title: アメ玉ほおばってムチで叩かれんなよ。  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

 
 
     ネットのゴミ箱 構築 について 
      スクラップブック:http://scrapbook.ameba.jp/against_book/entry-10009343071.html より
 
 
   ということで、みなさん、
   日頃の ほとんどの迷惑トラックバックや迷惑コメント書き込みは、
   連中の裏をかくと、
   最新に更新されたトップ記事のページへ送られてくる可能性が高いので、
   このように適当な、どうでもいい内容を記述して、
   トラックバックとコメント欄の受付をオープンの状態で、
   自分のウェブログのトップ記事に置いておくと、
   ニートでアホな連中は、そこへ目掛けて くだらんモノを撃ちまくってくる。
   ある程度 そういうゴミが溜まったところで、
   アメーバ・ブログの場合は、編集画面の
      ブックのみに投稿する
   に、チェックを入れて、適当なスクラップ・ブックだけの公開記事にする。
   
   これで、メインサイトの画面には、そういうゴミは表示されなくなるし、
   もちろん、サブ・ページの投稿先、スクラップ・ブック内にも表示されない。
   迷惑TBや、きったないコメントのデータは残っていても完全に非公開にされる。
   まぁ、云ってみれば、「見えない場所にネットのゴミ箱ができる」って寸法。
   アメーバのリニューアルも便利な機能を用意してくれたもんだ。
   せっかくのサービスも有効に活用しなきゃな。
   
   ただし、それはそれで自分の勝手だし、
   そんな仕掛けがあることも知らない人の方が多い。
   だから、通常の読者が、このようなページを開いてみても意味不明。
   トップ記事の記事中には必ず、
   本来の自分の最新のページ(日記など)のリンクを貼っておいた方が親切だぜ。
   
   まぁ、ゴミはゴミなので、マメに削除すりゃぁいいことなんだけど、
   こうすれば、ほとんど、他のページは汚されないし、
   なにより、ちゃんとしたコメントやトラックバック受信との区別がつく。
   
   よかったら試してみてみて。
   
   
     オマケ 今日のトラフィック・エクスチェンジ 
   

  Sign Up Free!
       http://www.autovisitorexpress.com/signup.php?ref=3567
       Recommendation!  Traffic exchange
    
     
Basic (Rate: 1.4 Allow minimized: No) 
 
   
この設定で、ワン・サイト閲覧 12秒のオートサーフで、
   常時、1.4ポイントのアカウント・クレジットが加算される。   
   ヘンなエロサイトの登録者も少ないし、
   迷惑なポップアップや勝手にページ・ジャンプする違反サイトも
   今のところは ほとんどない。
 貯めたポイントの消費も割と早い。
   フリー(
無料登録 )の海外サイトだけど、
   英語表示画面の使い方(利用の仕方も)簡単(じゃない人もいるかもな)。
   インターネットでカネを摑むための道具としては便利だよな。
   まぁ、純粋に読者交流を深めるためにも利用価値はある。
   俺は この一ヶ月、このサイトを利用することで、
   7人もの人に、アメーバ読者登録してもらった。
   どうもありがと。

   
   
   さて、くだらん書き出しにはじまった この記事のタイトルの、
   
     飴玉 頬張って 鞭で叩かれんなよ
   
   の、意味についてだけど、  
 
実は先日、
一つの会社で真面目に一生懸命に働く
きわめて、世間一般ごく普通の、20代の女の子に
このサイトを覗いてもらった。
感想は、「難しい」のひとこと。
その日に更新していた、いつの、どのページの何処を読んでそう思ったのか
…というより、確かに俺の書いている内容の大半は難解かも知れない。
 
いま現実に この世界に生きて生かされているはずの俺の本心にある、
そのすべてを言葉に書き表すにあたって、どのページも、
どこからどこまでの内容が
読んでくれている人に どれだけ正確に伝わっているのか。
それは判らない。
それでも徐々に、しかも、今の世の中へ攻撃的に、
他人ではなく、自分の言葉で書き連ねてゆく俺の闘争…。
そこにある内容が必ずしも、すべて正しいとは思えないし、  
一部の人にだけ通じれば「それでいい」などと考えてもいない。
 
だから、もしも必要あるなら、
それを全面的に違う書き方に変える覚悟もないわけでもない。
「~ですよね」とか「~だったのです」
「~ではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか?」とか、
「お蔭様で僕自身も今の所は~」…
とかいう、謙虚な態度、丁寧な言葉遣いを上から下へ並べ、
「前のめりな人生」だとか「喧々諤々」などという使い古しの言葉も装飾し、
みなさんからの共感を仰ぐ…などして
まるで人格のちがう人間が書いているように
そのヘンに転がってるネタを書き綴る。
そうやって、実生活の身近なところで役に立つネタを拾い集めてきて、
コメント欄の、
「・・・・・いろいろありますよね。」
だとか
「お互い頑張りましょう」
などという、ありきたり、通り一遍、その場シノギな相対を受け入れる。
 
アホくせぇ。
やなこった。
その一年のうちで、ほとんど一度も顔を合わせてもなく、
今はもう互いに何の交流もないのに、
「昨年中は色々とお世話になりました。
本年も宜しくご愛顧の…ほど…の賜り…仕りクダサイますよう…ませ」
などという年賀状のやりとりも大嫌いな俺。
そんなことが他人の心へ、何かの施しになってるわけがない。
ペーパー資源の無駄だ。
年賀状なんてもんは馴れ合い日本人の、
明治・大正・昭和の常識を引きずった「平和を騙る」象徴に過ぎない。
御歳暮にしろ御中元にしろ、
世間一般の社会常識にある、いわるる“大人達の付き合い”ってもんは、
嘘とクソを混ぜ合わせた時間や資源の無駄。
年賀状はおろか、中元だの歳暮だの、俺は
そんな物に差出人名義を飾ったことがない。
今後も絶対にしないし、出さないと思う。
馬鹿らしすぎてやってらんない。
何か貰っても何の有り難味も感じない。
かえって「畜生野郎め!」と思ってしまう。
「お前ら、まだ世の中を破壊しようという気かよ!」
てな具合でな、爺さん婆さんの用意した仕来りが大嫌い。
「糞喰らえだ、そんなもんは。
みんな、日本国中、明日からキレイサッパリ やめてくれ!」
と思う。心底。
 
たとえば、ブランドの、
新潟産、とある蔵元の日本酒。
無糖加レギュラー(2級酒)も本醸造(一級酒)の区別もなく、
世間相場で一本¥3,500~¥4,000以上(1.8ℓ)。
あんな物を誰に、なんのいわれで貰おうと、
ちっとも嬉しくない。
しかも日付(製造年月日)は 前の年の土用を越した10月とか11月とか、
ひねた臭いがプンプンするマズイ酒。
まったく新鮮味がない。 
鮮しい米の稲刈りが終わった時期から仕込まれる酒。
通常、その冬場に仕込まれた酒で、瓶に詰められた物は
夏の土用を越すと若干 品質が落ちるといわれている
ただ世間のアタマでは、そのラベルが「いい酒」。
ブランドとしてもちはやされてる。
そういう扱いをすること事態、造ってる人にも失礼だし、
そんな物をどこかのデパートの惣菜売り場の奥の方に並んで買い付けて
「それをよし」としている世間の風潮が浅はかという以前に、
下衆の特急品。
流行に踊らされてるだけの危険極まりない社会のマスプロ化現象が
そんなところにも見え隠れしている。
この発展過剰国では、
かつて、「あの酒が旨い」と田中角栄氏が言ったことに端を発して、
みんなが買い占め合戦に乗っかっただけであって、
バブル崩壊祭りの馬鹿騒ぎや
姉歯と堀江のイタズラ小僧に踊らされてるだけのマスコミと大衆、そして日本経済。
そういう自由を錯覚させられた中のホンモノの質を判らない貧しさは・・・・
 
てな具合に、
今の俺が書いてしまう、くだらない文章は、
どんなに他人の“手抜き人生”や“魂の無駄遣い”を突いても、
愚の骨頂だ。誰も読む気もしない・と思う。    
 
 
   創られた側に与えられた“創った側のライセンス”について 
 
確かに・・・・ 
 
   「先祖霊5千人の魂が、
       それぞれ父親と母親の系列から2千5百人ずつ、
    受胎の瞬間に入魂される人間の魂は、
   “神魂”しんこんと呼ばれる神の魂によって統率、統括されている。
        そのために人は様々に、朝に晩に昼に夜に、
                     コロコロと変わる心を肉体に宿している。
    その心は、肉体という全身の筋肉の中にある各々の臓器、
                                 五臓と密接な関わりにあり、
    その中に神は、神魂として、
        一人一人の人間の心(肉体の中)に確実に存在する。
    そして、
    現世に形創られ実在する者すべて、
    その者が持っている職責職能。その、この世で生きるために必要な知識は、
    既に形づくられる以前に、母親の胎内で、
    受胎の瞬間に完全に決められている。 
 
という、このような事実を、
このように具体的に…ほんとうは もっと細かい内容もあるけど
聞いたこともないような ------ 世間のどの学問や宗教の知識、学識にも出てこなかったような ------
言葉で、「数」も限定してハッキリと断言してしまうと、
“フツーの人”には なんだか解らないし、
その内容を認めようにも、…読むだけで疲れる・かも知れない。
 
でも、俺の書く “カツオ爺さん”の言葉や 今の俺の頭の中から出てくる話は、
「嘘偽りなき真実」というより、事実。
物事の道理、基礎でしかない。
眼に視えないことでも、現実に見える物体の在り方
と同じように決められている事実。
人間の身体に、腕が二本、脚が二本、目が二つ、耳が二つ、鼻の穴が二つある…
と決められて在ることと同様、
人間は、指も爪も皮膚も、その筋肉の構成も、細胞内にある血管の血液の流れ方も、
いつの時代も何ひとつ変わりなく、
右の方に右の手が付いていて右の形をしている限り、
自分の心が自分の先祖霊の5千人で構成されていて、
その5千の自由意志が勝手に暴走しないように、
人間だけは特別に神の魂の力(理性・感情)によって、しっかりと統一されている。
そのように人間は、かつて、この世に数を限定して創られ、誕生した時点で決められている。
本来ならな。
 
んで、こういうことは、宗教でも何でもないんだけど、
世間一般の、義務教育しっかり型“お勉強済み安心グループ”の人達には、ほとんど通じない。
「嘘」とも思えない。
でも事実だ。
そういうことが、著しく変化する自然界において、ある一定の決まり、道理として在る中で、
平穏無事に人間としての営みができている。
実践している。誰もが。何千年も。
 
眠ることも目覚めることも、働くことも食べることも、空気を吸うことも、SEXすることも、
人は、この地球上に創られて産まれて、ここでの生息を許可された時から、  
そういうすべての営みが何不自由なくできるように、あらゆるものを備えられ、恵まれ、
それぞれが自分の役目、役割を果たすように生かされている。  
…人間だけではなく、60兆という種類のすべての動植物が。   
そういう地球というデカイ入れ物の中に人類があって、    
その地球に存在する生命として特別な格好で用意されて創られている人間の肉体の中に
心という魂があって、その魂の中に、創った側のライセンスがある。神様の。
で、そういうことを、巷のお勉強いっぱい、教育社会がんじがらめ合戦の中で生きてるような、
我々現代人という何枚ものフィルターを被された、   
様々なマニュアル読本の山の詰め込み君や、無駄な努力と頑張り大好きさん達の中には、 
時折、勘違いして、  
「おれはそんな支配を受けるのは嫌だ」とか、
神や仏の何かが「このように言っておられます」だとか、  
「わたしたち人類が こういうふうに進化してきた過程の証拠が遺伝子の中の情報にあります。 
ですが、進化の過程には突然変異もありました…(解ったフリをしてる学者の言い訳)」だとか、
あたかも自分自身が勝手に生きてるかのように、   
この自然界の中で、あらゆる恵みを受けて生かされている事実を認められない人がいる。
そういう人も中にはいる。60億人も人口がいる中に…。    
太陽も水も空気も、生きることには欠かせない食糧、食物も、行動の自由もすべて、 
これほどまでに素晴らしい恩恵を授けられていながらも、俺を含めて、  
人間は(今の人類は)、それを忘れ、また、それを破壊する一方だ。 
  
   
だから、現代社会における医学も教育も宗教も経済も政治も、
一つ一つの分野に別けて、物事を教えている学問や学識ってのは、
まだ発展も発達も、まったく途中経過で、
とくに“人間”については基礎がしっかりしてない。
そのために、男には男としての教育や
女には女としての教育も中途半端で、
世間や世の中の事情がおかしくなってる部分が多い。(各地の災害惨事の報道を見て訊いても判る通り)
 
釈迦やキリストや日蓮や、どこかの学校の先生が言った以前に、
物事は根本から築き直さないと、この地球上は丸く治まんないわけ。
一から出直す意味で。
んで、俺の場合は、極端な解釈も表現もあるかも知れないけど、
そういうことが、今のこの人類の日本において、
どこからどのように外れて間違えて来ちまったのかを云ってる。
みんなが(少しでも多くの人が)本来の自分自身に気づくために。
だから哲学でもなんでもないの。わりーけど。
万人に共通した普遍なる思想の知識…云い方を替えると、
自然界に人間が生かされ生きるために必要な知識・の幾つか…だ…
ちゅうことになる。
 
でも、通じないんだよな。
解んないよ、俺の云い方も、“カツオ爺さん”の言葉も…。
もっと、判りやすい方法というか、
(…「方法」や「策」で何かが変わるわけでもないんだろうけど)
イラストふんだんに使って、漫画チックにするとか、
「これは、何々の本からの引用」とかも並べて、もっと、
“読書いっぱい本の虫”の今の日本人に合わせた内容にするとか、
まぁ、考えると切りがない。そういうことは。
んで、
「そうなんです」とか「このようになっています」
「ですから、私達人間には欠かすことのできない事実としてある、
そのような事柄も…」
などという丁寧語で文章を並べたて仕り千づり早漏…頭デッカチのインポテンツ。
「あんたが立たなけりゃ子孫繁栄は無理!」 
「少子化国家も無能な知識で踊らされる」    
・・・・あ~あ、やってらんねぇな。
 
なんちゅう書き方に持って行きゃぁ売れる内容になるのか?
本音はそこにある。
今の俺は金が欲しい。
札束の厚みを見て動く連中を操りたい。
肩書きだけの政治家とか大手土建屋のボンボンとかな。
んなろぉ~っ、待ってろよ!
まだ汚職や疑惑で摘発されんなよ!
背広はオヤジ臭いままにしとけよ! 俺と仲良くなるまでは。糞っ。
 
と、このように、最近の俺の書く内容は崩れに崩れている。
…連中の背広の型崩れ以上に。
わざと、こういうグズしたスタイルで書くことが大好き…というより、
ある意味、俺の中では“頭の体操”になってる。
自分を現実の世界に繋ぎ止めて生かしておくために。
 
んで、
どちらかというと、俺自身は、そっちじゃない方の、
“ちゃんとした文章”形態で物を書くことに慣れている。
以外にも。
むしろ、「です・ます」体より、「である」体でマジメに書いておられる方々と同様、
こんなおかしな話口調で長々と書くなんて経験は、実は初めてだし、(いや、12年前にもあった
昨年の7月以前は、何か物を書くときは、常に読む人の立場を考えながら
判りやすく事実と体験だけを並べるようにしていた。
たとえば、世間にありがちな『会社の日報』などと同様、
「俺はどーしたのこーしたの」の書き出し以前に、
あとで自分が読んでも読み苦しくないように、常に規定に沿った形の文章形態…。
そいつをまた、ここで再現しようか…とも思う。 (肩がこるけどな)
 
でも、攻撃的な姿勢は崩さない。
反抗ではない。 パンクではない。 ビート・ジェネレーションでもない。
常に、攻撃的、挑戦的。 
 
それはある意味、必ずしも強い人間の姿勢とは云えない。
同じ世代で俺ほど弱々しく、不安定に生きてる、ぎこちない構えの者はいない・かも知れない。
こわばって、ヘンに強そうに見える人間よりはマシかも知れないが、 
それをまた、自分が負け犬の遠吠えを吐いてるようにも思わない。
俺には勝ち組とか負け組なんて区別はないし、 
今年40歳を迎える一歩手前なのに、こんな幼稚なアタマでも、 
歳をとったという感覚すらない。 
ただ、今もって、生きてる実感を摑めないことが 
「これは何なのか? どうしてなのか? 何者なのか?」 
今の俺にとっての日常には、
自分が目の前の藪を鉈で切り開き、突き進んでるつもりでも、
実際の速度は鈍間だし、そこに伴うはずの実績も
大した成果をあげるほどの成長ぶりでもない。
「カネ貰ったら素人じゃねぇんだよ」
という言葉通り、こうして毎日、何かを書くことも、
ここ以外の場で創作している童話や短編にしても、
カネになっていない限り、“素人”でしかない。
たかがネット上の日記だ。
俺のそんなモノがカネに還元されるはずがないし、
誰もマトモになんざ読んじゃいない。
創作物も同様だ。
書いても、それを買って読んでくれる人がいない限りは自己満足でしかない。
ネット文庫? 
なんだそれ?
「ネット・ウンコ」の間違いだろ。
そんな、一ページ幾らでネット上で販売したところで、
そもそも、販売するに値する質が在るのかどうかが問題だ。
どんなに起承転結を整えた内容であっても、
単に「面白い」ってことだけが重要なテーマじゃない。
それが読み手の役に立つモノでなくちゃならない。
しかも、いつの時代も色褪せることなく。
 
いずれにしろ何がカネになるか・ならないかは
本人のセンスとチャンスの摑み方次第なんだろ、きっと。
んじゃ、俺はいつどこでその線路に乗っかれる?
みんなが超特急や新幹線で通り過ぎたあとで、
その線路の横幅に合わせた車輪のトロッコを拾って、
えっちらおっちら漕いで後を追う人生なのか? 
そっちの方が事故も少なくていいかもな。
 
 
そういう意味での闘いでしかない。 
ちっぽけな、それでいて誰もやってない、俺にしかできないアホの新境地。 
なんとも滑稽な人生だ。 
人間とは思えない。 
じゃぁ、何なんだよ。
 
 
   ボディ・ジャック現象の意味 (序説) 
 
・・・・ここから先は かなり、判りにくい内容か? 
時々、うとうとしている時に、 
俺の意識とは別の何者かの意識が 
俺の身体の一部で蠢くことがある。 
それが霊的なモノかどうかなんてことも、その瞬間には考えない。 
「ハッ」と思うことは確かにあるけど、
そいつは女ではないし、動物でもない。先祖霊でもない。
ある程度の年齢まで生きたはずの男だ。(…簡単にいうと、肉体を突然に失った分解されない魂
 
俺の肉体は そいつに支配されかけたことがあった・と思う、かつては。
そういうボディジャック現象の事実。(もう俺は、コンリンザイ、「憑依」という腐った言葉は遣わない・と思う
これを今まで、このネット上のサイトでも、幾つかのページで、
俺なりの言葉で色々と解釈はしてきたが、
そこに纏わる、“眼に視えないこと”について…
そういう本来なら“解らないこと”のへ疑問。
それを質問してマトモに正確に判りやすく、
“正しい返答”で返してくれる存在がいない。
というより、いなくなってから数年、
俺は今の自分の肉体を別の意識と共有しながら
毎日を生きて、それをいつか、生きる楽しみに変えられるくらいに
乗り越えなければならないことがある。
魂の成長を絶やさないためにも。
 
近頃はREM状態の時に色々な音声のほかに、
様々な音楽がハッキリと聴こえてくることが、毎晩のように頻繁にある。
最初は、二階家で寝てて、
「どこかで誰かがラジオかテレビでも点けっ放しにしてるのか?」とも思ったが、
そうではない。(日本語や英語の言語とは異なるDJ付きのこともある)
突如として、まったく鮮明に聴こえる時と、そこへ至るまでに、
なにやら頭の中でボコボコと籠もって聞こえるような音が、
やがて右頭上の辺りでハッキリと耳を通して聴こえるまで、
肉体が金縛りのようになっている時と、
逆に解放的に、心地よく眠りを誘おうとするような状態…のこともある。
んまぁ、昼間や過去の記憶の残響なのか何なのか、
つい数年前まではこうじゃなかった。
これはかなり、自分の肝臓の機能と全身の筋肉の状態に関わりがあることは確かだ。
かつては機械音のような凄まじい音が、時には、
ギーギーガーガーと絶え間なく耳を劈く勢いで聞こえていたり、
ドッカンドッカン、かなりの重低音と高音をファイハイ状態(…あるいは、ホロホニック・サウンド的)に、
枕に乗せた頭の上の方で鳴り響く… (HiFi ? はいふぁい? …どっちだ?)
というような感じで、それを世間では単に、“耳鳴り”と呼んでいるのかも知れないが、
「キーン」という、俗にいう「耳鳴り」が、
その時のその人の腎臓機能と、 
聴こえた耳側の手首の筋肉 
鍼灸学上でいうところの 外関げかんという場所 / その筋肉の場所を何度か 
指で強く押すと多くの耳鳴りが止まる。巷の耳鼻咽喉科へ行く必要はない

 
    10syouyousannsyou  クリックで画像拡大
 
に、関係がある事実、物の道理を知っている俺としては、
そういう機械音(のような騒音)が単に“耳鳴り”だとは思わない。
むしろ、誰か何者かに無理やりに聞かされているように思えることもあった。
それが…そういうことが、たとえば、はっきりとした“人の声”なら、
その具体的な内容がどうあれ、
「ある日 突然、神のお告げがあった」とか、「私の神聖な能力」などという、
そういう宗教の教祖や霊媒ババアの勘違いとは別に、
俺も少しは、視えない世界の連中との更新を楽しめたかも知れない。
たとえば、ジョン・レノンという人は若い頃、Beatles結成以前に、
寝ている枕元に白装束の神様が現れて、
「…これこれこういう時が来るから、そこで4人組のバンドを結成して、
そのバンド名を“Beatles”としなさい」
ということで、結局、1980年には死んでしまった。
自分の中に何が起こって何が遭ったのかは、本人しか知らない。
 
ところが、俺の場合はまったく違う。
視えない世界で俺の肉体をボディ・ジャックする輩には言葉がない。
何も云わず、ただ時々、俺の右半身に、
あたかも、時空間を突き破るかのように出現する。
たとえば具体的には、
俺の右の耳の穴を(瞬間的に)コリコリと指先で掻
いてみたり、(本人としては笑えない
「早くメシを喰わせろ」と云わんばかりに俺に茶碗と箸を持つ格好をさせようとしたり、
寝ている俺の胸に手を当てて、何かを探ろうとすることもあった。
そこには必ず、俺が現実の世界で生きて使っている俺の右腕とは別の、
右腕の意識。
時々、俺の肉体にある意識とは別な意識のぶんざいで、
「勝手な野郎め!」とも思うので、そいつが出現した際には隙を見て、
俺の現実の両手で捕まえてはみたりするが、
逃げやがる。俺の肉体の中に勝手に居座っていながらも。
その感触は、やはり、女の手ではない。
ゴツゴツとした男の手。子供でもない。
ある程度の年齢に達して、そこで止まっている状態に思える。(この部分は想像だけどな
んで、その事実、意識の断片、確実にある感触は、
どこか、“自分の右手の甲”にも思えるが、そうではない。
俺の手は3本はない。常に2本だ。
ところが、右半身の意識のうち、もう一本、余分に手が出てくる。
俺にも目には見えない。
だから、他の人にも「在る事」を見せて証明しようがない。
もっとも、そんなことを証明したいとは思ってもいないが、
そいつがいつから、俺の肉体の歪に居座っていたのか? 
それさえ判れば、俺の身体から分離することも可能になってくるのかも知れないけど、
困るのは、そいつが(その右腕の意識の張本人が)、
本来の俺の意識に自殺願望を抱かせる方向へもってゆく作用を働かせるような瞬間もあったり、
日常における俺の肉体の限界を利用して、俺の自由意志を暴走させるようなこともある。
たとえば、バイオレンスな行動や言動を虐げられるとか…まぁ色々に。   
   
俺の父親の実兄、21歳でこの世を去った、   
「親よりも先に勝手にクタバル」という、この世に、もうそれ以上の親不孝はない 
という大犯罪、自然界への反逆行為を実行しちまった“和マサ”という男は、
最期に青酸カリをといだ飲み物のコップを持っていたのは、 
おそらく右手だったと思う。
その、最期の右手の感触だけが 
俺の肉体を支配する魂の持つ意識とは別な意識にあるのかどうか、
ここ数年、(俺が32歳で自殺願望を捨てて以来 ---- 目的を達成せずに生きて以降は ---- )
時折ある、喉の奥の方が焼け爛れるかの感じや、口の中いっぱいに内側から圧迫される感覚など、
それは決して、前世の記憶でも、40年を生きた俺の過去の記憶でもない。
ところがそれは、つい今しがたに味わった思い。(俺じゃないのに
長年の間、俺の中に居心地好く居坐りつづけた俺とは別の意識が、
共有できるはずもない俺の肉体を通じて、俺の意識の中で目覚めようとする。   
一体、誰なのか? 
そいつは、かつての対戦中に広島の土地で生きた“和マサ”と同様に
刃物の輝きが好き、決めたことは必ず実行しないと気がすまない堅実さ…。
俺じゃぁない。   
俺はもっと不真面目で、生きることに明るさを求める存在のはずだ。
   
俺は今、自分から逃げることも、
そいつが現実の世界から逃げたことも許さずに今日に至る。
人の世の言葉でいう「浮かばれない」という想いが今生に残されている事実として
土地や建物の陰ではなく、俺の中に存在する。
この肉体の中に、俺が生きている間だけは“別の意識”が混在していても、
そこから様々に生じる他人への迷惑も、現実の世界のルールでは、
やっているのは俺だ。俺の責任。
「まだ、今のところはまだね、本当に取り返しのつかないことはやってない」
と、かつて、生前の“カツオ爺さん”に云われたこともあるけど、   
二歩手前あたりで必ず踏みとどまる俺。
今後どこまで自分を制御できるかの不安もあるが、
大事なことは、 
自殺も殺害も(その他の些細な暴力行為とかも含め)、 
全身の筋肉を司る肝臓機能の支障(臓象) は、俺が俺の中で食い止め、   
俺は俺本来の在り方、本来の人間としての役割をまっとうして生きて、
この世で正常に寿命を迎えることができない限り、
分解されずに彷徨う者として、また次の世代にまで影響を及ぼしてしまう。
その可能性が高い…とかではなく、
そんな自分勝手な生き死にの有様を
俺は自分の子孫に味合わせたくない。
「過去に家族に自殺者がいる兄弟親子は、同じような時期に同じような殺り方で、
周囲には何の前触れもなく、突然に命を絶つ、あるいは絶とうとする」
というジンクスめいたことがある。
それはまた、かつて武士が栄えた世で、
割腹した者の無念の気(想い)が、次の次の世まで脈略され、
人工肛門手術を受けた現代人の肉体に現されてしまうようなことと似たようなもんで
すべてがすべて、本来の自分の中に正しくある魂(正常な先祖霊5千人)とは別に、
現実の世界に生きる肉体と心のバランスの不釣合いの隙に入ってくる。
肝臓と一日の血液の量と流れ方、筋肉の問題だ。
   
この自然界に創られた通り、正常に健康的に生きている人には関係ない。
   
そういう人が多かったのに、そうではない人が多くなって来た世の中。
考えもんだよな。俺ばっかりの問題じゃぁない。   
   
   
なんか今日は、ここまで来ると、
もう誰にも通じない話になっちまったけど、(たぶん)
それを「確かにある」と認められるようになった今の俺が、
「信じてくれ! 俺の不器用な部分の言い訳じゃないんだ!」
と、たとえそのように誰かに訴えてみたとしても、
通じない。
もしもそんなことを大声で、しきりに訴えようもんなら、
精神病院ゆき。
帰りの切符は、精神安定剤。
それでコントロールできるかできないかの日常へ押し込められるのが関の山で、
本来の俺は、腐った病院へ行くつもりも、自殺するつもりもない。
ただこれを今後、
犯罪心理学の盲点 』というコーナーを書き進めてゆく上で利用してやる。
 
現代人がいかに、こういう問題に無知で無頓着で、
何かをどこかに顕していたとしても勝手な言い分ばかりで、
そういう問題によって、
社会の犯罪の増加や、その内容が悪く充実してしまって来ている部分を
誰も解決しようがない。
どこの精神分析医だろうと、何のカウンセラー大先生であろうとも、
嘘と推測をゴッチャに混ぜ合わせて喋ってる有様だ。
俺はそんな妄想家には終わらない。
 
人間の創られ方の基礎があり、それが自然界の法則の基本と
どのように関連している事実であるのかを知って、追求する限り、
俺は世間の連中には成しえないモノをネット上で公開してゆく。
必ず。
でないと、治まらない問題が増え続ける一方だ。
見て、考えて、研究するだけ。
俺はそこに、実践と実証の具体例に加え、
“気づき”、“気づく”という解決策を盛り込んでゆく。
必ず。
それによって、何か誰かの始めた学問や学識が崩壊しても構わない。
むしろそれが世間のためだ。
これ以上、いい加減なことを言う連中をのさばらせて、
その公害が明日の世に更なる破壊を導かせるより、
少しでも多くの人が安心できることの方が価値がある。
 
 
 
 
 
 
   このページのシメククリに…
 
 
初めてこのサイトを発見して読んでくれている方が、
このページばかりで終わってしまっても、
途中まで読んで、どこか知らないサイトへ飛んでしまっても いいんだけど、 
内容が他のページと重複していたり、「クドイ」という箇所もあるかも知れない。 
それは、初めて読む誰かが、どこから読んでも構わないので、
なるべく、ワンクリックでオープンしたページで 
その日にそのページで伝えたいことのすべてを そこに凝縮する意味で書いてる。 
 
それでもそこに、必要以上の表現や解釈、蛇足が目立ったり、 
「なんだこれは?!」 
という、驚きの以前に、失礼な部分もある…あったと思う。
読みづらく、また読み慣れないような変則的な文章の綴り方に加え、 
常に必要とあらば、何日もしてから何行かを書き足しているような不自然さもある・と思う。 
長い内容で、読み手と書き手が互いに頭の中を整理できるように… 
とも思い、そこに小見出しや項目別けをしてみたりもする。 
それでも、伝わらないモノは伝わらない。 
当然だ。 
一人一人が創られ方がちがうんだからな。 
今後も、あらゆる手法…様々な文章形態で、 
見るモノ、訊くモノ、すべてに新鮮さを保つように書いてゆく。  
どこにでもある言葉遣いで、 
誰でも同じように似た文章の書き方では、 
それこそ、俺の伝えようとしている内容が 
新興宗教の雑多本や精神世界のゴミ本のようになっちまう。 
(いずれにしろ、俺の書いてるモノもクズには変わりねぇかも知れないけど…) 
巷によくありがちな、「神はこのように言っておられます」的な、
ココロノトモシビ・ラジオ放送みてぇな内容では、 
読む人も限定されちまう。 
 
 
 
   どんぐりの背比べについて 
 
 
本当に今の人類の犯してる過ちを誰かに何とかして気づかせたいのなら、 
宗派や戒律に拘らず、 
自然界の原理・原則を踏まえた上で、
なるべく大勢の人に親近感を抱かせる表現方法で勝負すべき…だったんだよな、
宗教ってもんは。 
特定の人が特定の形でしか受け入れ、理解できないのなら、 
それは、様々に枝別れした結果の成れの果てに過ぎない。
明日の科学や天文学、考古学の分裂、派閥争い、考え方の相違による対立という、 
そういう、今日のあらゆる学問・学識の“行き詰まり”と大差ない。 
人間の造りあげた学問なんてのは、そん時だけだ。 
「そん時だけ、自分さえよければいい」って強がりに走る人々の勝手さへ道を逸らしてる。
 
「私はこう思うけど、あんたはどうなんだ?」という以前に、 
「おれがこう思うことにきっと間違いはない、あいつにはそれが解らない!」と、
相手も何もなく、周囲の何を認めることもない。 
その典型が多くの科学者と宗教の教祖様だ。 
んで、勉強しすぎた世間の人々は、今やそこへ肩を並べてる。
「何より歴史が証明してる」とほざく、 
頭の古い“岩石オープン”みてぇな教育者や、赤組(共産思想)の連中のほとんども、
自分が勉強してきた内容以外のことから外れて物事の本質を摑み捉えようとはしないし、
できない。 
そんなに自分が利口ではないのに、 
「ヤツは馬鹿だ」「アイツには何も解らない」 
と、決め付ける。 
俺は、そういう連中のその有様に、わざわざ、同様な姿勢で返す(攻撃する)。 
「お前らに何が解るのか?」 
という具合に。 
なぜなら、これ以上の教育による破壊が誰に喰い止められなくとも、 
これ以上の教育による破壊で人類が滅んでほしくはないからな。 
 
もう、今の現実の、こんなになっちまった世の中に 
ほとんどすべて合わなくなった教育や かつての社会常識を 
今まだ、大切に大切に お考えになる方々が巷に蔓延ってる限り、 
俺は書き続ける。 
そして、そういう愚か者たちの人生における不甲斐なさを攻撃、批判、風刺する。 
 
全国の登校拒否や引き篭りをしている児童たちの、 
言葉にはできない想いのすべてをここに叩きつける意味も含め、また、
今の社会に爪弾きにされたような扱いで、その自分を責めようにも、
「どこかが違う? 何かが狂ってる…」と感づいてる人々の胸の奥… 
そういう世の中の底辺にいる人たちの悩み苦しみ、辛さや後悔が、 
いつの日か社会の掃き溜めから抜け出せるように、

俺は書く。 
 
貧乏ヒマなしの人生も、『ベル糞ンの難解哲学』よりはマシだ。 
時間概念も空間概念もない眼に視えない世界との関わりは、 
時空や次元の違いとも関係ない。 
世間の学識の崩壊は自然界の崩壊と伴に歩む。 
そこに騙されるなよ。 
学校の授業で教えてる内容なんて、自分が今の世の中に生きるためには 
ほとんど役に立ちはしない。 
「一般教養を身につけてから社会に出て立派な人になる」なんて、 
もう嘘だ。
そんな時代は とっくの昔に終わってる。 
どこにある? そんな世の中が。 
明治・大正・昭和の常識を引きずった爺さん婆さんの頭ん中だけだろ。 
しかもみんなもう、ほとんど惚けてるし。 
どこのオッサンにもオバサンにも指導力なんてない。(…俺にもないくらいだ) 
誰も何も導けないし、ひっぱりあげられない。 
気持ちよく「協力しましょう」なんてのもない。 
自分でなんとかするしかないじゃん。結局は。
 
好き勝手に言いたいことしか言えない。  
森や林の茂みの陰に落ちてるドングリだって、
その一つ一つの形や色も違うのに、 
人間の“ドングリの背比べ”は、 
政治に宗教に教育に経済に、医療の現場にまで、 
申し合わせたように浸透してる。 
 
なんなんじゃ? この世の中は? 
 
みんなで一斉に、「よ~い、ドン!」で走り出して 
みんなで一斉に、ゴールで一位になれるわけがない。 
それを、「俺もお前も頑張ればできる」という、  
“何十人マイナス1脚”で無理やりに走らせる。
ハチマキで縛りつけた足首が擦り剥けて血を流そうとも、どうなろうとも…。 
 
みんなでゴールおめでとう! 
でも、それが苦しい人の方が多い。実際は。 
「それ以上にやり遂げた自分に喜びがある」なんてのも先生の嘘だ。 
全国の体育の先生のほとんどの人が、爆弾のような筋肉障害や 
スポーツ障害の後遺症のようなもんで悩み苦しみ、お身体が辛い。 
階段を登り降りするにも過去の栄光なんてそっちのけだ。 
 
どんなことでも、それが合う人と合わない人がいる。 
合わないことを無理にやれば、後々つけが回ってくるのは当然だ。 
全国の学校の先生方が実証してる。 
 
俺はそんな学校に自分の子供を通わせたかぁないぜ。 
まぁ、どうにもならんことだろうけどな。 
 
今はまだ。