恥ずかしながら先日生まれて初めてお屠蘇を頂きました。
それまでは、お屠蘇と御神酒って同じものだと思っていた尼津彦です。
皆様おはようございます。
せっかく那智まで来たのだからと、帰りに新宮と本宮も寄ることができました。
参拝というより寄り道なので滞在時間は短かったのですが来れてよかったです。
雰囲気だけでもと駐車場から熊野古道に少しだけ入ってみました。
拝殿と御朱印
熊野本宮の主祭神は家津御子大神といい素盞鳴尊のこととされています。
素盞鳴尊は紀南や熊野で生まれ育ったこともあり、家津御子とは素盞鳴で間違いはないと思います。
ただ本質は伊弉冉尊ですけどね。
今日は素盞鳴の生い立ちをお話します。
伊弉冉は熊野の地(神内神社か?)で素盞鳴を出産しますが、生理中に孕んだ子であったことから、母親の隈が子に宿るという当時の考え方から、心配した母伊弉冉の愛情を多く受け育ちました。
もしかしたら過保護すぎたのかも知れません。
素盞鳴は、わがままで乱暴な子供に成長してしまいます。
いつも、いたずらや悪事をするので、周辺の人々は困り果てていました。
伊弉冉は素盞鳴がこのようになったのは自分のせいであると、隈の宮(熊野宮)を建てることにしました。
宮というのは、祭祀の場、祭祀する人、その機関などの総称なのかなと最近思っています。
それでも母の思いは子に届かず、ついに素盞鳴は三熊野の山に放火してしまいます。
火は燃え広がり、勢いを増してきます。
伊弉冉は我が子の罪を一手に引き受け、消火活動の先頭に立ちます。
しかし奮闘むなしく、伊弉冉は大やけどを負い、亡くなってしまいます。
さて、こんな大変な出来事があったにもかかわらず、夫である伊弉諾がその場にいないんですよ。
現れるのは伊弉冉が亡くなってからです。
このことからも、当時の天君は夫婦で手分けして国々を回っていたという考えでいいと思えてきます。
子を思い、民を思い、そのために全責任を負い亡くなった伊弉冉尊の話が今もこのあたりに伝えられていることから、伊弉冉尊が皆に愛され敬われていたことがよくわかります。
先日、伊弉冉尊ゆかりの地を巡った時にも、伊弉冉尊はやはり日本人の母であったんだとしみじみ思いました。
つづく。
最初は尼津彦ワールドの時系列順に記事にしていこうかと思ってたので次は速玉大社の番でしたが変更します。
時系列も行ったり来たりになりましたし、先日巡った熊野、新宮は参拝順に書いたほうが書きやすいので、明日の記事は伊弉冉尊の墓参りです。