平日なのに、すごく混んでいました。
暑い日に汗をかきながら食べるラーメンは格別でございます(笑)
お店からほど近い所に『沼津市文化財センター』があり、そこにはあの「高尾山古墳」から発掘された副葬品などが展示されているのです。
冷房が効いていて入ってみて良かったです。(違うだろっ(笑))そう思わず言ってしまいたくなるほど、昨日はとても暑かったですね。
沼津市で見つかったいくつかの古墳の展示物の一角に高尾山古墳のコーナーがありました。
高尾山古墳は、沼津市東熊堂に所在する「前方後方墳」で、都市計画道路の建設に伴い平成20・21年度に発掘調査が行われました。
「前方後方墳」は、愛知県より東の地域に多く見られ、古墳時代の中でも古い時代に限って造られていました。
調査以前は、古墳の後方部にあたる部分に高尾山穂見神社が、前方部に熊野神社が建立されており、古墳の存在は分からなかったのです。
しかし、神社が不自然な高台の上にあった為、昔から古墳の存在が噂されていたのですが、まさかそれが東日本最古級・最大級の古墳であるとは誰も想像出来ない事でした。
その場所は、愛鷹山から延びる尾根の末端部にあたり、古墳が築かれた当時は古墳西側の低湿地帯まで海水が入り込み、古墳の近くまで舟で進入出来たと考えられています。
とすると、その舟は、我が家のすぐそばを行き来していた事になります。(何度も記事書いてるし、前世で王様とな~んか関係があるのかな?私。)
高尾山古墳に埋葬されていた人物は、棺の中に当時とても貴重だった朱が使用されていた事から、相当な政治的権力を握っていたリーダーと考えられています。
発掘調査時に棺は残っていませんでしたが、木片などが見つかった為、長さ5mの舟の形をした木棺だったと思われます。
棺は、ほぼ東西方向を向き、埋葬者は頭を東に向けていたようです。
副葬品は、装身具が勾玉ひとつと少なく、槍や矢じりといった武具が中心だったようです。
副葬品の中で特に注目されるのが、13.5cmの銅鏡です。中国から入ってきた美しい青銅の鏡だったと思われます。
また、古墳からの多量の土器の発見は、盛大な葬送と墓前の儀式が何度も行われていた可能性を示しています。
発掘された方たちは、これだけのものが出てきてさぞかし驚かれた事と思います。
でもこれはまだほんの一部なのです。薄皮を剥ぐようにして全部発掘調査してしまったら、古墳はなくなってしまうのですから。
古墳はパワースポットと言える場所の上にあるべきもので、そこにある事が大事なのです。
この棺のまわりの土は、セラミックで固めてそのまま移動してきたそうです。
触らせて頂きましたが、駿河の王は、元の場所に戻りたがっているように感じました。
そうして、文化財センターを出た私たちはいよいよ「高尾山古墳」に向かいます。
おお、新しい道路はホントに古墳の間近まで出来上がっていました。
古墳には立ち入れないので、穂見神社の方に回ります。
まずは、これまで古墳を御守り頂いていた神様にご挨拶。
神社の横から高尾山古墳を見ることが出来ます。
上部をもぎ取られた巨木が痛々しいです。
以前は、木々が生い茂り緑多き場所だったと聞きます。
何としても元に戻してあげたい。駿河の王の1800年の眠りを妨げてしまった事をそっとお詫びしました。
南側の道路は、現在工事中とのことで確かに狭くて混みあっていました。
近隣の人たちにとって、道路事情の深刻さも分かります。
けれど、人間の利便性をガマンしてでも護らなければならないものがあるのです。
卑弥呼の時代に、卑弥呼さえも一目置いていた偉大なる東日本の王・卑弥呼子が眠る古墳は沼津市の歴史的な宝だと、無くしてはいけないと強く思います。
高尾山古墳 過去記事
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