6月号の『ユリイカ』や『現代詩手帖』は今月号はどちらも落選。
佳作にすらならない。
それこそ土曜日に行った俳句教室と同じで、一見、よく見えても、類想が多い当たり前の作品は、
全然評価されないのかもしれません。
自己満足でいい詩のつもりでも、それがありきたりなことに一生気付かないままだと、
なんの進歩もなく、同様に選出されることはありません。
もちろん、自分しか見ない日記に書き吐き出す目的なら、それでいいでしょう。
でも、
何より他人様にお見せして、その時間を奪ってしまうことになるならば、
そちらを楽しませるために作る意識が無ければならないのでは、と
僕は信じています。
だって、商業誌に載せるのですから、
クライアントを楽しませて当たり前でしょう。
読む前から、犯人が想像でき、その犯行プロセスに何の新鮮味もないミステリー小説なんか、
誰がお金を払って読みますか?
あなたの日記帳に載せるのてあれば、
この考えは不要です。
今日は、『ユリイカ』6月号の和合亮一さんのお言葉を引用します。
「作家の大江健三郎はあるエッセイで、創作活動をするのと同じくらいに、創作の理論を追いかけていくことか大切だと述べていた。その両方に心を働かせるのをいつも意識している、と。どちらかに偏っても駄目であり、常に良いバランスが必要であるとも。
創作の情熱と理論の希求とは、詩作をする心の中での両輪として支え合うものでなければならないのだろう。確かに良い作品には、しっかりとこれらの両方に裏打ちされた分担や詩法がその内部に見えてくる。そして書き手の情熱と希求への姿勢が少しでも分かると、その作品をより深く味わうことが出来ると感じられる。」
至言です。
何も付け加えることが出来ません。
後は実行あるのみ。
それが難しい。
かつ、果てしなく苦しい。
言うは易く、行うは難し。
だから、僕は他の表現へ逃げている、とも言える。
頑張り、しかない。