生きてる印に、ブログ更新してしまいます。
今日2月11日は日本では建国記念の日ですが、カトリックではルルドの聖母マリアの祝日でもありますね。
わたくし、認知症が進んでいるんではないかと心配になって、認知症センターのある大学病院(比較的近い場所です。遠出はもうできない身体ですからね)を訪れた、という話は、前に書きましたが、一昨日、再診に行ってきました。「CT画像で見るかぎりは、海馬の萎縮はない。ただし、CTのレベルで海馬の萎縮がみつからなくても、アルツハイマーが始まっていることはありうるので、もっと詳しく知りたければ、MRIおよび脳血流のSPECTというものがある。保険適応だが自己負担金37000円」と言われました。
その前に、簡単な問診があって、「見当識(いまいる場所がどこで、今日は何日かなど)は保たれているので、アルツハイマーだとしても、まだ、はっきり症状が発現している段階ではない」とのことでした。
MRIおよび脳血流のSPECTによってアルツハイマーだとわかったとしても、治療法は、はっきり言って、ないとのことでした。それならば、妻に家計を握られ、一銭たりとも無駄遣いさせないと言い渡されている身として、そんな出費には耐えられませんからと言って、断わって、再診料だけ払って帰ってきました。
ベンゾジアゼピン依存症になって、悪い薬だとは知りつつも、それがないと離脱反応が苦しくて耐えられないという悪循環になっている私。今後、あの薬を処方してくれる心療内科(距離が遠い)まで通えなくなったとき(足腰立たなくなったとき)、どうなるのか……と思うと、暗澹たる思いですが、妻は冷たく「断薬すればいい」と言うだけ。振り返ってみると、不摂生で「うつ」を発症し、ベンゾジアゼピン系の薬剤のお世話になることから抜け出せなくなった段階で、私の人生、すでにアウトだったのでしょう。
私が訪れた大学病院の認知症センターは、診療科としては神経内科が担当しているんですが、その神経内科の先生も、「ベンゾジアゼピンは、覚せい剤なんかと同じで、やりだしたらやめられない、中毒ですね」と、はっきり言っていました。
ああ……とため息が出ます。
……と、こんなことばかり書いていても、読者のみなさまに、お役に立つ情報ではなくて、気を滅入らせるだけですね。私の悩みは結局のところ、私にしか背負えない。
ルルドの泉で奇跡的な病の治癒を授かる人がある、なんていう話も、こういうときには持ち出さないほうがいいですね。それは、嘘ではないにしても、きわめてまれな話であり、かつて永井隆が書いたように、「奇跡は信仰のほうびではありません」。むしろ、「信仰したから、これこれこういう現世的ほうびを受けた」なんていうことは、一切ない中で、おのれの苦難を神に「捧げた」という人が、模範的なキリスト教徒と呼ばれているんですから。
この、認知症なりかけの私に、いまだに世に生きて果たすべき使命があるとすれば、何か?
ベンゾジアゼピン依存症の恐ろしさを訴え、今後の医療への警告とすること、ぐらいでしょうか?