三成と吉継が交した真の友情 | 真空管のアナログ世界に魅せられて

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「温故知新」と言う言葉が有りますが、真空管は将にそんな存在だと思います。真空管を今では知る人も少なくなりましたが、デジタル全盛の今でも、真空管のアナログ技術を学び、真空管ラジオを楽しむ人は沢山います。私もその中の一人です。真空管を愛しむ想いで・・・・。

私達が現在見る歴史は、その時代の武士とか商人、農民など、その他多くの人物が血みどろの苦闘とか友情に支えられて織りなされた人生模様と言えましょう。


その人物の行動のエネルギーは、自己の保身のためで有ったり、天下を取るためであったり、主君の為に命を投げ出す事など種々雑多です。


今回は、天下の分け目の合戦と言われた、「関が原の合戦」(1600/9/15)を演じた、首謀者の石田三成 と、その三成の盟友、大谷吉継 に付いて書きます。合戦当時の年は、三成と同年配の40歳でした。


「関が原の合戦」は、豊臣秀吉の亡き後、徳川家康の台頭を封じるための戦いでした。秀吉恩顧の武士団(西軍)と家康武士団(東軍)との戦いだったのです。


この戦いでは、主君、豊臣秀吉亡き後、幼い秀頼を援け、豊臣家の存亡を賭けた戦いですから、西軍の三成側に「義」が有ります。東軍は、豊臣家を潰し、家康がそれに取って代わろうとする戦いですから、それは、「義」以前の問題でしょう。


この戦いは、悪名高き、小早川秀秋の裏切りにより、西軍の石田三成方が総崩れとなり、大敗を喫しました。三成は東軍に捕らえられ、京の三条河原で打ち首に成ります。


この天下分け目の合戦で、最期まで死闘を演じた後、壮絶な討ち死にをしたのは、先に紹介の大谷吉継でした。この当時、吉継は持病がひどくなり、馬に乗ることさえも出来ず、已む無く輿に乗り、軍を指揮したといいます。


大谷吉継が、三成のためにここまでして働き、壮絶な討ち死にまでしたのでしょうか。そのエネルギーの根源は、何だったのでしょうか。それを分析するのが、今回のテーマです。


もともと、二人は近江(滋賀県)の出身ですが、その地で秀吉に見出され、秀吉に共に仕えた以外には、特別の仲では有りませんでした。


吉継は、勇猛、有能な武将でしたが、吉継には一つ困った事が有りました。当時は不治の病と恐れられて、傍によるのも嫌らわれた、らい病患者だったのです。


ある日の夜、三成が諸大名を大阪城に招き、家康の横暴を非難し、秀吉の恩顧に応える為に、家康を排するための合戦をなす相談をするため、酒宴の席を設けました。


その席で、三成が諸侯の心を一つに纏めるつもりも有って、大杯に酒を満たし、同席の諸侯に「順番に回し飲み」する事を求めました。


吉継の横には三成が座していました。諸侯はその席を避けたきらいが有ります。何しろ、吉継は、らい病患者ですから吉継の口を付けた杯は受けたく有りません。


やがて、杯は、吉継に回ってきました。諸侯は、その一点に目を凝らして見ていました。三成がいかなる態度で杯を受けるかをです。


吉継は、らい病患者のため、鼻は、赤くはれ上がり、一部は崩れていたと言います。吉継は、満たされた酒をグイっと一飲みしました。


その時・・・・・・、


吉継の崩れた鼻からポタリと鼻水が垂れ杯の中に落ちました

さて、三成が、どんな表情で、杯を受けるかを諸侯の眼は、じーっと凝固したままでした。


しかし、三成は、その杯を吉継から、静かに受けるや、何の躊躇いも無く、一息に飲んでしまいました。この事件以来、諸侯の三成を見る眼は、一変したと言います。


吉継に至っては、三成に心から感謝し、三成の為なら、命を投げ出しても良いとまで思うように成りました。



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この出来事は、人は、誠意有る言葉でも心を開き、相手を信じる事がありますが、三成のように、行動で示せば、より確実に人の心を捉えることが出来る証明でしょう。