家光の乳母「春日局」 | 真空管のアナログ世界に魅せられて

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「温故知新」と言う言葉が有りますが、真空管は将にそんな存在だと思います。真空管を今では知る人も少なくなりましたが、デジタル全盛の今でも、真空管のアナログ技術を学び、真空管ラジオを楽しむ人は沢山います。私もその中の一人です。真空管を愛しむ想いで・・・・。

徳川家光の乳母として幕府の大奥に有って権勢を得て、後世に名を成した春日局に付いて語ります。


春日局(1579~1643)の出自のあらましを

以下に述べます。


生地は兵庫県氷上郡春日町で出生。父は明智光秀の家老斉藤利三(としみつ)の娘、お福として生まれました。明智光秀の謀反(本能寺の変1582年)により、父利三は京都三条河原で処刑され、お福は4歳にして母、姉達と共に逆境を彷徨います。一時、土佐の長宗我部氏の庇護を受けるなど苦労の末、17歳にして稲葉一鉄の家来であった稲葉正成と結婚。正成の間に、正勝、正利ら四男をもうけました。


後に、お福は稲葉正成と離婚、徳川の重臣、板倉勝重の推挙を得て、三代将軍家光の乳母として大奥に入ります。離婚までして乳母に成ったのは稲葉一族(斎藤一族)の再興と、子供の出世を願っての事と言われています。


正勝は、局の出仕と共に家光の小姓に登用され、後に小田原城8万5000石の城主にまで取り立てられます。しかし不運にも正勝は38歳で病死します。城主になって僅か一年後の悲劇です。局の最初の大きな挫折でした。


そこで、局は自分の兄、斉藤利宗を後見人にする条件で、正勝の子、正則11歳に、家督を相続させることを願い出て許されます。この時、正則は母を既に4歳で失っていましたから、局にとっては、正則は孫と言うよりは自分の子供同様の待遇を以って可愛がったと思われます。


家光も正則に対し、慈愛の眼をかけるように成りました。後に、徳川家綱の老中として、お側近くに仕えました。


後継将軍擁立に就いては、家綱が若干11歳の幼少だった為、家光の弟、忠長を押す勢力が盛んでしたが、局は大御所家康に直訴するなど、又秀忠の命で京に参内、この大事件解決に大いに尽力しました。その功績により、朝廷から「春日局」という名誉ある称号を授けられています。現在の東京文京区春日町あたりに、局の広大な屋敷が有ったので地名の由来になっています。


ところが、世の中は皮肉なもので、正則が老中として仕えていた頃の1680年に、家綱が病死します。何時の時代でも同じで、可愛がり庇護してくれていた権力者が、亡くなるとか、勢力が衰退した時、他人の謗り、僻みも出て来るものです。快い世界がそれを機に、暗転する訳です。


そこで正則は、局の助言と自らの冷静な判断の結果、ここは潔く身を引く事が最善の策と悟り、家督を嫡男正往(ま さゆき)に譲りました。このような手段を以って、稲葉家を現在の世にまで絶えることなく存続させることが出来ました。


又、局の子正利は家光の弟、忠長に仕えていましたが、忠長の失脚により、細川家にお預けの身分になり、終生許される事なく、73歳で生涯を終えました。


かくして、正利の血は絶え、稲葉家の血は局の子、正則からその子、正往へと引き継がれ、その血が現在も綿々と続く事に成った訳です。




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