俺もアホになりてぇ。 | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

   
   
1980年、中学生だった頃、
とにかく、”人間の歌う声”ってのがキライだった時期がある。
”流行りのうた”なんて、まったく聞く気にもなれず、どうでもよかった。
映画音楽とか、セロニアス・モンク や ザヴィア・クガート楽団とか、
カラヤン指揮のモーツァルトとか、そういうのばっかり聴いてて、
読んでる本はニーチェ、キルケゴール、カミュ、石川啄木詩集・・・。
それと、ブルース・リー写真集(香港から取り寄せてた)。
なんか、時代を逆境してたというより、
どこか、その時代に生きている自分を許せなかった。
父親の仕事の関係上、転校や引越しを何度か経験していた所為でもないだろうけど、
そんなヤツには当然、友達も少なかった。
唯一、ラジオの深夜放送が友達だった。
放送で流れる”歌”なんてどうでもいいけど、
大人の世界というか、自分の知らない別の世界の探求ができた。
ラジオは自分でも組み立てて(ゲルマ・ラジオとかもな)、
小学校4、5年くらいから、『五木寛之の夜』とか落合恵子さんの放送を聞いてた。
布団の中で。イヤホンで。
なんだか意味は判らないけど、面白かった。
中でも受信電波がブービーいって聞き取りずらかったラジオ劇画、
『ブラックジャック』は楽しみにしてた。
そうこうして適当に生きているうち、いつしか、
「俺はなんで、この世界に存在しているんだろう?」
というような疑問が芽生えはじめた。
   
ある日、モスクワ放送のスグ近くのチャンネルに、
売り出し前の”タモリ(さん)”の声があった。
放送の内容も、今の”『笑ってる場合ですよ』のあと番組”より面白かったけど、
そこで、テーマ曲に、”マイ・フェイヴァリット・シングス”が使われていた。
衝撃的だった。
「もっと他にも・・・」と 欲かいて、曜日を間違えて聴いていると、今度は、
”松山千春の声”があった。
歌はともかく、話の内容は いろいろ勉強になった。
深夜一時から3時までの放送だったので、いつもほとんど
最後まで聞かずに眠ってしまった。イヤホン、耳に刺したまま。
で、火曜日の深夜は千春さんで、
月曜日は 例のおねぇさん。
水曜日は ”イグアナのトランペッターのおじさん”で、
木曜日は 『西田敏行のパロディカル・ナイト』に浮気して。
金曜日は 剛のアニキだったと思う。その当時。
毎日そういうラジオ番組を聞いてた中で、
「今、この喋ってるヤツの作った歌が流れてるのか・・・」
っていうような生意気な態度で適当に聞き流してた。音楽は。
ところが、ある日、『夜明け』っていう、
題名もワカラナイような歌を別番組で聞かされて、
当時の俺にしては珍しく、「ちょっといい歌だな」って思った。
(・・・日本人だから日本語は通じてた。)
で、また火曜日の夜が来て、その日は最後(午前3時)まで聞いてると、
大空と大地の中で』が流れてきた。
はじめてそれを聞いたわけでもなかったと思うけど、
はじめてその歌をマトモに聴いてみて、なんか涙が出てきた。
12月8日。ジョンレノンが射殺された日。
日本時間で何時頃だったのか。その日は火曜日だった。
いつものように、「今日の松山千春」を楽しみにして、
ラジオのボリューム下げて宿題やってると、いきなり、
ピッポーの時報のあとに、ジョンレノンの追悼番組がはじまった。
「なんだよ! そんなのどうだっていいよ、千春だせよ!」
思わず、夜中、独り部屋の中で叫ぶ南。
   
一年後(1981年)、”月曜日のおねぇさん”と”水曜日の森田一義氏”のほかは、
パーソナリティが編成されてしまった。
で、金曜日に、元気いっぱいの吉田拓郎さんが(戻って)きてた。
拓郎さんは
「あのアルバムは もう神のような存在の一枚・・・」
ということで、しきりにボブ・ディラン の名演についての話とかもしてくれてた。
ゲストにアルフィーの坂崎さんを呼んで、
”Straw
berry Fields Forever ”とかを歌っていた。生放送の中で。
毎週かかさずカセットに録っていた何十本もの”120分録音テープ”を今でも持っている。
その頃の俺の音楽趣味も、だいぶ、”日本人的なモノ”に近づいてきて、
それでも、流行の歌を10年さかのぼって、
一連のフォーク・ソングばっかり毎日 聴いていた。
だから音楽カセットのA面は、カラヤンの”アイネ暗いねナハトムジーク”でも、
B面は、”岬めぐり”とか”襟裳岬”ほか、
かまやつ、伊勢ショーゾー、オフコース、モトマロ・・・だった。
ただ、サダマサシだけは聞く気になれなかった。

   
ある日、

「サダマサシのレコードは灰皿にする」

と言っていた当時の森田一義氏の放送のあと、
午前3時から伊丹哲也さんの放送がはじまった。(浩子お姉さんに替って)
「・・・最近、時々、ハイライト置いてないタバコ屋がある。
『ハイライトありますか?』
『あんまり売れなくなったから置いてないよ』っていう おばちゃんがいた。
ハイライトをナメたらアカンよ・・・」
そういう感じの放送を覚えている。
哲也さんが今でもハイライトを吸ってるかどうかは判らないけど、
DEMO! ”の2ページ目にZIPPOのイラストがあるくらいだから、
たぶん煙草は吸ってると思う。

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     harleydavidson

     これは、あるドラマの中で、

     ”ポプコン出身”の世良さんが吸ってた煙草と同じパッケージ。

     今はもう、日本国内では売ってない。

   

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     match501

     これは、90年代、俺が芝居の勉強してた当時に吸ってた煙草。

     同じく ”ポプコン出身”の哲也さんの歌を聴きながら。パークエリアの夜

     ・・・今はもう、どこにも売ってない。日本国内では。

     

   

   

真面目な声楽家(?)とかは あんまり吸ってないと思うけど、
ミュージシャンには煙草と酒を呑んでる人が多い。
キース・リチャーズはマルボロを吸っている。
前回で触れた 9月27日分の哲也さんのサイトの中でも、
酒と煙草と歌で声が出なくなってしまったらしい、ジョー・コッカーの話があった。

   
・・・で、ゴメンナサイ。
Aginst The Wind ”っていう曲を歌ったのは ジョー・コッカーではなくって、
ボブ・シーガー&ザ・シルバーバレットバンドだった。
(80年代に ”Shame On The Moon ”とか ”Even Now ”って曲をヒットさせてたボブ・シーガー)
ジョー・コッカーと同じくらいの年代だと思うけど、俺のエライ勘違いだった。
これを [ ストーンズ惚け ] と呼ぶことにしよう。俺の場合は。
   
Aginst The Wind ”。同名の曲を哲也さんも歌っている。
と在る日の歌”のコーナーで48秒の試聴だけど、
2003年に作られたらしい曲で、イントロのマウス・ハープの部分が、どこか、
かつての『ラスト トレインを待ちながら』を彷彿とさせる。
その哲也さんのサイトの”おれのたわ言”のページでは、
10月1日分の更新で、トム・ウェイツとボブ・ディランのことを書いていた。
それと、自分自身が「アホだ!」という内容について。
   
   
自分自身のことを
「俺は馬鹿だ」「俺はアホだ」と云える人ってのは、
この時代、ある意味で、そうとう、”できた人間”・・・と思う。
”無意味ではない悟り”を切り開いた素晴らしい人物だと思う。
決して、誰にでもできることじゃない。
それは、何か一つのモノを 本当に大切にしてる人とか、
自分が生きる上で、「愛することが不可欠」だとか騙ってみたり、
愛されたいと願うことを主張するばかりの人たちが多い今の世の中で、
自分自身がどうなろうとも常に、
誰かを、何かを愛することを”犠牲”として生きてる人。
そういう人は、自分のことを素直に、「俺ってアホだよな」「私はバカだ」
って云える、そういう”度胸がある人”だと思う。 

 
・・・俺にも欠けてる部分だ。最も。
しかも俺の場合、自分を犠牲にするどころか、
自分の犠牲のために周りの人間みんなを犠牲にしてる。
こんな愚か者はいないよな。
自分自身の中から出てくるはずの自分の言葉さえも自分のものではない。
言葉も態度も偽善的、口先が達者、ポーズばっかり。
こんなヤツが書いた内容の本なんて誰が読むかよ。
まったくだ。
本当に心を割って話し合えるような友達なんてのもいねぇし。
   
それでも、何とかして登ってみてぇ。
たとえ霊峰富士の天辺までは行けなくても、
麓の樹海を彷徨うなんてのは、まっぴら御免だ。
それよりもっと低い位置で、
深海で水圧に押し潰されてグチャグチャになる必要もない
そんな処に自分の魂を置き去りにするくらいなら、
バカ丸出しで生きてみた方がいい。
それは無駄死にではない気もする。
今この世に生かされてる自分の持っている力を
どこまで発揮できるかは判らねぇけどな。
   

   
   

で、話は飛びに飛んで、
今や、スターバックス・コーヒーの広告塔のようなことをやっているけど
先頃の”LIVE 8 ”にも出演して、
常に時代の中心にいてプロテスト・ソングを歌い続けるボブ・ディラン。
一方では、
「ミックが一人で出る分には構わないだろうけど、俺は絶対に出演しない」
そうハッキリと出演要請を断ったキース・リチャーズもいる。
そのキース・リチャーズっていう人は、トム・ウェイツと仲良しで、
同時に、ジャック・ニコルソンとも交友があるらしい。
どんな関係なのか?
考えただけでも、こんな ”濃い3人組”が友達同士だなんて、
もしも三人が並んで揃って立っていたり、街を歩いていたり(・・・まずありえないけど)、
そんな日には きっと、誰も声をかけることすら出来ないし、
みんな建物の脇に隠れるかも知れない。
でも、そういう三人の友情ってのが、映画や音楽、芸術の枠を超えて、
この時代に存在してる。
・・・俺も、そんな関係の友達が欲しい。無理だけどな。たぶん。
   
   
伊丹哲也さんの、
今、胸に咲く戦友(とも)』
を聴きながら、そんなことを思う俺。
今年の酒づくりの仕事の手伝い、3日目です。
   
   
   
        http://home.p02.itscom.net/fighting/
        
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