被災地へ行く PART14 ⑯~南三陸視察その2~ | あいうえおのブログ

被災地へ行く PART14 ⑯~南三陸視察その2~

前回記事


被災地へ行く PART14 ⑮~南三陸視察~


の続きです。


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あいうえおメンバーのWAN-CHANです。




今回の旅も最終日。


南三陸町の視察をはじめたところから


なかとぅが書いてくれていますが、


その続きになります。






今回久しぶりに南三陸町へ来て


沿岸部を見た最初の感想がこれです。




ココハドコ…?




復興に向けた工事が進みあちこちに


新しい道路が通り、盛り土が出現し、


ボクらが知っている景色とあまりに


違っていました。





2012年9月。


草がぼーぼーで家の基礎が残り、


ところどころ冠水しています。





2014年3月。


引き続き冠水。土嚢が積まれたり工事が


進んでいる様子が見えます。





そして2015年11月。


※全く同じところで撮っているわけではありませんが


同じ地域の沿岸部を撮っています。





あちこちに建設中の建物が。





そんな中、あの日の傷跡も少し残っていたりします。





これはまだ残されていました。


高野会館。


震災当時イベント開催中でたくさんの人が


いたそうですが、「ここより丈夫な建物はない」


との言葉で最上階の部屋に避難し


全員無事だったというエピソードがあります。





高野会館は「奇跡の建物」とも呼ばれるそうですが


最上階でぎりぎりセーフ、犠牲者が出なかったために


英断であったと称されていても


例えば津波がもう数メートル高かったら…


その決断は間違っていたと非難されていることでしょう。




紙一重ですね…




結果的にたくさんの犠牲を出してしまったところでも


もし津波が低かったり何らかの理由で犠牲が


出なかったら奇跡と呼ばれていたかもしれません。






こちらは逆に多くの犠牲者を出してしまった


慈恵園の跡地。


今はJAになっていますね。





慈恵園は高齢者の施設でした。


高台にあり、非難場所に指定されていて


「ここに逃げれば大丈夫」とたくさんの人が


ここに逃げてきたそうです。




…が、津波が押し寄せここでも危ない!


あわててさらに高台に逃げる人々。


そんな中、足が不自由だったり寝たきりの方が


多かった慈恵園では多くの犠牲者が出てしまいました。




駐車場から沿岸部を見渡すメンバー達。


海は遠く、まさかここまで来るなんて


思いもしなかったでしょう。





近く学校から見渡す南三陸町沿岸部です。





ものすごいスピードで工事が進み


日々新しい道路が開通し


地元の方でさえ道がわからなくなることもあるそうです。




そして、自分の家があったところや


家族が埋まっているかもしれないところが


今では道路の下です。




複雑な心境であることは容易に想像できます。


復興のスピードに地元の方々がついていけていない


そんな状況だと聞きました。




復興は早ければ早いほどいい、そう思っていましたが


実際にそうなるとそれはそれで問題はあるのだなと


意外に感じました。



沿岸部の再開発計画はさんさん商店街の入り口に


掲示してあります。






さてさて、沿岸部の視察を終えいったん


さんさん商店街に帰還します。




メンバーは各々お土産を買いにまわり





商店街の方のご厚意でお茶を出していただき


しばしゆったりとおしゃべりしながらすごします。


※いつもハードスケジュールなのでこうした時間は


けっこう貴重だったりします。








時間はお昼を回りました。


ここから2台に分かれ移動します。




1台は一足お先に東京へ。


もう1台はもう少し宮城を回ってからの帰京になります。




つづく