【異国情緒溢れる長崎編 その5】
船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、
「長崎は、わしの希望じゃ」と陸奥陽之助にいった。
「やがては日本回天の足場になる」ともいった。(司馬遼太郎著「竜馬がゆく」より)
せっかくドラマや映画で有名な「幣振坂」にやって来たものの
150mというあまりの高さに怖じ気づき、普段乗らないタクシーに乗って
風光明媚な「風頭公園」にやって来ました
(前回意味深な書き方をしましたが、期待させてすいませんでした)
この日は真夏を思わすような暑い日でしたが、ここには爽やかな風が吹いていて~
綺麗な景色を堪能しつつ足早に目的地に向かいました
そして、遂に待望だった坂本龍馬と会えました
この像は、1989年(平成元年)に建立された高さ4.8mのブロンズ像ですが
海援隊の隊旗をバックに威風堂々とした姿ですね~
因みに坂本龍馬が見果てぬ夢を追いながら
眺めているのはこんな綺麗な景色なんですよ~
そして、ここには司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」の
因みに冒頭に書いたのは、ここに刻まれた一節ですよ~
その後、更に綺麗な景色が見られる展望台に向かい~
さっきより少し綺麗に長崎港が見えました
そして、坂本龍馬が通っていた事でその名がついた「龍馬通り」を下っていくと~
味わい深い看板を見つけました
因みに、これって手書きなんだけど、このユルい雰囲気好きだわ~
そして、さらに下ると、突然坂本龍馬像が現れました~
この凛々しい表情の坂本龍馬と、生活感溢れる周りの景色とのギャップがいいですね~
そして、更に5分ほど歩くと、「亀山社中記念館」(入館料300円)に到着しました~
因みに「亀山社中」とは坂本龍馬が薩摩藩に資金面で援助してもらい
日本初のカンパニーとして、1865年に興した海運会社なんですよ~
「亀山社中」は英国商人グラバーから艦船や小銃を購入して長州藩に搬送したり
私設海軍として、第二次長州征伐時に長州藩のユニオン号を操船し
小倉口での戦いに参戦したりしました
その後、「亀山社中」は1867年4月に土佐藩の援助により
「土佐海援隊」として発展的解消を遂げましたが
初代隊長の坂本龍馬が京都の近江屋で刺客に襲われ、死去したのはその7ヶ月後
しかし、その間の坂本龍馬の最大の功績といえば
何と言っても、大政奉還の礎ともいえる「船中八策」を考えたことでしょう
正に坂本龍馬の存在なくしては、今の世がなかったと言っても過言ではないですね~
そして、坂本龍馬の夢であった「海援隊」の資産は、その後岩崎弥太郎に引き継がれ
三菱グループ発祥に繋がったんですよね~
話し出すといつまでも続きそうなので、この辺で先に進みましょう
「亀山社中記念館」は当時の姿を再現していましたが
この地で坂本龍馬ら希望に満ちた若者たちが
夢を語り合っていたかと思うと感慨深いものがありましたよ~
この場所にこの姿があると、当時にタイムスリップしたみたいでした~
そして、ここには高杉晋作から送られ
寺田屋事件や近江屋事件の際も所持していたとされる
因みに坂本龍馬は日本人で初めてブーツを履いた人だと言われてますが
愛用していたブーツの同型モデルも飾ってありました~
そして、龍馬の妻であるお龍さんが愛用したとされる月琴もありましたよ~
(このモデルは明治中期のものだそうです)
この面々の中には不本意のままに命を失った人もいれば
明治以降活躍する人もいますが、何れも龍馬とともに
そして、「亀山社中記念館」の目の前には
人気の撮影スポットである「龍馬のぶーつ像」がありましたよ~
因みにブーツは長さが40cmもあるので、靴を履いたままでもOKで
こんな感じで撮影することができますよ~
息子くんも龍馬みたいな大きな夢を持って、生きていってほしいな~
因みに、ここから見える景色はこんな感じ
そこには彼の夢が生き続けているかのようでした
坂本龍馬編は、次回も続きます