せっせと作っていた、
神戸市文化振興財団の1日ワークショップ募集へ出す企画書と、その他の資料が、完成しました。
5/17が応募締め切りだから、放送大学の栃木スクーリングへ出発する前の今夜か、帰宅する日曜日かに提出のつもりです。
僕は学ぶのも、伝えるのも好きなので、採用される気、満々なのですが、どうなることやら。
きっと採用されなくても、もう完全に、こうしたくなってしまったので、昨日も書きましたが、
この’24年度中に、どこかのカルチャーセンター講師の募集に応募する決心をしました。笑
僕に文学的な実績こそ(四流程度どころでなく、零に近く)欠けているのは、身にしみて分かってはいるのですが、
講師としては充分以上、すでに教えられることも、また知っておりますので、
恥ずかしさや見っともなさを横に置いて、もう決意しようかな、と。
足りない実績は、この’24年度中に結果を出せばいい。
でなければ、’25年度中に出す。
村上春樹が「風の歌に聞け」で書いたように、「完璧な文章」は存在しないし、「完璧な講師」も存在しない、と思うので。
名選手が名コーチにならないように、僕のような凡人文学者にも役立つことがあるのですよ、きっと。
今年、僕に今、訪れているシンクロニシティの数々は、僕個人の恥ずかしさを吹き飛ばし、行動することを求めていると感じています。
先日も書いた、純粋に詩作をやっている詩人の方々と、僕は立ち位置が違うようだな、と感じた次第です。
今回、兵庫県詩人協会の親睦会で、それをすごく認識しました。
そして、文学の女神は、人間の純粋な努力を「非情に」も、いつも吹き飛ばすのではないでしょうか、
より純粋に努力したものでなく、より気づき、新たな挑戦と発見した者へ傑作完成という栄冠をもたらすのだ、と僕は思っています。
努力は、作品に対して行うべきものこそ「純粋」なので、専任したかどうかの有無ではない、と思っています。
ね、すでに、詩人専従の方からしたら、違和感ありあり、でしょう。
僕の、この感覚だけは、大谷選手の2刀流に近いと思いますよ。
比較例にあげることも、言うことだけでも恥ずかしいと僕自身も認めますけれど。
今のところ、兵庫県現代詩協会にいますけど、ずっといるかな?
正直、分かりません。
違和感が大きくなれば、退会します。
詩人が、本当に自由なら、小説にも挑戦すべきでしょう。
(あれっ、やっぱり、これ、言っちゃダメですか?)
不思議なのは、小説は自由だ、の声をあまり聞かないこと。
小説は、未完成で、ヌエのような怪物で、自由になんでも表現できる、受け入れるは聞きますけど。
短歌や俳句は、当然、「自由だ」発言はあまり聞かない。
(別の意味では、聞きますが)
詩人だけが、「詩は自由だ」発言を、思想的に振り回している一部の人がいる、と感じます。
僕は小説家の眼で、詩を見ます。
詩人の目で、小説を見ます。
俳人の目・感覚で、柳人の目・感覚で、歌人の目・感覚で。
そして、もう忘れたはずでも、どこかに残っている美術制作者や、絵本作家、アート・アニメーション作家、それぞれの研究者の目で。
また、放送大学のスクーリングへ出かけるように、20年以上にも及ぶ学ビストの目で、見ます。
きっと、全人格的に、それが僕なので。
詩人は、僕の一つの側面なのです。
詩を書いているときは、詩に対して全力なのですが。
絵や美術関係の教室もいくつも受講した経験があるので、知っているのですが、
講師の方々、皆がみな、すごい画家やプロではないんですよね。
いわゆる、町の美術家や画家の人がおられました。
つまり、武蔵美や東京芸大、美大の教授でない、先生の教室へもたくさんおられます。
僕も行きましたからね。
また、今まで、おそらく文学関係の教室で、本を2・3冊しか出しておられない、無名の作家さんにも教えていただきました。
そういう方こそ、自作プリントを作られて、いい意味でマニュアル化しようとされてました。
でも、今の僕からすると、残念ながら、皆さん、「ストーリー展開や構造」のみに固執した手法でした。
うーん、それでは、限られた方以外、上手くはならない。
僕は、それでは小説スキルは開花しない、との絶大なる強い確信があります。笑
だって、長年、その方向性へ、そういった先生のやり方で挑戦しても、僕自身が全く上達せず、【ストーリー展開の呪縛】にますます囚われるだけでしたから。
また、著名な作家さんでも、基本「書け書け主義」な方が多くて、中には丁寧に添削して頂いて、小手先に上手くなるものの、発想法など質的な向上は自分任せになるのですね。
だから、受講生は自然と「オレには才能がない」との結論で、諦めざるを得なくなる。
僕は、声を大にして、「違う」と叫びたいです。
「最後は才能だけど、その手前まではやり方だ」と。
だから、僕自身が今回、講座を始めようかと思ったのです。
僕は恥ずかしくなるので、基本、大言壮語しない人間で、自分へいつも懐疑的なのですが、
その僕ですら、僕の方が、より上手く教えられるのは認めざるを得ないんです。
例えば、美術家は専門が油彩や水彩でも、余技で、というか、あまり意識せず、デッサン、パステル、果ては、彫刻、立体制作をやったり、
関心があれば、デジタルの、アニメーションも作ったりするものなのです。
実は、今あげたもの、全て、僕自身が20年間かけて、やり抜いていましたから。爆笑
僕は美術家ではないし、才能があるわけではありませんが。
たぶん、美術家では、それが当たり前です。
ああ、それもやるのね、の軽い認識と感覚です。
なのに、なぜ、文学だけ、最初から、詩人、歌人、俳人、柳人、小説家、児童文学、童謡作成者、と厳密に分かれるのでしょうね。
もちろん、歌人・俳人で少数ながら詩を書く人、児童文芸として童話と童謡を近接領域的にやる人がいるのは、そう珍しくないでしょうが。
谷川俊太郎が唯一、小説こそほとんど書かない(やってみたが、ご本人が自分に合わないと公言)ですが、詩、脚本、歌詞と最もボーダーレスで、この代表格に推せそうです。
僕が思う、詩人と小説家を、意識的に両立しておられるのは、小池昌代さん(先生)が唯一に近いでしょうか。
小池昌代さん(先生)のエッセイは、お見事ですよね。
須賀敦子を除けば、一番好きな作家になります。
(今回、「新しい詩の声」受賞を、小池昌代先生にも、恥ずかしいのと迷惑だろうにの、自分の気持ちを我慢して、メールで報告しました。
先生からは、「小説での活躍を」と激励いただきました。頑張らないと)
町田康さんや、川上未映子さんは、完全に、詩が余技になっている気がします。
井戸川射子さん、『現代詩手帖』でもお名前はお見かけしますが、どの程度、なのでしょうか?
なぜか、客寄せパンダ的な気がしますし、元々が散文詩なので、小説との境目がよく分かりかねています。
いつか、一度、ご本人にお聞きしたいです。(同じ、兵庫県人として)
僕が、今、講座で師事している、詩人のマーサ・ナカムラ先生(「さん」付けの方がいいですか? 先生?)はきっと、これから小説世界へ広がるのだ、と期待しています。
あちゃー、この記事、つらつらと書き連ねていたら、やたらながくなって、後半の趣旨も支離滅裂になっちゃいました。
ともかく、今年度で、「小説領域で、ちゃんと実績を出す=作品を応募する」が僕自身への至上命令です。
これが今日の言いたい結論です。
たぶん、2年後に、とか、3年後には、とか言ってたら、いつまでも結果は出せないし、どうせ力不足はそう変わらないのですからね。
詩は、たぶん、片手間でも「ああだ、こうだ」工夫で表現を探してたら、そのうち金鉱を引き当てそうに思います。
午後は仕事。
頑張ります。