城を噛ませた男 | 感傷的で、あまりに偏狭的な。

感傷的で、あまりに偏狭的な。

ホンヨミストあもるの現在進行形の読書の記録。時々クラシック、時々演劇。

城を噛ませた男/伊東潤

¥1,785
Amazon.co.jp

これがあるからやめられない。
これからどう書いていくのか、この作家に、乞うご期待!!

(あらすじ)※Amazonより(編集あもる)
われらの流儀で戦わせていただくー
戦国時代。賭けるのは、命。信じるのは、己の腕。
「全方向土下座外交」で生き延びた弱小勢力もついに運の尽きが。起死回生はあるのか?
(見えすぎた物見)
落城必至。強大な水軍に狙われた城に籠もる鯨取りの親方が血煙巻き上がる大反撃を仕掛ける!
(鯨のくる城)
まずは奴に城を取らせる。そして俺は国を取る。奇謀の士が仕組んだ驚愕の策とは?
(城を噛ませた男)
・・・
のるか、そるか。
極限状態で「それぞれの戦い」に挑む人間を熱く描いた渾身作全五編を収録!
劇的かつ多彩。「豪腕」伊東潤の描く壮烈な物語に、痺れろ。

◆◇

第146回直木賞候補作品である。
こういう作品が出てくるから、「あもる一人直木賞選考会」がやめられない。

短編小説を書くのは、長編小説を書く能力とは別の能力が必要である。
その能力を持った作家が、今、この日本に何人いるのだろうか。
散り散りの曖昧模糊とした世界をぎゅっと凝縮させる圧力と、
その圧力によって生じる熱を100%言葉に込められる力をもっていること、
そして荒れ狂う言葉の波を制するだけの冷静さをもった人間だけが、
「短編の名手」と呼ばれるにふさわしい。

この伊東潤という作家は、「短編の名手」と呼んでも過言ではないだろう。
小池真理子やマイスイートハニー道尾くんも、短編の名手、として名を馳せているが、
この伊東潤とはまた違う種類の短編を書く。
短編での作品は、なかなか直木賞を受賞しづらい。
というのも、短編ならではの弱点があるからだ。

それが、厚み、である。

もちろん、ここでいう厚み、とは、枚数ではない。重厚感、という意味だ。
が、乱暴に言ってしまえば、もう、枚数の厚み、でもかまわない気もする。
長編小説は枚数を重ねることで世界が厚くなる。ついでにページも。
それにより深みが出ている(錯覚を起こす。)。
大した作品でもないのに、無駄に厚いゆえに、大作家、とか言われちゃってるのもそのせいだ。
え?誰の何、とは言いませんよ。むぐぐ~。

では短編はどうなのか。
極限まで無駄を削る。時には段落全てを落とすこともあるだろう。
厚みを出すのと引き換えに、言葉の美しさや透明な世界観を紡ごうとする。
それは言葉とリズムの勝負である。
よって生じる問題は、世界の狭さ、である。
力強さ、楽しさ、明るさ、がどうしても損なわれがちである。
ただし、長篇で失いがちな、透明感、繊細さ、は短編のほうがより楽しめる。

短編は、歌に近い。と思う。
和歌や詩の色は、透明に近い。
歌うように書かれる短編も、その色は透明だ。
(不思議なことに、一番短い俳句だけは透明感が感じられず、むしろ厚み、明るさ、である。
 なぜだろう?今度考えてみよう。)

ところが、この伊東潤という作家の書いた短編小説集『城を噛ませた男』は、
見事に短編小説の持つ長所ゆえの短所を捨てて、短編小説であることを感じさせない。
なんというダイナミックさなのか!!
それは、収録5作品全てにおいて言える。
クオリティの高さはもちろんのこと、この厚みと圧倒的な熱さがたまらない。
最初の「見えすぎた物見」が終わったとき、これがまさか短編小説とは・・・と唖然とした。
いやいや、なんだかんだで続くんでしょ、と次ページをめくると、
そこには、今迄と違う色をした世界が開けてくるのだ。

裸の男たちがぶつかりあう、どこぞの祭りのような暑苦しさが連綿と続く。
群雄割拠、生きるか死ぬかの時代とその時代に生きる人間の命をかけた人生が、
たっぷり墨を含ませた大きな筆で荒々しく描かれた、ごつい墨絵のようであった。
力強く生きるのだ、という作者の心の熱さが、私の心の熱さにダイレクトに響く。
生きろ!という、どこぞのアニメのキャッチコピーのようなダイレクトさである。

私はどの作品もすばらしいのだが、なにより小説も見せ方がうまい、とうなった。
冒頭に『見えすぎた物見』を置いたのは、この短編小説が成功する鍵であった。
まず、『見えすぎた物見』で読者のハートをがっちりキープ。
そして、『鯨の来る城』『城を噛ませた男』で男の裸祭りにどっぷり浸からせる。
この男だらけの裸祭りのような作品が冒頭におかれていたら、
私のような花も恥じらうお年頃の乙女には、少々刺激的であったはずである・・・

私は、捕鯨を描いた「鯨の来る城」が好きだったなあ。
ぐっとのめりこんだのは、「見えすぎた物見」であったが、
「鯨の来る城」の描き方は、捕鯨を描いた浮世絵を見ているようで、夢にまででたもの。

短編小説は言葉でなんぼのものだ、と思っていたが、
この作品は言葉に一点集中するのではなく、言葉を利用した絵が描かれていた。
その絵は美術館に飾るような宝物ではない。
空をキャンパスにして描いたような、何物にも覆われていないダイナミックな絵がそこにはある。

こんな言い方すると語弊があるが、最後まで、短編小説を読んでいる気がしなかった。
ハラハラドキドキ、無心でエンターテインメント作品として楽しめる、という意味では、
この作品、長編小説にも勝るとも劣らない楽しさがあったのであった。


とはいえ、
「短編小説をもっと広めよう運動」の応援団(略して「短小応援団」)の ←おいおいっ!!
永久名誉団長をつとめております、わたくしあもる。
引き続き短編小説を応援してまいる所存でございます。

えいえいおー!