2月7日の講演会で聴いたエミリオ・サルガーリの話を続けましょう。
サルガーリは、1862年生まれで、1911年には亡くなっている(不幸にして、自殺でした)ので、49年という短い時間しかこの世にいなかったのですが、非常に多作な作家で、80編以上の長編と120編を超える短編を発表しているそうです。
これはひとつには、出版社とのあいだで非常に不利な(印税率の悪い)契約をさせられていて、家族を養うためには「貧乏暇なし」で働かねばならなかったからだそうですが、そのせいで、リアルタイムで目下生起中のニュースを作品に取り込むことが得意になり、1904年には、日露戦争の旅順攻防戦がまだ続いている最中に『旅順港の女傑(L'eroina di Port Arthur)』という本を出版しているそうです。
長野徹さんの紹介によると、その話はロシアの軍人と駆け落ちした日本人の女性を主人公にしたもので、最後に彼女は夫の乗艦している軍艦の中で爆弾を爆発させて、船とともに沈むことになっているそうです。
旅順の戦いというのは、日本人にはよく知られているように、中国の遼東半島の先端近くにある旅順の港がロシア艦隊の基地になっていたのに対して、これを潰そうと、日本軍が海と陸から攻めた戦いでした。
最初、日本の海軍が、港の入口に古い船をもっていって何隻も自沈させ、乗り手は別のボートで脱出してくるという「旅順港閉塞作戦」を実行し、ロシア艦隊を港の外に出られないように閉じ込めてしまおうと試みますが、出入りの水路を完全に塞ぐことには成功しませんでした。この作戦の中で部下思いのゆえに沈む船から逃げ遅れて命を落としたとして有名になったのが「軍神広瀬中佐」です。
この「閉塞作戦失敗」を受けて、陸の側から攻める必要が生じ、旅順の市街地をぐるっと取り囲む高地に設けられた難攻不落の要塞に向かって、陸軍が歩兵を主力とする総攻撃をくり返すことになります。これが有名な「乃木大将の戦い」です。要塞には当時最新鋭の武器だった機関銃が備えられていたので、単発銃しかもっていない日本の歩兵は、ばったばったとなぎ倒されて、たいへんな犠牲者が出ました。結局、重砲の支援のもとに「二百三高地」という高地を陥落させたことで、ようやく日本軍側に勝ち目が生まれました。二百三高地に弾着観測所を設けた日本軍は、直接は見えない旅順港内の敵の軍艦に向かって、山越えで大砲を撃ち込むことが可能となり、1904年の12月になって、ようやく敵艦隊を無力化することに成功します。
そうして、ロシアの旅順守備軍が降伏を申し出たのが、1905年の1月1日であったことも、有名な話です。
サルガーリの『旅順港の女傑』は、こうした歴史を先取りする形で刊行されているわけです。
長野さんの紹介によると、戦争の始まる前に横浜でロシアの軍人にほれ込んだ主人公は、彼につきしたがって国外へ行ってしまうのですが、彼の赴任先は旅順港でした。主人公の父親は誇り高き「ダイミョー」であって、娘を外国人に奪われるのを阻めなかった自らを恥じて、切腹して果てます。
その後、日本とロシアは戦争となりますが、敵地である旅順には、もうひとり日本人の女性がいました。彼女は「ゲイシャ」であって、彼女も例のロシア軍人にほれ込んだため、三人は三角関係になります。作品の中ではその三角関係の葛藤がさんざん描かれたあげく、最後には、二人の女性は「祖国への愛」のほうが大切だと気づいて、仲直りすることになっているそうです。そして主人公は、旅順港内に停泊している夫の勤務する軍艦に忍び込み、いまでいう「自爆テロ」を敢行するのです。
残念ながら、私がインターネットで調べたかぎりでは、この小説の現在刊行され続けている版はないようです。が、講演会のあったイタリア文化会館には、同館所蔵の『旅順港の女傑』の古い原書が展示されていましたから、読みたかったら、それを借り出して読むことはできそうです。
これでわかるように、サルガーリは、一度も来日したことはないものの、日本というアジアの新興国には、関心をいだいていました。
彼がもし自殺せずに生き永らえていたら、1942年には80歳になっていたはずです。
前にもちょっと書きましたように、太平洋戦争開戦の前後、マレー半島でイギリス軍の守備を妨害する後方攪乱作戦に従事して、まもなくマラリアで亡くなった「ハリマオ」こと「谷豊」という人物がいましたが、彼の半ば伝説化された「美談」が、日本の新聞で大々的に報道されたのは1942年4月3日だったそうです(山本節著『ハリマオ―マレーの虎、六十年後の真実』による)。
この「美談」は、同盟国であったイタリアにも伝わったものと思われます。その報道に接して、サルガーリを思い出したイタリア人は、きっといたことと思われます。長野さんの言うところによると、「サルガーリがもし生きていたら、谷豊を主人公にしたもうひとつの『マレーシアの虎』を書いていたかもしれませんね」とのことでした。