成吉思汗は義経なり | 真空管のアナログ世界に魅せられて

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「温故知新」と言う言葉が有りますが、真空管は将にそんな存在だと思います。真空管を今では知る人も少なくなりましたが、デジタル全盛の今でも、真空管のアナログ技術を学び、真空管ラジオを楽しむ人は沢山います。私もその中の一人です。真空管を愛しむ想いで・・・・。

NHKの大河ドラマ「義経」は2005年度に放送されました。現在放送されている「平清盛」は、この清盛を統領とする平家一族と源義経との戦いの物語とも言えます。

義経は「一ノ谷の合戦」(兵庫県神戸市須磨区ー1184年2月)に勝利して、「屋島」、「壇ノ浦」と転戦、大勝利を収めることになります。

 

しかし、この頃から「義経」の背後には悲劇の暗い影が忍び寄ります。このときを最後に義経は頼朝に生涯を通じて見えることなく、頼朝に反旗を翻すことに成ります。義経は戦に破れ、已む無く、再び幼い時庇護を受けた平泉の藤原秀衡を頼り逃避行を続けました。


その逃避行に至る前、鎌倉の腰越では義経の悲痛な叫びとも言える「腰越の申状」、弁慶の石川県「安宅ノ関」における勧進帳の逸話などなどを挟み、義経に対する大衆の同情が加速度的に巻き上がりました。その反動として頼朝は非情冷酷のレッテルが貼られることに。


ここに「判官びいき」という大衆心理が、平安時代末期ごろから平成の現代まで、延々と引き継がれて来ました。ここに言う判官(ほうがんともはんがんとも)とは、義経が京都の鞍馬寺にいるころ「九郎判官義経」呼ばれたことに由縁します。又、義経は父義朝の第9男であったので九郎と呼ばれました。


この判官びいきが極限まで昇華して、史実では藤原泰衡に攻められて義経は1189年に平泉衣川館で自殺します。しかし、判官びいきの大衆は義経を殺すに忍びず「義経北行説」が独り歩きしました。

義経は衣川では死なず、蝦夷地(北海道)を経てモンゴルの覇者、成吉思汗に成ったと。大正時代に小矢部全一郎なる人物が「成吉思汗は源義経なり」とする論文を発表して大論争に成りました。

この論拠にはかなりの信憑性があります。そのひとつに、義経が衣川で自殺したとされる、1189年(30歳)から17年後に成吉思汗がモンゴルで活躍を始めており、その点では矛盾がありません。


この時代に義経が生きていたとすると義経は計算上では47歳と成ります。この年齢であれば、当時の平均寿命がたとえ、50歳位だとしても、その「成吉思汗は義経なり」の可能性は否定されないわけです。

さて、ここで、「成吉思汗は義経なり」をテーマにした長編推理小説を紹介しましょう。

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