いつの間にか雨はどしゃぶりになっていた。窓ガラスに当たる雨粒を見ながらアッシュは深呼吸をした。そして英二がカギをかけた寝室のドアをノックした。
「英二?いるんだろ?オマエと話したい、ちゃんと謝りたいんだ。ドアを開けてくれないか?頼む」
「……」
中から返事はなかったが、ノブを回すとドアは開いた。部屋には電気が点いていなかったが、外からのネオンの光がベランダにいる英二のシルエットを浮かびあがらせていた。
アッシュは英二の隣に並び、シンから聞いた経緯を優しく説明した。英二は雨降りで曇った夜空を見つめながら黙って聞いていた。 聞き終わると英二は辛そうな顔で言った。
「アッシュ、ごめんよ。僕がつまらない嫉妬をしたせいで鬼(グァイ)に付け込まれてしまった。僕は心のけがれた人間だ――恥ずかしいよ、僕を見ないで!僕はどうしたらいいんだっ―!」
英二は脅えながら叫んだ。その姿を見てアッシュは胸が締め付けられそうになった。
「英二、落ち着け!オマエはけがれてなんかいない!絶対に!オマエはその綺麗な心でオレを救ってくれたじゃないか!」
手をそっと伸ばして英二に触れようとしたが英二はアッシュから離れた。
「でも僕はっ!最低だ!僕は…!」
英二は汚いものを振り払うように頭を振った。
「いいから落ち着けよ! お前が良くなるまで傍にいる。外出しないから……安心しろ」
ところがその言葉を聞いた英二は冷めたような笑みを浮かべて笑った。
「ふん、何が傍にいるんだよ。今までいなかったくせに…」
今まで聞いたことのないような低くて暗い声だった。掠れていて老人のような声だった。
「英二?」
突然、反応が変わった彼を見て、アッシュは驚いた。再び鬼が英二を支配しようとしていた。
「またそんなこと言って僕を裏切るんだろう? 期待させておいて結局約束を守らなかったじゃないか!」
英二は激しく怒りだした。
「それは……悪かったと思っている」
「ほら、認めたじゃないか。君にとって僕なんてそれだけの存在だってことさ」
「それはちがう! お前なら分かるだろう? 俺にとってお前がどれだけ大事な存在か――」
アッシュは真剣に英二を見つめた。彼が本気で言っているのは明らかだった。
「――グゥゥ……ッ」
英二は苦しそうに頭を押さえた。彼の顔は真っ青で、焦点があっていない。
「やめ……ろ。はなれ……ろ」
ブツブツとつぶやいた後、英二はフラッと床にうずくまった。
「おい、大丈夫か? 苦しいのか?」
慌ててアッシュは駆け寄り、しゃがみこんで英二の肩を抱いた。
「ごめん……アッシュ、酷い事を言って……僕は最低だよ」
小さな声で謝りながら、彼はすすり泣いた。その声はいつも聞く優しい英二のそれだった。
「馬鹿だな……そんなこと考えたこと……」
アッシュの言いかけた言葉が途切れた。驚いたように英二を見ている。
「グハハハハ……」
振り返った英二の眼はギラギラと怪しく光っていた。その眼はいつもの澄んだ大きな瞳ではなかく、怒り・不安・動揺が入り混じった濁ったものだった。様々な 「鬼」 が英二を完全に支配していた。
「単純だね、アッシュ……」
皮肉っぽく笑う英二の手にはナイフがあり、その刃先はアッシュの胸元に向けられていた。
「英二!」
「覚悟しろ……この距離じゃ逃げられない」
アッシュと英二はお互いに睨みあっていた。呪いにかかった英二に気を取られ、彼がナイフを持っていたことにアッシュは全く気がつかなかった。英二の呪いは解けるどころか酷くなっていた。
「お前……どうしたんだよ、それ……」
「ふふふ……よく切れそうだろう? 」
クスクス笑いながら刃先をさらにアッシュに近づける。彼は悪魔のように怪しく笑い続ける。
「やめろよ、英二。そんなのお前らしくない」
アッシュは首を左右に振った。呪いにとりつかれた英二を見るのが辛かった。
(英二、戻ってきてくれ……)
「僕は本気だよ。君さえいなければ僕は自由になれる」
「……」
「僕を解放してくれよ。苦しいんだ――君を殺せば僕は鬼の呪いがとける」
その言葉は、バナナフィッシュを投与されたショーターが自分に対して言った言葉を思い出させた。
「どうしたんだい、アッシュ? 死ぬのが怖いのかい? 僕の事も大嫌いになっただろう?」
「――いいぜ」
「何がいいんだ?」
「刺せよ、そのナイフで俺を殺せ……お前が呪いから解放されるのなら、俺は死んでも構わない」
アッシュは悲しそうに笑った。彼にとって自分が死ぬことより、英二が鬼に支配されることの方が怖かった。
「――!!!」
英二は驚いてアッシュを凝視している。心の奥で、本物の英二が叫び声をあげていた。
(――アッシュ、アッシュ、アッシュ……!!)
「――あぁぁぁぁ!!」
「!?」
英二の様子がおかしい。ナイフを構えたまま、彼の体は左右に揺れている。大きく見開いた黒い瞳からは大粒の涙があふれ出した。
ナイフを持っていた手がゆっくりと動いた。ナイフの刃先がアッシュの胸元から天井に向けられた。英二は天井を見上げていた。
「お、おい……元に戻ったのか?」
自分への殺意が感じられなくなったので、アッシュは注意深く声をかけた。ところが英二はナイフの刃先を自分に向けた。
「うぉぉぉ――!」
英二は大きく叫び、ナイフの刃先を自分の胸に勢いよく差し込もうとした。
<続> 次回最終
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鬼に支配された英二がアッシュを殺そうとするのも衝撃的ですが、自分自身を刺そうとするのを見たアッシュはさぞ驚いたでしょう。アッシュなら英二に殺されてもいいと思っていたりして…なんてひどい発想…(笑)。この辺りの悪趣味な展開は私のネタです。
次回最終回です!