靖国神社秋の例大祭 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

たびたび靖国神社の話題を出して恐縮ですが、今日の私は、靖国神社の秋の例大祭に列席してきました。例年、秋の例大祭は、いちばん中心になる「当日祭」が10月18日で、その前日の17日から20日までの4日間が祭典期間と決まっています。

なぜ、私が靖国神社に行ったかというと、正式な招待状をもらっていたからです。例年も、「第二日祭」と呼ばれる10月19日においでくださいという招待状をもらっているのですが、平日であって勤務があることが多く、行けないことが多いのです。今年はたまたま土曜日でしたから、行ってきたのです。

このブログで政治の話はしたくないので、靖国神社が政治的に物議をかもしていることについて、立ち入った議論は控えておきますが、私も、この神社が今やわが国の「歴史修正主義」の総本山みたいになってしまっていることについて、知らないわけではありません。というか、むしろ大いに問題を感じています。

それなのになぜ招待状をもらう立場にあるかというと、「靖国神社崇敬奉賛会」なるものに、会費を払って「終身正会員」として入会しているからです。

たぶん、多くの読者からは意外に思われるでしょう。

理由はいろいろあります。第一に、職場から近くて訪れるに便利な靖国神社を、じっくり観察するためには、会員資格をもっていると何かと便利だからです。第二に、いろいろな側面をもつ靖国神社という施設のうち、「戦死者を追悼する」という側面に関するかぎりは、私も別に反対ではないからです。血縁は少し遠いですが、従兄に戦死者がいることを申告したら、靖国神社では私を「遺族会員」として扱ってくれ、「そのかたはいついつお祀りした」という証明書も発行してくれました。第三に、私が得度を授かった華厳宗の経典の中には「善財童子の求道の旅」という物語があって、「縁あって出会ったものは、かりに仏教以外の宗教であっても、心の糧としてよい」という教えがあるからです。

ただし、私はあくまで、靖国神社は神道という特定宗教の施設であると心得ていますから、これを、「何教を信ずる者であっても、およそ日本国民である以上は礼を尽くすべき場所である」などとは考えていません。「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」などというものが、徒党を組んでデモンストレーションのような参拝をしてみせて、「ここは日本人ならみんな誠を捧げるべき公的な施設である」とアピールしたがっているのは、はっきり言って胡散臭い行動だと思っています。

が、ともあれ、靖国神社では秋の大祭は10月18日を中心とした4日間、春の大祭は4月22日を中心とした3日間と、決まっています。この例大祭の日取りは戦後の1946年に決められて、その年の秋の大祭から適用されたものです。この日付については、靖国神社の第二鳥居の脇の、本殿に向かって右側に、毛筆で大書した看板が掲げられていますが、そのあとに書いてある言葉が「おやっ?」と思わせる言葉です。いわく「勅裁如件(ちょくさいくだんのごとし)」。つまり、「この日付は天皇陛下のご裁可によって決まったものである」という意味です。

1946年の春の例大祭は、戦前に決められた4月30日に行なわれましたから、「勅裁」はそれ以後のことです。靖国神社がGHQに対して「これからは国家の施設ではなく、民間の一宗教法人としてやっていきます」と宣言し、承認されたあとのことです。「民間の一宗教法人」になっても「天皇の神社」であることに変わりはない(だから事実上「公的」なものだ)、という当時の関係者の意識が透けて見えますね。

いわゆる「靖国問題」は、ここの「ねじれ」から始まっているのであって、このごろの若い者がどこかの本の記述を受け売りして、「1985年の中曽根首相の参拝に先立って、朝日新聞社などに巣くう一部売国奴が、中国に『垂れ込んで』『知恵をつけた』のが、この問題の起こりだ」などというのは、まことに皮相的な理解です。……おっと、政治の話には深入りしないことになっていましたね、このブログでは。

ところで、戦前の靖国神社の例大祭はどういう日付だったかというと、春が4月30日で、秋が10月23日でした。これは、それぞれ、日露戦争の陸軍凱旋観兵式と海軍凱旋観艦式の記念日を、例大祭の日にしたもので、1917年から適用されたと、歴史に書いてあります。

それよりさらに前はどうだったかというと、戊辰戦争の会津降伏の日である旧暦明治元年9月22日を新暦に換算した11月6日と、その半年前の5月6日とされていました。つまり、「この神社は主として対外戦争での日本軍の戦死者を讃える場所だ。だから国民こぞってお参りすべき神社だ」という性格が確定されたのは、大正時代に入った後のことであって、それまではむしろ、「幕末維新の際の勤皇側の死者を讃える施設だ。官軍の神社だ」という意味合いが強かったわけです。

会津戦争のときの官軍こと西軍は、戦いの勝敗がついて以後も長きにわたって、東軍の戦死者は埋葬することさえ許さず、野ざらしにせよという命令を出しています(今井昭彦著『近代日本と戦死者祭祀』39~51ページ)。その翌年にできた東京招魂社(靖国神社の前身)も、まさにこの思想を体現して、「賊軍の死者は捨てて顧みない」神社として出発してしまいました。

ソポクレスのギリシャ悲劇『アンティゴネー』には、テバイの王族の仲間割れが原因で起こった戦争に際して、相討ちで斃れたメノイケウスとポリュネイケスの遺体のうち、テバイを守る側だったメノイケウスの遺体は父のクレオンが丁重に埋葬させるけれど、同じクレオンがポリュネイケスの遺体については「祖国への反逆者だ。埋葬することもまかりならぬ」というお触れを出すという話があります。兄弟姉妹の情としてこのお触れにだけは従えないと考えたアンティゴネーという姫が、法を犯して獄につながれて死に、そのあとを追ってアンティゴネーの恋人だったハイモン(クレオンのもう一人の息子)も自殺し、王族がつぎつぎに死ぬ悲劇が起こります(この話の概要を手っ取り早く知りたい方は、里中満智子作『マンガギリシア神話第4巻』をお読みください)。

アンティゴネーは、「なにびとも肉親の遺体を打ち捨てるべからず」という法は、人間の定めた法に先立つ神の法であり、私はそちらに従うと堂々と宣言するのですが、会津戦争のときの西軍のスタッフには、最新式の銃や大砲を西洋から仕入れる才のある者はいても、オランダ語訳にせよ英訳にせよ、『アンティゴネー』をしっかり学んだというスタッフは、一人もいなかったのでしょう。

靖国神社がはらむ問題性の中には、その創建時にまでさかのぼるこういう問題もあるのです。

それはともあれ、現在の靖国神社の例大祭の日付である「4月22日」と「10月18日」は、どのような根拠で決まったのでしょうか。過去の「勝った戦争」の凱旋記念日にちなむそれまでの日付が、あからさまに軍国主義的にみえて、GHQの手前、差支えがあったという事情は、明白ですが、なぜ「4月22日」と「10月18日」なのか、はっきりしません。ときどき、「春と秋のお彼岸を旧暦の日付で読んだものを、同じ数字で新暦に横すべりさせて決めた」という説が紹介されていますが、これは、暦と天文に多少関心のある者の目から見ると、じつに不合理です。

「お彼岸」とは「春分」と「秋分」ですから、天文学的には、天の赤道に対して約23.5°の傾きをもって黄道上を1年間かけてまわっている太陽が、天の赤道を横切る日であり、太陽暦でこそ毎年ほぼ同じ日になりますが、太陰太陽暦である旧暦では、毎年日付が変わります。「お彼岸を旧暦の日付で読んだ」といっても、どの年の旧暦の日付であるかによって、いくらでも変わります。たまたま1946年の春分が旧暦で4月22日、同年の秋分が旧暦で10月18日だったのでしょうか?

でも、かりにそうだったとしても、「旧暦の4月22日」であってこそ、それが「お彼岸」としての意味をもつのであり、「旧暦の10月18日」であってこそ、それが「お彼岸」としての意味をもつのですから、同じ数字を新暦に横すべりさせた日付には、「お彼岸」としての意味はまったくないことになります。

どうもこの日付は、それまでの例大祭の日付にも近くて、「暑からず寒からず」の季節だから都合がよい、という程度の根拠で決まったもののように思われてなりません。

靖国神社の拝殿は、雨戸と障子がついてはいるものの、昼間は基本的に「吹きさらし」です。障子を閉めてしまったのでは、お賽銭箱のところから拝む一般参拝客にとって、本殿を望むことができないから、当然そうしなければならないわけです。例大祭のときの招待客は、拝殿に着座して、一時間近く祝詞や音楽を神妙に拝聴したうえで、南側の回廊を通って昇殿参拝させてもらい、北側の回廊でお神酒をいただいてお開きとなるのですが、それだけの時間、人を「吹きさらし」の場所に居させるには、春のお彼岸では、まだ気温が低すぎます。だから、春の例大祭はお彼岸のひと月ほど後にしたのでしょう。秋のお彼岸の場合は、「吹きさらし」が苦痛になることはありませんが、長袖の礼服が少し暑苦しく感じることはあるかもしれません。だから結局、春の例大祭から約半年隔たった十月半ば過ぎが、「暑からず寒からず」の季節として選ばれたのでしょう。