大阪市中央公会堂 ② | 北浜・西天満で働く弁護士のブログ

大阪市中央公会堂 ②

土日の大寒波が去った後、
2月20日、月曜日の朝7時頃の当事務所から見える風景。


静寂の中、朝陽に映える


大阪市中央公会堂


公式サイト:大阪市中央公会堂  


夜のライトアップされた姿より美しく見えました。

そして、力が湧いてくる感じが。素晴らしい…。
(2011.9.26ブログ「
大阪市中央公会堂 」)


(省略)

かつて、その誕生のために莫大な私財を投じながら、完成を待つことなくこの世を去った人物がいた。

株式仲買人、岩本栄之助である。

(省略)
「学問せなあかん」が口癖の栄之助は、証券取引所で働く少年たちのために、学校に行くように勧めると共に、私財を投じて塾を作るなどしたため、ますます人気がでることとなり、「北浜の風雲児」と称えられた。

その栄之助が、仲買人として働き出した当初から強い関心を抱いていたのが、株で得た利益を公共のために活かすことであった。そうした栄之助の思いをさらに強くしたのが、1909年の「渡米実業団」への参加である。
初めて異国の地を踏んだ栄之助は、米国の富豪の多くが財産や遺産を慈善事業や公共事業に投じていることに、強い感銘を受け、大阪の地にもどこにも負けないホールを建設しようと決意する。旅の途中、父・栄蔵の訃報を受け取り緊急帰国した栄之助は、父親の遺産の50万円に、自分の手持ち財産を加えた100万円を大阪市に寄付する。
現在の貨幣価値でいえば数十億円という巨額であった。当初は、公園や学校の整備などさまざまなプランが出されたが、最終的に公会堂の建設が選ばれたのは、母親の「誰にでも使ってもらえるものを」というアドバイスがあったといわれている。

1914年に株式仲買の第一線から身を引いた栄之助であるが、翌年には再び株式仲買の世界に身を投じる。しかし、第一次世界大戦勃発の影響による高騰相場で、莫大な損失をだしてしまう。周囲の人々は、大阪市に寄付した100万円を少しでも返してもらうように進めるが、栄之助は「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」としてこれを拒否。1916年10月、自宅でピストル自殺の道を選ぶ。栄之助が生死をさまよった5日間、彼に恩義のある北浜の仲買人らは、大阪天満宮で夜通しかがり火をたいて無事を祈ったが、10月27日、栄之助は享年39歳でその人生を終える

栄之助が夢見た公会堂は、その死から2年後の1918(大正7)年11月に完成。現在は国の重要文化財にも指定され、市民の文化・芸術の活動拠点として親しまれている。

岩本栄之助 辞世の句 「その秋をまたでちりゆく紅葉

(以上、公会堂の歴史 大阪市中央公会堂 より抜粋)



【関連ブログ】

2011.9.26ブログ「大阪市中央公会堂

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