さて、2教室分の課題になる詩2篇だが、教室での講評を受ける前に、
「ユリイカ」と「現代詩手帖」へ今月の3月分として、投稿してしまおうか、と考えている。
でないと、ちょこちょこと直してしまうから無駄に詩のモードから離れられないから。
そうすると、とにかく書かなければならない講談社児童文学新人賞の作品の改稿作業から逃げてしまうのだ。
詩を書くことは心地よい。
小説を書くのは苦行である。
じゃあ、僕のような弱い人間がどちらの作業を選ぶかと言えば、前者だからだ。
でも、この新たに手に入れた「外形描写関係の技法」とは、
(なんでこんなまどろっこしいネーミングを続けているかと言うと、
昨日も書いたように、おそらく僕がやろうとしているのは、マーサ先生からサジェスッションされた指示から、
大きく逸脱して独自解釈になっていると考えているから「関係の技法」という言葉をつけている。
もうほとんど、魔法の言葉になっていると思いますが、
詩から離れて、小説の奥義に対する開眼を語っています。
ここからは、昨日の考察のづづきです。)
従来の心象風景描写に加えて外形描写からの因果プロットと絡めることで、文単位のまとめや、視点の移動も可能な書き方となる。
それは意味ではなく【ことばからコトバを産む誘導型の詩の書法】を会得したことになる。
また、それが今まで学んだ小説の書き方で言えば、中村航さんの考えに近いこと、通じることも思いつく。
つまり、それは感覚的には【どうなるどうなるを文ごとに自問自答する書法】であること、と、
【読み手スイッチで視点交換】での語り手自身の観察やまとめ描写にも向けられるものであり、
異化的な言及も可能な自由自在さがあることから来るものだと思う。
さらに、一意に、この考えを突き詰めれば、
それまでの書き手視点からだけの一方向な視点書きじゃなく、読み手を含む双方向的な視点で書くことにつながってゆく気がする。
以上を簡単な言葉で、まとめると、
(その方がわかった気分だけで、全然わかってなかった従来までと同じ文言になります)
書き手ファーストで物語を一方的に語るのではなく、読み手ファースト視点を適宜、混入させると言うことです。
神は細部に宿る、ですね。
これ、ほんと、1年以上前から自分が目指していたことと、ほとんど変わらない。
ただ、この文言、「適宜、混入させる」が加わっただけ。
でも、その混入の方法がまるでわからなかったのが、理論的に言えば、前記のように語らざるを得ないし、
平たく言えば、感覚的に適宜、入れるだけ、としか言えない。
けど、この感覚が、難事・難解の極地だったんです。
自転車が、理論がわからなくても、一度、コツを掴めば、いつでもスッと乗れてしまえるように、スッと、今、書ける気がしています。
ちょうど、詩において、モヤモヤさえ掴めれば、言葉がコトバを産んで書き出せるようになった7年前からと同じで。
この詩におけるモヤモヤは、「詩のコトバ」にして、書いてみないとわからない。
同じように、「小説のコトバ」が、さまざま要因(設定、状況、人物の性格、人間関係、展開の企み・意図)から組み合わされ、生み出されるんですね。
やっとわかりました。
従来言われた、身上書を書いてから書くという既存の知識は、まさにその要因のためだったんだ。
やっと、わかりました。
まさに、既存の知識。
青い鳥は自分の家の、居間にいたんですね。
これら何度も読んだ本も、そういう見方をすれば、その通りの書法でした。
特に、ミステリーの浅暮三文さんの本は。