阿須賀神社の御朱印(新宮市) | 神社ぢからと寺ごころ

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寺社を通じて教わった気づきを綴ってまいります。
頂いた御朱印も順次公開していきます。
磐座とか陰陽石を探すほうが多くなってきてましたが、最近では街中の小社ばかり回ってる気がします。

神社参拝予定を組む時にはかなり下調べしているつもりでも、どこかおろそかになっていて、肝心な所見ていないことが多い尼津彦です。

皆様おはようございます。

産田神社の草履しかり、ここでも見落としがありました。

境内に縄文時代の住居の復元があったと後日知りましたが、この時は見当たりませんでした。

他の参拝者が社務所の裏手へ往き来したたので、もしかしたら裏手にあったのかも知れません。

ここらに限らず初めての所は見落とし多いです。

それが次来た時の発見に繋がるのですが、惜しいことをしました。


新宮駅からほど近くに阿須賀神社は鎮座します。


手水舎には黄金龍


去年の10月に熊野の世界遺産の範囲が拡大され、ここ阿須賀神社と背後の蓬莱山も加わったそうです。


拝殿


拝殿内


拝殿右手には


徐福之宮と


阿須賀稲荷


徐福は秦の始皇帝の命により不老不死の薬を求め東にあるという蓬莱山を目指した人で、この地にやってきたという言い伝えがあるようです。

近くの徐福公園に徐福の墓もあります。

古代史の世界では卑弥呼と並んで名が上がる人物ですが、この人の登場はずっと先の話なので、今回はパスします。

本殿


御祭神は事解男尊と熊野の三神。

熊野の三人はいいのですが、主祭神が事解男というのがあまりりも古事記などの話からは、分不相応な気がします。

古事記や日本書紀の本文によると、伊弉諾が黄泉の国の平坂で伊弉冉に決別の言葉を言って吐いた唾から生まれたのが速玉男、それを拭った時に生まれたのが事解男だそうです。

ね?物足りないでしょ?

他にも伊弉諾伊弉冉を祀る場所にはこの唾から生まれた神らがセットのように付いて回ってるんですよ。

このあたりの説明のため、今日と明日の尼津彦ワールドは伊弉諾伊弉冉の結婚のお話です。

北陸の伊弉諾と東北の伊弉冉とを夫婦にし、次の天君を継がせることになりましたが、会ったことも無く、住まいも離れてていたため生活習慣も文化も言葉も違うことから特に伊弉冉は不安でいっぱいでした。

そこで仲人を立てることになります。

仲人のことを『浮き橋』といいます。

仲人になったのは速玉男でしたが、事を焦り過ぎて失敗してしまいます。

次に仲人になったのが事解男ですが、今度はゆっくり丁寧に事と道理を解き、お二人の心を開かせ婚礼を成功させます。

これも、おそらく元々は違う名前だったはずで、急ぎ過ぎたから速玉男、事を解いたから事解男という名前を与えられたということです。

速玉男については熊野速玉大社で少しまた書きますが、僕の最近の考えでは、速玉男と事解男は同じ人なんじゃないかと。

仲人になったAさんは焦り過ぎて失敗したので速玉男って呼ばれてしまいましたが、汚名返上と今度は時間をかけてじっくり説得し成功させたので事解男と呼ばれるようになりました。とか。

古事記とかより重要人物っぽくなってきましたが、まだ弱い。

そこで、全国の伊弉諾伊弉冉を祀る神社にこれらの神が一緒に祀られていることからの推測で、伊弉諾伊弉冉の重鎮としてその後も付き従っていたと考えたいです。

天照大神以降の天君には左右に重鎮が必ずいるのに、伊弉冉夫婦にそのような存在がいないのはおかしいです。

さて、ここ阿須賀神社のある場所は重鎮事解男が住んでいた宮ということにします。


阿須賀神社の名前の由来はご由緒とは違う見解になりますが、阿とは子供に付けるアダ名の一部ではないかと。

現代の日本でいう所の『○○坊』『○ーちゃん』みたいな感じなんですが、中国では漢の時代の上級層で使われていたものです。

そして須賀といえば素盞鳴です。

阿須賀とは素盞鳴の子供時代を指すように思えてきました。

また、阿須賀神社と後ろの蓬莱山は、阿須賀王子跡と言われることからも、素盞鳴はキーマンです。

素盞鳴はいわば不良息子だったので、事解男に保護観察されていたのではないでしょうか。

ここは、駅近くにあるからついでに回っただけだったのですが、思わぬ収穫でした。



神武天皇の石碑

神武天皇が東に回り込んで上陸したのが新宮ではないかと言われいるらしいです。

明後日の記事の神社が丁度関係してきますのでそこでまた。


御朱印

書いて戴いているところを拝見しましたが、くりっくりっとかわいい文字です。