Radical Reformation -今、政治はアートの領域へ- | ーとんとん機音日記ー

ーとんとん機音日記ー

山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記


政治はアートの領域へ


 従来、日本では、権利の獲得の利益とか、税・社会保障による所得再分配による利益とか、公共投資によって得られる利益とか、それらの利益配分に政治的に関与してゆくことで得られる利益とか、その様な事柄の代弁者となる立場で「国民の為、県民の為、あるいは、市民の為」と云う大義名分の下に、それを守り、かつ拡大する為の「政治」が、行われてきたということが実情で、国や地方自治体の議員を選出したり、行政機関ののトップとしての首長を選出したりと云う選挙の場では、それらが色濃く反映されたものになるのは、それ故に、致し方ないことであった。

 だから、それらの選挙でも、議員や首長の背後には、いわゆる、“支持母体”と呼ばれる団体が控えて、「票を支えている。」という構造が成り立っている。 

 しかし乍、当たり前のように見える、これ等の事も、改めて考え直してみれば、かなり、怪しげなことだ。
 例えば、わたしが、自ら進んで、政治的な信念を一緒にするような“政党”に参加して、“党員”という立場になったから、「その政治的な信念を実社会に反映させてゆくために、党が選出した候補に党員が投票するようにしよう。」という組織力が働くと云う理屈であるのなら、一定の合理性はあるのだけれど、「政治的な信条を、団体の会則や規約に掲げていない組織体が、政治的な色彩を帯びて、その会員や参加者に対して、“ある候補者に対する投票を即する”ような圧力を生じさせる。」ということの妥当性は、如何なものか。?
 本来の活動趣旨に政治的な要素を持たない、組合(労組や共同購入組合など)が、政治色を帯びた活動をすることや、或いは、宗教や、文化団体などが、その組織力を使って政治色を帯びた活動をすることなどの、グレーゾーン政治活動が、公然と行われていることへの疑問が表面化してこない社会通念って如何なものか。?

「選挙権を持つ個人の、自由意志による投票」を、阻害するような、組織のバイアスが、いかなる形でも存在するのならば、「それこそ、重大な人権侵害問題である。」というような理解が欠如している。またそういう事を、組織として行うことは、その組織がパワハラ構造を帯びているということで、とても恥ずかしいことてあるという認識が欠如している。

 また、滑稽なのは、その様な組織が、得てして、人権問題や、職場のパワーハラスメント問題や、マイノリティー問題や、“魂(精神性)”というような問題に、積極的に取り組んでいるとされる団体であったりするというところあるけれど、・・・その様なことからしても、我が国の社会の中に健全な批判力が、育まれているとは、とてもいえない状況なので、こういうところが、経済的な先進国と謂われる我が国の、文化的な後進性と云うことなのだろう。




【思想的な右派・左派に影響されない“真実”を述べている。
この人が展開する選挙が手強いというのは、真実から切り込むからだろう。】


 そういう背景がつくり出している、社会の閉塞感・政治的な閉塞感。
“組織”という“しがらみ”から、独立した自由意志を反映した投票が行われ難い“選挙”になど意味は無い。

 表面的には政治団体ではないとする組織が、会員や参加者の“自由意志による選挙権の行使”に縛りを掛けて、票のとりまとめを行い、選挙を通じて、政治家と癒着し、行政に癒着してゆくという構造こそが、不正義の温床となっている。
 例えば、政治家が掲げた政治公約に、一貫性のある理念が無くとも、明確なビジョンがなくとも、また、ビジョンが実現可能であるという事を担保できる検証が無くとも、・・・一応、選挙ツールとしての公約らしきものを掲げておけば、支持母体の組織に対する利益配分が担保できているのならば、選挙に出れるし、選挙を戦えるという、組織選挙の実態が許されているというような今日的な状況の中では、「まじめに、一番多数に利益配分できるような公約を立案したり、その実現を担保できるようなシステムを研究したり・・・」という取り組みをする政治家がいたら、その人は、異端な存在となってしまうような事は明白に想像できる。

「そのような政治の風潮は、いかがなものか。?」・・・と問いかける動きが、沖縄圏の知事選挙の中で起きていて、そこがとても注目される処である。






 すこし、視線を変えれば、明治期の閣僚の苦悩や、坂本龍馬に代表される草莽の志士達の群像を描いたもの、自由民権運動の熱気と近代化による社会の困惑を描いたもの。・・・そのような時代背景を持ったドラマが高視聴率を示しているのは、国民の無意識の中に、我が国の政治の中にラディカル(radical)な要素が宿っていた時代への、共感や希望を感じ取っているからだろうと思うのである。
 「国民の立場に立った政治に命をかける、」といって立候補する議員は多いのに、「一向に、国民の為になったと感じられる政治が現われてこない事への、憤懣や馬鹿らしさ。」・・・そういう雰囲気が支配する中で、描かれたバーチャルな世界に、未来を求めて草莽する自分を投影しているだけなんて、悲しいことではないか。

 だから、そういうところから脱却できるようなラディカルな変化が、今政治にとても求められているのだと思うのですよね。

 “モノをつくる。”とか、“表現する。”というような場にいる者の立場から言えば、政治はアートの下位に位置する。仮に、同じ位置にあるとしても、政治はアートが扱う幾多の要素の一部であるに過ぎない。
 ところで、MMIT(マサチューセッツ工科大学)の石井裕教授が、とても面白いことを述べていらっしゃるので、ご紹介したい。


 この石井教授の述べられていらっしゃるところから発展させれば、「もう、利益の再配分を主軸とした、古い政治は死んだ!」ということになるだろう。
 もちろん、格差是正の為の再配分機能は必要ではあるけれど、「再配分できる価値を生み出せないような政治では、すぐさま行き詰まる。」ということが自明であるし、再配分されるものが「お金」であるのならば、再配分要求の声に応じて、どこまでも財源である税の額を上げてゆかなければ追いつかなくなるという、とても矛盾に満ちたことを続けてゆく事になるから、すぐにも財政破綻が待っている。


 自明の事だが、そういう、ガラパゴス化した政治には未来が無いし、
そんなことを続けてゆけば、いづれ社会が崩壊する。


 沖縄の知事選の、翁長陣営で、節操も無く利益分配で一致した保守と革新が結びつき、理念の無い政治を象徴的に示していることなどに見られる現象が、民主党が躍進したできごと以降の日本の政治の現場では起きている。こういうことでしか新しい政治をアピールできないという事が現状なのだけれども、・・・・。


◎「デザインだけ新しくした製品」を出して、消費を煽る、という消費サイクルそのものが、もはや時代遅れだ。」

◎「ビジョン(理念)を駆動力とするデザインが求められている。」

◎どういう世界を作ろう。どういう未来を作ろう。
どうやって皆を幸せにしよう。そのためには何をしよう。
――そんな未来に対する明確なビジョンをまずは持つ。そのビジョンがあって初めて、本当に新しいもの、本当の新しいデザインが生まれてくる。

・・・と、そのように石井教授は仰られているのだが、そういう本質的な部分からアプローチする政治が求められている。


 そういう処から、左派運動体が催す平和運動なんかで見かける、ダイ・イン(die-in)とか、人間の鎖( human chain)とか、そういう抗議のパフォーマンス(Performance)などでも、その原点を辿れば、抗議の表現が生まれた場ではリアルで切実な動機を母体としていることが確認できる。



怒りも悲しみも超えて、表現が未来を見つめる意思を持つときには、
それは、美しく力強いものとなる。

 しかし、オリジナルのモティベーションを喪失したパフォーマンスの形態だけを模倣したものには、そういう真実は宿らない。

「私は辺野古の海を埋める以上に、沖縄の魂が埋められるのが我慢できない、この選挙は、米軍とか、日本とかいう前に、県民に問われている。」と喜納氏のいうところアイデンティティに問いかける、ラディカルな訴えは、新しい政治を生み出すアートの力を秘めている。

「沖縄は、日本を映す鏡た。」 だから、「サバニ(刳り舟)に乗って、久高島から沖縄本島に向かう。」・・・と云うことから選挙戦をスタートさせた、喜納昌吉さんの姿からは目が離せない。

沖縄知事選・喜納昌吉、サバニに乗ってスタート