俳句を作りながら考えたこと | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

昨日のブログの続きです。
夏井いつきさんの〈おうちde俳句大賞〉へ投句しました。
(小学校以来の数十年ぶりに、俳句を作ったでしょうか?)
その際に、俳句の言葉に頭を捻りながら、感じたことです。

やはり、詩とは違うのはもちろん、短歌とも違うなあ、と。
と言っても、短歌の方も僕は普段から全く作ったことはありません。
これまた、人に出したらと勧めた関係上、去年の7月ごろに某短歌コンクールに出すときに、
一首、作ったことがあるぐらいです。
(それこそ、これも高校の国語の授業で作らされて以来ですから、数十年ぶりに。)

でも、
俳句と違って、季語は考えなくていいし、
何より、作ったのは叙情歌でしたから、ある意味、普段から作る詩を短くした感覚で作れたんです。

ところが、俳句の方は、季語の本意(ほい)というその言葉が持つ本来の意味合いと、イメージも真面目に考えて、
歳時記も調べて作りますと、
短歌とは似て非なるものなんだ、と実感しました。

でもね、そのとき、ちゃんと風景を映像化できるかどうかを、
自分の中で考えたら、
もともとアニメーションや映像を撮ってた感覚が蘇ってきて、
とても面白く感じました。

作った俳句は、ホトトギス派的な伝統俳句でしたからね。

何よりも、頭の中で情景をイメージしたり、その思い浮かべたイメージを加工したりは、
僕の中の美術感覚(伊達に、通信とはいえ、京都造形芸術大の油彩画を出でおりませんからね。笑い)で、充分対応可能だったんです。

そして、正岡子規や高浜虚子が説いた〈客観写生〉の奥義?が、
ほんと実感できました。
これこそ、実作の醍醐味ですね。

自然風物の観察やビジュアル化は、詩のために普段からやっておりますからね。
違和感どころか、親和性バリバリでした。
俳句も、詩も同じ韻文。
〈広義の詩〉の一種なんだ、と思いました。
国語的に言えば、現代詩も口語自由詩ですから、文語定型詩である俳句は、まあ、ご先祖さまへとの邂逅と言えなくもないでしょうか。

たぶん、こんな調子で、自分の世界はどんどん広がって行く予感があります。