【現代中国の歴史】その6;文革終焉の兆し・周恩来の死で目覚めた庶民 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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周恩来は、文革の中にあって庶民のかすかな光だった。

殺戮の嵐・文革の嵐の中で、わずかながらも生きる希望を与えてくれる存在だった。


が、その周恩来が亡くなった。


1976年1月8日




追悼の言葉は、再度復権した鄧小平が読み上げる。




焼却場への沿道には、その死を悼む人であふれた。

その数100万人以上とも。

文革時代を生きのびた党員だけでなく、党員以外も涙している。

親の葬儀でも泣かなかったが、この時は涙があふれたという証言もある。

これからどうなってしまうのだろう、そんな絶望感が襲っていた。

なぜなら、神たる毛沢東はすでに第一線には出ずに、実際の権力は党幹部ではなく、四人組と呼ばれる毛の権威を傘にきた殺戮組織が牛耳っていたからだ。

周恩来の養女さえ、この四人組の指示によると思われる紅衛兵に惨殺されている。

そんな中でも、なんとか庶民にそった政治をしてくれていたのが周恩来だった。









ところが、党の機関紙は庶民の悲しみをよそに、鄧小平などの批判記事を主に書いている。

これにはさすがの中国人も首を傾げた。

また、静かなる四人組への反発と、新たなる指導者たる鄧小平に期待を寄せた。






そんな空気を悟った四人組は、一層鄧小平批判を強化する。


が、周恩来の死から程なくして、中華人民共和国史上屈指の悲劇が襲った。

毛沢東の死である。


この後は、次回。



現在の評価では、中華人民共和国の癌;四人組

比類ない権力をものにし、神たる毛沢東も手に負えなくなっていた。







★お宝映像


角栄と周恩来




ニクソンと周恩来


米中軍事密約