【桐壺167-②】古文常識~仏教的無常観☆
【古文】
わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ、行く先も頼もしげなること」
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【これまでのあらすじ】
光の宮の母桐壺更衣は、帝の度を過ぎた寵愛の為、周囲の反感・嫉妬で心身共に衰弱し、光の宮が3歳の時亡くなってしまいます。宮中に引き取られた光の宮の美貌、才能はすばらしく、帝は、この御子の将来を案じて、高麗の人相見に内密に鑑定してもらいました。
今日は、「無常」についてです。
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桐壺帝の心中会話文のなかで、
「わが御世もいと定めなきを、」
という表現が出てきました。
ここで、「定めなし」という表現に着目します。
古典の世界では、「無常観」という考え方があります。
【無常】
…すべてのものが絶え間なく変化し、常でないこと。
鎌倉前期の軍記物語である『平家物語』の冒頭☆
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
祇園精舎の鐘の音を聞くと、
ああ、人生って、はかないものだなぁ…
そんな「無常観」に襲われます。
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また、
鎌倉中期の随筆である『方丈記』の冒頭☆
「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
1つとして同じものはない…
人間も、1人として永遠の命であるはずはなく、
栄えた人も、貧しい人も、ずっとそのままの状態でいるということはありえない…
それが、「無常観」です!
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もちろん、現代にも通ずるものの見方ですが、
古典の世界では、理屈や科学で説明しきれないことは多く、この「無常観」に収まることが非常に多いのです。
特に、人が死ぬということは、
なぜなのか?どういうことなのか?
今も昔も、非常に深刻な問題です。
愛する者の死は、ともすれば、いつまでもそこに留まってしまいがちです。
そこで、仏教的無常観が出てきます。
すべてのものは、絶え間なく変化して、そこに留まることはない。
森羅万象、生々流転…
人の死も、ずっとそこに留まってはいない。
輪廻転生…
この考えは、特に鎌倉時代の文学作品によくテーマとして出てきます。
内容を、理解をしてほしい、古文常識の1つです。
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今回の「定めなし」という表現も、
もちろん、死ぬこともあるだろうし、
病気になることもある。
また、当時は、いくら元気であっても、政策的に天皇交代を余儀なくされることもあるんです。
よって、帝は、
「わが御世もいと定めなきを」という価値観を表出したのですね。
ちなみに、「御世」の「御」は、自敬表現ですよ ♪
(o^-')b
☆今回の古文常識☆「無常観」は、古文特有のテーマ☆
万物流転する、という内容を押さえましょう♪
あいでした