『ネコの目からのぞいたら』 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

私はしばらく気づかずにいたのですが、シルヴァーナ・ガンドルフィさんの作品としては三つ目となる日本語訳の本が、今年の7月に岩波書店から刊行されました。原作の題名は『Occhio al gatto!』ですが、訳本の題名は『ネコの目からのぞいたら』となっていて、訳者は関口英子さんという方です。

この作品は1995年にサラーニ(Salani)社から出された、ガンドルフィさんとしては比較的初期の作品で、彼女の作品群の中では「イチオシ」というほどの大傑作ではありませんが、例によって主観と客観、夢と現実、自己と他者などが、変幻自在に入れ替わるという謎めいた場面を多く含んでいて、読者を引き込んでぐんぐん読ませる魅力はたっぷりです。

ミラノ出身の小学生である主人公は、その名が、そのものずばりダンテといって、かの有名な『神曲』の詩人と同じですが、そのわりには国語が苦手で、作文では苦労しています。両親のホンコンへの赴任にともなって、「せめて初等教育は母国で受けておかないといけません」との母方のおばあちゃんの強い勧めにしたがって、ヴェネツィアに住むそのおばあちゃんの家に、一時身を寄せることになりました。

そこの学校の先生から、ある日、おばあちゃんに呼び出しがかかりました。「お孫さんは識字障害ではありませんか? 補習が必要ですよ」との「ご注意」でした。その結果、ダンテはおばあちゃんの知人の、年老いた退職教員であるドレンテ先生のところに通うようになります。ドレンテ先生は「まちがいから新しい発見が生まれることだってある」と言って「言葉遊び」を楽しませながら国語の楽しさを教えてくれるような、練達の教育者でもありましたが、同時にマッドサイエンティストのような変人でもあり、「カカオ豆の抽出液にはテレパシーの能力を引き出すふしぎな力がある」などと、おかしなことも言います。

やがて、ドレンテ先生の飼っていた雌ネコが子どもを産むと、ドレンテ先生は「この中の、君が気に入った一匹を、君にあげるよ」と言うので、ダンテは、全身が黒で前足の先だけが白い、特徴のあるネコを選んで、「ぼくにください」とお願いします。ネコの名前は『神曲』にちなんでビルジリオとすることにしました。ビルジリオとは、『神曲』の中でダンテの案内役を務める古代の詩人の名で、ダンテという名とは切っても切れない名前だからです。ドレンテ先生は、「私がカカオ豆の抽出液をネコの目に注いでおいてあげよう。そうすると、そのネコが初めて目を開いたときに、君と目を合わせると、君とネコとはテレパシーの絆で結ばれて、君が目をつぶるたびに、ネコがいま見ている景色が君のまぶたの裏に見えるようになるんだ」などと、本当なのか冗談なのかわからないことを言います。

さて、ダンテ少年は、そのビルジリオが初めて目を開いたときに、ちゃんと目の前に居合わせることに成功し、その後、補習のかいあって進級試験にも合格するのですが、合格発表のあったまさにその日、おばあちゃんから聞かされた悲しい知らせは、ドレンテ先生が亡くなったとのニュースでした。「そんなバカな!」と、信じられない気持ちでダンテが向かったドレンテ先生の家では、すでに相続人がやってきて、遺品整理をやって、左官屋さんを呼んで、内装の改装工事をしていました。「ぼくのネコが……」とあわてるダンテに向かって、相続人は「ああ、あのネコたちですか。追い払いました」と、こともなげに言います。

ダンテは、何とかしてビルジリオの行き先をつきとめ、しかとこの手に抱きしめて、取り戻さなければならないと、あせるのですが、さてさてふしぎなことに、目をつぶると、確かに、運河のほとりとか、サンマルコ広場とか、ヴェネツィアのいろんな場所の景色が、地上すれすれのビルジリオの目から見たと思われる見え方で、まぶたの裏に映ります。そうして、「ビルジリオは今このへんにいる」と思われる場所を目指して、ダンテはヴェネツィアの街のあちこちを歩き回るのですが、なかなか「追いつく」までに至らないうちに、あれこれと邪魔が入ります。おばあちゃんからは、勝手に家出をするへんな子だと思われてしまいます。

そのうちに、まぶたの裏に映る「ネコの目から見た景色」を通じて、ダンテは、はからずも少女誘拐という怖い事件に巻き込まれてしまいます。はたして、ダンテはビルジリオに追いつくことができるのか? 誘拐された少女を危険から救い出すことはできるのか?

これ以上書くと「ネタバレ」になりますから、あとはぜひ関口英子さんの訳本を買って読むか、高田馬場のイタリア語書籍専門店「文流」に頼んで原書を手に入れるかして、お読みください。

この本については、私も早くから興味をもち、もう10年も前に、三つの出版社をめぐって、「私の訳で訳本を出版していただけませんか」と頼んでまわったことがあるのですが、いずれの出版社からも断られました。しかたがないので、地方の同人雑誌に暫定訳文を発表するにとどめておきました。あのときに私の訪ねた出版社の児童書編集者に見る目があれば……と、残念な気持ちがしないでもないのですが、翻訳の出版に関しては、こういうことはよくあることだそうです。訳文をこしらえても、それが公刊本として出せるかどうかは、たまたま出会った編集者がその種の作品を好むタイプの人だったかどうかという偶然的要因に左右されることが多いそうです。まあ、「運」という要素があるのですね。

だから、自分が早くから注目していた作品が、自分の訳文で出されなくても、関口さんというイタリア文学者としては立派な方の訳で、しかも、私が交渉した三社よりも評判の高い天下の岩波書店から出されたことは、大いに祝うべきことだと、受け止めることにしましょう。

それに、あの交渉をしたころの私のイタリア語の実力はまだまだ低いもので、今になって自分の訳文を見返してみると、冒頭からして「mente acuta(鋭敏な精神)」を「mento acuto(とがったあご)」とまちがえているし、「starnutire(くしゃみをする)」を「sbadigliare(あくびをする)」とまちがえた箇所もあるし、まちがえに気づかないまま出版などしてしまったら、大恥ものでした。

まあ、「自分の訳文なんぞは、もしも公刊できたら、もっけの幸い」ぐらいに思う大らかな気持ちで、今後ともイタリア語の精進を続けましょう。