿は和風なプロフィール画像(および名前)を掲載しているが、大尉氏自身が運営する「コレヒロサイト」のトップ画像の女性のイラストも同様の傾向となってる。


この他にも多数の状況証拠があるので、今後も適宜情報提供を行っていく予定である。
このところ「語る会」会長殿(市松氏)の動向について観察するとともに、会長殿の過去の書き込みについて調査していたので、概要を報告したい。

会長殿自信の日記については、過去のものが消去されているので、会長殿と大尉氏によるmixiの複数のコミュニティにおける過去の書き込みを分析してみた。

まず、会長殿名義の書き込みが実は大尉氏によるものであるという仮説については、確信を裏付けるに余りある証拠が多数見つかった。
大尉氏は定期的に当ブログをチェックしており、詳細を公表すると「余計な知恵をつける」ことになりかねないので、なぜ同一人物による書き込みであると断定的に判断できるのかについては、差し障りのない範囲で一例をあげるにとどめることにしたい。

(論拠の一例)
・両者とも読点の「、」と「,」の両方を使い、その傾向は時期によって異なるが、その傾向が一致する。
・タイプミスや変換ミスの傾向が酷似。
・物理的にあり得ないタイミングでの書き込み(例:長い空白の時間→大尉氏による数千字による書き込み→数分後に会長殿による数百字の書き込み(大尉氏による書き込みを踏まえている))
・「必要条件」・「十分条件」・「必要十分条件」等の概念に対する誤理解の仕方が一致。通常の大学生であれば絶対にしないような誤理解の仕方をしており、ましてはそれでロースクールなどいけるはずもない。
・ごく基本的な法律論に関する誤解の仕方が一致。学部レベルにも到底満たないような誤解の仕方。



会長殿はこの2週間以上ログインしていなかったが、久しぶりの書き込みがあったので告知する。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1252696366&owner_id=1101181

今回も、大尉氏を批判する「強敵」が出てきた場合に、その相手を「APE」呼ばわりするという役回りを忠実に演じている。
なお、会長殿はこの書き込みの直後にログオフしている。
次の大尉氏による書き込みに備えてログオフしたものと考えられる。

今後も会長殿による書き込み等が見つかり次第、少しずつ上記のような内容を公表していく予定である。
2009年07月21日17:46付 「格好良いことが言えないのは」について


大尉氏は政治について語る前に、最低限、小学校の社会科で習う程度の政治の勉強をすべきだ。
法的な根拠については、脳内で「語る会」会長殿にレクチャーを依頼すべきだろう。


まず、以下の発言については、まったくスジが通らない。


> 「私は、私に投票した者の代表者であり、国民の意見を聞く理由はない」
 (中略)
> 外国人が何か意見をいったら、未成年者が何か意見を言ったら、
> 「有権者ではない者の意見を聞くべき理由がない」という。


この発言がいかにスジが通っていないかは、日本国憲法第43条を見ればわかる。
同条によれば、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」のだ。
したがって、建前上は、国会議員は「全国民を代表する」のであり、「私に投票した者の代表者」などではない。
もちろん、現実の政治では支持者の意向を無視することはできないのであるが、憲法の精神と反対のことを発言しようとするのは、政治家としての資質なし、というよりは、そもそも政治について語る資格なしとせざるを得ないだろう。


つぎに、ここでもはなはだしい論理の矛盾によって、自分に都合のよい議論を行っている。

「国民全員に意見公聴はできないからこそ、選挙がある。」という主張をしているが、正しいロジックは、「直接民主制が困難なために、間接民主制をとっており、そのために選挙がある。頻繁に選挙ができないから、社会の公器たるマスコミが世論調査を行って補完している。」のである。
つまり、「選挙」が伝えているのは「民意」であり、「世論調査」が伝えているのも同じく「民意」である。

また、「それが国民の意見であるという根拠がない」という主張についても、十分なサンプル数と適切な調査方法に基づいたものであれば、統計学的に考えて世論調査はほぼ正確に民意を把握できる。


以上のように、大尉氏の世論調査は無視してよいという主張は著しく筋違いである。
が、筆者としては、大尉氏がなんらかの選挙に立候補したいとの意向があるように見受けられる。
こちらの方は、大いにやってもらって結構だ。
ネットの世界で誹謗中傷を繰り返すよりは、はるかに健全であろう。


なお、「恋愛」については、大尉氏の好きなように行動すればよいと思う。
ただし、「共感能力が人間の証明」とする大尉氏のヒト・サルストーリーからすれば、相手の感情を無視した瞬間に人間でなくなってしまうのであるが。
2009年07月15日21:27付 「バカはidentityたる芸術を求める也」について


相変わらず論理的な思考能力が決定的に欠如していることを如実に表わす文章である。


1.遺伝子と同性愛について

同性愛の原因を遺伝子に求める説というのは多数あるので、大尉氏の言う遺伝子犯人説はたしかに有力である。
他方、その他の原因もあり得ると考えられているので、大尉氏の言うような「同性愛の原因はすべて遺伝子」という命題は正しくない。

男女の同性愛の比率が異なることをもって、Y染色体が原因と結論付けるのもセンスがなさすぎる。

たとえば、http://www1.ocn.ne.jp/~kenspage/karadanoshikumi/karadanoshikumi_hataraki10.htmにあるように、「本人の母方の伯父や叔父、従兄弟の中に同性愛者がいる割合は7.5%で、父方の2%以下と比べ、はるかに高率」であることから、「母親から男の子に伝わるX染色体」が問題である可能性も当然にして考えられるのだ。
また、女性のほうが性的マイノリティーであることを告白することに抵抗感が強いという、統計上のエラーについても考慮しなくてはならないだろう。

遺伝子はあくまで「組み合わせ」が問題であり、「男性に同性愛が多いからY染色体が原因」などど単純なメカニズムで物事が説明できるとは、片腹痛いというよりほかはない。


2.アイデンティティーとマイノリティーについて


「マイノリティーであることをアイデンティティーとすること」は、確かに思春期ころにありがちが思想であろう。
なかには、大尉氏のようにいつまでたっても、十代の思考から脱却できない者もいるのも確かである。

一方で、同性愛にしても中絶にしても、「マイノリティーになりたい」という動機を原因とするのはあまりにも乱暴だ。
妄想でストーリーを考えるにしても、「なんらか別の理由で中絶をしたり同性愛者になってしまった。そこで、自己を肯定するために、マイノリティーである自分を『格好良い』と考えることにした。」というストーリーの方がはるかに説得力があろう。
因果関係が逆である可能性のほうがはるかに高い。

宗教とマイノリティーの関係についても、同様に大尉氏の主張は全く根拠がない。


3.指導者と因果関係について

> 芸術家の紹介文は、このような表現が好まれて多用される。
> 「○○先生に従事」「○○氏の指導をうける」
> 人間社会の視点からみると、指導をうけたり従事したことと、本人の実力・素養には何ら因果関係はない。
> 例えば、○○大法学部で元最高裁判事の○○教授の教えを受けようと、司法試験に落ちる奴は落ちる。

さすがに、きちんとした指導者について勉強をしたことのない人間の発想である。
我々の常識からして、「指導をうけたり従事したこと」と「本人の実力・素養」には大いに関係がある。

まず、高名な指導者は人気があるため、そこで勉強するためには、より倍率の高い競争に勝たなければならない。
したがって、大学間でも序列が生まれ、大学内でも指導教官によって序列が生まれるのである。
この時点で、実力との間で「因果関係」はなくとも「相関関係」が認められる。
次に、指導者が高名であることと、その教育の質に相関関係があるのであれば、当然指導を受けた生徒の「実力・素養」との間に「因果関係」も生ずる。

何より大事なのは、現在の学問は極めて高度化されるとともに細分化されており、学者ごとに専門分野が著しく異なっていることである。
したがって、指導教官と本人の専門性、学問的立場等には明確な因果関係がある。
芸術も同様で、多種多様なスタイルが存在するため、指導教官と生徒のスタイルには明確な因果関係が生じよう。

また、法学部の教官の評価を司法試験の合格率で考えようとするのは愚の骨頂である。
法学部は司法試験に合格するために存在する予備校ではない。
ロースクールも然りで、プロとしての法曹人の育成が目的であって、試験の合格が一義的な目的ではない。
大尉氏の議論に基づけば、「良いロースクール」では、司法試験に出題されない法律は一切教えないことになってしまう。

大尉氏は学問の府である大学を予備校の感覚で考えないでほしい。


4.社会的評価と大尉氏の著作について

> そんな芸術家にも、客観的尺度があてはめられる時がある。
> それは、市場に参加したときだ。

大尉氏は、2004年11月に「大東亜戦争を心から正しいと言えるようになる本」という本を出版されたが、全く売れず、早々に絶版になってしまった。
大尉氏の主張する「客観的尺度」に当てはめれば、大尉氏自身は「賢くない」ということになろう。
2009年07月10日22:57付 「レトリック入門 煽りの芸術」について


まず、大尉氏の法律に関する無知さから指摘しなければならない。

大尉氏は、以下のように書いている。

> 日本の判例を読むと、「理由がない」とか「・・であるとはいえない」という否定形が多い。どこにも「である」という肯定文は見あたらない。
> それもそのはずで、肯定すると根拠を示す義務が生じるので、正直メンドクサイ。だから、慣習的に「理由がない」とか「根拠がない」といった方が楽なのだ。

読者が法律について素人であったとしても、このような文章こそ「理由がない」、「根拠がない」と判断しなくてはならない。
詳しくは、(http://ameblo.jp/captain-teaser/entry-10294307067.html)のVCさんのコメントを参照頂きたいが、おおざっぱにいえば裁判とは、原告側の主張(たとえば、被告がある罪を犯したということ)や、被告側の主張に理由があるか、根拠があるかを判断するものなのである。
その意味で、裁判所は「受け身」の姿勢であり、訴え等に「理由」や「根拠」があるかを判断するため、当然なのだ。
大尉氏は、ロースクールに通っておられる「語る会」会長を兼任されている立場なので、ぜひ法律論については、せめて素人なら納得してしまいそうな文章を書いていただきたい。


続いて、大尉式論理学についてである。

大尉氏の論理学や統計学の理解は悲惨なものだ。
「必要条件・十分条件の対偶理解」、「PならばQ 対偶 QでないならばPでもない」などと言っているが、大尉氏自身が「コピーエラー」を起こして、「P」や「Q」を真実を捻じ曲げて解釈しているのだから、「対偶」云々を議論すること自体がナンセンスなのである。

まず、大尉氏は「朝鮮人は良い人」、「九州の料理はおいしい」といった文章を例示しているが、これらはそれぞれ個人の主観的判断を示している文章であり、そもそも「P」だの「Q」などといった論理学などを持ち出して真偽を議論すべき対象ではない。
論理学以前に、基礎である「論理的思考能力」が決定的にかけている証拠である。


また、「聖書の記載通りなら、アダムの子孫に有色人種は存在しない。黒人もアジア人もアダムの子孫ではない。神が創ったものではない」という記述についても、「大尉氏のいうところの「コピーエラー」が散見される。

まず、聖書の記述が「アダムの子孫は○○であって、また○○だけである」(つまり「必要十分条件」)という勝手な前提を置いている。
しかし、たとえばwikipediaでは(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0)、「アダムとイヴは沢山の子をもうけたが、『創世記』にはその内3人の名前だけが記されている。カイン、アベルとセトである。『ヨベル書』ではさらに、セトの妻となったアズラ、カインの妻となったアワンという娘2人の名前も記録されている。」とあるとおり、アダムの子孫について網羅的に書いてあるという前提が成立していないと考えられる。
すなわち、「○○であればアダムの子孫である」という関係が成り立つとして、対偶は「アダムの子孫でなければ○○ではない」という命題にすぎず、「アダムの子孫であっても○○ではない」という可能性を全く排除していない。

仮に、大尉氏の言うような「必要十分」な関係が成り立っていたとしても、「アダム以外に神は人間を作らなかった」という記述がないのであれば、「黒人もアジア人も神が創ったものではない」ということにはならないだろう。

したがって、論理学的に考えれば、大尉氏の主張は「誤り」なのである(ロジックが間違っている)。



続いて、おなじみの「過度の一般化」をしている。

> 人はまず言葉をみる。言葉を話せる者とは敵対しない。言葉を話せない者を動物とみなす。

これも、常識的に考えてすべてのケースの妥当するとは考えにくい。
したがって、論理学的にいえば「誤り」となる。
論理学的に考えた場合、唯一つの例外も許されてはならないのだ。



そして、過去に論破されたことへの言い訳を始める。

> 例えば、「アメリカにおいて、白人胎児が中絶された事例を探すことは難しい」という発言をしてみた。
> すると、エイプは「白人女性が中絶した資料」などもってくる。しかし、白人の肌は劣性遺伝であるから、妊婦が白人であるからといって胎児が白人であることに因果関係はない。

「白人の肌は劣性遺伝」という前提が正しいとした場合、父母双方が白人でなければ白人の胎児が生まれないのであるから、「母親が白人であること」は「胎児が白人であること」という「結果」に対する「原因」である。
したがって、この場合は明確な「因果関係」があるのだ。
「因果関係」、「相関関係」について、数年ほどかけて勉強することを推奨したい。


そして、

> 以上の理由から、「アメリカでは白人の胎児が中絶された事例を見つけることは困難である」というフレーズは、とてもいい「ひっかけ」となるのだ。

としているが、正しい原文は「その多くは、もちろん黒人、ヒスパニック、アジア人などの有色人種だ。白人の女性が中絶する例というのは、それこそ探す方が難しい。」である。
http://ameblo.jp/captain-teaser/entry-10280828120.html
「白人の女性が中絶する例」を勝手に「白人の胎児が中絶された事例」にすり替えないでほしい。
あまりにも卑怯すぎてあいた口がふさがらないが、これを「ひっかけ」としてごまかそうとするのは、
負け惜しみにすらなっておらず、あまりにも幼稚である。
なるほど、大尉氏の言う「コピーエラー」というのはこういうことなのか、と納得するしかない。

論破されたら「煽りの芸術」と称すればよいとは、なんともうらやましい身分である。