源実朝を語る | 真空管のアナログ世界に魅せられて

真空管のアナログ世界に魅せられて

「温故知新」と言う言葉が有りますが、真空管は将にそんな存在だと思います。真空管を今では知る人も少なくなりましたが、デジタル全盛の今でも、真空管のアナログ技術を学び、真空管ラジオを楽しむ人は沢山います。私もその中の一人です。真空管を愛しむ想いで・・・・。

源 実朝(1192-1219)は源頼朝と正妻・政子の間に生まれた次男ですが、為政者としてイメージよりも、歌人としてのイメージの方が強い武将です。

実朝は、幼名を千万(千幡とも言う)と言いました。実朝が生まれた時を同じくして、父頼朝が鎌倉に幕府を開いています。


1203年(建仁3年)、兄の源 頼家が伊豆の修善寺に幽閉された事に伴い、実朝、征夷大将軍を拝命、それは実朝、若干12歳の時でした。



実朝の生きた時代は、血を血で洗うような殺伐な時代でした。身内が次から次へと、変死または殺害されます。


・1193年 頼朝、弟の範頼を伊豆の修善寺に幽閉、

       のちに刺客を放ち、殺害。

・1199年 頼朝、落馬により没。実朝、8歳。

・1200年 梶原景時、源範頼(頼朝の弟)に殺される。

・1203年 比企能員(頼朝の乳母の養子 頼朝の側

       近)討たれ る。

・1203年 一幡(頼家の長男)討たれる。

・1204年 頼家、修善寺で殺害される。

・1219年 実朝の理解者、和田義盛、北条氏を除かんとして、

       戦を起こすが、敗れ、和田一族全滅。

       これで、源氏の正統を推す派、弱体化。

・1219年 実朝、鶴岡八幡宮にて公暁に殺される。

       実朝28歳。



実朝が生きた28年間に、なんと、身内又は実朝の理解者たち、7人が没します。頼朝の正室、政子は自分の実の子供よりも、北条の血を重んじた様子が伺えます。実の子、長男・頼家が殺される経緯は尼将軍、政子の謀らいであるとされています。


また、和田一族が北条氏を除かんとして、乱を起こしますが、これも尼将軍、政子が、武士団を巧みに懐柔工作したことにより全滅させます。


この様にして、北条氏の台頭が顕著となって行きます。そうして、実権が源氏から北条氏に確実に移っていきました。遂に、源氏の正統は実朝を最後に絶え、執権、北条義時が鎌倉幕府の全権を掌握します。時に、1213年です。


実朝は幼いころから、和歌に妙なる才能を持ち合わせていた上、この様な殺伐とした世情に、柔弱ともいえる歌詠みの世界に心を奪われたのも道理かと思われます。また、その世界に生きる事が自分の命を永らえる生活の術だったようです。


主君が生殺与奪の絶対権を持つ世界では仏門に入るのが、それを逃れ生きながらえる唯一の手段でした。実朝もそれを身もって、心得ていたようです。実朝は仏門には入りませんでしたが、歌詠みの世界にのめり込みました。


実朝は14歳のとき、和歌12首を詠みました。この時分から、歌人藤原定家を師匠に、万葉集に詠まれた歌を学び、後に「金槐和歌集」を著します


実朝の最期は、鶴岡八幡宮の石段を登り、数段のところで、銀杏の樹の陰に潜む公暁に討たれます。それは1219年7月、午後6時ごろの事でした。公暁は自分の甥でもあります。その銀杏の樹は、今もその悲劇を秘めて、訪れる人に哀しさを誘います。

実朝が殺害されるその当日の朝、読んだ歌を紹介します。


「 いでていなば 主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな 」


自分が命をなくす事を、予感していた事が、はっきりと伺えます。しかし、征夷大将軍、実朝が無官の甥に殺される事になるとは、なんと哀れな事でしょう。

この歌は、菅原道真の 


「 東風ふかば 匂いよこせよ 梅の花

主無きとて 春を忘するな 」


の歌にどこか、心が似ています。

何れも哀しさのよぎる歌です。


鶴岡八幡宮銀杏の木

鎌倉 鶴岡八幡宮 

実朝 石段左の銀杏の木陰に潜む

    公暁に討たれる


ハートアメーバううっ
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