もう何十連敗でしょう。
最近は一度に、2作品を送るから、そのうち100の大台は、突破しそうに思います。
こうなると、
一度ぐらい載せないと気が済まない。笑
きっと、先が読める展開で、新鮮さが欠けてるんだと理解しています。
逆に言うと、まだ自分のために書いていて、読み手ファーストになっていないのか、とも反省します。
挑戦して、自分の表現を変えていくしかない。
それと、全然違うけど、関連する話を書きます。
仔猫のもんちゃんに、出勤直前に、朝ご飯をあげようといつものようにバタバタしてました。
出勤3分前、やっと冷ました離乳食を与えました。
(スナック菓子のよくな乾燥食をお湯でふやかして、猫用粉ミルクをまぶして溶かし込みます)
いつものようにゲージまで運んで食べる、はずが、途中で辞めて、こっちへ来ます。
ちょこんと座って、僕を見上げます。
ーーどうしたの?
もんちゃんのアーモンド型の眼が「行くんだ、行くんじやろう、ぼくを置いて行くのか?」と言っています。
そのとき、なぜか。
ユーミンの「やさしさに包まれて」が頭の中で流れだします。♪
『魔女の宅急便』の主題歌ですね。
もんちゃんは、このまま放っておくと、脚元まで来て、また猫タッチや両腕の猫タックルされそうです。
ーーまずい!
動けなくなる前に、僕は慌てて、逃げ出しました。
「小さな頃は 神さまがいて
(略)
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ」
ああ、もんちゃんたちの時間、木洩れ陽の時間。
俳句を作り、季題を感じるってのは、このもんちゃんたちの〈木洩れ陽の時間〉に包まれることなんだな、と、
しみじみと感じました。
話を、詩のことに戻します。
もう自分の中に、完全に季節や自然を、人中心ではない時間を受信するアンテナが立ってしまいました。
これが徐々に、自分の詩の感覚にも染み込んできているので、
自分の感情中心の抒情詩でなくて、叙景歌的な要素でしょうか、
そう短歌・和歌的な要素も混入してきています。
たぶん、そこから新しい表現も生まれてくるんだろうな、と思う近頃です。