うーん、レベルが低いから、基本、こういう話には参加しないことにしているけど、
今回、思わず参加します。
それは社会学者とされる、古市憲寿くんの「古典の授業が無駄」議論がyahooにあって、以下のように。
これって、大阪府吉村知事の、英語を話せば、国際人と同じ、底が浅い意見・発想なので。
まず、どちらも「学ぶ」ことが学校教育だけで終わりを前提していて、学ビストの僕としては、なんだかなあ、と思ってしまう。
古典の意義は、時代や社会が変わる中でも人間の本質が変わらないことを学ぶこと。
それから、日本語は、日本文化そのものであり、漢文と古典を元に成り立っていることを理解することは、日本を理解することになる。
この古市くんの発想、役立たないものは全て無駄というのは、現時点での知的レベルから自分は上昇しないことを前提にしている気がする。
だから、吉村知事のように、英語を話せたら国際人というアホな発想と変わらない、低レベルな意見しか出てこない。
じゃあ、太宰や川端や三島は、英語をペラおえら話せなかったから、国際人じゃない。
「無駄」だということ?
じゃあ、あなたは兼好法師以上に人生の本質がわかっているの?
明治の文豪たち漱石や鴎外は英語や独語とともに、古典の知識を持っていたから、100年後も読むに耐える作品を残しているんだけど?
わかりやすいことだけを求めて、右往左往するのは、岸田くんがアメリカやら麻生さんやら、中国の反応やら、その場しのぎの反応と同じレベルの反応。
浅い。
知的レベルが、ものすごく浅い。
英語は米英なら小学生の12歳でもペラペラ喋れますよ、吉村くん、古市くん。
空疎な学問は、福沢諭吉先生も嫌って、慶應は実学重視だけど、それって「学ばない」ということではないですよね。
福沢先生の、求めた「学問」は短期的かつ近視眼的な無駄か、無駄でないかとは違う、と思います。
江戸期の、一部の朱子学などの、前例踏襲の「虚学」を、孔子様はそうおっしゃらなかった精神を否定したものだ、と思います。
ねえ、古市くん、シェイクスピアも、聖書も古市くんから見たら古典なんだけど、無駄なんですね?
じゃあ、それを欧米人に、お得意な(?)英語で論破してくださいよ。
本物の小説や物語は、書かれた時代の作者に思想感性を反映するけど、真に優れた物語は、作者の意図を超えた「書かれていない時代の真実やら間違い、有益な情報、変わらない人間の本質」を描いていると、僕は信じています。
単に書かれた情報だけで、勝負するなら、小説は論文や評論に勝てません。
もちろん、優れた評論やエッセイにも、たとえば、小林秀雄の作品は、半端な小説を凌駕する「書かれてない真実・思想」がありますが、
基本、一般論としては、評論はそのあまりにクリアな論旨ゆえに、時代を越えることは難しい気がします。
時代を越えるエッセイとしては、須賀敦子ですよね。
いつ読んでも、その華麗かつ詩的な、感性に憧れてしまいます。
もちろん、福沢諭吉の「学問のすすめ」もお読みいただければ。
あと、いわゆる空耳英語、「掘った芋いじるな=What time is it now?」など、日本語なのにネーティブには英語に聞こえる不思議な表現で、
欧米人と渡り合った、明治の元勲や爆夏の志士たち、彼らのメイン知識は古典でしたね。
それこそ、強い者にはすぐ巻かれる岸田くんよりも、英語はできなかったと思うし、古市くんや、吉村くんよりも「無駄な」日本の学問・教養しか持ってなかったけど、
言論でも、ちゃんと欧米列強の圧倒的な強者と渡り合いましたよね?
ああ、これだけ偉そうに書いたら、僕も創作と戦わなきゃあね。
でないと、ご両人や岸田くんレベルに堕ちてしまう。
とほほほ、それは死ぬより恥ずかしい。
嫌だ。
嫌だ。