では前回 の続きです。

(...何なんだ、このタイトルは?)

一応前回からの継続性を持たせようと思いまして。

何しろ今日のお題は聴いた後引きつったにぱにぱ笑いになるショス交5ですから。

にぱにぱ...(←早くも引きつっている)

 

ショスタコーヴィチが「にぱにぱ」という曲を書いたわけではありませんよ。

(言わんでもわかる)

そこまでおめでたい人ではなかったのではないかと思います。

(この筆者はおめでたいサル)

...1曲聴いただけでは判断できませんが。

 

とにかく!

暗い!!

沈鬱!!!

そういうのが好きな私でも今のこのご時世では堪(こた)える...

そういう曲でございました。

(↑おめでたいが音楽には過剰反応を示すサル太郎。要するにノリ易い)

...

 

まず第1楽章。

冒頭からしていきなりこの度の大震災の被災地を目の前にしたような、そんな気分に捉われる沈鬱さ。

本当に驚くほど被災地の情景と重なってしまう。

それだけに...辛い!

(1楽器としての)ピアノも入って盛り上がってくるあたりからは地獄の行進というイメージ。

いや好きなんだが、こういうの...


第2楽章でちょこっとだけ明るさが差し、いやそれだってほんのちょこっとだけど、少ーしだけ元気を貰ってまた沈鬱な第3楽章。

またしても震災の被災地を眼前にしたような気分に。

いやもう聴いてて辛くなるような...

胸がひりひりするような痛みを覚えるような...

ううっ...に、にぱにぱにぱ...

(やめんか、不気味な...)

明るくしようと努めてるのにー!


それでも!

素直なサルなので、冊子に書いてあったこと、演奏前に指揮者小泉氏(名前が気に食わんな、ライオンおやじと同じじゃないか)が言ったことを信じてじっと耐え忍ぶ大人しいサルであった...

(...どう考えても恐ろしく凶暴なんだが... → 超ど下手くそ!!!... 後半)

冊子に「悲劇から歓喜へ」と至る弁当屋の交響曲第5「運命」や第9のような構成とか何とか書いてあり、更に名前の気に食わん指揮者(...)がやはり「この曲はベートーヴェンの「運命」のように苦悩が歓喜に変わる曲です」とか何とか言ったのだ。


あ、この曲の演奏前にですね、指揮者がこうした状況下で今回の公演を開催すべきか中止にすべきか悩んだ末の決断であったことを明かしたのです。

そして「苦悩から歓喜に変わるこの曲が被災者の皆さんに届くようにとの思いで演奏します」とか何とか。

(注:「とか何とか」が多いのはサルの頭で既に何日も前の話を正確には覚えていない為)

余計なお世話じゃ!

(↑自分では賢いつもりのサル)


とにかく「最後は大団円で終わるのだな」と素直に期待して苦しい、苦しい曲に耐えてきたサル太郎でしたが...

あ、でも断っておくけど曲も演奏も結構好みだったのよ。

(それで何故苦しむ)

そこが芸術の奥深い所でして...

だからこそ苦しくとも、いやそこまで苦しくなるほど引き込まれもするわけです。

ううっ、に、にぱにぱにぱ...

(一々やらんでいい)

 

あそこまで奈落の底に引きずり込まれるような曲調が続きますと、さすがに歓喜の終わりを期待してしまいます。

期待させるようなこと見たり聞いたりもしたわけですし。

あ、でも弁当屋みたいな曲を期待したわけでは勿論ありません。

(↑サル太郎は弁当屋の交響曲があまり好きではない)

ただ明るく盛り上がって終わるのだろうという期待です。

けど...

 

うそつきぃー!

全然歓喜というほどのものじゃないじゃないか!

あれが歓喜なら「運命」なんか全楽章おめでたいぞ。

いやあれはあれで弁当屋の交響曲の中では結構好きな方だが。

 

大体あれのどこが弁当屋の交響曲と通じるよ?

安易な弁当屋なんかと一緒にしないでくれるか?

(↑くどいようだが弁当屋があまり好きではないサル太郎)

ショスタコーヴィチは高級レストランなのだ!

(...)

 

曲中に弁当屋と相通ずるものなんて、一片も感じなかったなー、結局。

形式が似通ってると言いたいのだろうが、形式なんてよくわからないサル太郎には音的なものでしか判断できません。

(サルだから...)

いやー良かった。

(何か支離滅裂な気がするが)


だから...

こんな曲は今被災地には届かない方がいいと思う。

暗過ぎる!!

重すぎる!!

だが気に入った。

だが苦しい。

今聴くのは辛い...

(↑サルにしては複雑な感想を抱くサル太郎)


何と言うかな...?

例えばこの前聴いたチャイコフスキーの「悲愴」 も第4楽章は絶望の嘆きのよう。

今回のショス交5と比べてどちらの方が悲愴かと言ったら、チャイコ「悲愴」の方だろう。

だがショス交5の方が数段悲惨なのだ。

悲惨な(=酷い)曲ということじゃないよ。

曲の持つイメージがもう悲愴なんてものじゃなく、むきだしの悲惨なのだ。

そう、むきだし。


チャイコ「悲愴」の最終楽章は悲愴で絶望的ではあったが、それでも同時にはかない優しさと美しさがあった。

暗い中にもそういうものを備えていたのって、ラフマニノフあたりまでのような気がする。

ラフマニノフも確か短調の曲しか書いてないけど。

ロマン派とはよく言ったもので、ロマン派までの曲はどんなに暗い色調の曲でもロマンティックな美しさがあった。


チャイコフスキーはロマン派じゃないけどさ。

あの人はあちこち向いてた人だね。

器用というか...

交響曲1~3番あたりは国民楽派の影響を相当受けたのか、民謡もしくは民謡もどきの旋律のオンパレードでやってられん。

(↑実は国民楽派のことはよく知らないが、民謡はダサく聴こえるサル太郎)

でも交5,6番やバイオリン協奏曲、「セレナード」あたりはロマン派に近いものがあると思うのだ。

交4番もだったかな?

どんな曲だったか今全然思い出せないんだけど。

(↑老化 ...)

ホットケ。


とにかくそれ以降の時代になると、そういったロマンティックさはかなぐり捨てて、むき出しの音が羅列されるようになる...ような気がする...

音楽に美しさを求めなくなったとでもいうか、いや別の意味での美しさはあるのだろうが...

うーん...難しいなー...

(サルの頭で分析しようとしたのが間違い)

...ほっといてちょうだい!

 

待てよ。

生でむき出しの音楽ということは、高級レストランというより生き造りの料亭では...?ひええええ!!

(↑顔が付いてるだけでも苦手なサル太郎 →天然の顔

いや待てよ。

名前から行くとタコ焼き屋か...

ショスタコーヴィチ、略してショスタコだから。

(...所詮サルにはこの程度の分析(?)がお似合い)

...


とにかく!

むき出しの暗さ重さ故に堪(こた)えるんです、繊細なサル太郎には。

ということで、まだ6月のコンサート予約してません。

うーん、是非聴いてみたいんだけどね、あの指揮者は。

(↑まだ名前を覚えてない)

せめて前半にもう少し古目の曲をやってくれたら...

6月なら今よりは気分も持ち直してるかなーとは思うのだけど。

うーん...

(などと唸っている内に安い席が完売になり諦めることも多いアホのサル太郎であった...)

ほっといてちょうだいったら!


では皆様ごきげんよう、にぱにぱにぱ...

にぱーっ、にぱにぱ、にぱぱぱのぱ。

(...ほんとに重苦しい曲だったのか?)