今日は、本来ある、午後の仕事が相手都合でキャンセルでお休み、久々の金曜日休みです。
月曜日も休日なので、土日と合わせて、4連休です。
明日は、開放教室のバドミントン・コーチを10:30までで切り上げて、11:00からのマーサさんの詩の教室、新年度初です。
月曜日は、母親の施設へ訪問なので、純粋に4日間フルに創作活動で使えるわけじゃないけど、
貴重な連休です。
5月から始まる岡英里奈さんの小説教室の、初回提出作品30枚以内を、〆切の5/3までに書き上げないといけません。
その勝負を、この4日間でなんとか形にできれば、たぶん出来上がるので。
5/1あたりで、影も形もなくて、書き上げられそうになかったら、見切りをつけます。
で、過去作の書き直しにするつもりの二段か前の作戦を立てています。
まあ、いい作品じゃなくてよかったら、30枚なら1日あれば、書き上げられる自信はあるんですがね。
今、なんとなくの、全然、形がないモヤモヤ案はあるんです。
こればっかりは書いてみないと、少しでも書き出してみないと、作品化できるかどうかはわからない。
この’24年度は、ミッション〈小説へ集中〉を実行中です。
メインは小説だの意識に限定して、盛り立てていかないと、つい書きやすい詩に走っちゃうので。
だから、’23年度までは毎月、月末へ出していた「ココア共和国」へは、落選作なら、いつでもすぐ書き直しで出せるけど、
基本、出しません。
その集中できる、たった数時間は、その前後を含めると、意外に4・5日、使っちゃうので。
詩は、基本、詩誌へは「ユリイカ」か「現代詩手帖」かの二つにしか定期的には出せません。
いや、出しません。
その二つすらも、意識的かつ禁欲的にシャットアウトしようかと決意しています。
でないと、今の僕に、同時二刀流で、詩と小説を追うのは無理ですから。
どうしても、書いて成果の出る詩に特化したくなる。
基本、目の前のものに集中してしまうので。
また、不定期、単発の公募への詩の応募は続けますから、意外に暇はないです。
一方、詩の教室で受講するマーサ教室での課題作品はきっちりやるつもりです
そこでの刺激で当然、10月までの毎月1つは詩作品は新規に仕上げて、それを某女子大のリアルな詩の教室へ提出作品にもし、
また、「ユリイカ」か「現代詩手帖」への応募投稿作品に転用するつもりです。
つまり、今期は時間差の二刀流なんですよ。
正確には、小説「1」で、詩は「0,3」ぐらいの比重なので、「1.3刀流」なんですが。
詩は、そのわずかな時間配分でも、成果は上げてくれると信じています。
思えば、僕は16年前に創作活動を童話・児童文学から始めて、小説との二刀流を8年ほど続けて、
突然、詩を書けるようになった’16年からは、児童文学・小説・詩の三刀流をやってきたんですね。
そして、だんだんと成果の出る詩の割合が高くなって、詩が中心にあっての創作教室・創作活動になってしまってました。
そして、その間、大学・大学院通信教育の勉強やらも’16年四月〜’20年三月を除いて続けていたので、正確には二刀流ではなく、四刀流だったんですね。笑
リタイヤして、この’23年度は放送大学の学部勉強はほとんど適当にしかやってませんから、事実上の、詩と児童文学の二刀流だったのですが、
結果、詩でしか成果は出なかったので、この’24年度からは小説へ時間も資源も集中しようと思った次第です。
児童文学へは、短いものは今年も応募しますが、それすらも限定して応募するつもりです。
僕は、詩も好きですが、小説への憧れを、捨てきれないのです。
無理、絶対、書けない、才能がない、と10代の頃、思った詩がこんなに自由自在に書けるようになったんだから、
小説も書けるはず、とどこか自分を信じています。
前に、宇多田ヒカルの「Automatic」の歌詞の、溢れ出るメロディの話をしましたが、
僕の10代はひと月に100冊読む時があったほど、毎日、読書三昧で、ほぼ小説漬けでしたからね。
小説の言葉こそが、僕の吸う空気でした。
純文学かSF、ファンタジー、ドストエフスキーやらヘミングウェイ、レイモンド・チャンドラーからランボー、小林秀雄まで、聖書も哲学書も。
あらゆる本が孤独を癒す友であり、裏切らない仲間でした。
僕の書く詩に言葉が溢れるのは、小池昌代先生が創作教室の中でご指摘されたように、小説のせいです。
トーマス・マンが「トニオ・クレーゲル」で描いた、文学の呪いを口にする少年。
北杜夫が憧れたのと同じように、僕も憧れ、自分にはその刻印がない絶望を深く深く堕とされて、
延々と失敗と絶望と、わずかな気づきの果てに、気がつくと、ここまで這い上がって来ました。
少年時代の、あの絶望と、魂の渇望感は永遠に癒やされないのはわかっています、
取り戻せないことが残念でなりません。
が、
その、数十年遅れの、あまりにもわずかなゴール・フラッグでも、僕は目指さずにはいられないのです。
自分の才能のなさへの絶望だけなら、もう十分したので、才能は無ければ創ればいいのです。
たとえ、紛い物の、イミテーションでも、限りなく本物に似せて。
多分、僕が徹底的に学び続ける、学ビストなのは、自分の才能へのあまりにも長い長い絶望の日々と、永遠に癒やされない少年時代の渇望感のせいなんですね。
今、気づきました。
僕に「諦め」はありません。
生きている限り、「試合」を続けます。