『十七歳の夏』 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

「もうブログの更新も無理か」と思って以後、二か月近くが経ち、お正月を過ぎて二月を迎えてしまいました。

このところ暗い話ばかり書いてきましたが、確かに私も、「職がなくなって年金だけになってみると、意外や意外、思ってもいなかったほど生活を切り詰めなければやっていけない」という現実に直面して、しかもビョーキというわけで……話は暗くなってしまったわけです。

でも、まだ命がある以上、そしてブログを更新する以上、読者が読んで有益だとか、共感したとか思える情報を発信しなければ、生きてる意味がありませんね。

わたくし、申し上げているとおり、知的にひどく衰えまして、新しい知識なんか、とんと頭に入らないんですが、第1ページから順を追わなくても、どこから開いて読んでも読めるようなエッセー的な本で、手に持っても負担感がないぐらい軽い書物は、枕辺にいくつも置いていますよ。

佐藤初女著『限りなく透明に凛として生きる』(ダイヤモンド社)、

晴佐久昌英著『十字を切る』(女子パウロ会)

なんぞとともに、小崎登明著『十七歳の夏』(聖母の騎士社、聖母文庫)という本が、枕元にあります。

 

購入したのであるか、それともただで頂いたのであるか、記憶が定かでないのですが、本の扉に「今、有りて幸い、小崎登明」と毛筆で献辞が書かれているところをみると、手に入れたのは、2001年の夏に長崎の「聖母の騎士修道院」を初めて訪れた際であることは、確かです。

戦前に植民地の朝鮮で生まれ、早くに父を失い、自分も結核性の脊椎カリエスになって、母一人子一人で母の実家のある長崎に戻り、大学病院の(当時としては)先進医療のおかげでようやく健康を取り戻したと思ったら、今度は原爆で母が被爆死してしまい……自分は同じ被爆地にいながらトンネル工場の中で働いていたという偶然のせいで九死に一生を得て……天涯孤独になって「聖母の騎士修道院」に入り……という、波瀾万丈の人生を送った小崎登明修道士の自伝です。

雑誌『聖母の騎士』の連載記事をまとめたものであるため、文章はきわめて平易。

小崎登明修道士は、修道院入りしてから、神学校で学んで司祭に叙階されることを目指していたのですが、その途上で、再び結核に倒れ、腎臓を片方摘出され、七~八年間、聖母の騎士修道院の派出所のような山の中の別の建物に転地させられて、闘病する羽目になります。「せっかく神父になる道をめざしていたのに」と、悶々として苦しむ中で、奇跡的に、あるシスターが佐世保の米軍基地の従軍司祭経由で手に入れてきてくれた結核特効薬を飲ませてくれたおかげで回復。司祭になる道はあきらめたものの、修道士としてならやっていけるということで、その後ずっと、聖母の騎士修道院の、語り部的な役の中心人物として活躍することになります。

その、闘病を支えてくれた「シスター永松」の話というのが、これまた変わっています。

ブラザーとシスターですから、もちろん、惚れた腫れたなんていう間柄ではないのですが、年齢は小崎登明さんと同じで、看護婦資格をもっていたので、病身の修道士を看取ることについては実に至れり尽くせりの適任者だったそうです。

ところが、そうして小崎修道士を立ち直らせたシスター永松ご本人は、その後、いろんなカトリック福祉施設、医療施設に配属されて活躍したものの、心臓の持病がこうじて、昭和43年の秋には、早くも亡くなってしまったとのこと。年齢を計算してみると、満40歳ぐらいだったようですね。「シスターは、私の代わりに死んだのではないか、そんな気がしてならなかった」と、小崎修道士は書いています。

キリスト教の修道士の書いている本ですから、どんな環境のもとにあってもつねに希望を優先させるような筆致で書いてはありますが、シスター永松の臨終に関しては、怖い言葉も出てきます。
 「私は看護婦として多くの人びとの死に立ち会ってきました。しかし臨終の悶えが、こんなに苦しいものとは思いませんでした」
 と、シスターは亡くなる前にもらしていたそうです。

このシスター永松の言葉を思い出すと、自分自身とても怖いということも、正直に小崎修道士は書いています。

(以下引用)
 そして意識がなくなっていった。息が切れる20分前だった。
 戦いは終わった。もう、悶えはなく、苦しみもなかった。平静な状態が続いていた。彼女の魂はいま、天国へまっすぐに昇っていくだろう。昭和43年10月19日。安らかな、うらやましいほどの幸福に満ちた召天であった。
     人間は、もともと、孤独なんだ。
     孤独で生き、孤独で死ぬ。
     それが人間の宿命なんだ。
     ただ、それを、強く感じるか、否かに、
     かかっている。
     孤独を、抜け出すには、愛しかない。
     愛を教えてくれたのが、愛の人だった。
       (中略)
 修道生活18年のシスター永松。神と隣人に仕える生活に生き、早々と神のもとに召されていった。彼女の臨終は、死に方の手本のような気がしてならない。私は立派に死ねるであろうか。
 また孤独な人間が、残された。
 秋ともなれば、愛する天の住人、小柄な『シスター、アグネス永松みつ代』の微笑みを時々思い出す。
 きっと私の最後のとき、シスターは天から下って、今度はからだではなく、私の魂をしっかりと支えてくれるような気がしてならない。
(引用終わり)

 そのほか、コルベ神父の話、被爆当日の生々しい体験、作家遠藤周作との交流、日本二十六聖人の話など、いろいろな話が盛りだくさん。しかし文学的に気取った文ではなく、平易な文で書いてある本です。

長崎原爆については、かつていろんな本を読みました。いちばん有名なのは永井隆博士の諸著作ですが、秋月辰一郎著『死の同心円』などという本もあります。

 

 

今の私には、重たすぎて手に持てない本ですが。

それらにひきかえ、『十七歳の夏』は、病床でも片手で持てるぐらいの軽い本ですから、けっきょくいつまでも枕元にあるのは、この本というわけ。最初から最後まで通読しても半日もかからない本ですから、何度でも、飽きもせずに読み返すことになります。

(追記)
偶然ですが、私がこのブログを書いたまさにその日に、佐藤初女さんが満94歳で他界されたそうです。