【英国王室】ルイス・マウントバッテンと永遠の女性マリア皇女、自由奔放な妻エドウィナ妃 | Time Tested Beauty Tips * Audrey Hepburn Forever *

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私の大好きな 美しいもの、綺麗なもの、かわいいもの。 そして 美しい人、綺麗な人、可愛い人をご紹介したいです。
麗しい、美しい、 愛しいものを......
オードリーをはじめとするハリウッドセレブからダイアナ妃やグレース・ケリーなどの各国 王室・王族も。

従妹のロシア皇帝ニコライ2世の三女マリア・ニコラエヴナの面影を生涯追い続け、彼女の写真を部屋に飾っていたと言われている初代マウントバッテン卿ことルイス・マウントバッテン 。明るい茶色の髪と大きな青い瞳、ふくよかな体、親切で温かい心の持ち主だったマリア。
ルイス・マウントバッテン

ルイスはマリアを思いこんな言葉を残しています。


I was mad about her, and determined to marry her.
You could not imagine anyone more beautiful than she was.
She was far more beautiful than her photogrphs.

She was absolutely lovely.
When I was 18, she was kelled at the age of 19.

All of my life, I never forget her.

僕は彼女にすっかり夢中だ、結婚することに決めた。

彼女以上に美しい女性なんか想像出来っこない!

彼女は写真で見るよりもはるかに美しい。

とても可愛らしい。

18歳の時、彼女は19歳で殺された。

生涯、決して彼女を忘れない。



ルイス・マウントバッテン


12歳の時にロシアの宮殿を訪れマリアに出会ったルイスはのちに「僕は彼女の虜だ、彼女と結婚することに決めた。彼女は疑いようがないぐらいに素敵だった。僕は自分の寝室の暖炉棚に彼女の写真を置いている。常に飾ってある」と告白し、1979年に爆殺され非業の死を遂げた時まで彼の寝室のベッドの横にはマリアの肖像写真が飾られていました。


ただ、マリアはロシアの軍人が好きで幸せな家庭生活を送ることを夢見ており、その夢が叶うことのないままでした。ルイスはその後英国軍人となりました。若い頃からいかにも貴族らしい振る舞いや傲岸不遜な性格、なんにでも口を出す性格、数々の噂話で有名となります。


ルイス・マウントバッテン -   
ルイスとマリア


 

1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された皇帝一家。
1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、マリアは家族や従者とともに19歳1か月の若さで銃殺されます。


ルイス・マウントバッテン


〔★残酷表現があります


最初の銃の一斉射撃によってニコライ2世、アレクサンドラらが殺害され皇妃が皇女たちの前に立ちはだかり「子供たちは撃つな!」と叫びマリアは背面のドアから部屋を脱出しようするも、ドアは開かず、酒に酔った殺害実行者の一人ピョートル・エルマコフがドアを開け逃げようとするマリアに狙いを定め弾丸がマリアの太腿に当たり、マリアはアナスタシアとともに床に倒れ、うめき声を上げます。

数分間で彼女の弟のアレクセイ、彼女の姉のオリガとタチアナが死亡。マリアとアナスタシアは負傷していたけれどまだ生きており、証言によると、銃剣でマリアを刺してみるも、服に縫い付けてあった宝石によって保護されました。

遺体を建物の外へ移動させようとしている時にマリアが意識を取り戻し、悲鳴を上げたたため再び彼女を刺すもが失敗し、静かになるまで彼女の顔を突き続けマリアの顔面部分の頭蓋骨は破壊されます。一家の遺体は一度廃坑に埋められた後に掘り起こされ、別の廃坑付近で2体の遺体を焼却した後に残り9体が硫酸をかけた上で森に埋められました。


その後、ソヴィエトはドイツ出身のアレクサンドラ元皇后や、イギリス王家とも繋がりの深いロマノフ家一族の殺害の事実を伏せることにより諸外国とのトラブルを回避するため「ニコライ2世のみが処刑されたが、家族は安全な場所にいる」と発表。

埋葬地は1979年夏に発見されるも共産主義体制下であったためにその事実は公表されずに元の場所に再び埋められ、1991年に皇帝一家の遺骨が発掘され、2007年に別の場所で欠落していた大公女の遺骨も発見され、DNA鑑定によって1918年に皇帝一家全員がエカテリンブルクで殺害され、一人も生存していなかったことが証明されました。

 




マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)Grand_Duchess_Maria
Grand_Duchess_Maria


母親同士が姉妹であるため、ニコライ2世は従兄であるイギリス国王ジョージ5世と入れ替わっても親族さえ気付かないほど容貌がよく似ていました。(皇后アレクサンドラもジョージ5世の従妹にあたります。)

ジョージ5世はニコライ2世一家に助けを送りたいと希望しますが、英国政府はそれをサポートしませんでした。

They could almost pass as twins. Tsar Nicholas II of Russia and King George V of England.


1884年ルイスの母ヴィクトリアは、祖母ヴィクトリア女王の紹介により、父の従弟ルートヴィヒ・フォン・バッテンベルク(のちのルイス・アレグザンダー・マウントバッテン)と結婚。

ルイードヴィヒの父アレクサンダーは王家の血をひかないポーランド貴族ユリア・ハウケと貴賤結婚をしてヘッセン大公子を名乗れず バッテンベルク家の始祖となり、ロシアの軍人となっていたため、子供たちは下級貴族扱いであり、アレクサンダーとユリアの子供たちにはバッテンベルク侯爵(夫人)の称号が与えられたが、ヘッセン大公家の継承権は与えられず資産も少なく不本意でありました。

ルートヴィヒの従兄ヘッセン大公太子ルートヴィヒはヴィクトリア女王の次女アリス王女(ヴィクトリアの母)と結婚しているため、そのつてて自然とイギリスへ渡ることを考え、英国に帰化し14歳でイギリス海軍に入隊。イギリス王太子アルバート・エドワード(のちのエドワード7世)夫妻の地中海・黒海クルーズに同行したことから、アルバートと懇意にするようになっていました。


1914年にルイス・アレグザンダー・マウントバッテンは退役してワイト島に買った自宅ケント・ハウスに引きこもります。1917年7月14日、ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンはバッテンベルク家の称号の放棄と、マウントバッテンへの家名変更を表明。3日後の7月17日、ジョージ5世により、ミルフォード=ヘイヴン侯爵を授爵されます。1900年生まれの末子のルイス(のちのマウントバッテン卿)はジョージ5世から His Serene Highness Prince Louis of Battenbergの位を受けました。


第一次世界大戦の間、ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンは妻ヴィクトリアの妹たち、ロシア大公妃エリザヴェータとロシア皇后アレクサンドラの2人をボリシェヴィキに殺されます。エリザヴェータの遺体暗殺の3か月後掘り起こされ、長い旅ののち、1921年1月に生前の彼女の希望通りにエルサレムで埋葬されたがルイス&ヴィクトリア夫妻はその場に立ち会いました。



ルイス・マウントバッテン

(1920年エドワードとルイス・マウントバッテン)
  



若いマウントバッテン卿のニックネームは「Dickieディッキー」でした。これは「リチャード」の略称。

1901年に亡くなったヴィクトリア女王の曾孫にあたるルイスの本名は「ルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテン」でヴィクトリア女王の夫アルバート・ヴィクターが名前に入り、1900年のルイスの誕生時、ヴィクトリア女王がニコラスから「ニッキ―」というニックネームを提案します。ただロシア皇帝ファミリーのニコラス2世(「ニッキーNickys」と混乱を避けるためのちにリチャードはギブンネームに入っていませんが、「ディッキー」に変更されました。

ルイス・マウントバッテンは産まれてから10年の間は才女であった母ヴィクトリア(ヴィクトリア女王の孫)、によって教育されました。その時ハートフォードシャーのLockers Park Schoolに入り、海軍学校へ進みます。

幼年期の1913年5月、12歳の時に母の妹ヴィクトリエ・アレクサンドラ(のちのニコライ2世の妃 アレクサンドラ・フョードロヴナ)を訪ねロシア宮中 サンクト・ペテルスブルクを訪問。ロシア皇帝ファミリーと親密になりいとこのマリアにロマンチックな感情を抱きます。



ルイス・マウントバッテン -     


1916年7月、海軍兵学校生徒としてイギリス海軍の巡洋戦艦ライオン (HMS Lion) に乗り、1917年6月に、第1次大戦に参加。(ライオンは1914年8月28日のヘルゴラント・バイト海戦、1915年1月24日のドッガー・バンク海戦、1916年5月31日のユトランド沖海戦に参加しています。)

1916年8月に戦艦クイーン・エリザベス Queen Elizabethに移動。1917年ごろ英国王室はファミリーをドイツ風から英国風の「ウィンザー」に変え、ルイスもバッテンベルクのプリンスから名誉称号プリンス・ルイス・マウントバッテンになりました。ルイスの実家はミルフォード・ヘイヴン侯爵家となりました。

1918年10月13日に小さい軍艦HMS P.31の副司令官に任命されて、1919年1月15日、昇進し少尉となりました。1919年4月4日 Christ's College, Cambridgeに入り、1919年10月にで彼のためにデザインされたプログラムであるエンジニアリングを勉強したルイスは、その後ケンブリッジ大学ユニオンソサエティ会長に選ばれます。


Edward VIII wearing Happi


 1920年3月からエドワード(プリンス・オブ・ウェールズ、エドワード7世の息子である「王冠を賭けた恋」で知られているのちの英国エドワード8世)とオーストラリアのロイヤルツアーに同伴。

1920年4月15日、昇進し副官となり1921年北アイルランドとは重大な産業の不安が差し迫っており、民間防衛義務のため、マウントバッテンは、一度もライフル処理したことがなかった火夫の一団に多くを命じました。

1921年3月にイギリス海軍の巡洋戦艦移動レパルス (HMS Repulse) に移動し、同年プリンス・オブ・ウェールズとともにインドと日本へのロイヤルツアーに伴い皇太子の介添え役でとても日本でエンジョイしていたとか。エドワード とマウントバッテンは親密な親交を形成していました。

 


ルイス・マウントバッテン

(ルイス21歳、マリアが亡くなって3年...)




1923年英国海軍を去り1924年8月マウントバッテンは彼の興味を追跡(技術的・小道具の開発)のため、ポーツマスシグナル学校に参加。

それから、しばらく海軍兵学校でエレクトロニクスを勉強し続けマウントバッテンは、エンジニアリングとテクノロジー(IET)の組織、電気工学研究所(IEE)のメンバーになりました。

1926英国戦艦センチュリオンでワイアレスとシグナルの役員になり、1934年に、マウントバッテンはコマンダー(軍艦の副長)に任命されました。それから、1936年1月、ジョージ5世の葬儀後の1936年6月23日エドワード8世の個人的な海軍副官として任命され、1936年7月海軍省の海軍航空師団に参加し。1937年5月キングジョージVIの戴冠式に出席し、1937年6月30日にキャプテンに昇進。


チャップリンの最初の妻ミルドレッド・ハリスは1930年にウォリス・シンプソンと知り合い、シンプソンとプリンス・オブ・ウェールズを引き合わせた一人となりました。プリンス・オブ・ウェールズはイギリス王エドワード8世として即位ののち、王位を捨ててシンプソンと結婚。ハリス自身もプリンス・オブ・ウェールズやルイス・マウントバッテン卿らと親しく、チャップリンとの離婚訴訟の真っ最中に一緒にダンスを踊った仲でもありました。 



ルイス・マウントバッテン  


1939年9月に第二次世界大戦が勃発するや志願して現役に復帰し、海軍少佐に任ぜられました。

東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官に就任。ビルマの戦いなどで日本軍との戦いの総指揮を執ったものの、質、量ともに勝る日本軍に痛めつけられた日本vs連合国軍(イギリス、アメリカ、中華民国やオランダ、オーストラリア)の戦線が伸び切ったことから、1945年に入りようやくイギリス軍が攻勢を取るにいたったビルマでの一連の戦いが評価され、「ビルマのマウントバッテン」と謳われるようになりました。

マウントバッテン卿は第2次世界大戦で日本に苦しめられた経験から葬儀には日本人を招かないよう遺言を残したり日本嫌いで昭和天皇歓迎晩餐会に欠席した唯一の人物でしたが「軍は純粋に政治的な性格の裁判にかかわるべきでない」などと東京裁判を批判していたということが明らかになっています。


エリザベス女王 「私はまだ生きています。このところ私たちは大変忙しくしています。極めて色々」 →


ルイス・マウントバッテン -   




1922年7月18日エドウィナ・アシュリー((1901年、シャフツベリー伯爵家の子孫で富豪の女子相続人でもあった)と結婚。

エドウィナは7代シャフツベリー伯爵アントニー・アシュリー=クーパー のお気に入りの孫娘で、伯爵はエドワード7世時代の有力者で人道主義の立場から、労働階級の状態の改善に努め、1833年の工場法や1847年の10時間労働法の成立に貢献し、貧民学校の成立や福音活動に尽力した人物でした。


ハネムーンツアーはヨーロッパ宮廷とハリウッドやナイアガラの滝を含んだ魅力的なものでした。

エドウィナはとてもスタイリッシュで世界6人のベスト・ドレス・ウーマンのひとりに選ばれたこともあります。シャネルでお買い物をし、トランプのコントラクトブリッジゲームで遊びチャールストンで朝3時まで(時にフレッド・アステアと)ダンスを楽しみ、週末にはカウントリーハウスで、プリンスオブ・ウェールズを含めた客がスピードカーや飛行機で集まり常にいっぱいでした。

ディッキーからエドウィナに少年らしい愛はささげられたもののベッドでは不器用で、ロマンチックではなかったそう。

ルイス・マウントバッテン -

二人の子女に恵まれました。



1924年、長女パトリシアが生まれるとマウントバッテンが娘に溺愛する姿に自分が注目の的になっていないことに情熱的なエドウィナは自身の子供に嫉妬し、日記に「可愛い小さな娘、スリルがあってとてもかわいい'A divine little daughter. Too thrilling, too sweet,' 」と震えた文字で書いていたとか。乳母 にまかせ彼女は職業を超え恋人を捜すことを続行しはじめました。


はじめに貴族Lord Molyneux、その後アメリカ人のポロプレーヤーLaddie Sandford、ハンサムなロンドン新聞夕刊のマネージャーMike Wardellと遊び3人を一度に集めることもありました。

一同に訪問してきた客を従僕は必死に『ロード・モリヌークスがモーニングルームに、Sandford氏がライブラリーに、どこにほかの紳士を置けばよいのでしょうか?'Lord Molyneux is in the morning-room and Mr Sandford in the library, but where should I put the other gentleman?' 』と尋ねたこともあるのだとか。


しかし夫のマウントバッテンが30前半にマルタにポストが置かれると、彼女はアメリカ人ゴルフチャンピョンのBobby Sweenyの元に向かいました。次のプレイボーイLarry Grayとメキシコクルーズに向かい、二人のカルフォルニア出身の兄弟とテッドとフィリップともベッドに入り、すぐに彼の兄弟のバニーも仲間になりました。連続して性的に戯れていた時期は、1929年彼女が2番目の娘パメラの誕生まで続きました。(レディ・パメラは顔面がとてもマウントバッテンですのでご安心を(写真下))


ネルーとエドウィナ

パメラさん、現在


 

「エドウィナとわたしは他の人間とベッドにいることを結婚生活で務めた"Edwina and I spent all our married lives getting into other people's beds."」とマウントバッテンは認めて いるように、マウントバッテンも流した浮名は数知れません。


1931年に、彼は18歳の未来のアーガイルの公爵夫人(Margaret Campbell, Duchess of Argyll)を弄び、彼女の写真を彼のキャビンに飾りました。彼女はスコットランドのミリオネアの娘でした(父はセラニーズコーポレーションのチェアマン)

マウントバッテンは'The only photo of any girl!' と彼女に手紙を書きましたがその後バーバラ・カートランドBarbara Cartland 、コレット女史の行儀作法のしつけを受けて淑女へと成長していく無邪気な少女の恋模様を描いた「Gigi」の元となったフランス人のYola Letellierヨラ・ルテリエなどがいました。エドウィナはこれに激しく嫉妬したけれど、自身の習慣の変更は考えませんでした。

エドウィナが30歳になるころになると彼女は10人もの称賛者に囲まれ、マウントバッテンをその人たちをプライベートなスラング『奴ら'ginks'.』と呼んでいました。


彼女は指揮者マルコム・サージェント Malcolm Sargentとも戯れ、最も大胆なお遊びとしてバイセクシャルで西インド諸島出身のキャバレー・ピアニストで1920年~1930年代のイギリスの伝説的なエンターテイナーであるレスリー・ハッチンソンLeslie Hutchinson(黒人)とも噂されます。彼女はカルティエ製の彼女の名前入った金の巻きたばこ入れ、金の腕輪を与えました。

新聞で『彼女が黒い恋人を持っている』と報道されると新聞を首尾よく訴えたけれども、30年の間『Hutch』とオンオフの関係を繰り返したのは疑いようがないとか。

またミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人ナデジダ・マウントバッテン(義兄の妻)と仲が良すぎて同性愛の噂が出たことも。





ネルー エドウィナ

ネルーとエドウィナ、


マウントバッテンは1947年8月15日にイギリス領インドで最後の総督となりました。インドをヒンズー圏とイスラム教のパキスタンに分離する大仕事を手掛けましたがインド独立の父マハトマ・ガンジーとも親交がありました。 


夫とともにインドに渡ったエドウィナはこのとき夫と同じバイセクシャルな傾向をもっているという噂のあるインド初代首相ジャワハルラール・ネルー(1889年生)と親密な友人となります。

ネルーは裕福な家庭に生まれイギリスで養育され、高いカーストのカマラとの間に生まれた娘には英国人の家庭教師をつけていました。

ネールはガンジーの非暴力的な哲学にシンパシーを感じ、病弱な妻は、女性の権利を改善するために、彼女自身の根本的な改革運動を起こしていました。カマラは1936年に結核で亡くなり、ネルーはエドウィナに会うまで再婚もせず妻への愛を貫いていました。


インドに着任する1年前の1946年、シンガポールで夫妻はネルーに初めて会っています。1947年インド人は新パキスタンと領域を求めて戦い大量の移住と虐殺は続いていました。マウントバッテンがそれを開放し英国が撤退するため力を注ぎました。

47歳エドウィナは彼女の莫大なエネルギーのもと、政治的な急進の中、病院と難民キャンプで大胆に行動していました。彼女とネルーが略奪と群集暴力をやめようとした時に危険にさらされたこともあります。

イスラム教の難民キャンプで1組のヒンズー教徒とシーク教徒がそれに火を付けて、囚人を殺そうとしているのを発見すると、まるでガーデンパーティーにいるかのようにエドウィナは群衆の前で静かに立ち彼女のガードマンとともにそれらを収めました。


ネルーとエドウィナ  


独立後、マウントバッテンは多くの国に足を運ぶ必要があったためインドに残ったエドウィナとネルーには親密になる時間があり、夏の間、エドウィナは暑いデリーのネルーの首相の家に赴き、ベランダのまわりでぶらぶらと頻出していたそう。

エドウィナは「"Nothing that we did or felt would ever be allowed to come between you and your work or me and mine – because that would spoil everything."」と手紙を送っています。2人の文通と交際は夫妻の帰国後も続きました。



マウントバッテン夫妻の娘レディ・パメラは著書「インド回想(仮訳)」で「母とネルーとの間で恋が花咲いていた。妻を亡くし、娘(インディラ・ガンジー元首相)も嫁いで孤独だったネールに 母が同情したためあくまでプラトニックな関係だった。母は多くの愛人を持っていた。父は長年妻の浮気に悩まされていたがネールとの交際には理解を示していた'My mother had already had lovers. My father was inured to it. It broke his heart the first time, but it was somehow different with Nehru,'」と明らかにしています


インド独立期の激動の時代に夫妻とネールの間で「幸福な三角関係」が続いたそうで、マウントバッテン卿は、パメラの姉にあてた手紙で「2人は仲むつまじく、パメラと私も精いっぱい配慮している' She and Jawaharlal (Nehru) are so sweet together, they really dote on each other.' 」と記し、 パメラもネールを「母方のおじ」と呼び慕っていたとか。


ネルーとエドウィナ  


おそらくマウントバッテンはネルーがバイセクシャルの傾向を持っていたのを感付いており、ディッキーは、彼の「妻」と物質的な親交を設立する最後の試みにおいてネルーを「物質的な家庭」に参加させたのかもしれないと言われています。

寝室で何が行われていようがマウントバッテンはインドに対しとても公的な関係を保ちました。
1948年にガンジーが暗殺された後、夫妻はガンジーの火葬された地面にしゃがみ悲嘆しました。


この写真が英国の新聞に載り、チャーチルは王室の担当者としてこの不名誉に怒り、夫妻が帰国した際、高齢の戦争ヒーローは、マウントバッテンと握手することを断りました。

慣例に従わないマウントバッテン夫人は毎年ネールを訪問し彼は英国まで彼女の元を訪問しました。

ふたりは手紙を取り交わし、エドウィナは夫にこの手紙を隠そうとはしませんでした。



ネルーとエドウィナ  

1952年にエドウィナはディッキーに'Some of them have no "personal" remarks at all. Others are love letters... though you yourself well realise the strange relationship  -  most of it spiritual  -  which exists between us.' と手紙を書きました。

68歳のネルーは10歳下のロマンチックな友人に'I was overwhelmed and at the same time exhilarated by this new discovery. We talked more intimately as if some veil had been removed and we could look into each other's eyes without fear or embarrassment.'

「私はこの新しい発見に圧倒されて、同時に元気づけられた。まるであるベールが取り除かれて、恐怖や当惑なしで私達が互いの目をみることができるかのように我々はより親密に話せる。」


と強烈な言葉を送っていますが、その1年後、1960年に、58歳のエドウィナはボルネオへの旅行中に睡眠時に一人亡くなっていました。彼女のベッドのそばにはネールから届いた手紙(彼女のコレクション)があったそうです。ネールは64年に死去。



ネルーとエドウィナ  



ケイト・ブランシェット 主演「インディアン・サマー」に暗雲→

アレックス・フォン・タンツェルマンの著書「Indian Summer: The Secret History of the End of an Empire」を映画化するもので、英国統治下のインドを舞台に、47年のインド独立へといたる植民地支配の最後の日々を描く。ブランシェットは、最後のインド総督となったルイス・マウントバッテン伯爵の夫人エドウィナを演じる予定でインド初代首相ジャワハルラール・ネルーとの不倫愛を描く。Indian Summerは「運命の恋」ともいうべき出会いを指してい ます。



ネルーとエドウィナ   








 (マウントバッテン、チャールズとアン)
Prince Charles and Princess Anne playing with Lord Mountbatten and his wife in Malta in 1954


ルイス・マウントバッテン  


フィリップ殿下は崩壊した家庭からひとり英国にきて寄宿学校に住み、祖母ヴィクトリア(ミルフォード・ヘイブン侯爵夫人)、この叔父夫妻を保護者として育ちます!

週末に行き場所がないのがよくわかります...。なお、マウントバッテン家の次女パオラさんは幼いころやはり祖母ヴィクトリアに預けられて住んでいたそうです。(ウィンザー城産まれの)ヴィクトリアは1921年以降夫を亡くしケンジントン宮殿に住んでいました。


【英国王室】ヴィクトリア (ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人) →



フィリップは出会った時から自分を一途に愛してくれたエリザベスと結婚をしますが、その結婚生活にもこの育ての父ともいえる叔父の影がちらつきます。叔父の余計な一言で屈辱的な立場もあったとか(多少の失言を言いたくなってもおかしくないかな?)



【英国王室】フィリップ殿下 叔父ルイス・マウントバッテンの野望に翻弄され「女王の夫」に→



ですが、チャールズ皇太子はこの叔父を心から尊敬していました。20後半過ぎてもフラフラとお妃を決めず立場を楽しむチャールズ皇太子が道楽者的側面を見せると、マウントバッテンは「ウィンザー公(英国エドワード8世)の轍を踏むな!」と厳しく諭しました。が、チャールズに「若気の放蕩」も勧めたり、メディアその他にかぎつけられないよう手配りまでしてのけました。



ルイス・マウントバッテン



ルイス・マウントバッテン -   
Prince Philip The Plot to Make a King →【外部リンク・動画 dailymotion
ルイス・マウントバッテンの娘さんも出てきます
ルイス・マウントバッテン -


二人の娘は女王の女官を務めます。


1 Lady Patricia Mountbatten, Countess Mountbatten of Burma (born 14 February 1924)

 マウントバッテン・オブ・バーマ伯爵パトリシア・エドウィナ・ヴィクトリア(夫:ブレイボーン卿)


2 Lady Pamela Carmen Louise (Hicks) (born 19 April 1929),

 パメラ:1947年-48に夫妻とインドに同行

 

マウントバッテンには息子がいなかったため、男性相続人がいなかった場合に限り、男系の女性相続人で最も血縁の近い年長者が爵位を継承することを特許状で認められている稀な例特許証を1946年8月27日、ビルマと男爵Viscount Mountbatten of Burma, of Romsey in the County of Southampton、1947年10月28日にEarl Mountbatten of Burma and Baron Romsey, in the County of Southamptonサウサンプトンの郡のビルマ子爵マウントバッテンをとり、1979年にパトリシアは父が暗殺されるとマウントバッテン・オブ・バーマ伯爵位を襲爵。


ネルーとエドウィナ

パメラとネルー

Lady Pamela Hicks

ネルーとエドウィナ

 ネルーとお食事するレディ・パメラ




ルイス・マウントバッテン
The two men pictured together at a polo match in 1977 as Charles drinks a pint of beer


ルイス・マウントバッテン


ルイスが殺害される9年前
Charles pictured with Lord Mountbatten in 1970, nine years before his murder


ルイス・マウントバッテン


Beloved Charles_said_of his great uncle's death At the time


ルイス・マウントバッテン


ルイス・マウントバッテン -  


老境に達したマウントバッテン卿は、核兵器に反対する発言をするようになりました。

1979年に、アイルランド北西部のドネゴール湾で、休暇でヨットで出航直後、IRA暫定派の仕掛けた爆弾により爆破され、孫たちと共に死亡。(マウントバッテン卿とともに乗っていた娘パトリシアの息子14歳ニコラス、姑のブラボーン男爵未亡人ドリーン、ボートの漕ぎ手を務めていた15歳の少年)

パトリシア、夫ブラボーン卿、別の子ティモシーは怪我を負ったものの、命は助かりました。実行犯は終身刑となりました。爆弾を作ったのは19歳の学生でした。



マリア皇女が生き残ったという主張がこれまでに何度かされてきていましたが...奇しくも皇帝一家の埋葬地はマウントバッテン卿が亡くなった同1979年夏に共産主義のソ連によって発見され(この事実は隠され)、遺体が掘り起こされたのは1991年となりました。



1979年、マウントバッテン卿の葬儀で
Prince Charles and Princess Anne

Prince Charles and Princess Anne at Lord Louis Mountbatten's funeral in 1979

Prince Charles and Princess Anne

ルイス・マウントバッテン - 




ルイス・マウントバッテン

Grief: The murder of Lord Mountbatten, pictured here with the twins as babies, turned the tragedy into a public event


・ティモシー・ニコラス・ジーン・ナッチブル閣下(1964年 - )双子の兄

・ニコラス・ティモシー・チャールズ・ナッチブル閣下(1964年 - 1979年)双子の弟、IRAの爆弾テロの犠牲者
ルイス・マウントバッテン



好きな人に似てくるんですかね?(チャールズ皇太子)

ルイス・マウントバッテン


ひろはな様にいただいたフィリップ殿下とトットちゃんのお話、何度繰り返し見ても素敵ですね。チャーミングでウィットに富んでいて、シギー様のおっしゃるとおり女王陛下はやはりお目が高い!そして殿下の笑い声にやはり反応される女王様と光る宝石のお話、画が見えるようです。(コンピュータやTV番組数に拘る女王様もかわいらしいエピソードですね)→
でもさすがその血を引いた孫ハリー王子とウィリアム王子は殿下にブーブークッションを贈って驚かせたこともあったそうですよ!




 


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