この記事より。
漫画家やなせたかしさん 死去
信念を揺るがせず、生涯現役で、子供のため、人のためになる作品を生み出し続けた、偉大なるクリエイター。
この人が存在してこそ、世界は「やなせたかしが生きた」前には戻らなくなり、惜しまれながらこの世を去った。
人間かくあるべし。
ここ数年は「もうすぐ死ぬ」と、ご自身でも引き際を心得ておられた反面、「まだ死にたくない」とも漏らしておられた。
それは自身の生への執着ではなく、まだまだ世に尽くせると考えていたからこそ。
子供向けの作品の作者とはいえ、送りだし側足る資格は、確固たる大人の視点でのぞむこと。
それを明確に自覚しておられた。
ところが近年は、このことをはき違え、失ってはいけない童心をあっさりかなぐり捨てるくせに、社会人として大人にならないといけない部分に限って駄々っ子のままという、見苦しい「子供大人」ばかりがクリエイター業に就いてしまい、結果として(児童文化・マンガ・アニメ)業界全体が傾いてしまった。
やなせ氏の死という事実が、なにか象徴的に感じられてしまう、今日であった。
さて、ここから話が変わるが、
やなせ氏の代表作、アンパンマンといえば、UFOキャッチャーの景品(最初期の5種)のデキがよく、夢中でコンプを目指した。
時期的にはちょうど、浦和市の中学校美術教員をやめて、千葉県の私立高校の英語教員になる谷間の時期だったと思う。(1991~92年頃)
この経験が生きて、直後のSWのぬいぐるみをコンプできた。
それから千葉で10年過ごし、2002年3月に、志を立てて、英語教員を辞した。
目論見としては、すぐに次の職種に移れるはずだった。
見込みと自信があったし、それは今でも変わっていない。
どう控えめに考えても、現職のあの人やこの人より、自分の方がうまくこなせる。
「この件について、必要なことはこれ、いらないことはこれ」の見極めが、何についてでも、できるようになった。
なった…のだが、境遇は一向に変わらず、実に10年以上が経過してしまった。
このため千葉での潜伏生活を続けられず、不本意ながら、幼少期から30代前半まで過ごした土地に、2003年に戻ってきた。
ここで2005年に、母が他界する。
それを見届けても、土地から逃れられない。
戻って来て、ここに甘んじている理由が、ほかにも何かあるはずだ。
そう考えるしかない。
おかげさまで、ミクシィやこのブログのおかげで、新たな人との出会いがあり、そのうちのいくつかは、戻ってきた土地なればこそだった。
2009~2010年頃、その人達との会食の場で、中学と大学でいっしょだった、小学校の先生になったK君が、すでに亡くなっていたと聞いた。
まったく思いもしない人が、思いがけず地元が一緒で、私とK君の両方の知りあいとは意外だった。
それから3年余、
ちょうどこの前の土曜日、10/12のこと。
自分が中学1年まで過ごした団地は、現在絶賛(?)建て替え中。
築50年(入居開始は1962年)で、元から建ってる建物あたりは完全にスラム化してるから、建て替えは遅すぎるぐらいだが(だから2年ほど前から開始されているが)、とにかくもうすぐ、かつて住んでいた我が家がなくなる…はずなのに、なぜだかしぶとく残ってる。
一方で商店街は、ほぼ営業終了。
↓この写真の右側に、テリヤスポーツがあった。2011年撮影。
↑現在のテリヤスポーツ。2011年撮影。
ここでも触れた、そこから脱出、移転したテリヤスポーツに、ふと立ち寄ってみた。
目当てのおばさん店主がいた!
こっちもすっかりオジサン(52歳)になってるから、向こうもおばあさん(75歳)になってはいたが。
平成4年に移転したそう。
地域密着型のお店なので、学校や学校関係者のことを、それはよく知っている。
自分の担任だった中学校の先生方の、その後。
同じ中学で、同じ大学の教育学部で再会し、その後小学校の先生になった、H君が今どうしていて…K君がなぜ亡くなったのか。
ガンだったとのこと。
ここに来れば、知人の消息がつかめるんだ!
ただし、自分が今、何をしているのかは、言いたくても言えない。
とにかく戻って来た理由が、また一つ明らかになった。
これとは別に、忘れていた友との再会もあった。
実感したのは、ようやく先月だから、2003年に戻って来てから、実に10年もかかった。
まだ他にもあるのだろうか?
さすがに10年後も、同じようなことを言ってたくはないよなあ…