非道な赤い大地 ~なぜ数千の日本人が殺戮されたのか? | 日本と中国の真実に迫る!

日本と中国の真実に迫る!

ご訪問いただきありがとうございます!

「なぜマスメディアは中国やアジアの真実を報道しないのでしょうか?」、そういった日々の疑問をブログにしています!

自由にご拡散ください!

長谷川です。


シナ事変の際、日本人居留民が殺された
通州事件の他に

日本人が3000名以上殺されてしまった事件があるのを
ご存知でしょうか?


○通化事件(つうかじけん)とは…

終戦の翌年である昭和21(1946)年2月3日に、
かつての満州国通化省通化市で、日本人に対して一週間にわたって拷問と銃殺が行われ、
あるいは凍死させられ、軍とは何のかかわりもない民間人2000人(一説によると数千人)が殺害された事件
です。


加害者は、シナ共産党軍と朝鮮人民義勇軍、被害者は日本人です。

通化市というのは、いまの北朝鮮と支那の国境付近にあった市です。




○国民政府統治下の通化市


終戦時(1945年)の通化は、中華民国(蒋介石・国民党)政府の統治下に置かれていました。

治安は維持されていたため
満洲の奥地から日本に帰国しようとする多くの在留邦人や引き上げのために集まった日本人、17000名が滞在していました。


そんな中、満州へ、ソ連軍が侵攻してきます。




○傍若無人 ソ連兵の横暴


昭和20(1945)年8月24日、ソ連軍の将校20人、兵士200人が進駐し、市内の竜泉ホテルに司令部を設置します。

日本人居留民の家屋に押し入り、財物や衣類を奪い、奪うモノがなくなると、
日本人女性や少女を強姦し、抵抗する男性や老人は平気で暴力をふるい、殺害しました。


原憲兵准尉は、ソビエト兵が白昼の路上で日本女性を裸にして強姦していた現場に駆け付け、
女性を救おうと制止してもソ連兵行為を止めないため、

やむなく軍刀でその強姦兵を一刀のもとに斬り捨てました。
しかしその場で原准尉は、別のソビエト兵に射殺されている。


そしてこの事件以降、日本人は、憲兵といわず民間人といわず、日本刀も没収の対象となっています

完全に丸腰となり、身を守る術を持たなくなった日本人遺留民に対し、
ソ連の軍司令部は、公然と日本人女性を慰安婦として供出せよと命じてきました。


ソ連の通化市への進駐軍は、日本人から武器を奪い取るだけでなく、
女性の供出を求め、さらに日本人が外部の情報を得ることがないように、ラジオを全部没収します。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


ここまで話をしただけで
すでに地獄絵図なのですが・・


これはこれから起こる惨劇への序曲でしかなかったのです。



○中国共産党が代わりに統治 ~さらなる惨劇へ~


ソ連軍が撤退すると、通化の支配を委譲されたシナ共産党軍は、
通化市の市役所の幹部職員全員を連行し、旧満州人の役人全員を殺害します。つまり日本人社会の行政機能を奪った。


さらに清算運動と称して、旧満州人たち通化市民の家宅に片端から侵入し、民族を問わず金品を掠奪します。

そして昭和21(1946)年9月22日には、シナ共産党軍が、
公式な連合国軍であった中華民国政府軍に攻撃を仕掛けて、通化市から駆逐してしまいます。


10月23日になると、シナ共産党軍の一個師団が新たに通化市に進駐してきます。

11月2日には、シナ共産党軍劉東元司令が着任します。


・日本人から、すべてを奪った劉東元


そして同日付けで、シナ共産党軍は、17000名を超える日本人遺留民に対して、収容能力5000名以下しかない旧関東軍司令部へ「全員、移動せよ」と命令します。



○日本人民解放連盟通化支部 ~支配組織を構築~


移動した日本人遺留民に対し、シナ共産党軍は、即日「遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)」の設立を命じました。

日解連は、日本人に対する中国共産党軍の命令下達や、日本人への共産主義教育を担当するシナ共産党の下請け組織です。


日解連は、日本人のスパイとなり、シナ共産兵に、どこぞの日本人宅には、
これこれの財産がまだ隠されている、誰々の家には、美人の娘さんがいるなどの情報を与えた。


日解連は、支那共産党軍の指示に従い、日本人遺留民の財産を全て没収しようとします。
これに対し、日本人遺留民たちは、正々堂々、最低限の衣類や食糧の確保の嘆願を続けます。


するとシナ共産党は、没収を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約を要求します。

そして11月17日には、シナ共産党に応じない元満鉄総裁の大村卓一を、満鉄総裁であったことを罪状として逮捕、投獄した。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


シナの統治方法は、共産党支配のための組織を作り

反対する者は、衣食住を奪うという狡猾なやり方です。


一切、反対意見を受け入れない独善的な支配体制が構築されたことが

よくわかると思います。


その支配体制の総仕上げにとして行われたのが・・・


○日本人遺留民大会 ~スローガンで共産党を賛美させる…~


12月23日、日解連の通化日本人遺留民大会が、通化劇場で開催されます。

劇場には、中国共産党万歳、日本天皇制打倒、民族解放戦線統一などのスローガンがおどっています。

大会には、劉東元司令を始めとするシナ共産党の幹部が列席し、日解連幹部らも檀上に勢ぞろいした。そこに日本人遺留民3000人が出席します。


日解連幹部たちは、自分たちのこれまでのやり方の手ぬるさの謝罪が行われ、
「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰です」などと、
連日乱暴狼藉を働くシナ共産党に媚びた発言を強制されます。



○大日本帝国臣民として… 「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱を!」


しかし発言を求められた日本人遺留民たちは、その席で、日解連を堂々と非難したのです。
明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言を、次々に繰り広げます。


そして山口嘉一郎老人が、
「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案しました。


会場に、満座の拍手が沸き起こります。

議長が苦い顔で、賛意を示す者に起立を求めました。


会場のほぼ全員が起立した。

そして高らかに、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われます。


・日本人居留民が思い浮かべた皇居前の景色


万歳のあと、山口老人は、

「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、
いきなり180度変えた生き方にはなれません。ですから徐々に教育をお願いしたい」
と述べます。
きわめて常識的な発言です。

大会は、日本人有志の正々堂々とした発言で会場を取り仕切られました。

しかし、その日の翌日以降、大会で発言した者は、全員、シナ共産党によって連行され、殺害されてしまいました。


追い詰められた日本国の国民として
民族の誇りは失くしたくないという思いからだと思います。

しかし・・・


○中国共産党の報復 ~非人道的な殺害


大会から1週間が経過し、年が明けた昭和21(1946)年1月1日、シナ共産党の工作員であった内海薫が、殺害されます。犯人はわかりません。

1月10日、シナ共産党は、日解連幹部の高級官吏や日本人遺留民の指導者ら140名を、内海薫を殺害した容疑であるとして連行します。
そして全員を抑留した上で、日解連も強制的に解散させてしまった。


1月21日、シナ共産党は、日本人4名を市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑します。
日本人たちが見ている前で、彼らは遺体を何度も撃ち、銃剣で突き刺し、ハチの巣にしたうえで、切り刻みます。


日本人遺留民たちの怒りは、徐々に高まっていきます。



○通化事件発生 ~藤田大佐の組織的反攻と失敗~

そして昭和21(1946)年2月3日、通化事件は起こります。


出典は、高崎弥生氏の著書「実録、遥かなる回想」です。


中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった。

その中心人物は藤田大佐で、かつて戦車隊長として雷名をとどろかせた猛将として有名だった。



昨年6月、通化にやってき今利中将ひきいる第百二十五師団の参謀長だった。

この人たちが、どのような手段で決起したのか知る由もなかったが、

総勢、約千名が、2月3日の未明を期して一斉に蜂起した。

それは暴動のようなものではなく、それぞれ攻撃目標を定めた組織的な反乱だった。


しかし、たのみの国民党軍は呼応しなかったし、同時に立ち上がる予定の航空隊は、
八路軍(支那共産党軍)の先制攻撃を受けて参加できず、それ以上悪いことに、
反乱軍の動きは、八路軍のスパイによって探知されていたため、奇襲攻撃はことごとく失敗に終わった。


部分的に要所を占領した部隊もあったが、それも数時間で壊滅してしまい、敵弾にたおれ、
傷ついて捕虜になった者も多く、壮絶な戦死を遂げた者もすくなくなかった。

この反乱は、わずか数時間の後に完全に鎮圧されてしまった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


当時のような悲惨な状況の中・・・

立ち上がることを選択した藤田大佐の武勲には感謝しても仕切れません。


高崎氏の著書の続きです。


○筆舌に尽くしがたい拷問と殺戮


血に彩られた旧正月の朝は明けた。
おびただしい死体が各所に散乱していた。

この事件は八路軍に大きな衝撃を与え、日本人に対する怒りは頂点に達した。
これは日本人弾圧の絶好の口実となった。


やがて恐ろしい報復が行われ始めた。
元旦を祝って家族がささやかな朝食についたとき、八路軍の兵士が侵入し、夫たちを引き立てて行った。


通化市内では、16歳以上60歳までの日本人男子は、
ことごとく八路軍兵舎その他に集合せよと眼入れされた。市内は恐怖のるつぼと化した。


八路軍側は、抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである。
この反乱にまったく無関係の者も、反乱に反対だった者も、ほとんど差別されなかった。

とくに兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。


そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」


その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。みるみるうちに、ばたばたと倒れた。

重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。


死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び、元憲兵隊の監獄や、公署の防空壕の中に分散監禁された。


~~~~~~~~~~


○監禁、暴行、そして凍死・・・


監禁された日本人は、狭い部屋に何十人も押し込まれ、身動きすらできない中で大小便垂れ流しのまま5日間もの間立ったままにされた。


苦しさのあまり「出してくれ」と叫んだ者があると、銃弾が撃ち込まれてくる。
発狂する者もあれば、中には立ったまま死んだ者もあった。


しばらくして取り調べがはじまると、ひとりひとり引き出され、反乱軍との関係の有無を詰問される。
そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。

その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。

そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。


酷寒二月のことである。たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。

やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。


するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。
これが毎日のように行われた。

なんという地獄絵図だろうか。


一週間目ごろから、ぽつぽつ釈放者が出るようになったが、帰って来た人も、無傷な人はいなかった。
手を折られた人、足を折られた人、杖にすがってやっと家にたどり着いた人。
帰ってからも発熱のために苦しむ者。凍傷のため、廃疾者同然になった者などが大部分で、五体満足で帰って来た人はわずかであった。


「実録 遥かなる回想」より


~~~~~~~~~~~


この凄惨な事件の後、シナ共産党が去ったあとも
朝鮮人民義勇軍による暴行も続きます。


事件後、1か月ほどしてシナ共産党主催の展示会が行われ
藤田大佐が3日間、立たされ
肺炎で失くなってしまいます。
死体は3週間、広場でさらされたのです。

これが事件の全貌です。


繰り返しますが、この事件は
大東亜戦争が終結したあとの1946年に起きています。


本来あってはならないことが、起きていて
しかもこの史実を振り返ろうとする方も少ない。


捏造された南京事件ばかりが誇大に喧伝され
世界に広まっていますが、日本人が痛ましい思いをした
通化事件も、もっと広めていかなければならないでしょう。



参考にしたサイト
小名木善行氏『ねずさんの ひとりごと』


当方、ブログランキングに参加させていただいております。
貴殿のご支援、よろしくお願い申し上げます。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村